時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

キルヒナー:音楽的表現

2005年12月30日 | 絵のある部屋

  年末、身の回りの片づけをしていると、しばらく忘れていたCDなども見つかる。その中にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(RAA)が、「キルヒナー特別展」のために作成したKirchner Music Expressions と題した一枚があった。

  何回か聴いたことはあるが、その後は機会もなく、積み重ねられたままであった。早速、バックグラウンドで聞くことにした。 キルヒナー(1880-1938)は、時の経過をおいてみれば、ドイツ表現主義芸術家の旗手ともいえる存在であった。作品は画家の生涯を通してみると、かなり画風が変化してはいるが、総じて力強く情熱的な色彩感で満ちている。時には素朴なまでの荒々しさが感じられる。

  キルヒナーが生きた同時代のドイツの音楽界においても、絵画と同様にさまざまな新しい動きが展開していた。ダイナミックな音の流れの中に、人間の情緒と自然な世界の変化を新しい形で表現しようとする試みが盛んに行われた。キルヒナーの絵画同様に、フレッシュで、オリジナルな音楽が創り出された。

  このCD一枚を通して聞いてみると、ひそかに忍び寄る時代の不安の中で、新しい芸術の先端を切り開こうとする芸術家たちの息吹きのようなものが感じられる。ほとんど聞いたことのない曲もあるが、オルフの「カルミナ・ブラーナ」のようになじみのある作品も含まれている。シェーンベルグのSolidarityのように、オットー・クレンペラーが合唱には難しすぎて、よほどのリハーサルなしには演奏できないと厳しいクレームをつけたSix Pieces for Male Choir の一部*などが入っているのは幸いである。 印象など詳細はまたゆっくり書ける時があるかもしれない。とりあえず、収録されている曲名だけでも記しておこう。


At Play in the Waves, Reger
Royal Concertgebouw Orchestra, Neeme Järvi, conductor

*Solidarity, Schoenberg
The Sons of Orpheus, Robert Sund, conductor

Elegie, Rheinberger
Paul Barmit, violin, Christopher Herrick, organ

Silence, Reger
Danish National Radio Choir, Stefan Parkman, conductor

Transfigured Night-Adagio, Schoenberg
Orster Orchestra, Takuo Yuasa, conductor

The Berlin Requiem-Ballad of the Drowned Girl, Weill
The Sons of Orpheus, Uppsala Chamber Orchestra, Robert Sund, director

Evening Song, Reger
Danish National Radio Choir, Stefan Parkman, conductor

Pastorale, Rheinberger
Paul Barmit, violin, Christopher Herrick, organ

Passacaglia for Orchestra, Webern
Scottish National Orchestra, Mattiase Bamberk, organ

Nobilissima Visione-Introduction and Rondo, Hindemith
BBC Philharmonia, Yan Pascal Tortelier, conductor

Carmina Burana-O Fortuna, Orff
Slovak Philharmonic Chorus, Slovak Radio Symphony Orchestra, Stephen Gunzenhauser, conductor

Evening, Strauss
Danish National Radio Choir, Stefan Parkman, conductor

 

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富と幸せの間(1)

2005年12月26日 | グローバル化の断面

「貧しさ」について

  およそクリスマス・シーズンには、似合わない話題かもしれない。しかし、これは世界的に著名な経済誌 The Economist のクリスマス特集テーマ*である。実は、この雑誌は昨年の年末にもこのテーマを別の観点から取り上げている**

  ブログにもふさわしくない長く、重い内容をもった話である。 しかし、とりあげてみたいきっかけがあった。これもクリスマス・カードに関わる話題である***


アメリカとアフリカで
  今年の特集テーマでは、次のような二人が比較されている。短く述べると、バンクスさんはアメリカ、ケンタッキー州の東、アパラチアン山中に住んでいる。彼はかつては近くの鉱山会社で運転手として働いていた。しかし、25年ほど前に心臓病で会社を辞め、60歳代になった今は、貧困で身体障害のある高齢者に与えられる特別な社会保障給付を月521ドルもらって生活している。住んでいるのは古いトレラーの中である。アメリカ人が「貧乏な白人」と聞くと思い浮かべるのは、バンクスさんのような人である。なにしろアメリカの男子の中位(median)収入は月3400ドルくらいといわれるからだ。それでも、ぼろ車でも自動車がないと暮らせない社会である。自動車保険の料率は、大変生活に響く。

  他方、カバンバさんは、アフリカ、コンゴの首都キンシャシャで大きな公立病院の救急部長をしている外科医である。これまで28年間、医師として過ごしてきたが、今の給料は月250ドルにしかすぎない。しかし、時間外に私的に患者を診察するなどで、なんとか600~700ドルくらいを稼ぎ出している。カバンバさんの収入に頼って同じ屋根の下で生きる家族は12人である。実はこの他に、彼の別居した妻と3人の息子が、公的扶助を申請して生きている。別居した方が公的扶助をもらえる可能性が高いと思うからであり、実際、彼女は隣のトレーラーに住んでいる。

  これでも、カバンバさんはコンゴでは恵まれた地位にあると考えられている。カマンバ医師の600ドルの収入は、多くの人が食料を自給自足で暮らし、銀行の通帳などみたことがない人がほとんどの社会ではあこがれの水準である。といっても、カマンバ医師は、家にはなくとも、病院に水道があるのが仕事にとって大きな助けになると思っている。

富と幸せの間
  バンクスさんとカマンバさんとどちらが幸せなのだろうか。わざわざ特集テーマにしておきながら、そこに答はない。当然なのかもしれない。「富める国の貧しい人」と「貧しい国の幸せな人」の違いはどこにあるのか。そう簡単には答は出ない。日本は富んでいるかもしれないが、幸せなのだろうか。


References
'The mountain man and the surgeon', The Economist December 24 th 2005-January 6th 2006.
**  'Making poverty history', The Economist December 18th 2004.

***
貧困撲滅に働く人たち
  カナダ、オンタリオに住む友人からのクリスマス・カードに、三人の子供全部がどういう巡り合わせか(それもアメリカのあり方に批判的なのに)、二人はアフリカで貧困解消、HIV/AIDS撲滅のため、一人はインドネシアの津波被害の復興のために、アメリカとカナダ政府の国際機関の下で働いているという手紙がつけられていた。 アフリカで働く長女は、かつて日本で英語を教えていたこともあった。その後、ベトナムで活動しているのは知っていたが、アフリカに行っているとは、その行動力に脱帽した(ちなみに、このブログ写真の花々は、この子供たちの父親が仕事の傍ら身につけたノウハウで、丹誠込めて咲かせたものである)。

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メリー・クリスマス

2005年12月24日 | 雑記帳の欄外

メリー・クリスマス

http://www.louvre.fr/llv/activite/detail_parcours.jsp?CONTENT%3C%3Ecnt_id=10134198673226918&CURRENT_LLV_PARCOURS%3C%3Ecnt_id=10134198673226918&bmUID=1135340173008

  スタートした時は、ブログとホームページの違いもよく分かりませんでした。途中退場を予期して始めたメモ代わりのサイトです。思いがけず、多くの方々の暖かなご支援をいただき、なんとか今日までやってきました。

  グローバル化が急速に展開する世界で、文字通り「葦の髄から天井をのぞく」ようなことばかり、それもとりとめなく記しています。ただ、小さなことの積み重ねの中から、思わぬ発見もないわけではありません。もう少し続けてみたいと思っています。

  新しい年が、皆様にとって心豊かに平穏なものであることを祈りつつ。

 

本ブログ内の関連記事
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/d034011121b062f5439dec8c74006c5d

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アメリカ移民法改正の行方

2005年12月23日 | 移民政策を追って

新移民政策は生まれるか:アメリカの課題
 
 
  アメリカにとって移民(受け入れ)政策は、将来の国家像にかかわる重要な意味を持っている。再選は果たしたが支持率は下降を続けるブッシュ大統領にとって、ポイントを稼ぎたい課題のひとつである。

  移民政策はアメリカに限ったことではなく、ついに人口純減時代に突入した日本にとっても放置しておけない重要な政策分野なのだが、政府はほとんどまともに国民的議論の俎上に載せたことがない。日本が移民受け入れで(数だけにとどまらず質的面を含めた)人口問題を解決できるとは到底考えられないが、少子高齢化時代の総合的政策課題の視野の中で、外国人労働者や移民について正当な位置づけをすることは欠かすことができない。西欧社会の問題の深刻さを恐れてか、国民的な議論の場へ出すことをことさら避けているとしか思えない。しかし、問題から逃げるほど、事態は深刻になる。

ブッシュ演説と現実の距離  
  11月28日、アリゾナ州タスコン空軍基地で国境管理にあたるパトロールメンを前に、大統領は次のような趣旨の演説をした。「アメリカは新しく来た人たちを暖かく迎え入れ、先祖の移民たちが生み出した遺産の継承に大きな誇りを持っている。しかし、アメリカは法のルールの下に築かれた国でもある。不法にこの国へ入ってくる者は法を破っている。アメリカ人は人々を暖かく迎える国と法治国との間で選択すべきではない。われわれはその両方を持つことができる。」

  ブッシュ大統領のこの演説は、具体的になにを意味しているのか。大統領は農業分野の果実採取や建設業に労働不足をもたらすことなく、他方で現在アメリカ国内にいる不法滞在者に「アムネスティ」(恩赦でアメリカ市民権を認める)を与えることもなく、不法入国者を減らすプランがあると述べた。これだけ聞くと良いことづくめに聞こえるが、移民問題の実態は複雑きわまりない。

アメリカ人が働きたがらない仕事は誰が
  アメリカは貧困と大きな人口を抱えた国メキシコとの間に長い国境を持っている。ヒスパニック系の研究機関であるピュー・ヒスパニック・センターによると毎年約50万人の不法移民がひそかに国境を越えてアメリカに入国してくる。そして、アメリカ人労働者が働きたがらない厳しい、低賃金労働分野で働く。
  
  他方で、保守党系のマンハッタン研究所は、アメリカに家族を持たないメキシコ人で農場労働以外の仕事をしようとする者にとっては、不法入国を企てるしかないという。さらにアメリカに家族が住んでいるとしても、そのつながり(人道的観点から「家族の再結合」は、就労とは別のカテゴリーで一定の受け入れが行われる)でヴィザを取得するには6年から22年もかかるとしている。

  そのため、国境を越える不法入国者は絶えることなく、国境パトロールとの果てしないせめぎ合いが続く。多数の密入国者が国境近辺で発見される。しかし、大多数はうまく入り込む。パトロールにつかまった時の罰則は、メキシコ側の最寄りの町へ送還されだけである。しかし、送還された者の多くは何度も再入国を試みる。

   再入国を企てる時の障害は、彼らを商売の種とし、国境侵入の案内をする「コヨーテ」などの名で知られる人身売買斡旋業者へ支払う一人あたり1500ドルの費用である。こうした業者は、費用を払うことなく彼らの領域に入り込む者を殴打したり、殺害したりまでする。不法入国者を餌食としている業者であり、悪質な国境ビジネスの温床である。

1100万人近い不法滞在者
  他方、アメリカに合法的なヴィザで入国しても、滞在期限が来ても帰国しなかったり、ヴィザが定める活動に反して働くなどの外国人も多い。こうした不法就労者はすでに1100万人近いと推定されている。アメリカは1986年に移民法改正を行った際に、一定の資格要件を充足した不法滞在者にアムネスティを与えているが、その後不法滞在者の数は急速に増え続け今日にいたった。

  こうした現実に多くのアメリカ人は関心を持っていない。というのは、不法就労者はアメリカ経済に寄与しているところも多いからだ。レストランで皿洗いをしている不法就労者は、地元労働者より明らかにコストが低い。メキシコ人労働者がいなかったら、果物の収穫もできず、看護・介護施設の清掃すらできなくなっている。

閉ざされる国境
  他方、こうした不法滞在・労働者について反対する人々もいる。その第一の理由は経済的なものである。中流階級は不法就労者でも安い日当で雇える庭師が欲しい。しかし、国内の不熟練労働者は、外国人に仕事が奪われたり、賃金が低下することを恐れる。

  最近の下院予算委員会が委嘱した調査では、移民の不熟練国内労働者へのマイナスの影響ははっきりしないとのことである。そして、人々が考えるより小さな影響ではないかとする。賃金へのマイナスの影響は、0から10%程度ではないかとの推定である。反対者への説得のためもあって、こうした調査は実はこれまで繰り返し行われてきた。

    第二の理由は、やはりテロイズムへの懸念である。9/11以降、この問題があるかぎり、アメリカは国境管理において開放的な政策はとれなくなった。

  第三は、不法移民がまさに不法であるという点にある。入国管理法が本来あるべき成果をあげていないということは法治国家としての存在を基盤から揺るがしてしまう。

  これらの点については、農業、建設などの使用者は、現行移民法がアメリカ経済が必要とするに十分な数の労働ヴィザを発行していないからだというが、1100万人の不法滞在者を抱えている現実もあり、対応は難しい。

資金と技術が注ぎ込まれる国境線
  ブッシュ大統領は金と技術に頼って国境問題を解決しようとしてきた。彼は大統領就任後、国境安全保障のために60%予算を増加してきたと述べた。確かに1986年以降、国境パトロールは3倍増となっている。国境管理のために、人工障壁ばかりでなく、偽造対策を施した身分証明書、赤外線探査ネット、10-12時間は飛んでいられるという無人探索機まで最新鋭の手段も導入してきた。しかし、それでも不法入国者は減少しない。

  国境で発見・拘束した不法入国者に、ブッシュ政権はこれまでの「つかまえては送還」catch and releaseという魚釣りのような政策で対応してきた。しかし、大統領は、これまでよりまともな形で対応したいと考えているようだ。非メキシコ人の場合は、発見され捕まった後、裁判所へ出頭するよう求められるが、75%は裁判所へ来ないで所在不明となってしまている。

  さらに、単に国境近くの町へ送還するのではなく故郷の近くまで送り戻せば、35000人の送還者の中で8%だけが再度捕まっているとの調査もある。しかし、多くの送還者はできればすぐに再入国しようと考えている。フロリダのホテルで清掃係をすれば月に1000ドルになり、メキシコで働く賃金の10倍近くになるのだから、不法入国を企てる圧力は高い。

アムネスティ論争の再燃へ
  ブッシュ大統領はさらにもう一段議論が紛糾する次元へ踏み込もうとしている。アメリカ人がやりたがらない仕事に、アメリカ人使用者が必要な数だけの外国人を雇えるようにして、需給をマッチさせようという考えである。このために、現在1100万人近いといわれるアメリカ国内にいる不法滞在者に合法的地位を登録させる。そして、彼らに罰金や追徴金などの支払いを求めた上で、一定期間アメリカで働くことを認める。そして、就労期間が終わった時点で帰国させるという構想である。大統領はこの措置は「アムネスティ」ではないと主張する。しかし、これではアムネスティではないか、大統領はうそをついているという政治家、メディアも多い。

  一筋縄では行かない移民政策議論だが、すでに議会では法案審議が行われている。特に下院での検討結果が行方を定める。上院には二つの議員立法案が出ている。ひとつはこのブログでも書いたジョン・マッケイン John McCain (アリゾナ州選出、共和党員)とテッド・ケネディ Ted Kennedy(マサチュッセツ洲選出、民主党員)の共同提案である。この法案の内容は、実はブッシュ大統領の考えにきわめて近い。もうひとつの法案は ジョン・コーニン John Cornyn (テキサス選出)とジョン・キルJon Kyl(アリゾナ州選出)の両共和党員提案によるものである。

有効な政策は生まれるか
  実際には、これらの法案は成立するためには妥協しあって混じり合ったものになるだろう。農業労働を中心とするゲストワーカー・プログラムは、成立するためには二つの基準を満たさねばならない。第一は、現実的にアメリカ農場主が必要とし、メキシコ人労働者が働きたいとする点を考えると、かなりの数の一時的労働者の受け入れになる。第二に、仮に新法が成立すれば、不法滞在者を雇った事業主は罰せられねばならない。この「使用者罰則」はアメリカでも(日本でも)これまで導入されたのだが、実効をあげたためしがない。

  ブッシュ大統領は連邦の情報ネット・データベースを使って、事業主が雇おうとする労働者の合法性をチェックできるようにすると提案している。そして、Operation Rollbackと称して、現場の不法労働者と彼らを雇用する事業主を摘発するとしているが、これまで成果はほとんど上がっていない。こうした現実にいらだち、このままでは無法状態がひどくなるばかりだとして、政治的示威も含めて不法入国・滞在に立ち向かうという自営組織Minutemanを組織する洲も表れた。世論調査などにみるかぎり、不法滞在者への風当たりは全般に高まっているようだ。

鍵を握る選挙への配慮
  問題を複雑にするのは、やはり政治である。増加が顕著なヒスパニック系住民をどう取り込むかという問題は、共和、民主両党にとってあるべき政策の矛先を鈍らせ、妥協を生む。共和党系のManhattan Instituteの調査では、現在アメリカ国内にいる不法滞在者の母国送還に賛成した者は、回答者の3分の1にすぎなかった。1100万人全部を送還することは可能だと回答した者はわずかに13%であった。

  しかしながら、ブッシュ大統領の考えの通りの包括的案が名実ともに成立するならば、賛成するという共和党員が72%に上ったことは、大統領にとっては一筋の光が残っているといえよう。このことは、言い換えると、今日のアメリカ経済が農業・建設などの分野で、低賃金で働く労働者がいなければ成り立たないということを示しているともいえる。こうした事実は日本にとって別の世界の他人事のように思えるかもしれない。しかし、同じことがすでにこの国でも広く展開・定着していることを考えたい。


Reference
"Immigration: Come hither" The Economist December 3rd 2005

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シュティフター『晩夏』再読

2005年12月20日 | 書棚の片隅から

  クリスマスが近づき、海外の友人などからのメールが届く。電子メールの時代、カードはめっきり少なくなった。それでも、この時期に友人やその家族が過ごした1年の消息を知るのは率直にうれしい。この時代、決して心の和む話ばかりではないが、それが人生なのだと思う。

ある友人の生き方
  オーストリアの古い友人からの長いメールがあった。10年ほど前から長らく専門としていた社会科学の領域から離れ、まったく別の学問領域であるイタリア中世の研究を始めた。以前の専門領域でも立派な成果を残していたのに、蔵書も処分し、あっさり方向転換してしまった。その過程では多くの悩み・煩悶もあったのだと思う。しかし、その転換には共感することも多かった。かなりの部分を共有している。新しい仕事に必要なイタリア語も10年前から個人教師について学び準備していた。中世キリスト教会の世俗的繁栄の陰に隠れていた膨大な貧困の発見などに新たな資料を掘り起こしている。すでにいくつかの著作も生まれた。

『晩夏』との出会い

  この友人との交友を通して、不思議と念頭に浮かぶ一冊の本がある。オーストリア領、南ボヘミアに生まれたシュティフター Adalbert Stifter (1805-1868)という作家の『晩夏』(Der Nachsommer, 1857年)という大部の著作である。「晩夏」とは、その言葉の与える印象とは異なり、「冬」、言い換えると死を前にしておくればせに出現したつかの間の夏の幸福、という意味が込められているらしい。

  作家はこの作品の時代設定を1830年に設定しながらも、激動する現実とはおよそ隔絶した理想郷、自然と文化、とりわけ芸術との接点を象徴し、人間性実現のための美的教育の場として「薔薇(ばら)の家」を想定・構築した。この「薔薇の家」の主人リーザハ老人が、結ばれるべくして結ばれなかった昔の恋人マティルデとその子供たちと心を通わせつつ、つかの間の幸せに浸っている世界を描いている。

  作品の主人公は語り手であるハインリヒという青年だが、実はリーザハの思い描いた姿である。ハインリッヒはマティルデの娘ナターリエと結ばれ、「ばらの家」で「人間が人間となるべき」道を学び、そこで養われた愛と精神を蓄え、混沌と激動の世の中に生きるのであろう。ストーリーは、現実とは遠い世界で、しかも時が進んでいるのか、止まっているのか分からないほどゆっくりと進んでゆく。この梗概を聞いただけで、実際にどれだけ作品を手にする人がいようか。

偶然の不思議さ
  実は、私がこの大部で難解で、退屈な作品の一部に出会ったのは、なんと教養ドイツ語課程のテキストとしてであった。こんな作品をテキストに選定した教師の「非常識さ」を恨んだ。実際、テキストは原書から一部分を抜き出しただけで、最後につけられた解説なしには、まったく作品の構成すら把握できなかったのだから。話の展開自体があまりにゆったりとしていることに加えて、文体にもかなり難渋した。しかし、不思議なことに、この作品は私の脳細胞のどこかに残っていた。

  10年ほと前に、先述のオーストリア人の友人夫妻と南アルプスの山中深く旅した時にふと思い出し、ひとしきり話題となった。 文学史上、一般的にこの作品の評価は、退屈極まりない(「終わりまで読み通した人にはポーランドの王冠を進呈する」ヘッベル)という意見から、オーストリア文学の宝であり、「繰り返して読むに値する僅かな作品の一つ」といったニーチェまで、両極端に分かれている。 しかし、はるか以前から大勢は「いまさらシュティフターでも」という流れに入っていることだけは間違いない。ドイツ文学を専門とする友人に聞いても、あまり興味を示してくれない。大体、読んだことがある人自体少ないのだから。

  友人も私も、この作品の評価はどちらかというと後者に近いのだが、条件づきであった。この長編を読み通し、その世界に共感するには読者の側の時間の熟成など、いくつかの条件が準備されねばならないことも分かったのだ。 シュティフターという作家とは前述のごとき妙な出会いではあったが、いつかこの作品を通して読んでみたいと思っていた。しかし、日本では完訳がなく、といってドイツ語テキストで散々な思いをしただけに、このためにドイツ語の再学習をする気にもなれない。というわけで、折に触れて「石さまざま」(岩波文庫)などの小品だけを読んでいた。

  作品との再会も偶然であった。1979年の暮れ、ふと立ち寄った書店で『晩夏』(藤村宏訳、世界文学全集 31巻、集英社)の完訳が出版されていることに気づき、直ちに買い求めた。訳者藤村宏氏の素晴らしい解説も付されており、初めてこの作品の全容に接することができた。その時の感動は忘れられない。多くの人は手に取ることすらしないだろう退屈な、およそ「反時代的」作品である。(2004年には筑摩書房から文庫版としても刊行された。この報われないかもしれない長編の訳業に取り組まれた藤村宏氏と両出版社の見識にはただ脱帽するのみである。装幀は当然ながら集英社版の方が良いが、絶版である。多分あまり売れなかったのだろう。これからお読みになる勇気のある方は、ちくま文庫版をお探しになることをお勧めする)。

「時間」が必要な作品
  本書の解説の最後に、訳者藤村宏氏が「時間を持つ」書物という小見出しの下で、本書についてのリルケの深い含蓄に富んだ言葉を引用されている:

  この本はアーダーベルド・シュティフターの詳細な小説『晩夏』です。世界でもっとも急ぐことがなく、もっとも均斉がとれた、もっとも平静な書物の一つです。そして、まさに、それ故に、非常に多くの人生の純粋と穏和が働きかける書物です。あなたがまだ ”時間をお持ち”にならなければならない間は、幾時間か、この小説に耳をお傾けになるのがよろしいと思います。・・・・・・*  

  そして、原著の挿絵銅版画彫刻を担当したアックスマンは次のように記しているという:

  我が国の誇るべき作家シュティフターのこの傑作を、三回は読まなくてはいけない。まず初めは、価値ある享受の時間を生むために。
  二回目は、素晴らしい作品構成を、その論法と文体について賞賛するために。
  そして三度目は、物語にいかなる隠れた意味が潜むかを明らかにするため**


* 文庫版下巻解説:藤村宏、480
**文庫版上巻解説:小名木榮三郎、506

Reference
シュティフターについてもっと知りたいと思う方に、こんな立派なブログもありました。

シュティフターの書庫
http://homepage1.nifty.com/lostchild/stifter/shu_book.htm#banka

Warke シュティフターの紙ばさみ
http://homepage1.nifty.com/lostchild/stifter/shu_f.htm

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言論の自由をめぐる国家と作家:渦中のオルハン・パムク

2005年12月18日 | 書棚の片隅から

  

  このブログでも『白い城』、『イスタンブール』などの作品を取り上げてきた現代トルコ文学界の旗手オルハン・パムクの名前が、最近新聞などメディアにしばしば登場している。今年のノーベル文学賞候補の一人でもあったようだ。最初にこのブログに書いた頃は純粋に文学的興味から取り上げたのだが、その後作家が位置する政治的状況などを知るに及んで読み方が深まってきた。  
  
渦中の人となったパムク
  最近になってパムクを取り巻く状況は急転した。この12月16日に、イスタンブールで作家を相手取った公判が開かれた。第一次大戦中のクルド人およびアルメニア人大量虐殺に言及することがタブーになっているトルコで、この問題をスイス、ドイツなどのメディアで表立って批判したことが、イスタンブール市の検察官によって「国家侮辱罪」にあたるとして告訴されたのである。  

  欧州連合EU加盟の条件である「言論の自由」を認めるか否かの試金石として世界の注目を集めたこの裁判だが、対応に苦慮した裁判官は「法務相の判断を仰がねば裁判を進められない」として、開廷直後に中断し、来年2月まで延期するとした。

  パムク氏は法廷の出入り口で右翼から卵を投げられたり、わざわざ傍聴にやってきた欧州議会関係者なども殴られたり、蹴られたりという一幕もあったらしい。
 

友人がいないトルコ?
  改めて述べるまでもなく、トルコはEU加盟が実現するか否かの微妙な段階にある。トルコとしては、この問題でEU側からブレーキをかけられることだけは回避したいのだろう。前トルコ駐在アメリカ大使などが繰り返し指摘していたように、「トルコにはPRの遺伝子が欠けている」といわれるほど、自国のイメージづくりがうまくなかった。このような現代のトルコを形容するによく使われるそうだが、「トルコはトルコ以外に友人がいない」といわれてきた。近隣国との関係など確かに円滑ではない。もっともトルコにかぎらず、日本もまったくその通りなのだが。  

  パムクの指摘した点は、クルド人問題だけでなく1915年のオスマン帝国のアルメニア人移送・殺害問題である。アルメニア人は、キリスト教徒で、オスマン帝国領内に多数居住していた。オスマン陸軍は第一次大戦中、アルメニア人がロシア側につく動きがあったとして、当時アルメニア人の「反乱鎮圧」を行った。スイスのメディアに、パムクは「100万人のアルメニア人が殺された。だが、私以外にだれもそのことを語ろうとしない」と指摘した。  

  旧ソ連が崩壊し、アルメニアが独立した90年代以降、虐殺を国際的に認知させようとするアルメニア人側の働きかけが活発化した。その結果、オーストリア、フランス、ベルギーなど欧州の多くの国の議会が虐殺だったと認めた。   

  「言論の自由」は、EU側にトルコとの加盟交渉を中断させる材料となりかねない重要テーマでもある。EUの側にも、これまで加盟国を急速に増やしてきた「拡大疲れ」があるといわれる。

  トルコ加盟の前に横たわる最大の障壁は、ヨーロッパの背後に潜む反イスラーム感情だが、トルコの世俗化したイスラームは、キリスト教とイスラーム世界の緩衝材となる可能性もあると指摘する人々もいる。他方で、トルコがそうした役割を果たそうとするならば、アルメニア人問題など、非イスラーム少数者の問題解決に着手すべきだという人々も多い。    

作品に流れる思い
  パムクの作品には東西文明の衝突、共存の方向を探る糸、イスラームの役割、EU加盟を求めるトルコの現実と苦悩など、多数の脈流が流れている。今回の母国との対立がいかなる帰趨をたどるか。この作家の作品と行方は、一層目が離せなくなった。


Reference
「語る作家、裁くトルコ:渦中のオルハン・パムク氏」『朝日新聞』2005年12月15日

*2004年11月国際交流基金が主催したオルハン・パムク氏の『私の名は紅』(日本語版)出版記念講演会は、当日どうしても抜けられない仕事のために出席できなかった。思い返すと大変残念である。司会をされたNK氏も思いがけず旧知の間柄であった。

本ブログ内の関連記事:
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/43a23038e8fd958bcc550fd34739a5c2

http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/563f881a31ee119f65f61e92ba3031c3

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ラ・トゥールを追いかけて(51)

2005年12月15日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

ラ・トゥールの庇護者ルイXIII世

ラ・トゥールのパトロンたち(2)


フランス王室にもいた多数のパトロン
  ラ・トゥールはその生涯のある時期に「ランタンを掲げる聖イレーヌに介護される聖セバスティアヌス」をフランス王ルイXIII世に、「悔悛する聖ペテロ」を宰相リシリューに献呈したと推定されている。しかし、その正確な背景については未だ十分解明されていない。

  ラ・トゥールは生涯に1回以上パリへ行っていると思われるが、記録の上では1回の旅についてのみ概略が判明しているだけである。この画家がリュネヴィルからパリまで出かけた理由は必ずしも十分解明されていないが、研究が進むにつれてラ・トゥールの人気が17世紀前半には、ロレーヌの地方画家という域を超えて、パリにまで広がっていたことを推測させる状況が浮かび上がってきた。戦乱の世の中にもかかわらず、この希有な才能を持った画家の作品は多くの愛好者から熱望され、パリを中心としてフランスの広い範囲で収集の対象になっていた。

  この事情を少し詳しく記すと次のようなことである。ラ・トゥールの研究家テュイリエによると、研究者ミシェル・アントワーヌMichel Antoineが、ラ・トゥールが1639年に6週間、パリにいたことを示す文書を発見している。それによると、滞在の目的はフランス王のための仕事となっているが、具体的にいかなることであったかについては文書はなにも語っていない。

パリへの旅は
  また、別の王室文書 は、「ジョルジュ・ド・ラ・トゥールに、王の仕事のために、画家がナンシーからパリへ旅をした費用、パリの滞在費、そして帰途の費用として、1000リーヴルが支払

われた」と記している (Thuillier 109.)。この文書に署名している責任者の一人、クロード・ド・ブリオン Claude de Bullionはこの時代の富裕な絵画収集家として知られており、ラ・トゥールのパトロンでもあった。彼がラ・トゥールの作品を所蔵していたことは別の文書で推測されている。すなわちド・ブリオンが、「ラ・トゥール作と思われる絵画を3点持っていた」との記録が残っている。さらに、偶然ではあろうが、ドブリオンの弟は1634年にリュネヴィルの住人からフランス王への忠誠誓約書をとりつけた王権の代理人だった(Choné 83)。 ラ・トゥールもこの誓約書を提出したことは、すでに記した通りである。

  美術史家の中にはラ・トゥールは重要な庇護者やパトロンから制作費をもらうことを暗黙の了解の上で作品を贈ったこともあったのではないかと推定している人もいる。たとえば、ロレーヌ公チャールスIV世、フランス国王ルイXIII世、リシリュー枢機卿などは、こうした形でのパトロンであったと思われる。王侯貴族に絵画などの作品を贈呈することは、かなり一般的に行われていたのだろう。
  
  先に記したフランス王室コレクションの「ランタンを掲げた聖イレーヌに介護される聖セバスティアヌス」については、ドン・カルメ Don Calmetが残したこの画家につての有名な逸話(1751)があることは以前のブログに記した。「彼は聖セバスティアヌスの夜の絵画を、ルイXIIIに贈った。それは大変素晴らしい出来映えであったので王はその他の絵をすべて自分の部屋から取り外させ、この絵だけをかけた」(Thuillier 109). 

  このように、ラ・トゥールの作品のあるものは、1630年代にフランス王室関係者の収集品となった。しかし、どういう理由と機会のがあって、それが実現したかについては正確には分かっていない。推定されるひとつの時点は、ルイXIII世とリシリューが1633年、ナンシーに滞在した間である。その時にラ・トゥールは自ら作品を贈る機会があったと思われる。

   テュイリエは、ラ・トゥールのただひとつ確認できるパリへの旅は、「聖セバスティアヌス」の王室コレクションとの関係だとする。画家がこの滞在期間にルーブル宮に与えられていた部屋で制作したか、リュネヴィルから作品を自ら運んだかのいずれかの可能性が考えられる。前者の可能性は高い。そして1000リーブルがラ・トゥールに支払われているのは、画家への王の感謝のしるしと考えられる(Thuillier 109)。

   このパリへの訪問の後、ラ・トゥールは「王の画家」peintre ordinaire du roi の称号を授与されている。美術史家の間では、このタイトル自体はさほど重みはないとされている。テュイリエは、この称号は形式的なもので、なんらかの特権が付帯しているわけではないとしている。さらにこの称号の保持者は、パリの画家にとっては、ギルドの制約を避ける上で役立ったと述べている研究者もいる(Choné 84)。

   ラ・トゥールはもしかするとロレーヌよりもパリで仕事をしたかったのかもしれない。こうした称号が王室からの報奨金などを伴わなかったとしても、作品への注文増加につながった可能性は高い。ラ・トゥールはロレーヌでこの称号を与えられた唯一の画家であった(Choné 83)。

上納金よりも絵画を望んだラ・フェルテ
  戦乱・悪疫流行など、決して安定した世の中ではなかったが、ラ・トゥールは1640年代には画家として成功の頂点に立っていた。折しも、ロレーヌの新しい知事として、リシリューの死後、その後を継いだマザランによって任命されたラ・フェルテ公爵 the marquis de La Ferte が、1643年にナンシーへ赴任した。彼は自らの職責とも関連して、熱心な収集家となった。

  彼はナンシーとリュネヴィルに毎年、上納金の代わりにラ・トゥールの絵画を要請していた。これに応じて、ナンシーは(おそらくジャック・カロの手になるものと思われる*)デェルエ Claude Deruet の銅版画、リュネヴィルはラ・トゥールの作品を贈ったようだ。1645年から画家が世を去った1652年の間に、ラ・フェルテには6枚のラ・トゥールの作品が贈られた。この点については、幸いにも主題と価格が最も詳細に判明している。ひとつの主題だけが不明である。残りの5枚の中で4枚はラ・フェルテの1653年の収集品と合致している。

    ラ・トゥールの作品を近くに置きたいと思った人々は、ここに記した名士ばかりではなかったはずである。そのため、模作も多かったことは想像に難くない。当然、ラ・トゥール工房は忙しくなり、作品も多数生み出されたことが推測される。戦乱などがなかったならば、われわれはもっと多くの作品に接していることだろう。

*Reinbold(1991)に収録の作品かと思われる。

Reference
Paulette Chon
é, Georges de La Tour un peintre lorrain au XVIIe siècle, Tournai: Casterman, 1996

Jacques Thuillier, Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997, expanded edition

Anne Reinbold, Georges de La Tour, Fayard, 1991


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ラ・トゥールを追いかけて(50)

2005年12月14日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Alphonse de Rambervillers, gravure de Van Loy, Bibliothèque nationale
Anne Reinbold, Georges de La Tour, Fayard, 1991


ラ・トゥールのパトロンたち(1)
 

    晩年のラ・トゥールは、ロレーヌのみならずパリを中心とするフランスにおいても、一流画家としての名声を確保していた。これは、画家の天賦の才能に加えて、世俗の世界においても並々ならぬ処世の術を発揮した結果であることは繰り返し述べた通りである。

  加えて、当時の芸術家たちにとって大変重要であったのは、彼らを支える庇護者、パトロンの確保であった。いかに才能があっても、それを開花させる基盤を準備してくれる庇護者たちの存在が欠かせなかった時代である。これまでのラ・トゥールの画家人生を振り返ってみると、ある時期からかなり多数の有力なパトロンそして作品を求める人々がいたことを知ることができる。ブログでもそのつど触れてはきたが、ここでラ・トゥールのパトロンたちの群像を改めて整理してみたい。

最初のパトロン:ラムベルヴィリエ
  ラ・トゥールが歴史的記録に現れるようになって以来、美術史家によって明らかにされてきた成果によると、この画家を世に出すについて最初に支援の手を延ばしたのは、メス司教区でヴィクの代官であったアルフォンス・ド・ラムベルヴィリエ Alphonse de Rambervilliers であったことは、すでにこのブログに記したとおりである。
  彼はロレーヌきっての美術と骨董品の収集家であった。そればかりでなく自らが詩人で画家でもあり、反宗教改革の流れの中で著名なキリスト教哲学者でもあった。 彼はジョルジュと結婚したネルフの親とも姻戚関係にあり、1617年の結婚式にも新婦側の来賓として出席している。

  背景は不明だが、ラ・トゥールの父親とも知人の関係でもであったし、若いジョルジュの天賦の才能を見出し積極的に庇護してきたのは、このラムベルヴィリエであったのではないかとの推測もなされている。 ジョルジュとネールの結婚を仲介したかもしれない。ラ・トゥールの研究者で、とりわけ家系や年譜の形成に大きな貢献をしたアンネ・ランボル Anne Reinboldの著書には、国立文書館に残るラムベルヴィリエの肖像画が掲載されているが、文人らしい知性を感じさせる容貌である(photo)。
  
    ちなみにランボルの研究は、ラ・トゥールの家系、年譜の丹念な調査として出色のものであり、後の研究者にとって貴重な布石を与えた。

   ジョルジュとネールの夫妻は、1620年にはリュネヴィルへ移住したが、ロレーヌ公アンリII世は、ナンシーよりもこの地を好んで城も造営していた。メス司教区の下にあったヴィクから移住したジョルジュはアンリII世の許可が必要だった。このためにジョルジュから提出された請願書には、画家としての職業の誇示、租税公課の免除などかなり強い要求も含まれていた。アンリII世は、リュネヴィルに住む貴族でもあるネルフの父親とのつながりもあって許可したと思われる。

芸術家を支援したロレーヌ公
  ロレーヌ公は伝統的に、フランス王よりも先に芸術に関心を寄せており、地域の画家などの活動を支援してきた。ラ・トゥールについても、ジョルジュとネルフの夫妻がリュネヴィルへ移住した年から、その点が感じられる。
  
  記録に残るかぎり、1620年にアンリ II 世はラ・トゥールに2枚の制作を依頼しているが、2枚目は聖ペテロの肖像画であったらしい。これには150フランの支払いがなされている。 この年、ラ・トゥールは最初の徒弟となったクロード・バカラClaude Baccaratを4年間、200フランで契約をしているが、この後徒弟を受け入れるごとに契約費用は急速に引き上げられて行く。これは、ラ・トゥールの画家としての実力が次第に認められてきたことを反映していると思われる。たとえば2番目の徒弟の場合は、1626年から3年契約で500フランになっていた。そして3番目の徒弟フランソワ・ナルドワイヤンの受け入れでは700フランへ増加している(Choné, 54)。

戦乱に失われた作品
  1634年フランス王ルイ13世は、ロレーヌをフランス領へ併合した。その年ロレーヌの貴族たちの多くはフランス王へ忠誠を誓っている。ラ・トゥールもその一人だが、ロレーヌ公との関係も断絶していない。 フランスと神聖ローマ帝国の間で、ロレーヌは30年戦争の戦場と化していた。亡命していたロレーヌ公チャールスIV世は神聖ローマ側についていた。
  
  1638年9月30日、リュネヴィルはフランス軍の侵攻を受ける。この戦乱の時に、ロレーヌにかなり存在したはずの画家の作品の多くが失われたと思われる。


Reference
Paulette Choné, Georges de La Tour un peintre lorrain au XVIIe siècle, Tournai: Casterman, 1996

Anne Reinbold, Georges de La Tour, Fayard, 1991

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移民と外貨送金の役割

2005年12月12日 | 移民政策を追って

移民送金の役割

重要な3つのR
  外国人(移民)労働者が本国(母国)の発展に果たす役割については、さまざまな側面を考えねばならない。基本的には3つのRと呼ばれるRecruit、Remittance、Return という主柱の役割を果たす要因の関係がいかに維持されるかにかかっている。 簡単にいえば、いかなる人が海外へ出稼ぎに行くか(Recruitement)、どれだけの額あるいは比率の送金が本国へ行われるか(Remittance) 、そして海外で働くことを通して習得した技能や送金が労働者の帰国によって、どれだけ母国の発展に貢献するか(Return, Reintegration)という3つのR、相互の関係である。この間に「良い」関係が生まれると、海外出稼ぎが相手先国ばかりでなく、自国の発展に貢献する循環への道が開かれてくる。

「良い循環」の形成
  現実には、移民(外国人)労働者は一度自国の国境を越えて外国へ出てしまうと、自分の意思とは異なった結果につながってしまうことが多い。本来、3-5年程度の間海外で働いた後、帰国して外国で獲得した熟練や資金を家族、そして究極には母国の発展に貢献することが期待されている労働者が、帰国せず出稼ぎ先へ定着してしまい戻ってこない、海外からの送金が少なくなる、母国へ送られた資金が浪費され生産的目的のために使われない、帰国しても希望する仕事がない、などの問題が生まれる。このような「漏出」が多いと、「良い循環」の形成が阻害される。

  こうした状況が定着すると、無駄が多く移民に期待される効果が薄くなる。望ましい発展の形は、外貨送金が自国の生産的目的に使われ、雇用機会を増やし、それに伴って海外出稼ぎが次第に減少する方向である。アジアの例を見ても、かつては移民を送り出していた国でも、経済発展の軌道に乗って、移民の必要がなくなり、逆に受け入れ国へと転化している国も多い。日本、韓国、台湾、シンガポールなどである。

移民送金の重要性
  この過程で、海外出稼ぎへ出た人々が、本国の家族などに送金する「移民送金」については、さまざまな評価がなされてきた。最近発表された世界銀行の報告によると、2004年に海外で働く労働者から自国に送金された額は、1670億ドルを越えたことが判明した。

  この額は、開発途上国に投下される直接投資額に相当する。また、こうした国々への海外援助の2倍以上に達している。さらに、世銀報告では、銀行送金など公式なチャネルを通してではなく、インフォーマルな経路を通しての送金を含めると、この送金額は1.5倍になるという推定がされている。

  また、注目すべき別の点は、こうした送金額の30-45%がマレーシア、南アフリカなど他の開発途上国から送金されていることである。 送金先は偏在している。開発途上国に平均的に広がっているわけではなく、特定国に集中している。インド、中国、メキシコ、フィリピンなどが外貨送金の受け取り額の多い国である。これらの国々では、受取額が100億ドルを越えている。また、GDPに占める比率もかなり高い。フィリピンなどの場合、13.5%という大きな比率である。 最近よく目にするBRICs(Brazil, Russia, India and China)は、受け取る送金額も大きい。

  経済学者の間ではしばしば移民の外貨送金は海外からの直接投資やその他の資金フローと同様に、利潤動機に基礎を置いて、経済発展にプラスに寄与すると想定されることが多いが、必ずしもそうではない。海外送金と経済発展の間にはマイナスの相関があるとの研究もある(IMF Staff papers, Vol. 52, No.1)。

  海外からの送金が生産的な意味に使われているかは、国によっても異なる。フィリピンのように送金金額やGDP比率は大変大きいが、国内の雇用機会が十分でなく、海外出稼ぎ労働者の数は減少する兆しがない国もある。自国にい本来ならば必要な人材が流出してしまう。自国の失業者数の増加による政治不安解消などもあって、政治家はしばしば海外出稼ぎを支援する。

ディアスポラの悲劇
  海外出稼ぎのために、家族が離散し、家庭、そして民族までもが崩壊してしまう現象 Diaspora も大きな問題である。 出稼ぎに行くときは予定の貯金ができたら帰国すると思い定めていても、気がついてみると10年以上経過し、結婚や子供が生まれ、帰国の動機を失ってしまう。あるいは帰国しても、かつての母国に受け入れられず、何度も出稼ぎを繰り返す人々もいる。いずれの人たちも、精神的、経済的双方の意味で自分の母国を失う(Heimatloss)ことになる。

  インドや中国のように多数の国民が海外へ流出し、その外貨送金がきわめて大きな額になっている国もある。こうした外貨送金の絶対額の大きさに期待をかける開発途上国も多い。しかし、海外滞在期間が長くなるほど、本国への送金が少なくなってくることも分かっている。海外にいるインド人の数や比率にからみると、インドはもっと海外送金があってもおかしくない。インド人経済学者の間には、本国は在外インド人から税金を徴収すべきだとの議論もある。

 経済発展と海外出稼ぎ、移民をいかに位置づけるか。海外送金はその成否を定める大きな鍵のひとつである。グローバル化の急速な進展の中で、海外送金についても新たな観点からの再検討が必要になっている。


Reference
Chami, Ralph, Connel Fullenkamp, and Samir Jahjah, "Are Immigrant Remittance Flows a Source of Capital for Development?", IMF Staff Paper, Vol.52, No.1, 2005.

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キルヒナーとベルリン時代(3)

2005年12月10日 | 絵のある部屋

 
Credits:
Ernst Ludwig Kirchner, The Drinker; Self-Portrait, 1914/16 Nuremberg, Germanisches Nationalmuseum (Left)

Ernst Ludwig Kirchner, Self-Portrait as a Soldier, 1915, Oberlin, Ohio, Allen Memorial Art Museum (Right)

  キルヒナーの研究者であるヴォルフ Norbert Wolf が形容したように、時代とともに、画家自身も「時の奈落の淵」On the Edge of the Abyss of Timeに立っていた。 キルヒナーの画風は、20世紀初め、世界の存亡をかける最初の大激変の時代に生きた画家として激しく変化している。ほぼ一貫しているのは色彩の使用が大胆、エネルギッシュで、迫力がある点であろう。とりわけ1905年から1918年にかけての時期は、画家として最も充実していたといえる。この間に画家は、ドレスデンからベルリンへ活動の中心を移している。

  特に、今回取り上げたベルリン時代は、この世界的な大都市の複雑でダイナミックな特徴を背景に、きわめて興味が惹かれる時期である。 キルヒナーはその生涯にかなり多数の画家の影響を受けている。作品を通してみると、どの画家の影響が強かった時期か、ほぼ類推ができる。とりわけ、ヴァン・ゴッホ、ゴーガン、セザンヌ、マティス、カンディンスキー、ムンク、あるいはアフリカン・アートなどの影響を強く受けている。ロイヤル・アカデミーの特別展にも出品されていたが、ジャポニズムの影響も受けたようで、ドレスデン時代の1909年には 歌舞伎の舞台を描こうとしたと思われる「日本の劇場」Japanese Theatre と題する作品を残している。(ドレスデンでの歌舞伎興行?を見ての作品らしい。しかし、この作品も見ているとエキゾティックという次元を超えて、不気味な感じが漂ってくるような気がする。)

危機と不安の中で
  1911年にベルリンに移ったキルヒナーは、この時代の先鋭さと大戦前の緊迫した状況から衝撃といってよい影響を受けた。ベルリンでは芸術の世界もきわめて競争的であるとともに実験的・前衛的雰囲気に満ちていた。この時期の作品は全体に重苦しい陰鬱さと複雑さに満ちている。特にベルリンの街路の光景を描いた一連の作品は、洗練された町並みの背後に潜む時代の緊張と恐れ・不安、そして退廃性を鋭く伝えている。これらは最もキルヒナーらしい作品といえるかもしれない。 

  1915年にキルヒナーはハレの砲兵師団に徴兵(最初は画家自身が「非自発的に」自発的応募したと表現している)されるが、まもなく心身ともに疲労、精神に異常を来たし、肺の疾患と病弱を理由に兵士に適さないと除隊を宣告される。キルヒナーは多数の自画像を残しているが、アブサンのグラスを前にした自画像は、やつれた容貌で、倒錯した生活を送っていたことを直感させる。ネグロイドの容貌で描かれ、アフリカン・アートの影響がうかがわれる。

心を病んで
  特別展の一番最後に配置されていた著名な「兵士としての自画像」は、軍隊生活経験後の精神的な苦悩を明らかに示している。キルヒナーの着ている軍服には所属した砲兵師団番号の75が肩章として記されている。背後のヌードは彼のよりどころである愛人と芸術へのこだわりを象徴しようとしたのだろうか。 あたかも切断されたような右手は、奪われつつある制作活動を象徴しているのかもしれない。形容しがたい不安と倒錯した感情が漂っている。

  この後、画家は精神障害が激しくなり、スイスなどで療養生活を過ごす。その間にいくつかのグラフィックな作品などを残している。しかし、ドレスデン・ベルリン時代のような卓越性と集中力は次第に褪せている。晩年の作品などは、一見するとムンクの筆になるものではないかと思わせるほどであり、キルヒナーらしい先鋭な個性が消えている。   

  ナチスから退廃的な芸術家とされ、ベルリン・美術アカデミーからも追放された。そして、作品は1937年の「退廃芸術展」に退廃的作品の例示のために出品された。これは、画家のナチス・ドイツにおける所在の否定となり、その後の挫折と1938年の自殺へとつながることになった。

  軍靴の響きは近づいていたのだが、ベルリン市民はほとんどそれに気づいていなかった。後で回顧してみれば、戦争が現実のものになるまでは、沈んだ時代を鼓舞するような響きさえ持っていた。しかし、作家でダダイズム詩人のメーリングWalter Mehringが感じていたように、ベルリンは「サーベルの音とともに、死が忍び込み、舞踏する都市」へと変化していた。
*

*Norbert Wolf, Ernst Ludwig Kirchner, Taschen, 2003

Jill Lloyd (Editor), Magdalena M. Moeller (Editor) Ernst Ludwig Kirchner: The Dresden and Berlin Years , The Royal Academy, 2003.


本ブログ内関連記事

http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/e1a81c052671165965ac489fe66b9967.

http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/5039e416147af86491c41e35d0a51b21

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医療立国への道:シンガポールに学ぶ

2005年12月08日 | グローバル化の断面


  このブログで「頭脳流出」 brain drain問題にからめて、シンガポールなどの先進医療事情を紹介したことがあった。その後、2005年12月2日BS1「地球街角アングル」は、この問題を直接、題材にとりあげた。人口が少ないという制約の下で、新たな発展の方向を模索してきたシンガポールは、そのひとつの突破口を医療分野に見出したようだ。

人口の少なさは制約ではない
  自国の人口が少ないことはいかんともしがたいとして、自らは世界でも最高度の医療水準の供給国を目指し、顧客ともいうべき患者は、経済水準が近年急速に向上している中近東、インドネシア、マレーシアなどの近隣諸国を想定している。まさにグローバル化を前提としての政策設定である。 この国は自国を活性化し、発展させて行くための政策構想がきわめてしっかりしている。

  シンガポールは医療立国の条件として、高度な技術、安全性、ケアの水準の高さを目指している。世界的に有名なホテルで知られるラッフルズ財団のラッフルズ・ホスピタルは2001年に設立された。そして、すでに患者の30%、3万人が外国人である。患者の国籍は100カ国を越える。

巧みな設定
  シンガポールの先端医療は、設備の点では世界最高水準に達していると誇示している。医師の教育水準も高く、国立大学病院で徹底教育し、2年ごとに免許更新を義務付けている。 費用の点では、心臓手術などを受けるとさすがに数百万円もかかるが、患者は医療サービスの内容を信頼し、それなりに対応しているという。また中東諸国は近年、総体として豊かであり、シンガポールで治療を受けたいという患者も増加している。これについて、UAEの政府は医療費に加えて、月額70万円の補助をするという。治療、療養中は付き添いの家族が滞在する家賃なども月35万円もかかる。UAEなどからの患者はそれでもなんとかやっていけるという。うらやましい話である。

  ラッフルズ・ホスピタルなどは、こうした外国人患者専用のスタッフもおり、チャンギ空港まで出迎える。 シンガポールのコー・ブーワン保健相は、すでに世界6位の医療大国であり、国全体としてみると外国人患者数は年23万人を越えているという。

日本が考えるべき方向
  日本の医療制度改革の議論をみると、薬価や診療費の改定、医療費の負担増など、視野が国内に限られている感じがする。医療の対象とする人口を日本国内に限定する必要は少しもない。人口の減少自体は過度に恐れることはない。重要なことは少ない人材をいかに活用できるかにかかっている。日本がこれまで蓄積してきた高度な医療水準を活用、発展させ、世界が頼りとする「医療立国」の構築をすることは大きな意味を持つのではないか。外国人の看護士受け入れ問題もこうした視点からみると、新たな展開の道が見えてくる。人口減少で国力の減衰や活力の喪失が懸念されている時、グローバルな視点からの斬新な構想が必要になっている。

本ブログ関連記事
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/4f23206fd5d4dba21c5c9bf96e98ec51

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不法移民問題の根源

2005年12月07日 | 移民政策を追って

  11月23日、このブログで「豊かな地への決死行: アフリカからヨーロッパへ」を書いて4日後の11月27日、アフリカ・ヨーロッパ間で深刻化している不法移民問題の解決を目指して、送り出し国と受け入れ国が合同しての対策会議が来年開かれるとの新聞記事を読んだ。

  開催地はモロッコの首都ラバドである。 10月にあったスペイン・モロッコ間の外相会談で合議がなされたとのこと。モロッコは、同国と地理上、陸続きであるスペイン領の飛び地を目指すアフリカからの不法移民の経由地となり、これまでにも多くの問題が発生してきた。その様子の一端はこのブログに書いたこともある。

有効性を欠いた従来の政策
  大事なことは、こうした不法移民を減らすためにいかなる解決策が提示されてきたかということにある。とりわけ受け入れ国の側からすると、有形・無形、いかなる壁があろうともそれを乗り越えて入国してくる不法移民については有効な解決策が提示されてこなかった。 国境管理を厳しくしてきたが、解決にはほど遠く、押し寄せる不法移民の波の前に限界が感じられてきた。EUでもアメリカでも、受け入れ側になった先進国は、しばしば自国のこうした労働者に対する需要が根強く存在する。そのために、たとえ国境の障壁を高く設定しても、さまざまな抜け穴を潜って入国してくる移民労働者への対応に苦慮する。さらに、彼らが時間の経過とともに帰国せずに国内へ居住する実態にはきわめて難しい対応を迫られてきた。

受入国の利益に限定された視野
    アメリカ、EUでは、不法移民(労働者)問題が再び注目を集めている。9.11、フランスの「郊外」暴動など大きな出来事があるたびに、クローズアップされてきたといってもよい。アメリカでも現在移民政策にかかわるいくつかの議案が審議過程にある。しかし、これまでに不法移民を生み出す究極の原因まで踏み込んだ検討、そして政策は生まれていない。ブッシュ大統領の論点も、あくまでアメリカの国益だけの狭い視野に限られている。

  モロッコの会議では「不法移民を出身国に留め置く根源的な移民対策」の必要性を議論するとのことだが、やっと原点の議論を始めることになったかという思いがする。移民や難民は国境を越えて流出が始まる前に、政治的・社会的安定の確保、雇用の創出などによって抑止する政策が必要である。多数の流出が始まってしまってからは、なかなか有効な策が打ち出しにくい。たとえば、アメリカ・メキシコ間の国境は、かなりの部分を砂漠や河川などの自然条件をもって国境代わりとしてきた。最近では、このほとんど人工の障壁にする提案もされている。しかし、こうした対策がいかなる効果を生むかについては、定かではない。かりに実現したとしても、一時しのぎでしかないことはほとんど確かである。このモロッコ会議でも、実際にどれだけ踏み込んだ議論がなされるのか、多分に疑問ではある。

  アジア・アフリカなどの開発途上国支援については、ODAを含めてこの視点が不可欠なのだが、これまで明示的に導入されたことはない。送り出し、受け入れ側が相互に関わらない移民政策の時代はとうに過去のものである。

本ブログでの関連記事 
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/d/20051123
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/1559239db9c3cba83dd6dcc247a15ea7

Reference
アフリカ・欧州不法移民問題」『朝日新聞』2005年11月27日

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児童労働はなぜなくならないのか

2005年12月05日 | グローバル化の断面

ナイキも90年代、児童労働に依存していた http://cbae.nmsu.edu/~dboje/nike/pakistan.html

  同じ地球上に生まれながら貧困のどん底で暮らし、ほとんど人間らしい生活を送ることなく、働いている子供たちがいる。児童労働の悲劇は、前世紀で終わったわけではなく、現在でも絶えることがない。国連統計によると、世界には今日でも2億4600万人という想像を絶する数の子供たちが、学校へも行くこともできず、働いている。実に世界の子供の6人に1人である。

厳しい児童労働の世界
  BBCのオリジナル版は「盗まれた子供時代」Stolen Childhood というやや分かりにくいタイトルがつけられた番組だが、映像が伝える子供たちの実態は痛々しい。インドでは粉塵と騒音で辺りが良く見えないほどの砕石場で働く子供たちや、工場の機織機の前で一日13時間、休日なしに働く子供には、背骨や呼吸器の疾患が多い。厳しい労働に耐えられず逃げようとする子供を3-4時間鎖でつなぐということも行われている。

  インドネシアやジャカルタでは、ごみの山に子供たちが集まり、塵芥の中から少しでも金目になるものを争って探している。不衛生で危険の多い環境で、病気やけがをする子供がいる。1980年代末に、マニラ郊外のスモーキー・マウンテンと呼ばれた地域に行ったことがあるが、筆舌しがたいすさまじい状況であった。

  メキシコ・シティの児童売春婦の姿が映し出される。そうした子供たちの多くは病気や麻薬づけになっている。シンナーや麻薬で苦痛を癒そうとした結果でもある。一般社会から隔絶され、人身売買、麻薬密売などの闇組織に束縛されている。

  メキシコ西部では、家族とたばこ畑に出稼ぎに行くウイチョル族の子供たちの有様が伝えられる。彼らは、英語、スペイン語も読めないため、雇い主のいいなりになり、危険な農薬とニコチン汚染の中で最低生活を送っている。一日中大きなたばこの葉を摘み、束にする。1束6円程度の仕事である。かれらを雇う地元の生産者の多くは、たばこ企業に借金を負っていることが多く、児童労働に頼って切り抜けようとしている。ひとにぎりの多国籍のたばこ会社だけが潤う構造になっている。 「ナイキ」のような世界的なブランド商品でも、1990年代にその生産コストの安さが児童労働など低賃金・劣悪労働に依存していることが問題になったこともある。

先進国にもある児童労働
  児童労働は途上国の問題だけではない。先進国でも見られる状況である。メキシコ国境に近いアメリカ、テキサス州のなどの農場では多数の移民家族が働いている。綿花、スイカ、たまねぎなどを栽培している。移民の子供たちは家族や両親の手助けをして、農場で働いている。日々の労働に追われ、高校も卒業できない。農業労働者は最低賃金すらもらっていないことが多い。農薬、殺虫剤の広範な汚染の中で、1日10時間、週7日間働き続けている。

期待されるNPOの活動
  農業労働者は差別され、搾取されている。毎年収穫の季節には多数の子供たちがかり出される。畑仕事が忙しすぎるため、高校まで進学しても中退するものが多い。こうした状況を改善するために、いくつかのNPO団体も活動している。たとえばブラジルその他のラテン・アメリカ諸国、アフリカなどで活動するMET( Motivation, Education, and Training)と呼ばれる移民の支援団体がある。METは農業労働者、児童労働者などに教育、職業機会を与える非営利団体であり、適切な進路指導をすることを目指している。METは移民の子供たちの多くに、収入の減少分を奨学金で補うよう努力している。しかし、METへの政府からの資金援助削減の可能性が生まれている。しわ寄せは子供たちに向けられることが多い。 

国際金融機関に支配される国々
  さらに、児童労働が見られる国々ではしばしば世界銀行やIMFなどの国際機関に経済を支配されている。かつて、このブログでジャマイカの例をとりあげたこともある。ケニアは世界銀行やIMF に経済を押さえ込まれた国である。為政者の横領などが財政事情を悪化させ、それを知りながら融資した国際社会の責任は大きい。今こうした国は国際機関への債務返済に苦しんでいる。

  ケニアの国際労働権利基金の例が紹介されていた。世銀融資がもたらしたみじめな結果である。ケニアは世銀から融資を受けたことで、学費の国家助成がなくなり、親が学費を負担することになった。その結果、学校へ行けない子供たちが増え、就学率が低下した。子供たちはコーヒーや紅茶のプランテーションで働いている。年1400円の学費が払えなかったので学校を辞める子供たちがいる。2003年1月新大統領が就任、学費の個人負担をやめる政策に切り替え、160万人の子供が学校へ戻ることができた。しかし、学校の再建に当てる資金がない。

   ケニアの主要な輸出品であるコーヒー豆の価格は過去30年間で最低の水準になっている。他方、ケニアの豆を原料にコーヒーを世界市場で売る多国籍企業は莫大な利益を得ている。原価の40倍になる末端価格がつけられている。

  児童労働は南北問題にも深くかかわっている。 現状に対してなんとかしたいと思っても「公正貿易」Fair Trade label のついた商品を選択するくらいしか、対抗手段がない。債務は減ることがなく、状況の改善は見込めない。児童労働はなくなることなく、次なる貧困層を再生産するという悪循環が続いている。

最後の奴隷制度
  2004年ノーベル平和賞を受賞したケニアの環境運動家ワーンガリ・マータイは、児童労働こそは最後の奴隷制度であるという。児童労働の背景にはしばしば親や本人がさまざまな債務を負わされているという実態がある。インドでは1776年に債務労働を禁止する法律を制定した。しかし、これまで1件も処罰の対象例がないという。 児童労働をこの世界から消滅させることは、想像以上に困難なことである。グローバル化の進展は、さまざまな分野で激しい価格競争の場を拡大している。まともな賃金を支払えない雇い主は、子供たちを酷使する。

教育こそ最大の救いの手
  児童労働を根絶するには世界規模で多大な努力が必要である。時間はかかるが最も根源的な解決への道は、教育の充実である。こうした子供たちは義務教育すら受けられないことが多い。一日中働くばかりで苛酷な生活を強いられ、人格も歪んでしまう。 目立たないが、こうした子供たちを泥沼から救い出し、教育の機会を与える努力も行われている。

  メキシコの「カーサ・アリアンサ」は、路上生活から救済団体の活動を行ってきた。親も失ってしまったような子供たちに暖かい生活と食事を供与し、年9000人を救済してきた。こうした施設に行くか否かは強制ではなく、あくまで本人の意思に任されている。厳しい労働で痛み、傷ついた子供にとって、こうした場所はなによりも大きな癒しの場となろう。人間らしい生活を「盗まれてしまった」子供たちにとって、得がたい機会なのだ。

1999年以来、144国が児童労働を禁止している・・・
・・・・


Source
世界の児童労働を扱ったドキュメンタリー映画(Stolen Childhood, BBCライブラリー、ガレン・フィルムズ 2004年制作、邦訳タイトルは「貧困と闘う子供労働者たち~僕たちも学びたい」)。11月9日(水)21:10~22:00NHK衛星第一NHK「BS世界のドキュメンタリー」
児童労働の現状については次を参照。
 http://teacher.scholastic.com/scholasticnews/indepth/child_labor/child_labor/index.asp?article=migrant

**例えばスポーツ用品メーカーのナイキは、1990年代後半にベトナムの下請け工場での児童労働が発覚し、大きな社会問題となった。児童労働や強制労働の問題は、ナイキばかりではなく、アパレルや部品組み立てなど労働集約的な産業の構造的問題であるという認識が欧米で広がった。現在では、多くの多国籍企業が途上国での公正な労働条件を調達基準に組み入れ、現地でのモニタリングを含めたマネジメントに取り組み始めている。しかし、下請け段階にまでは、到底目が届かない。

*** このブログ内の関連記事
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/f3271a5f21bc7ba1c5cd08b8d7338429
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/af7895a955aa12be6119c1313c853151

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キルヒナーとベルリン時代(2)

2005年12月02日 | 絵のある部屋



Special Exhibition:Kirchner: Expressionism and the City Dresden and Berlin 1905-1918, Royal Academy of Arts (Left)

Ernst Ludwig Kirchner, Potsdamer Platz, Berlin, 1914 Berlin, Staatliche Museen zu Berlin- Preussischer Kulturbesitz, Nationagalerie  (Right)
http://www.artsci.wustl.edu/~mjkrugle/Kirchner%20bit.JPG


  「緑」色が不気味な色であるとは、それまで考えたこともなかった。ロンドン・ロイヤル・アカデミーで、キルヒナーの特別展の垂れ幕が緑色であるのに気づき、最初はキルヒナーはアイルランドと関係があるのかなと思ったくらいである。しかし、作品を見ているうちに、この「緑」色の秘めた色調がただならぬものであるのに気づいた。

  特別展は、キルヒナーが画家として活動した舞台であるドレスデンとベルリン時代の作品に焦点を当てていた。とりわけ20世紀初めのベルリンは、ロンドン、パリに次いでヨーロッパ3番目の大都市であった。芸術面でもきわめて突出していた。芸術・文化の新分野において、いわばメルティング・ポットの様相を呈しており、さまざまな前衛的・創作実験の場となっていた。政治的にも文化的にも、かなりリスクの大きなさまざまな運動が展開していた。

  1912年にベルリンに移ったキルヒナーにとって、この大都市はアンビバレントな存在であったようだ。革新的、斬新な試みを受け容れる反面、自分の作品が広く認められないことにも焦燥感を持ったようだ。

噴火口での舞踏
  結果として、画家は深く鬱積した精神的状況から抜け出ようと、さまざまな試みをしたが、芸術家の世界は必ずしも彼を暖かく迎えなかった。作品も売れず、結果として、キルヒナーは時代を超えた前衛的な創造力を極限まで発揮しようと苦しんでいたようだ。そして時代は大きな転換期、やがては破滅へとつながる時にさしかかっていた。


  ベルリン時代のキルヒナーの作品はかなり多様にわたっている。ロイヤル・アカデミーの特別展は、当時の画家の活動をさまざまに語っていた。 その中からひとつの作品を取り上げてみたい。

「ポツダム広場」
  ドイツの大都市を表現主義の視点から描いた絵画の象徴といわれる「ポツダム広場」Potsdamer Platzと題された作品である。キルヒナーのアトリエからは、地下鉄ラインでポツダム駅へ15分ほどであった。このポツダム駅とフリードリッヒ・シュトラッセのライプジッヒ広場までは、キルヒナーが好んで歩いた道として知られている。大都市ベルリンのいわば心臓部ともいえる地域である。

  この作品もなんとも表現しがたい雰囲気を漂わせている。ポツダム駅の赤い煉瓦を背景に、二人の女、おそらく娼婦が描かれている。画面左の黒衣の女の顔は横顔で、しかもヴェイルのために正面の女ほどはっきりとはしないが、片一方の白い手だけが際だって目立つ。寡婦のヴェイルをまとっているとされている。

  正面を向いた女は、衣装などは一見貴婦人風だが、その顔は、見るからに異様で不気味に描かれている。決して昼間の顔ではない。 この作品は1914年8月、第一次大戦勃発直後に描かれたと推定される。その時以降、娼婦はベルリンでは兵隊の寡婦のような身なりを要求されたという。そして、警察の規制にしたがって「レディのように」に歩くことになっていたともいわれる。

  女の後ろには顔は分からない黒い背広の男が描かれている。男の立つ歩道は鋭角的に描かれており、他方、正面の女の立つ交差点の場所は、円形の舞台を思わせる。男が渡ろうとしている街路は、足を踏み外したら奈落の底に落ち込んで行きそうな感じがする。そして、画面を不気味に退廃的な緑色が覆っている(この緑色は、気づいてみると特別展の垂れ幕の色でもあった。) 今日の視点からすれば、大戦勃発当時の不安と不気味な陰鬱さに充ちたベルリンのある光景を象徴的に描いた作品という評価がされている。しかし、作品が発表された当時は画壇でも嘲笑の的だったといわれる。

アブサンの色
  大戦勃発当時当時、キルヒナーと同棲していた愛人エルナは、彼らの唯一安らぎの場であったフェーマン島 Fehman Islandに滞在していたが、島が軍の規制地域となったため急いでベルリンへ戻った。一時、スパイとして拘留されたようだ。 その後は自分の作品が反時代的、「退廃的」とみなされたこともあって鬱屈し、徴兵を待つ時を過ごしていたといわれる。強い酒アブサン absintheを 一日1リットルも飲んでいた時があった。緑色はこの色でもあった。


「キルヒナー:表現主義とドレスデン、ベルリン 1905-1918」 Kirchner: Expressionism and the City Dresden and Berlin 1905-1918

Phicture
Courtesy of
Staatliche Museen zu Berlin- Preussischer Kulturbesitz, Nationagalerie

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