時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

激動の時代に生きる術:イスラムの世界を学ぶ

2015年01月28日 | 特別トピックス



Michel Houellebecq, Soumission,2015

cover   

 


  アメリカ、ニューイングランドに住む友人からのメールが、このところの猛吹雪が常軌を逸した激しいものであることを伝えてきた。若いころからのスキーヤーで、大雪はいつも歓迎していたが、昨年は自宅周辺の除雪が間に合わないほどの豪雪に、ついに転居を決めたという。今回はそれをはるかに上回る積雪量であったようだ。

 この頃は、毎朝
の新聞、TVを見ることが恐ろしいほど異常な出来事が増えている。この点については、ブログでも記したことがある。とりわけ、21世紀に入ってから「極限事象」ともいうべき、通常ならほとんど起こりえないことが頻発している。あの9.11(米国同時多発テロ)、3.11(東日本大震災)は世界史上に残る象徴的な大惨事、災害だが、世界中で異常な事象は天災、人災を問わず発生しており、最近では統計的にもかなりの程度、確認されている。単に偶発的に起きているだけのことではないようだ。

 しかし、極限事象といっても、地球温暖化、大気汚染、大地震・津波、火山噴火、エボラ出血熱、鳥ウイルス、口蹄疫蔓延のような現象と、テロリズムや無差別銃乱射のような現象では発生の状況や原因もまったく異なる。グローバルな次元で、こうした諸現象が総合的・累積的にいかなる評価がなしうるか、ほとんど明らかではない。さらに、対策については、科学者も個別の事象への対応に追われていて、個別の対応だけで将来も切り抜けられるのか、体系的にはほとんど不明なままになっている。

 問題は、こうした事象が発生する背景も十分確認できないままに、それぞれに異なる事象が重複し、解決することなく拡大していることだ。部分的にはエボラ出血熱などへのワクチン開発、大気汚染への対策など、発生源、原因への手立てが少しづつ進んでいる分野もないわけではない。しかし、ほとんどの問題は発生の根源自体が,十分確認されていない。

「イスラム国」問題
  このたびの「イスラム国」テロリズム集団による日本人拘束、殺害事件も明らかに極限事象というべき範疇に入るだろう。非人道的で、残虐極まりなく許しがたい出来事である。直前にはフランスでの連続テロ事件もあり、まったく予想ができなかった事件ではない。

 人質が焦点となる出来事は日本も経験がないわけではない。中東地域で日本あるいは日本人が巻き込まれる可能性は絶えず存在した。しかし、確率的には小さいと考えられてきたことに加えて、この種の出来事は、それぞれに異なった環境条件の下で発生している。

 国際間の協調的行動などで、非常事態において、ある程度共通した対応の手順が合意され、成立している場合もある。しかし、今回のような「時間」という厳しい制約を盾に、巨額な要求を行い、相手の対応が整わない間に非人間的、極悪な行為でさらに次の譲歩を図るという悪のエスカレーションには、言葉を失う。行為自体が非人道的であり、その衝撃はあまりに大きい。

 卑劣で狂信的なテロリズムから無縁な国はなくなっている。国際的な連携と絶滅への努力は不可欠だが、たやすいことではない。

イスラムへの理解
  「イスラム国」に象徴される過激派によるテロリズムについては、日本人は他の西欧諸国と比較すると、国民一般の認識度が十分でなかったことは指摘すべきだろう。アルカイーダの活動実態についても、多くは映像で見るだけであった。幸いといえば幸いであったかもしれないが、今回のように日本人を直接標的とする現実が起きてみると、到底アクション映画を見ている場合とは次元を異にする衝撃的状況が一挙に生まれる。いうまでもなく、「イスラム国」は国際的に認められた「国家」でもないし、イスラムを名乗っても、イスラム教とは無関係なテロリズム集団だ。

 これまで、中東産油国を中心としてイスラム系諸国と日本のつながりは、どちらかというと原油の供給源としての認識度が強く、経済的次元が偏重されてきた。日本におけるイスラムの宗教、文化面でについての理解度はかなり遅れていたといわざるをえない。大学などの高等教育の次元でも、時にアラビア語の講座が設置されている場合などはあるが、イスラム圏全体をカヴァーする政治、経済、文化など、実質的にイスラムを学ぶ講座が準備されている例はきわめて少ない。本格的に学ぶには、イスラム圏の大学、イスラム研究に歴史のある西欧の大学などに留学するなどの選択が必要になる。
 
 これまでの人生で、比較的広い経験を積むことができた管理人の場合でも、イスラム諸国の知人、友人となると極端に少ない。イギリス滞在時代に家主の友人のつながりなどで、わずかな知己を得ただけであった。その過程で彼らがイギリス社会で置かれている立場や語られることの少ない社会的経験の一端を知ったにすぎない。

 若い頃にはエネルギー調査などの縁もあって、いくつかの中東諸国を訪れる機会はあったが、OPECがウイーンの雑居ビルに存在したような時代でもあり、知り得たことも限られていた。その後1970-80年代に「ゲストワーカー」の調査で、ドイツとトルコの実地調査などを行ったが、今考えてみれば、イスラム文化の一端に触れた程度だった。その後様変わりして大発展した中東産油国のドバイ、バーレンなどでも、当時は基本的に砂漠の国であった。自家用車のバンパーを純金にするよう発注した王家のプリンスなどの話がまかり通っていた。その後サッカーなどを通して、イスラム諸国について一部の知識は増えたとはいえ、日本人全体としても本質的な部分での理解が大きく深まったとは思えない。


  このたびの残酷な出来事は、未だ継続している問題であり、「イスラム国」を主な対象とするテロリズム撲滅の政策方向がある程度の結果を見せるまでにはかなりの時間が必要だろう。これが唯一の対応であるかについても、かなりの疑問が残る。狂信的なイスラム過激派のような集団・組織が残存し、活動するかぎり、世界に不安と恐怖の種は尽きない。さらに、こうしたイスラムとは無関係なテロリズム集団と、他方長い歴史を持つイスラムとの区分が十分に理解され、明確にされないかぎり、自分の信仰対象ではない宗教(あるいは信仰する人々)へのいわれなき誤解も浸透する。

宗教戦争の時代に
 時代は遠く16-17世紀の世界にさかのぼる。このブログで取り上げてきた17世紀のロレーヌ、そして広くヨーロッパは、すさまじい宗教戦争の様相を呈していた。オスマン帝国とヨーロッパの衝突は続いていたが、ヨーロッパ内部ではキリスト教の宗教改革を発端として、大小の宗教戦争が続いた。

 宗教戦争はしばしば激烈な様相を呈し、平静、共存の段階に達するまでに長い時を要する。政治と宗教が重なり合う覇権争いが、なんとか平静化し、共存の過程にいたるまでにはきわめて長い時を要する。イスラム教とは関係のない「イスラム国」の問題は別としても、現在進行中のイスラム宗派、部族間の争いは、宗教と政治が重なり合い、当事者でも状況判定が難しいほどに複雑化している。中東イスラム諸国間の混沌とした状況が落ち着くには、かなり時間がかかるだろう。 

 さらに将来を見通すと、伝統的なキリスト教国である西欧諸国が衰退の色濃い時代が待ち受けている。フランスの連続テロ事件とほぼ合致するように、パリがイスラムで覆われる近未来を描いたともいわれるミッシェル・ウエルベック Michel Houellebecq の小説 Soumission,2015 (英語:submission 服従、屈服の意味)が話題になっている。パリにおけるイスラムの浸透・拡大は個人的な体験を通してみても、驚くほど進んだ。しかし、どれだけ融合したのかは定かではない。それどころか、イスラムに代表される外国人の増加に反対する国民戦線のような右派政党が支持を集めている。

 日本についてみれば、これからの若い世代にとって、新たな視点で宗教、とりわけ日本人からは遠い位置にあるイスラム教とその世界を学び直すことがどうしても必要ではないか。「宗教の衝突」が「文明の衝突」に至らぬ前に、少なくもお互いに相手を正しく理解する場を準備・拡大しなければと思う。次の世代のことを考えると、状況はかなり切迫している。



 追記
 近年の世界の激変ぶりに目を奪われて、ブログの柱のひとつにしてきた17世紀の画家ジョルジュ・ド・ラトゥールの作品と生涯について記す時間が少なくなってしまった。17世紀フランスを代表する著名な大画家であるにもかかわらず、日本では必ずしも知られていない。同時代の周辺画家を含め、若い世代のためにも記してみたいことはあまりに多い。質問や要望も増加しているので、なるべく早期にタイムマシンに戻ることにしたいのだが。



 


 

 

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L.S. ラウリーとハロルド・ウイルソン首相(17)

2015年01月22日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

 

 2015年版L.S. Lowry Diary Cover

 

日記をつける人は増えたか
  最近はクリスマス・カードなどのやりとりをすることが大変少なくなりました。このことは、以前にも記したことがありました。原因はEメールなどを使う人たちが多くなったためですが、なにかが失われた思いがします。私はカードが好きで、一時期年末のシーズンなどには200枚を越えるカードを海外などの友人、知人、提携先などに送っていました。しかし、その数はこの10年くらいの間に激減し、最近は20-30枚程度になりました。今は春節の挨拶カードが中国本土、台湾などから散発的に送られて来ています。カードには近況などが自筆で書き添えられていることも多く、Eメールにはない人間味が感じられます。時々、そのいくつかはブログでも紹介をしてきました。

 他方、新年になった感じが希薄なこの頃、皆さんの中で日記をつけられる方は増えたのでしょうか。デパートなどの文房具売り場などを見ると、以前よりは手帳の種類も多く、さまざまな手帳が陳列されています。しかし、こうした手帳は日記というよりは、メモ帖といった方が多いような印象です。

 さて、このたび友人が送ってくれた上述のDiaryには、このブログでも紹介したことのある ラウリーのGoing to Work, 1959 『仕事に行く』の一部が採用されています。あの画家の生地サルフォードの美術館(The Lowry Collection, Salford)が原画を所有しています。私がマンチェスター、サルフォード、そして保有する作品数は少ないが、ロンドンのテート・ブリテンを訪れた時、記念に購入しようかと思ったのですが、毎日、この立派な装丁の日記帳に書き留めることを考えると、少し引いてしまい、別のラウリーに関する書籍を購入しました。その場に一緒にいた友人は、このことを覚えていたようでした。


「マーケットの光景」(部分)
Market Scene, Northern Town、1939 (detail)
2015年版Diaryの一部  

 

地域社会への暖かな目

  今年のDiaryに掲載されているこれらの作品も,一見稚拙に見えますが、画家は入念なスケッチを重ねた上で制作にあたりました。なにしろ、母親から画家になることを禁じられたラウリーは、地域の不動産会社の集金掛を65歳の定年まで毎日続けながら、その傍らで好きな絵を描いていたのです。画家は貧民街やそこに住む人たちの生活など、地域の変化を誰よりも知っていました。そして、他の画家たちであれば、全く関心を寄せないような光景を丹念に記してきました。今になってみると、それらの作品は、写真以上に大きな意味を持って受けとられています。ラウリーの作品には、地域の人々への暖かい思いが感じられます。

  画家の作品には上流階級も含め、隠れたファンが多く、ラウリーの作品を欲しがる人は大変な数でした。イギリスの労働党首で首相を2度勤めたハロルド・ウイルソン(1916-1995)もそのひとりでした。ウイルソンは北イングランドのハダースフィールドに生まれ、オックスフォードのジーザス・コレッジ卒、21歳で経済学部講師に就任したほどの逸材でした。

  その後労働党党首から2度の首相(1964-1970, 1974-1976年)を務めたウイルソンは大変、この画家の作品を好み、在任中、2度にわたりL.S.ラウリーの作品を、自分のクリスマスカードに使いました。

国家的栄誉とは無縁の人
  L.S.ラウリーは生前5回にわたり、イギリス最高の栄誉であるナイト、CBEなどの国家的受賞をすべて断っていました。彼がやっと引き受けた晩年の栄誉は、生まれた町サルフォード市の名誉市民だけでした。画家の死後、イギリスの各層から、イギリス画壇のオーソリティたちは、ラウリーを不当に低く評価してきたとの批判が急速に高まり、昨年「テートブリテン」(イギリス最高の公的美術館)で、初めて大規模な特別展が開催されました。ラウリーとウイルソンの生き方に長らく関心を抱いてきた私にとっても、格別の感慨でした。

  ラウリーの作品の愛好者だったウイルソン首相は、1974年3月に2度目の首相に就任し、EECへの残留を国民投票で決定するなどの大仕事を行いましたが、1976年3月、首相を突如辞任し、政界,国民を驚かせました。その理由は長く明かされなかったのですが、死後、アルツハイマー病の兆しが現れ、国政を誤らないためにも早期に辞任したとの事実が公表されました。ウイルソンは辞任後、20年近く生き、1995年79歳で没しています。戦後イギリスの政治家の一連の伝記を好んで読んできた私は、この国の政治家の持つ思想、責任感がいかなるものであるかを知り、感銘を受けました。


 さて、今年の秋、ハロルド・ウイルソンの生地ハッダースフィールドで工業的大成功を収めた経営者、故ジェームズ・ハンソン卿(オードリー・ヘップバーンと婚約したこともあった)が、同郷のハロルド・ウイルソン首相に贈ったL.S.ラウリーの『アデルファイ』 The Adelphi (1933年作)と題する風景画の作品が、ロンドン・サザビーでオークションにかけられました。落札価格は不明ですが、200万-300万英ポンド(邦貨3700-5600万円)と推定されています。ちなみに、このジェームズ・ハンソン卿(故人)は、1976年、ウイルソン首相の電撃的辞任のどさくさにナイト称号授与のリスト 通称‘Lavender List’(ラベンダーの花言葉はdistrust;不信)にもぐりこんだ人物のひとり?と噂され、本人没後も評判は芳しくないようです。ウイルソン首相が信頼を寄せていた助手が、ラベンダー色のノートに書き残していたためともいわれています。ナイトになりたかった大富豪と、称号なんて「なんの価値もないよ」と、ナイトその他の国家的称号をすべて断ったL.S.ラウリーの生き方はなかなか興味深いものがあります。

 
 
L.S. Lowry, The Adelphi (1933)
地域の小劇場の名前と思われます。 

 

続く

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異なる立場を理解する努力

2015年01月15日 | グローバル化の断面

 


ピケティ教授の大著邦訳刊行をめぐって
 昨年の夏のブログで、世界的に大きな反響を呼ぶことになったフランス人経済学者トマ・ピケティ教授の『21世紀の資本』について少しばかり記したことがあった。当時は日本ではほとんど誰も名前も聞いたことがないというほど、知られていなかった。しかし、その後、海外、特にアメリカでの評判が伝わり、当初は今年2015年に予定されていた日本語版の出版が昨年末繰り上げられるに及んで、本書の評判は単に一部の経済学者の範囲にとどまらず、広く一般のビジネスマンなどの間にも知られるようになった。


 他方で、あの大部の本を一体どれだけの人が本当に読むのだろうかという思いもする。しかし、世界が抱えるいまや危機的ともいえる重要課題を少しでも多くの人が、自分や次の世代のこととして実感し、深く考えることは大変望ましいことだ。

 幸い、難解でタイトルは知っていても実際には読んだことがない人が多いK.マルクスの『資本論』と比較すると、驚くほど読みやすい。
表題が、『21世紀の資本』なので、マルクス経済学者かと思いかねないが、そうではない。筆者のピケティ教授は、専門化が過ぎたアメリカの経済学に違和感を覚えて、自ら書き下ろした近代経済学の正統な流れを受け継ぐ大作である。

 著者ピケティ教授は本書で平易な叙述のために1年近くを費やしたと言っているが、その努力は全体の構成、問題の整理、見やすいグラフ、例示などに十二分に反映されている。世の中の多くの経済書がこうあってほしいと思う。とはいっても、その含意を正しく理解するには、相応の経済学の知識と思考力が欠かせない。


真摯な議論を
 日本や世界経済の現状や今後については、きわもの的な出版物も多数刊行されているが、本書はピケティ教授が10年近い年月をかけて構想し、分析を行い、刊行にいたっただけに、今後の経済社会を論じるに際して、ひとつの準拠基準を構築してくれた意味がある。今後、日本を含む世界経済の行方を論じるに際して、本書の分析と政策的含意を外して議論することは出来ないほどの重みがある。邦訳が刊行される以前に、欧米諸国では議論が一通り終わってしまった感があるが、周回遅れの日本でもしっかりとした議論が展開することを期待したい。

予断を許さない世界情勢
 欧米で本書が話題となっていた頃、日本はワールドカップに熱狂していて、ほとんど本書の提示している意義については、話題にすらなっていなかった。管理人はその点を含め(今日の記事とかなり重複するがお許しいただくとして)来たるべき時代の危うさについて少し記したことがある。


 ワールドカップに耳目を奪われている間に、世界は急激に変化していた。ウクライナ問題、イスラム国の出現とその急速な拡大、テロリズムと人種差別の増大、戦火の絶えない紛争地域、さらに一触即発ともいえる緊迫した地域の増加などである。とりわけ顕著なことは、多くの紛争の底辺に、宗教的対立があることを指摘できる。このブログのひとつの柱としている17世紀を特徴づけていた宗教戦争に似た点が多分にある。

戦争状態に入ったフランス
 今回フランスで発生したテロリズムについても、イスラム原理主義から派生したものだが、フランスのバルス首相が13日、国民議会(下院)で述べたように、「フランスはテロリズムとの戦争状態に入った」というまでの危機的事態が生まれた。バルス首相は「テロやイスラム過激主義との戦争であり、イスラム教やイスラム教徒への戦争ではない」と区分する発言も行っている。さらに、「フランスは友愛の精神があり、寛容な国だ。だれをも受け入れる」と強調し、「イスラム教徒の保護も喫緊の課題」と述べた。

 フランス議会では、自然に国歌ラ・マルセイエーズが歌われる雰囲気が生まれた。この「表現の自由」を厳として守り、愛国心を維持、高揚するフランス国民の心情は、フランスの誇るべきものではあるが、フランスに住むイスラム教徒やユダヤ人にとっては、日常生活においてさまざまな軋轢や恐怖として迫ってくる。


 世の中に存在する人種や性別による「差別」には、「明白な差別」(overt discrimination)もあるが、目に見えない「隠れた差別」(covert discrimination)もある。法律などの制度で減少や改善が期待できるのは、人の目に明らかに差別と見えるものに限られる。それはほとんど誰が考えても明らかに不当と思える「明白な差別」の部類に入る。他方、隠れた差別はしばしば陰湿で、脅迫的な形態をとる。差別であることの立証もしがたいことが多い。それが嫌ならフランスから出て行けというのが、「国民戦線」など保守派の考えなのだろう。しかし、戦火に追われる厳しい世界で彼らに安住の地はない。フランスの寛容さの本質が問われることになる。

 今回のテロ発生以前には、その政治手腕が問われていたオランド大統領だが、この事件の勃発で国民共々新たな事態への対応に追われる日が続く。しかし、ほどなくさらに厳しい日々が戻ってくることは必至だ。
 

宗教戦争の時代へ?
 万一、日本で同様な事態が発生したら、国民はいかなる反応を示すだろうか。この世の中、一色では塗りきれない。世界には自分たちとは違った考えや宗教を持つ人たちがおり、可能なかぎりその違いを話し合い、お互いの立場を認め合うことがないかぎり、紛争や殺戮は絶えることがない。すでに、時代は17世紀にみられた宗教戦争のような側面すら見せている。

 当時はその範囲はせいぜいヨーロッパにとどまっていたが、いまや事態は世界規模となっている。世界に生まれた時代の狂気を速やかに終息させねばならない。世界には宗教に救いを求める以外、生きるすべがない人々が多数存在する。

 イスラム教を含む世界宗教会議のような場を設定することも必要ではないかとも思う。空爆やミサイル攻撃で、この狂気な事態を消し止めることは不可能なのとは、当事者自身が認めている。近世初期、偶像破壊の時代に生きた人たちの日々の記録を読みながら、時代の宗教が持つ光と影に思い惑う。


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東方の3博士がいない時代?

2015年01月08日 | 午後のティールーム

 

 

 今年初めて乗ったタクシーの運転手さんが、年末、年始の感じが薄れて、年が改まった感じがしないのですよと話していた。なるほど、そうだなと思ったのだが、一寸「改まる」という言葉の意味に気になることがあって、帰宅して『広辞苑』(第六版)を引いてみた。「あらたまる」(改まる・革まる)とあって、
(1)新しくなる。「年が-・る」
(2)一転、あるべき状態にもどる。改善される。
(3)ことさらに容儀を正す。
(4)(「病革」 の訓読にもとづく)病気が急に重くなる。「病勢-・る」
と記述されていた(用例一部省略)。

 辞書を引くまでになったのは、どうも最近の世界の動きをみると、「新しくなる」という意味よりは、事態が悪くなるという意味で(4)番目の語感が意識の底で強まっている感じがしたからだと多少納得した。

 TVのニュースをみると、パリの新聞社が7日、テロリストに襲撃された惨状を報じていた。あの9.11以来、テロリズムは辞書から消えるどころか、かなり頻繁に目にする言葉となった。フランスのTVで批評家が小さなテロでも社会的反響を生み、それが次のテロを生みだす雰囲気を作っているとの論評をしていた。オランド大統領が、1月8日を国民が喪に服する日とすると述べていたが、これほどテロが増加すると、服喪の日ばかりになってしまう。年末のブログに記したように、世紀の区切りも希薄になっているが、21世紀になってからは、自然現象を含めて、世界のなにかが極端に振れだしている感じがする。

  年末、年始に多少世界の行く末を考えさせてくれる材料も、今年は種切れの感がある。「生誕」を祝ってはるばるベツヘレムへやってきた「東方の3博士(王)」も、この混迷した時代に説得的な力を示せないようだ。The Economist誌の記事も「諸王のもたらす神秘的な意義がどうも失われていると思う諸氏は、頭をめぐらすにより意義深い三つの次元があることをお知らせしたい。それはすべてを包括する過去、現在、未来に思いを寄せることだ」と。まるで落語の落ちを聞かされた思いだった。


"The rule of three" The Economist, December 20th 2014.

 

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新年おめでとうございます

2015年01月01日 | 雑記帳の欄外

新年おめでとうございます

 

 新年を迎えるという感じが年々薄れるこの頃です。それでも新しい年は多少なりと人間の心に影響を与えるのではないでしょうか。まだ始まったばかりといってよい21世紀ですが、20世紀の後半50年と比較しても、明らかに多事多難な15年でした。平穏そのもののように見えた友人・知人の間でも,思いがけないことがありました。

 そのひとつ、アメリカ・ヴァーモント州に住むMさんのこと、数年前に離婚して、カナダ国境に近い小村に女友達とラプラドールの犬一匹と暮らしていました。本人は州の身体障害者のためのNPO活動を続けていましたが、一昨年の冬は想像を絶する吹雪で家がほとんど埋没状態となり、通信も途絶、大変な思いをしました。除雪車も来られないほどの大雪だったとのこと。今年は自宅を賃貸(借り手ない)に出しながら、数十キロ離れた小村の友人宅に移住、70歳を越えているのに、車で仕事に出ています。とても、私にはできない生活、今年は雪が少ないようにと祈るばかり。


 次々と届くクリスマスや新年の知らせを見ていると、一生懸命に生きている人たちのイメージが伝わってきます。頭に浮かぶことは多いのですが、ただひとつ戦争のない平和な年であることを祈っています。 

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