Elegance in the provinces: two nobles of Lorraine, ca. 1620
Jacques Callot,The Nobility of Lorraine, National Gallery of Art,
Washington, the Rudolf L. Baumfeld Collection, no. B-27,903 (lady above) and
B-27,904(gentleman below)
少なくも17世紀の美術史では、ほとんど触れられていない側面に興味を抱かれるのでないかぎり、このブログを訪れてくださる皆さんの多くは、時代離れしたテーマに辟易されるだろう(それでも幸い、関心を持って読んでくださる方もかなり増えたことには感謝したい)。
他方、ブログ管理人にとっては、17世紀と現代の間に存在する距離や断絶は、それほど大きなものに感じられない。偶然、このふたつの時代は、「危機の時代」となった。すでに前者はそうした評価を受けてきた。21世紀の現代もほぼ間違いなく、「危機の時代」である。その時代の現実に少しでも入り込むことなしに、作品を理解することはできないとまで思うようになった。
さらに、思考の次元を広げてしまえば、今や衰退の色濃いアメリカ、他方多くの問題を内包しながらも拡大発展を続ける中国との間に挟まれている日本の将来は、ある時期から自らの行方を見失ったロレーヌの小国のような感じがしないでもない。いったいこの国はどこへ向かうつもりなのか。あの鳴り物入りで喧伝された国家戦略なるものを耳にすることは、ほとんどなくなった。今はただ、この国がアフガニスタンやイラクとは違い、島国であることにわずかな「救い」?を感じている。
閑話休題
Jacques Callot. The Nobility of Lorraine, ca.1620.
前回に続き、再びしばらく時代を遡る。ロレーヌ公国における下層貴族の生き方を見たい。一枚の肖像画の背後に秘められた、ある家系の歴史がおもいがけず多くのことを語っている。
作品が秘める歴史の明暗
17世紀ロレーヌ公国のような小国では、貴族にとってその地位を維持し、子孫のことも考えて生きるためには、なににもまして君主ロレーヌ公への忠誠とそれに対して与えられる庇護の関係をしっかりと維持することにあった。こうしたつながりは、しばしば農民など領民の次元にまで連なるものだった。
ロレーヌ公国では、貴族として生きる道は、公国の行政などの領域における奉仕(サービス)で貴族の地位を保とうとするか、祖先の功績を継承し、現在の地位を汚さぬように努力するかのいずれかであった。その他は、軍備の任に当たるか、あるいは聖職者として貴族になっていた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールのような出自の者が、貴族になるということはきわめて例外的なことであった。ジョルジュがいかなる理由で貴族に取り立てられたかは、記録もなく本当のところ分からない。確かにジョルジュは、リュネヴィルの貴族の娘ディアンヌ・ル・ネールと結婚したが、それで貴族になったわけではないと思われる。
リュネヴィル移住時、画家は20歳代後半、ロレーヌですでに腕の立つ画家となっていた。その秀でた才能と業績が最大の要因だろう。加えて、ロレーヌ公アンリ世との関係が良好であったことが、公をして貴族の肩書きを授与せしめたと思われる。現に、ロレーヌ公は、ラ・トゥールの作品を少なくも2点、買い上げている。ちなみに、この小国は、周囲の大国に対抗しうる軍事力もなく、ひたすら文化的繁栄と各国王家を結ぶ婚姻の糸を外交政策として、大国の間を巧みにくぐり抜けて生きようとしていた。いわば小さな「文化国家」として生きる道を選んでいた。
公国が揺らいだ契機
この国の運命は、ほとんど公国運営の鍵を握るロレーヌ公の君主としてのの器量次第で、大きく揺れ動いた。それでも1620年代まではフランス、神聖ローマ帝国との関係においても、比較的バランスがとれ、安定した時代であった。しかし、アンリⅡ世の死後、1630年代から公国の政治・社会は急速に不安定さを増した。公位の継承者であるアンリの娘ニコルと公位を狙うシャルルⅣ世の争いが複雑な問題となり、大きな混乱をもたらした。
1643年11月、画家ラ・トゥール50歳の時、ルイ13世への忠誠宣言書に率先署名しており、この時点で画家は反フランスの政治的野望にかられたロレーヌ公シャルルⅣ世よりもフランス王ルイ13世への忠誠を明らかにしている。しかし、ロレーヌ公に忠誠を誓い、フランス王に反対したロレーヌ人も多かった。当然、ラ・トゥールの心の内は大きく揺れていたに違いない。シャルルⅣ世は、30年戦争およびネーデルラント継承戦争に神聖ローマ皇帝軍の一員として参戦し、軍務中に死去した。
マウエ家のその後
さて、マウエ家の一族にも、思いがけない運命が待ち受けていた。1599年、ジャック・マウエの貴族取り立ての後、さまざまなことがあったが、省略して結末だけを記す。
ジャック・マウエから数えると3代目に当たるマルク・アントワーヌ(Marc Antoine(1643-1717)は、フランスとの争いに敗れ、ロレーヌ公国から亡命せざるをえなくなったシャルルⅣ世の王子(シャルルV世)に仕えていた。この不幸なプリンスは自らの公位(1675-90)の期間、一度もナンシー宮殿のロレーヌ公の座につくことなく、オーストリアなどで流転・亡命の人生を送った。
貴族の宿命:鬱々とした亡命生活
当時未だ若年であったマルク・アントワーヌは、この薄倖のプリンスと人生を共にする。シャルルV世への同行は、いわばロレーヌ家に忠誠を誓った貴族の家に生まれた者の家族的義務あるいは宿命ともいうべきものだった。自らの故郷を捨て、公位につくこともかなわなかったロレーヌ公に仕え、流浪の地で過ごさざるをえなかったマルクの暗澹、鬱々たる思いは、故郷の父親などに伝えられていた。
ロレーヌ公の亡命は、小国や政治力の弱かった君主たちが危機に瀕した際のひとつの逃げ道(選択)であった。たとえば、フランスなどでもリシリューが政争のために、一時パリから遠ざけられるなどの事態は頻繁に起きていた。
フランスがロレーヌの地を何年支配しても、ロレーヌのプリンスにとって、公国再建の可能性がまったく断たれたわけではなかった。しかし、このシャルルV世にはその機会は訪れなかった。
忠誠への報酬
主君に伴い、海外での亡命の生活を共にしたマルク・アントワーヌのシャルルⅣ世への献身的奉仕はその後、報われることになる。シャルルV世の息子であるレオポルド公は、マウエ家に多くの名誉を与え、とりわけ亡命時代の忠誠に応えた。マルク・アントワーヌはロレーヌ公国の国政最高顧問のひとりに任ぜられた。さらに弟のジャン・バプチストも公宮行政長官に登用された。すべて、マルク・アントワーヌのシャルルV世への忠誠に報いるものであった。マウエ家にとって、この時期はロレーヌ貴族として最も誇り高いものとなった。しかし、その栄光は、マルク・アントワーヌが自らの人生を、公位につくことのなかったロレーヌ公に捧げた大きな犠牲と献身によるものであった(続く)。