時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

津波の顔: 日本人の顔

2012年02月29日 | 特別記事

 

このブログに初めて来られた方は、多分かなり当惑されるだろう。管理人がなにを書こうとしているか、あるいはブログはなにを目指しているのか、多分直ぐには分からないからだ。実は、何度かそうしたご指摘もいただいている。そろそろ店じまいの時とは思っているのだが、記憶細胞になにが残っているか、書き出してみたいという思いも多少ある。

 現状は、壊れかけたPCともいえる頭脳から、残った部分をアトランダムに外付けディスクに取り出しているようなものかもしれない。困ったことは、取り出したいことはかなりあるのだが、出力機能が追いつけなくなったことだ。ブログの枠では収まらないことが多くなった。更新も大分間遠くなっている。

時間は飛ぶように過ぎて行く。キーワードでも記しておかないと、たちまち忘却の霧に埋もれてしまう。

 

記憶が飛ばないうちに、ぜひみていただきたいと思う新しいテーマも多い。日本のことなのに、当の日本ではほとんど知られていない。その中からひとつご紹介したい。

 

時々見ているThe New York Times Magazine に掲載されている「引き潮」 Low Tide と題された記事(エッセイ)と写真である(最下段掲載アドレスから見ていただきたい。Login が必要かもしれない。エッセイの筆者は韓国系アメリカ人の女性である。対象は東北大震災の中で、かろうじて生き残った人たちの写真シリーズだ。筆者によると、こうした災害などに見舞われた時、日本には「仕方がない」、「しょうがない」あるいは「がんばろう」という受け取り方があるという。特に、後者は幸い被災を免れた人たちから送られることが多い言葉だ。確かに、これほどの大災害を経験した人々に向けて、他の表現はなかなか見つからない。しかし、被災者にとってはかなりつらい言葉だ。しかし、筆者が記すように、他にどんな慰めの言葉があるのだろう。

 

写真家のDenis Rouvre は、昨秋、石巻から南相馬を一ヶ月かけて旅し、壊滅した町、仮設住宅を訪れ、生き残った人々と話し合った。その旅で出会った人々の顔、印象的な顔の何枚かが紹介されている。いずれの顔もそれぞれの人生の年輪以上のものが加わっている。いうまでもなく、大震災が言葉にならないものを刻み込んだのだ。いずれも感動的な顔であり、見る人に多くのことを考えさせる。読者のコメントには beautiful 「美しい」という讃辞が並ぶ。確かにそうかもしれない。しかし、その意味は深い。日本人とはいかなる民族なのか。深く刻まれた顔の皺のひとつひとつに、この列島に生きてきた日本人の刻印のようなものを感じる。気安く「がんばれ」などとはとてもいえない。

 

 

“Low Tide”.  By MIN JIN LEE, The NY Times magazine,Published: February 23, 2012

     Photos by Denis Rouvre 

     http://www.nytimes.com/2012/02/26/magazine/japan-tsunami-survivors.html

  

  上記の記事、中段にある小さなスライド写真をご覧ください。

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貴族の処世術(9):ロレーヌ公国の下層貴族(続く)

2012年02月26日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

 

落日のロレーヌ公国

 ロレーヌ公国の終幕の経緯について、備忘録代わりにもう少し記しておきたいことがある。この時代、この小国をめぐる動きは複雑なので、史実の輪郭を掌握しておく必要がある。

17世紀後半になると、口レースは、すでに無力で光彩を欠いた存在になっていた。レオポルド公(1690-1729)の時代に国家財政の負債は累積し、破綻の状態にあった。そのレオポルド公(レオポルドⅠ世)は1729327日に死去。公国の君主の座を継ぐ順位にあったフランソワⅢ世は、公都ナンシーを離れて、ヴィエナに身を置いていた。

フランソワⅢ世はロレーヌへ来ることに気が進まなかったのか、やっと1729年の年末近くになって、公国のリュネヴィル城宮殿へ向かった。そして、翌1730年になってはじめて、公都ナンシー入りをした。その後パリへおもむき、ルイ1 5世に忠誠を誓う。そして、ロレーヌ公国の経済問題の解消を引き受けることになる。

フランソワⅢ世は、この問題への実務的対応のために、あの肖像画の主であるシャルル・イグナス・ド・マウエを、バール・ドゥク Bar-le-Duc(バール公国首都、パリとストラスブルグの中間点)へ改革の執行担当者として送りこんだ。幸い、その努力は実って問題はなんとか解決の目途がついた。



 しかし、フランソワは口レースには執着せず、公国を明け渡すことになる。そして、ハンガリー帝国の総督に任命された後、結局口レーヌに戻ることはなかった。フランソワは、後に神聖ローマ帝国皇帝フランツⅠ世となる。


ロレーヌを余生の地として

フランソワⅢ世が継承しないことになったロレーヌ公国は、ブルボン朝フランスへ統合されるまで、しばしの間、フランス王ルイ15世の義父(王妃マリー・レクザンスカの父)にあたるスタニスワ・レシチニスキに与えられる。スタニスワ・レシチニスキは、ポーランドの王(スエーデンに支えられた傀儡の王)であり、一度退位し、その後王位請求をしたが果たせなかった貴族だった。娘がルイ15世の妃になったことを大変喜んでいたようだ。


 スタニスワ・レシチニスキは、王座や政治家には似合わなかったが、潔白な人物で哲学や科学にも深い関心を抱き、晩年にはリュネヴィルにアカデミー・ド・スタニスラスと名づけた研究所を設け、学術の研究に晩年を過ごした。彼がたどった生涯はきわめて興味深いのだが、他の機会に譲りたい。彼の名は、ナンシーにスタニスラス広場(世界遺産登録)として、残っている。

 

ナンシー、スタニスラス広場(世界遺産)

 ルイ15世は、ハプスブルグ家相続人として、マリア・テレジアとの結婚を認めることの補償として、ロレーヌ公フランソワ3世(神聖ローマ皇帝フランツ1世)から譲渡されたロレーヌ公国を、1代限りの条件付きでスタニスワに与えた。そして、スタニスワが世を去った段階で、ロレーヌ公国はブルホン朝へ移行する手はずが出来上がった。その結果、およそ2世紀にわたり、曲がりなりにも独立の国であり、独自の文化が栄えたロレーヌ公国は、1739年フランスに併合された。


マウエ家の決算
 
他方、ロレーヌ公国の短くも波乱多い歴史の中で、あのマウエ家の家系は、ジャック・マウエの貴族入り以来、ほぼ5世代にわたり、貴族階級としてのステイタスの維持に成功した。フランスへの併合後も、軍隊への協力などでステイタスの維持に成功した。

16世紀末、ジャック・マウエが貴族として得た領地を子孫たちは次第に拡大し、人的つながりにおいても、ロレーヌの政治的中心でもあるナンシーの宮廷世界へ近づいた。他方、婚姻政策で下層貴族の間でのつながりを強めた。

  ロレーヌが最も繁栄していた時、公国の政治権力はロレーヌ公および少数の公爵領の名門貴族層が握っていた。彼らは自分たちの権力や権威がマウエのような新貴族によって侵食されることを望まなかった。この小国では、名門貴族と下層貴族の間の溝は埋められなかった。そのため、下層貴族は彼らの間でその地位の維持を図っていた。

17世紀中頃、ロレーヌの政治が不安定化した頃から、ロレーヌの貴族たちは、上層・下層を問わず、ロレーヌ公とフランス王の間で板挟みとなり、しばしば矛盾する要求を充足させる困難に直面していた。この状況で、とりわけ下層貴族たちは自己防衛的に領地の獲得・拡大に執着し、他の貴族たちと子女の結婚をさせ、苦難の時を乗り越えようとしていた。

ロレーヌにもフランスにも

彼らが最も力を入れたことのひとつは、ロレーヌをめぐる抗争の両当事者側に、家族のメンバーを入れることだった。それによって、いずれの側がロレーヌの為政者の座についても、家系として大きな没落などの破綻を来さないよう安全弁の役割を持たせようとしていた。当時の出生数は1夫婦で10人近いことが多く、こうしたことも可能だった。しかし、死亡率も高く、10人の子供が生まれたと思われるラ・トゥール家の場合も、ほとんどが成人前に死亡し、わずかに残った次男エティエンヌが貴族となっている。しかし、その後は途絶えてしまった。その点、マウエ家の事例をみるかぎり、処世術はかなり功を奏したようだ。

 こうした処世の戦略が実って、18世紀初めの公国再建の期間に、マウエ家はロレーヌ貴族の頂点までに浮上した。レオポルド公は主君亡命中の奉仕など、マウエ家の忠誠を高く評価し、一族に多くの上級の地位や領地を与えた。しかしながら、これらの成功はひとえにロレーヌ公の恩恵によるものだった。しかし、レオポルド公のように主権を強く発揮した君主の場合は、それに従わない人物は逆境の憂き目を見た。

ロレーヌ公国の貴族たち

 ロレーヌ公国の貴族の総体的評価をすることはかなり難しい。とりわけ17世紀は、この小国は大きく揺れ動き、政治的にも無政府状態の混乱の中にあった。信頼しうる統計の類もあまりない。その中で貴族といわれる特権階級は、どのくらいいたのだろうか。このシリーズ記事で主要レフェレンスとしているLipp(2011, Appendix)によると、1360-1739年の期間に、累計で1,402人の貴族が任命されたという。1600年から1739年の公国併合まで、ほぼ10年ごとに区切ってみると、それぞれの10年間に0から数十人の貴族が生まれている。人口統計も定かでない時代だが、17世紀初頭のロレーヌの人口は約30万人、地域は東京都と10倍くらいかとの推定もあり、その社会的存在の重みはある程度類推できる。

興味深いのは、各10年間に0から数名の貴族や子孫から、その時点でも貴族の称号が授与されており、諸権利が継承されているかを確認する請求があったことである。言い換えると、この公国の貴族制度は、特定のロレーヌ公への忠誠とそれに対する君主からの特権付与という形で、個人的忠誠・奉仕ともいえる関係の上に成立していたことがうかがえる。したがって、君主との関係が途切れると、貴族の称号も一代かぎりで途切れてしまうことも多かった。そのため、貴族という称号にまつわるさまざまな封建的特権の継続の確認は、本人のみならず次の世代への継承という点でも大問題だった。

 現代社会で大きな問題となっている年金についても、当時はロレーヌ公などの君主が、貴族の忠誠や奉仕への報奨として与えるのが通常であった。一種の恩給であった。ジャック・ステラやジョルジュ・ド・ラ・トゥールが年金を授与されていたか否かの確認も、この点にかかわっている。ロレーヌ公国という小国における君主と貴族のあり方は、その他の点においてもさまざまな興味深い問題を提示している(続く)。

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貴族の処世術(8):ロレーヌ公国の下層貴族

2012年02月19日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

 



現在のナンシー、スタニスラス広場夜景

 

 

 

 なぜ、17世紀のヨーロッパの小国の、それも下級貴族の話などを延々と書いているのかと思われよう。だが、ここで記していることは、実はきわめてわずかな部分である。実は書き出したらきりがない話になってしまう。ロレーヌ公国という小さな世界に生きた画家、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの世界の一部を追体験・推理してみたいと思う管理人のメモ書きにすぎない。だが、少しでも細部にこだわると、深入りして出てこられなくなってしまう。細部に入るほどに面白くなるのだが、ブログでは到底持ちこたえられない。

 

これまで、シリーズで記してきたことは、この地域がロレーヌ公国(公爵領)という形を取り始めて100年余が経過した頃(1599年)、公国の下級貴族という地位にたどりついたマウエ家というひとつの家系が、その後公国がたどった盛衰の中で、いかに生き延びたかという処世術の筋書きのようなものである。それも、きわめて圧縮している。

その後、ロレーヌ公は、ニコラ・フランソワ(シャルルⅣ世の弟)、シャルルV世、レオポルドⅠ世、フランソワⅢ世と代替わりするが、いずれも亡命その他でほとんど公国の首都ナンシーの公座には就くことなく、時が経過し、ついに、ロレーヌ公国終焉の年、1737年がやってくる。

ポーランド継承戦争とロレーヌ公国の終焉

   この間、1733年、フランスと神聖ローマの間に、ポーランド継承戦争が勃発した。ロレーヌの独立性を保持したいと思う口レーヌ人は多かったが、ブルボン朝ルイ1 5世の強大な権力と軍事力のために実現しなかった。

 

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皇帝の衣

2012年02月15日 | 午後のティールーム



『孔雀翎地真珠珊瑚雲龍文刺繍袍』(清時代、乾隆年間)部分


 
見残していた『特別展北京故宮博物院200選』のために、東京国立博物館へ出かける。見残していたというのは、前回あまりにも混んでいて見たい作品がよく見られなかったということにすぎない。このところ、こうしたことが時々ある。全部の展示を同じ密度ではとても見られなくなった。体力の限界もある。今回の特別展の呼び物のひとつ、『清明上河図巻』の展示は124日で終了した。展示中はあまりの混雑ぶりに、鑑賞するというよりは人々の背中越しに覗いたといった方が適当であった。

 

今回の目的は、「書」の部分をよく見たいということにあった。書の展示は、最近は主要部分をディスプレイで拡大する工夫がなされていたりするが、それでもやはり実物を見たい。そうなると、最前列に並んで、ケースの中を覗き込まねばならない。空いている時は自分の興味ある部分に陣取って、ゆっくりみられるのだが、混んでいる場合はかなり苦痛である。

友人が学芸員をしていた博物館などでは、空いている時間を教えてくれた場合もあったが、今はIT上で混雑の程度を知らせてくれる博物館も出てきた。最大の呼び物、『清明上河図巻』の展示が終了しているので、館外で並ぶなどのこともなかったが、入口付近はかなり混雑していた。今回の展示は、会場間を逆行もできることを知らせていたので、多少は混雑が緩和されていたようだ。

北京、台北の国立故宮博物院も何度か出かけたが、いつもゆっくりと鑑賞できて満足感も大きかった。観客が多いといっても、日本とは比較にならない。今回も見たい展示だけを適宜見ようと思って出かけたのだが、半日通して見終わってみると、人混みで疲労困憊の状況だった。日本の展覧会はどうしてこんなに混んでいるのだろう。展示に関心があるいうよりは、マスコミなどに動員されて来ている人もいるようだ。実際、最初の段階から見る意欲がないのか、椅子に座り込んでいる方もかなり見かける。

北京と台北の両故宮博物院の優劣に関する論評は、よく知られているが、北京の故宮博物院もさすがに素晴らしい文物を所蔵している。たとえば、黄庭堅『草書諸上座帖巻』(北宋時代)。主文の部分は縦横無隅に得意の狂草で、あたかも模様のように書きめぐり、その後に行楷書で自跋を記した才の豊かさには目を見張る。あるいは、趙孟頫『楷書帝師胆巴碑巻』(元の時代)の、印刷活字のごとき文字が行間も見事に整然と書かれた作品には、書家の集中力の高さにひたすら感嘆してしまう。

 

今回、少し息抜きに興味を持って見たもののひとつに、『孔雀翎地真珠珊瑚雲龍文刺繍袍』(清時代、乾隆年間)があった。この袍(上衣)は、清朝の皇帝がお祝い事などの行事の際に着用した吉服で、正面を向いた五爪の龍(正龍)が胸の部分に大きく刺繍され、「龍袍(ろんぱお)」とも呼ばれている。袍につけられた名称が示すように、孔雀の羽を身にまとう皇帝として、最高権力の象徴でもあったようだ。よく見ると、九尾の龍が定まった場所に刺繍されている。現代的には怪奇な印象も受けるデザインだが、当時の次元に立ち戻るならば、重厚で精緻きわまりない文物である

  折しも、中国の習近平国家副主席が訪米中である。あえていえば、現代中華帝国の次期皇帝の訪米である。ある中国人の友人が、中国人は誰でも(時の運に恵まれれば)皇帝になれると思っているという話をしてくれた。いわば「チャイニーズ・ドリーム」である。これは「アメリカン・ドリーム」にきわめて近いものだ。だから、中国人は内心、できればアメリカ人になりたいと思っているのだという。確かに中国の有名大学の卒業生が最も留学したい国は、だんとつでアメリカだ。

 IT時代の今と比較すれば、昔の皇帝は自分の考えを、人々に伝える手段に乏しかった。そのために、皇帝は故宮のような壮大な建築物や華麗な衣装を手段にして、自らの威厳や夢を伝達したのだ。こうしてみると
、この一枚の衣を見ていても、時代の力のようなものが伝わってくる。

 

 
詳細は、同上博物館展示ブログ 「研究員おすすめの見どころ」by 小山弓弦葉(工芸室) at 20120206日、ご参照ください。

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貴族の処世術(7):ロレーヌ公国の下層貴族(続く)

2012年02月13日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

 


Elegance in the provinces: two nobles of Lorraine, ca. 1620
Jacques Callot,The Nobility of Lorraine, National Gallery of Art,
Washington, the Rudolf L. Baumfeld Collection, no. B-27,903 (lady above) and
B-27,904(gentleman below)

 
  少なくも17世紀の美術史では、ほとんど触れられていない側面に興味を抱かれるのでないかぎり、このブログを訪れてくださる皆さんの多くは、時代離れしたテーマに辟易されるだろう(それでも幸い、関心を持って読んでくださる方もかなり増えたことには感謝したい)。 

他方、ブログ管理人にとっては、17世紀と現代の間に存在する距離や断絶は、それほど大きなものに感じられない。偶然、このふたつの時代は、「危機の時代」となった。すでに前者はそうした評価を受けてきた。21世紀の現代もほぼ間違いなく、「危機の時代」である。その時代の現実に少しでも入り込むことなしに、作品を理解することはできないとまで思うようになった。

 

さらに、思考の次元を広げてしまえば、今や衰退の色濃いアメリカ、他方多くの問題を内包しながらも拡大発展を続ける中国との間に挟まれている日本の将来は、ある時期から自らの行方を見失ったロレーヌの小国のような感じがしないでもない。いったいこの国はどこへ向かうつもりなのか。あの鳴り物入りで喧伝された国家戦略なるものを耳にすることは、ほとんどなくなった。今はただ、この国がアフガニスタンやイラクとは違い、島国であることにわずかな「救い」?を感じている。

 

閑話休題

 

 
Jacques Callot. The Nobility of Lorraine, ca.1620.


前回に続き、再びしばらく時代を遡る。ロレーヌ公国における下層貴族の生き方を見たい。一枚の肖像画の背後に秘められた、ある家系の歴史がおもいがけず多くのことを語っている。

 

作品が秘める歴史の明暗

17世紀ロレーヌ公国のような小国では、貴族にとってその地位を維持し、子孫のことも考えて生きるためには、なににもまして君主ロレーヌ公への忠誠とそれに対して与えられる庇護の関係をしっかりと維持することにあった。こうしたつながりは、しばしば農民など領民の次元にまで連なるものだった。

 

ロレーヌ公国では、貴族として生きる道は、公国の行政などの領域における奉仕(サービス)で貴族の地位を保とうとするか、祖先の功績を継承し、現在の地位を汚さぬように努力するかのいずれかであった。その他は、軍備の任に当たるか、あるいは聖職者として貴族になっていた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールのような出自の者が、貴族になるということはきわめて例外的なことであった。ジョルジュがいかなる理由で貴族に取り立てられたかは、記録もなく本当のところ分からない。確かにジョルジュは、リュネヴィルの貴族の娘ディアンヌ・ル・ネールと結婚したが、それで貴族になったわけではないと思われる。

 リュネヴィル移住時、画家は20歳代後半、ロレーヌですでに腕の立つ画家となっていた。その秀でた才能と業績が最大の要因だろう。加えて、ロレーヌ公アンリ世との関係が良好であったことが、公をして貴族の肩書きを授与せしめたと思われる。現に、ロレーヌ公は、ラ・トゥールの作品を少なくも2点、買い上げている。ちなみに、この小国は、周囲の大国に対抗しうる軍事力もなく、ひたすら文化的繁栄と各国王家を結ぶ婚姻の糸を外交政策として、大国の間を巧みにくぐり抜けて生きようとしていた。いわば小さな「文化国家」として生きる道を選んでいた。

 

公国が揺らいだ契機

この国の運命は、ほとんど公国運営の鍵を握るロレーヌ公の君主としてのの器量次第で、大きく揺れ動いた。それでも1620年代まではフランス、神聖ローマ帝国との関係においても、比較的バランスがとれ、安定した時代であった。しかし、アンリⅡ世の死後、1630年代から公国の政治・社会は急速に不安定さを増した。公位の継承者であるアンリの娘ニコルと公位を狙うシャルルⅣ世の争いが複雑な問題となり、大きな混乱をもたらした。

 

164311月、画家ラ・トゥール50歳の時、ルイ13世への忠誠宣言書に率先署名しており、この時点で画家は反フランスの政治的野望にかられたロレーヌ公シャルルⅣ世よりもフランス王ルイ13世への忠誠を明らかにしている。しかし、ロレーヌ公に忠誠を誓い、フランス王に反対したロレーヌ人も多かった。当然、ラ・トゥールの心の内は大きく揺れていたに違いない。シャルルⅣ世は、30年戦争およびネーデルラント継承戦争に神聖ローマ皇帝軍の一員として参戦し、軍務中に死去した。

 

マウエ家のその後

 さて、マウエ家の一族にも、思いがけない運命が待ち受けていた。1599年、ジャック・マウエの貴族取り立ての後、さまざまなことがあったが、省略して結末だけを記す。

ジャック・マウエから数えると3代目に当たるマルク・アントワーヌ(Marc Antoine(1643-1717)は、フランスとの争いに敗れ、ロレーヌ公国から亡命せざるをえなくなったシャルルⅣ世の王子(シャルルV世)に仕えていた。この不幸なプリンスは自らの公位(1675-90)の期間、一度もナンシー宮殿のロレーヌ公の座につくことなく、オーストリアなどで流転・亡命の人生を送った。

 

貴族の宿命:鬱々とした亡命生活

当時未だ若年であったマルク・アントワーヌは、この薄倖のプリンスと人生を共にする。シャルルV世への同行は、いわばロレーヌ家に忠誠を誓った貴族の家に生まれた者の家族的義務あるいは宿命ともいうべきものだった。自らの故郷を捨て、公位につくこともかなわなかったロレーヌ公に仕え、流浪の地で過ごさざるをえなかったマルクの暗澹、鬱々たる思いは、故郷の父親などに伝えられていた。

 

ロレーヌ公の亡命は、小国や政治力の弱かった君主たちが危機に瀕した際のひとつの逃げ道(選択)であった。たとえば、フランスなどでもリシリューが政争のために、一時パリから遠ざけられるなどの事態は頻繁に起きていた。

フランスがロレーヌの地を何年支配しても、ロレーヌのプリンスにとって、公国再建の可能性がまったく断たれたわけではなかった。しかし、このシャルルV世にはその機会は訪れなかった。

 

忠誠への報酬

主君に伴い、海外での亡命の生活を共にしたマルク・アントワーヌのシャルルⅣ世への献身的奉仕はその後、報われることになる。シャルルV世の息子であるレオポルド公は、マウエ家に多くの名誉を与え、とりわけ亡命時代の忠誠に応えた。マルク・アントワーヌはロレーヌ公国の国政最高顧問のひとりに任ぜられた。さらに弟のジャン・バプチストも公宮行政長官に登用された。すべて、マルク・アントワーヌのシャルルV世への忠誠に報いるものであった。マウエ家にとって、この時期はロレーヌ貴族として最も誇り高いものとなった。しかし、その栄光は、マルク・アントワーヌが自らの人生を、公位につくことのなかったロレーヌ公に捧げた大きな犠牲と献身によるものであった(続く)

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貴族の処世術:(6)ロレーヌ公国の下層貴族

2012年02月09日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

 

Autographe de Georges de La Tour, Archives départmentales de Moselle. Ces lignes, datés de 1618.
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの署名がある自筆文書(署名の見事さに注目)

 

下層貴族の生き方

 『危機の時代』といわれた17世紀におけるロレーヌの生活は、貴族といえども決して平穏・安泰なものではなかった。比較的平穏な日々が続いたのは、1620年代くらいまでであった。予告もなく、突如襲ってくる外国軍や、悪疫、飢饉などによって、生活は大きく乱され,破壊された。人口の大部分を占めた農民,平民はしばしば生命・財産を脅かされる状況に陥った。彼らは、ただひたすら逃げ惑うばかりであった。

 

 こうした状況にいたれば、貴族や教会などの特権階級もさほど変わることはなく苦難の渦中に投げ込まれる。彼らとしても戦火や悪疫を避けて、どこか遠隔の地に避難するくらいであった。しかし、平穏な時には領地拡大、蓄財に最大限努めた。とりわけ、下層貴族はほぼ共通して、その封建的特権を活用し、生き残りを図っていた。そのための方途は、ひとつには前回記したように、拝領した領地を分割、売買し、遊休地などを貸借して、有効活用を行うことであった。時には穀物、種子の買い上げ、備蓄などの手段もとられた。他方、上層の旧貴族たちは、概して先祖伝来の広大な領地、城砦・塔などを備えた荘園を保有しており、下層貴族ほどあくせくと利殖・蓄財に勉めなくてもすんだ。彼らは森林、鉱山などの自然資源も保有していた。

 

結婚政策:もうひとつの処世術

 領地などの封建的特権を最大限活用する傍ら、下層貴族たちが行ったことは、その地位の維持、次世代への継承だった。たとえば、ジャック・マウエは、この時代に多用された結婚政策に意図的に力を注いだ。自らとほぼ同等の家系と息子や娘たちの婚姻関係を設定し、家系・子孫の繁栄を図る政策だった。この方法は下層貴族のみならず、上層の貴族や公爵などの間でも見られた。たとえば、歴代ロレーヌ公は小国の君主として、婚姻政策には多大な努力を傾注し、ヨーロッパ全域にわたり、そのネットワークを広げていた。

 

たびたび例示しているマウエ家は幸運にも恵まれ、ジャック・マウエと妻の間には少なくも7人の子供、言い換えると4人の息子と3人の娘が生まれた。息子の2人は未婚のまま死亡したか、その後の消息は記録が無く不明である。1人残った息子は領主となった。息子の1人、マルク・マウエは、父親同様ロレーヌ公国の軍隊経歴を選び、最初のフランス軍侵入の際シャルル4世の軍務官をつとめた。ジャック・マウエが貴族となって30年ほど過ぎた時であった。娘たちも社会階層としてほぼ同等の家に嫁いだ。


 しかし、こうした形での世渡りがいつもうまく行くとは限らない。当時は出生率も高く、数人から10人の子女がいる家庭は普通であったが、死亡率も高く、成人として生きながらえる人数も少なかった。マウエ家の場合は、当主のジャックが1599年に貴族になって以来、貴族の地位を一族の間に継承したいという思いに支えられた処世術がうまく機能した例である。

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画家をあきらめ、貴族になったエティエンヌ

ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの場合、ジョルジュが貴族階級に上方移動し、著名な画家としても成功をとげた後に、次男エティエンヌが父親ジョルジュとともに一時期、工房を営んでいたと思われる。しかし、エティエンヌには画家として父親の画業を継承するほどの資質も積極性にも欠けていたようだ。1652年、父親ジョルジュとその妻ディアヌの死後は、ひたすら貴族としての道を目指した。1656年ヴイツクでジャン・マリアン・ロワダを工房で5年間修業させる契約を結んではいるので、この時点までは画業を続けようとの考えもあったのだろう。

 
エティエンヌは1669年にメリルの領地がロレーヌ公によって、メニル・ラ・トゥール封地に昇格され、1670年にはシャルルⅣ世から爵位、城 La tourが描かれた紋章を授かった。エティエンヌの妻アンヌ・カトリーヌ・フリオは、1684年にリュネヴィルで急死したが、同年7月にメッスの貴族階級出身の女性アンヌ・グレー・ド・マルメディと結婚している。そして、1692年エティエンヌ自身も死亡した。その後、ラ・トゥール家の家系がたどった道筋を、マウエ家のようにかなり正確に追求できる史料は発見されていない。画家であり貴族という社会的栄達をとげたジョルジュ・ド・ラ・トゥールの家系は、エティエンヌを最後にほぼ途絶えたとみられる。(続く)。

 

 

 

 

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貴族の処世術(5):ロレーヌ公国の下層貴族

2012年02月06日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

 

 

 

Tassin, Carte de Lorraine, vers 1630

Gravure, 10 x 15. Nancy, inventaire de Lorraine.

 

 

 

画家は二重人格?

画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの生涯を追っていると、画家でもあり、貴族でもあった世俗世界の人格が、現実にはいかなるものであったかに強い興味を惹かれる。とりわけ、貴族となった後の世俗的生活において、ラ・トゥールが獲得した封建的諸特権を大いに発揮し、領地の売買、資産の維持・拡大にかなり奔走していたかに思われる史料の記述、あるいは解釈がそのひとつである。ひとたび手にした特権を固守し、妥協しない、しばしば強欲さも感じさせる記述もある。

 しかし、それがどの程度、この画家本人あるいは当時の貴族のイメージや生活規範と重なっているのか、実像は明らかではない。そのため、この画家については人格の二面性、謎の画家など、多くの形容詞が付されてきた。言葉だけが飛び交い、やや一方的に過ぎる評価と感じさせる部分
もある。他方、この画家が工房で画想や制作にふけっている状況をイメージさせる記述は、ほとんどなにも示されていない。画家としての側面については、現存する作品以外に判断材料がきわめて少ない。

 

この間隙を埋めるために、当時の貴族や領主の実態がいかなるものであったか、より広い視野を確保し、出来る限り同時代人に近づいて考えてみたいと思ってきた。しかし、多少試みるうちに、小さなブログなどではおよそ対応できることではないこともよく分かってきた。しばらくは、次の発想が生まれるまでのキーワード程度を記しているにすぎない。

 

封建領地の重み

近世初期、ロレースでは領地の持つ重みは格段に重要だった。フランスなどでは、領地の重要度はかなり薄れていた。しかしロレーヌの貴族や農民は、封建領地そしてロレーヌ公の存在に強く依存していた。領地はロレーヌ公国が終幕を迎えるまで、領主、農民それぞれにとって、彼らの伝統的生活と権利を基本的に支えた存在だった。

 

ロレーヌ公国の領主は大別すると3種類あった。公国の公爵・領主たち、教会・修道院など、そして貴族である。1500年代半ばまでは、古い騎士層が領主以外の領地の最大の所有者だった。しかし16世紀末までに、ロレーヌ公による貴族勅許数の増加に伴って、土地所有における貴族の比率が高まった。その結果、限られた土地の配分に関わって、領主による領地の分割が行われ、領主権の一部売買なども頻繁に行われた。国や時代によっては、領地にとどまらず、貴族の称号、関連する封建的諸権利までが売買の対象になった。

 この短いトピックスで事例に挙げているジャック・マウエが、1599年、貴族に任じられた後、きわめて目立つことは比較的短時日の間に、近隣領主あるいは後世代の後継者の間で領地の分割・売買を頻繁に行っていることだ。当時は、領主の数の増加に伴い、領主権の村落単位での分割も目立った。これはロレーヌが小さな公国であり、公国内に大きな荘園が生まれなかったこともひとつの理由と考えられる。

 

1600327日、ジャック・マウエは早くも近隣の貴族などへ自らの領地を売却する。しかし、彼は領地所有をあきらめたわけではなかった。1612年1月までアンリ2世に、16256月まではシャルル4世に忠誠を誓っていた。むしろ、領地の有効利用を考えたのだろう。実際、彼の子孫は受け継いだ資産権利の拡大に努め、ロレーヌがフランスに統合されるまで公国内に多大な領地を取得し、なかには貴族の称号を与えられた者もいた。

 

ラ・トゥールの場合

ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが貴族に任じられた正式の理由は明らかではない。確かに妻の一族の出生地であるリュネヴィルへ移住を求めて、ロレーヌ公に提出した特権請願書(1620年)には、当時の貴族に一般的に付与されていた租税免除や社会的特権付与を求めており、妻が貴族であること、自らの絵画の技自体が高貴な仕事であることなどを記してもいる。

 

これに対して、ロレーヌ公はラ・トゥールの請願を認めたようだが、それにかかわる勅許状の詳細、紋章などが授与されたかなどの点は、記録が不明なままである。ほぼ同時代に貴族に任じられたジャック・マウエの記録文書などによると、当時の状況はかなり明らかにされている。封建的特権を認める勅許状、紋章の授与など、いくつかの具体的裏付けがあったようだ。ただ、貴族に認められた特権の詳細は明記しなくとも、それらの内容はほぼ理解されていたようだ。

 

ラ・トゥールの場合は、貴族勅許の詳細などが判然としないが、この画家はリュネヴィルへ移住した後、かなり活発に不動産の売買・賃貸などに着手している。恐らく、当時の事情として、遊休地の活用などを含め、こうした行動、取引などは、苦難な時代を過ごす手段として、かなり一般化していたのだろう。現代をはるかに上回る不安と危機の時代であり、農民のみならず、貴族といえども決して安易に日を過ごせるわけではなかった。画業のみならず、世俗の才知にも富んでいたと思われるラ・トゥールは、恐らくその能力を十二分に発揮したのだろう(続く)。

 

 


Reference
Charles T. Lipp. Noble Strategies in an Early Modern Small State: The Mahuet of Lorraine. Rochester: The University of Rochester Press, 2011. 

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貴族の処世術(4): ロレーヌ公国の下層貴族

2012年02月02日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

 

Henri II(1563-1624), Duke of Lorrain



17世紀ロレーヌの下層貴族の生き方に関する、この一連の記事に接した方は、なぜこんな些細に見えることを記しているのだと思われるでしょう。実はその通りなのですが(笑)。しかし、本ブログの主要なトピックスのひとつであるジョルジュ・ド・ラ・トゥールという希有な画家、あるいは彼らが生きた17世紀、近世初期といわれる時代の社会環境を少し立ち入って理解するには、かなり重要な問題と考えています。さらに踏み込めば、現代以上に人智を超えた「危機の時代」における、人間の生き方の根源に関わる問題を内在しているとも思えます。

  

日本では比較的知られているレンブラントやフェルメールが生きた社会環境とはきわめて異なった状況が、ほぼ同時代である17世紀ヨーロッパの中心部に存在したのです。そして、フランスや神聖ローマ帝国のような大国については比較的よく研究されてきたにもかかわらず、ロレーヌのような小国の実態には未解明な点がかなり残されています。美術作品の画面だけを眺めていても、伝わってこない時代の空気をできるかぎり「同時代人」 contemporains に近づいて知りたいというのが、ブログを支える考えでもあります。

 
「高貴」とはなにを意味するか
  ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが結婚したのは、1617年、画家が24歳の時でした。新婦ディアンヌの生まれたル・ネール家はリュネヴィルの町のかなり富裕な貴族でした。父親ジャン・ル・ネールJean Le Nerf は、ロレーヌ公の財務官でしたが、それほど高い地位の貴族ではなかったようです。しかし、1595年には、リュネヴィルの町に最も貢献した人物の一人として顕彰もされています。娘の配偶者として、普通ならばほぼ同じ社会階層の中で、結婚相手を求めたと考えられます。当時のロレーヌでは高い地位の貴族層と低い地位の貴族層の間での結婚は少なかったとされており、下層の貴族は彼らなりの階層の間で社会関係を構成していました。

この時代のロレーヌ公国の社会環境として、平民の画家と貴族の娘の結婚はかなり好奇な目でみられたことは間違いありません。画家としてすでに実績を高く評価されるまでにいたっていたラ・トゥールでしたが、出自をたどればヴィックのパン屋の次男で、身分が大きく異なる結婚とされていました。

  こうした状況で、「貴さ、貴族性」 noble,
nobility という概念が、当時の社会でいかに形成され、イメージされていたかはきわめて興味深い問題です。貴族とはいかなる条件を備えるべきか。さらに、ラ・トゥールがリュネヴィル移住に際して、ロレーヌ公アンリII世に送った請願書に、画業がそれ自体「高貴」であることを記していることも思い浮かびます。

 

この時代、現実は大変複雑なのですが、社会階級をあえて大別すると、次の3つに分かれていました。第一身分は司教、司祭などの聖職者などから成る階層、第二身分は貴族ですが、宮廷貴族、法服貴族、地方貴族など複雑な区分がありました。この二つは概して、「特権階級」と称されていた階級です。第三身分は大多数を占める平民であり、商工業などを営む市民、農民などでした。これらの身分は、その内部においてもきわめて複雑な内容からなる階層を構成していました。この小さなブログで、こうした階級制度の詳細に立ち入るつもりはないのですが、管理人の興味を惹いたことは、ロレーヌ公国という小国(そして、当時のヨーロッパには多数の小国が存在していた)における下層貴族の出自や生き方でした。言い換えると、彼らの社会的移動の実態を知りたいと思ったのが、ここまで立ち入った背景です。

下層貴族の生きる道

ロレーヌ公国はフランスと神聖ローマ帝国というふたつの巨大勢力の間にあって、双方からの影響を受けていました。社会を構成する階級制度としては、フランス王国(ブルボン朝)に近かったが、ロレーヌ独自の特徴もありました。昔からの旧貴族と新貴族の間にはさまざまな障壁も残っていました。このブログでも紹介した『30年戦争史』研究で知られる Peter H. Wilson によると、封建領地が広大で、諸侯の領邦が多数存在していた神聖ローマ帝国では、異なった階層、領域もあり、社会的上昇を妨げる障壁は比較的低かったようです。他方、フランスには神聖ローマ帝国のような領邦乱立の状況に無かったこともあって、貴族にも地域差は少なかったとされます。さらに、フランスで問題とされた法服貴族と帯剣貴族の差異は、ロレーヌでは少なかったとみられます。ロレーヌの新貴族たちは、彼らの社会的地位にふさわしい形で行動していました。しかし、この小国には複線的な社会的上昇の道は、ほとんどなかったようです。そうした中で、宮廷貴族あるいはその候補たちが抱く処世術は、注目に値いします。

 

これまで記したように、貴族に任じられる際にはロレーヌ公からの勅許状 letter patentが下されるのが例でした。勅許状には貴族としてのさまざまな義務と特権が付帯していました。実は、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールにいかなる条件の下で貴族に任じられたのかについては、確かな記録資料がほとんど存在しません。したがって、ロレーヌ公がラ・トゥールを貴族に任じた理由もジャック・マウエの場合ほど明らかではありません。


貴族は継承されるのか

ジャック・マウエの場合、幸いそうした理由・背景に関するかなり詳細な史料が保存・継承されていた。興味深いことのひとつは、こうした勅許の継続性にありました。貴族の称号に関わる特権は、いつまで継続するのか、必ずしも判然としていません。わずかに残るジョルジュ・ド・ラ・トゥールに関わる史料において、ラ・トゥールはいくつかの身辺の出来事の度に、時には裁判にまで訴え、自らの特権を確認することを行っています。

 この事実は、貴族の免許がそれを付与した君主にかなり固有なものであり、次の君主の代になってもそうした特権・義務がそのままの形で継承されるとは保証されていないことにあります。さらに激動期には、論拠も不分明になりがちです。それを示す一つの例が、ジャック・マウエの息子のひとりが、父親がシャルルIII世から貴族の勅許状付与を受けた1599年から21年後に、家族の一員が旧貴族の勅許を受けていることを発見し、時のロレーヌ公アンリII世(1608-24)に改めて確認を要請し、1620年に認可されたという事実が記されています。

 

ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの生涯にみられる、貴族や王室付き画家などの肩書きや権利をめぐる一見執拗な要請や確認の行為は、こうした状況の下では当然の行動であったと考えられます。

 

さらに、これらの事実が示すことは、下層貴族たちは貴族層の中で限られた可能性をめぐって地位向上を図り、宮廷での政治力を高めるなどの戦術を展開していたことです。公国の中での領地の取得と拡大、同等の家系の間での結婚によるつながりの強化なども、重要な手段でした。

 

ラ・トゥールはこの結婚で、確かにロレーヌ宮廷の貴族サークルにも近づいたことになり、社会的にも父親より上方の階級移動にも成功します。そして、後年自らも貴族や王室付き画家などの肩書きを積極的に名乗ることになりました。さらに1670年には、息子であるエティエンヌが、ロレーヌ公シャルルIV世から貴族の称号を与えられるまでになります。

 

 ロレーヌ下層貴族の生き方から浮かんでくるのは、「危機の時代」といわれた17世紀を彼らなりに切り抜けようとした生き様のしたたかさです。ひとたび、貴族の地位を確保したからには、それをいかに自らの家族や子孫に継承してゆくかという戦術を彼らは常に考えていたように思われます。しかし、それがいかなる結果をもたらしたか。さらに考えるべきことは多いようです(続く)。

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