時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

フェルメールの帽子(3):帽子が作られるまで

2011年05月26日 | フェルメールの本棚

Hendrick van der Burch. The Card Players, ca. 1660, Detroit Institute of Arts,(Gift of Mr. and Mrs. John S. Newberry).

 

 やはり底が抜けていた原子炉圧力容器! 予想したとおり、福島原発廃炉の「埋葬」墳墓は汚染水の「掘り割」で囲まれることになってしまった。そして、校庭に残される持ってゆき場所のない汚染土の山。

 東京電力、政府そして一部の専門家の話は、当初から楽観的でおかしいと思っていた。発表のつど、内容が深刻になってきた。なぜ、海外メディアの方が詳細で正確なのか。そう思いながら、(オサマ・ビン・ラディンもお好みだったという)
BBCのワールド・ニュースを聞いている時、原発にはまったく関係ない別のニュース*に興味をひかれた。少し憂鬱な話題から離れたい。

 報じられていたのは、カナダのケベック州
のニュースだった。5月9日、ケベック州政府は、これまでほとんど未開発のままに残されてきた同州北部のさまざまな鉱物、森林などの天然資源、エネルギー源の大規模開発に乗り出すことになったと発表した。福島原発の事故の影響も考慮されたのか、発電所はすべて水力などの再生可能エネルギーで発電される。ちなみに、自然資源に恵まれるケベック州でも原発が1か所操業している。

 このケベック州の新プロジェクトの対象となる地域は、16-17世紀にかけて、フランス、イギリスなどの毛皮商人、探検家などが活動した地域でもある。あのフェルメールの『士官と笑う女』あるいは上に掲げた同時代の別のオランダ画家の描いた作品『カードで遊ぶ男女』で、若い男が被っている毛皮の帽子の材料であるビーヴァーが多数捕えられた場所である。しかし、セントローレンス川からハドソン湾にいたる領域は、一部を除いてその後長らく大規模な開発から免れ、美しい自然を残してきた。

深まる北への関心
 
Plan Nord(北方計画)と呼ばれるこのプロジェクトは、ほぼ1200万平方キロメートルにわたる膨大な範囲の鉱物資源、再生可能エネルギーの開発を目指している。ケベック州北部は、これまで手つかずに世界に残された唯一の資源に恵まれた地域といわれる。ニッケル、コバルト、プラチナ、亜鉛、鉄鉱石、希少金属などを豊富に埋蔵している。Plan Nordは、11の鉱山採掘計画と水力発電などを含む再生可能エネルギーのプロジェクトを含んでいる。

 こうしたプロジェクトを実施する上で、プランでは新たな道路、空港、さらに外海へつながる港湾の建設・整備など大規模な工事が予定されている。この「北方計画」の推進によって平均して年間2万人の雇用、140億カナダドルがケベック州にもたらすと期待されている。さらに、計画の実施については、環境保全、現地住民の生活環境保全に最大の配慮がなされると発表された。

 こうした大規模計画の常として、環境保護グループや先住民族からの批判が予想されるが、現在の段階では当該地域の環境保全、厚生改善に貢献することが強調されている。いずれにせよ、計画規模や与えられた条件で異なるところは多いが、東北被災地復興・新生の参考にもなる点が含まれるプランだ。

*“Canada’s Quebec province opens up north for mining.” BBC NEWS, 10 May 2011

 

17世紀、5大湖、セントローレンス川地域の交易の道
 Source: Thimothy Brooks, p.33

 



  話は飛ぶが、この地域、筆者にとっては思い出多い地域でもある。その一端は、ブログに記したこともある。日本人でこの地を知る人は、今でもそれほど多くない。1960年代末から1980年代にかけて、何度か調査・見学などで訪れる機会があった。人影が稀な広大な森林が展開する地域である。遠い昔の宣教師が残した教会や先住民族の家々が散在している。そして、産業化の時代に、こうした自然に対して、巨大な発電所や製錬工場を建設した人間の能力に圧倒された。サガニー川流域のシップショー Shipshaw、ショーウンガン Schawinganなどの巨大水力発電所群であり、日本では見られない壮大な景観に目を見張った。

ヌーベル・フランスの世界
 
ニュースを聞きながら、かつて16世紀からこの地に構想された「ヌーベル・フランス」と呼ばれた壮大なプランを思い起こした。かつて、このケベック州の地は、16世紀前半から18世紀半ばまでフランスの領土となっていた。あの宰相リシリューは、この壮大な構想に大きな期待を寄せていた。

 
「ヌーベル・フランス」(またはニューフランス。仏: Nouvelle-France、英: New France)は、1534年にジャック・カルティエがセントローレンス川を探検した時期から、1763年のパリ条約により、スペインとイギリスにヌーベル・フランスを移譲した時まで、フランスが北アメリカに植民を行った地域である。

 植民活動が頂点にあった1712年(ユトレヒト条約の前)、「ヌーベル・フランス」と称されたこれらの領土は、東はニューファンドランド島から西のロッキー山脈まで、北はハドソン湾から南のメキシコ湾までに拡大した。この領土はカナダ、アカディア、ハドソン湾、ニューファンドランドおよびルイジアナの5植民地に分割され、それぞれに管理政体が置かれた。
 
 
ユトレヒト条約の結果、本土のアカディア、ハドソン湾およびニューファンドランド植民地に対するフランスの領有権が消え、アカディアの後継地としてイル・ロワイヤル(ケープ・ブレトン島)の植民地が設立された

 帽子の材料とされたビーヴァー
 フェルメールが描いた
あの若者がかぶっていた帽子の材料となったビーヴァーは、ほとんどがこのヌーベル・フランスの領土で捕えられたものだった。その入手のために、当初は先住民族の力が必要だった。毛皮商人と先住民との間で、毛皮と武器などの交換という形の交易がおこなわれた。

  ヨーロッパで争って求められたビーヴァー・ハットと呼ばれた毛皮の帽子は、アメリカ西部開拓者のデーヴィ・クロケットが被っていたアライグマの顔もしっぽも残るような素朴なものではない。イギリス紳士の山高帽が象徴するような高い熟練を持った帽子職人が、丹精込めたエレガントなものである。イギリスを始め、各国の紳士、伊達男たちは争って高価な帽子を求めた。帽子は社会的ステイタスを示す道具のひとつだった。人々は、帽子なしでは公衆の前には出られない時代だった。

 ビーヴァーの毛皮の柔らかな部分をフエルト化し、丁寧にデザイン・整形し、制作された。そのためには洗練されたデザインと高度な加工技術が必要だった。そのため、最初はほとんどがフランスで製造され、ヨーロッパ各国へ輸出された。フランスの帽子職人のほとんどはユグノーと呼ばれたプロテスタントであった。そのため、彼らは1685年の「ナントの勅令」廃止により追放されてしまう。彼らはイギリス、オランダなどへ移住し、仕事をするようになる。かくして、フェルトを作る繊維産業、Hatter と呼ばれる帽子製造はイギリスの大きな産業となる。

 帽子の主たる材料となったビーヴァーが、いかなる形、経路でヨーロッパへもたらされたか。その源をたどることは、それだけで、かなり長い旅路となる。憂鬱なことばかり多いこの頃、興味がおもむくままにゆっくりと歩くことにしよう(続く)。

  

 

 

 

 

 

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鎮魂の旅から(2)

2011年05月16日 | 特別記事

 

 2011年もほとんど半分が過ぎてしまった。今年ほど時の経過が早いと思った年も少ない。これから先半年の間に、何が起こるかそれこそ神のみぞ知ることだが、世界史において、稀に見る激動の年として記録されることはほぼ間違いない。そのひとつはいうまでもなく、3月11日、日本を襲った東日本大震災である。そして、もうひとつは5月2日のオサマ・ビン・ラディンの米軍による殺害である。

 後者については、日本では大震災の報道の中にやや埋もれた感があるが、世界ではすでに、多くのことが語られている。筆者の網膜に深く刻まれてしまったひとつの映像がある。当日、オバマ大統領、クリントン国務長官などホワイトハウスの高官たちが固唾をのんで殺害作戦の実行過程をディスプレイで注視している光景だ。ひとりの人間を殺害する一部始終を、それを指示した当事者が見ているというきわめて異様な映像である。舞台背景の相違などを考慮しなければ、まさに「暗殺者」assasin が、相手を殺害するにいたる過程なのだ。

 ちなみに、assasin とは、『オックスフォード英語辞典』OEDによると、通例、政治家や公職にある重要人物の殺害者に限って用いられる。さらに、語源を遡れば、十字軍時代のアサシン派Assassinを意味し、イスラム教イスマイル派の分派ニザール派の異称であり、北ペルシア(1094ー1256年)を支配し、秘密暗殺団を組織し、貴族、政治家、十字軍などを襲った。戦闘的な狂信的集団であり、要人の殺害に向かう折にはハッシシ(大麻)を飲用するのを習慣としたといわれる。

 オサマ・ビン・ラディンという人物について、ある「死亡記事」Obituaryを読みながら、さまざまなことを考えさせられた。ブログには到底書ききれない思いがある。記事は54歳ですでに現世を去った人物への儀礼もあって、淡々と記されている。その中に次のような一節があった。

 彼の5人の妻のひとりによると、あるところに、向日葵(ヒマワリ)を愛し、蜂蜜入りのヨーグルトを好んだ男がいた。彼は子供たちを浜辺に連れてゆき、星空の下で寝かせた。BBCのワールド・サービス番組を好み、金曜日になると友達と連れだって狩りに出かけた。時には預言者のように白馬に乗っての狩りだった。男はこの対照を好んだ。男が人生で最もよかったと述べたことは、伝えられるところでは、彼の起こしたジハード(聖戦)が、世界を征しているスーパーパワーは不滅だという神話を破壊したことだった。

 記事にはビン・ラディンが述べたこととして、さらに次のごときくだりもあった: 純粋のイスラム教徒とアメリカ人の違いは、アメリカ人は人生を愛するが、イスラムは死を愛する

 この時代を激動させた男の評価は、まだ定まっていない。しかし、一人の人間をめぐる時代の狂気のゆえに、数限りない命が失われ、多くの悲劇が生じた。悲劇は幕を下ろしていない。原子力と宗教という一見遠くかけ離れた存在をめぐって、あまりに多くの狂気が踊っている。そこに理性を取り戻すには、微かにしか聞こえない声に耳を澄ます必要がある。

 Obituary  Osama bin Ladin, The Economist May 7th 2011.

 


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 この旅で、予定外で大きな収穫となったのは、京都で開催されていたふたつの特別展であった。このテーマについては、とてもここには書ききれない。

法然上人八〇〇回忌特別展『法然 生涯と美術』(京都国立博物館)
親鸞聖人七五〇回忌『親鸞展 生涯とゆかりの名宝』(京都市立美術館)













 

 

 

 

 

 

 

 

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遅すぎたオバマ移民制度改革の今後

2011年05月13日 | 移民政策を追って

 

壊れてしまった移民システム 
 
東日本大震災の後、さまざまなことが去来して、ひとつのことに集中できる時間が減ってしまった。意欲はあっても身体がついてこない。 

 ブログからも離れる時が来ていると感じていたが、最初から柱の一本としてきた移民(外国人)問題のフォローだけは定点観測の意味で、簡単でもメモ代わりに記しておきたいと思っていた。皮肉な結果とでもいいようがないが、今回の大震災で日本は移民も来ない国になってしまった。

 

エルパソ演説
 
CBSなどのアメリカのメディアが伝えるところによると、510日オバマ大統領は、ニューメキシコ州エルパソで移民法改革について大統領就任以来、ほとんど初めてその構想を語り、実現には超党派の協力が必要なことを述べた。このブログでも再三記してきたが、あまりにも遅すぎたとの感をぬぐいきれない。福島原発の例を持ち出すまでもなく、大規模な社会システムが壊れた場合、最悪の事態を予想して迅速に対応しないと、波及的に破損が進み、手がつけられなくなる。大統領自ら認める通り、有効な改革に後れをとったアメリカの移民システムは、決定的に壊れてしまっている。

 
President Obama Fixing Immigration Reform New Policy El Paso Texas

 

 

 ブッシュ大統領が、政権末期でなんとか人気挽回をねらって試みた「包括的移民法改革」 は、結局実現できず失敗に終わった。この段階で、オバマ大統領が移民改革を持ち出したのは、来年の大統領選に向けて、移民制度改革をひとつの争点とし、大票田のヒスパニック系などの支持をなんとかつなぎとめたいという考えがあるようだ。

  大統領選の過程では、移民制度改革を大きな政治課題として早急な取り組みを約していたオバマ大統領だが、当選後はほとんどさしたる対応がなされることなく放置されてきた。当然、事態は改善されず放置されている。

腐敗・犯罪増加が目立つメキシコ
 
他方、最大の問題の焦点であるメキシコとの関係についてみると、メキシコ国内の麻薬、銃火器などをめぐる犯罪・腐敗は急速に悪化し、無法状態といわれるまでになった。たとえば、今回大統領演説が行われたエルパソと国境を介在して位置するメキシコ側の都市シウダ・パレスは、腐敗と暴力が蔓延して手がつけられないとまでいわれる。

  エルパソでの演説内容は、ブッシュ政権当時から議論されてきた「包括的移民政策」の内容とほとんど変わることがなかった。演説の柱は、国境管理を厳しく行い、すでに国内にいる不法滞在者は、犯罪歴、英語能力その他を条件に、厳しい査定を経て順次アメリカ市民へ組み入れる、そして優れた能力を持つ移民は積極的に受け入れるという内容だ。演説収録を見てみたが、これまでの流れの繰り返しで新味はなかった。

具体性を欠くオバマ演説
 
コメントした公共ラジオ局フロンテラスのH.ローゼンベルグ氏によると、国境管理の実態、移民法政策としても具体性を欠き、不満足なものだという。国境管理については、適切にコントロールされているのは、およそ3000キロメートルのうち、わずかに120キロ程度にすぎないとまでいわれる。ナポリターノ国土安全保障長官は、移民受け入れは家族受け入れを含めて秩序を維持しており、国境管理も改善していると豪語しているのだが。

 また、ミッシェル・マリスコ氏によると、2005年、1996年不法滞在者の強制送還は増加しているが、国境での逮捕者数は減少している。入国に必要な書類を持たない不法入国者も減少しているようだ。しかし、それが事実としても、こうした変化を生んでいる背後の原因として、不況がもたらしたものか、移民管理システムが機能しているためか、はっきりしないという。国内における不法滞在者数についても、一時1200万人といわれていた数字が1100万人(2010)に減少しているが、ひとつの研究所の推定に過ぎないという。政府側には信頼しうるデータベースはない。ある推定では2000万人ともいわれる。

  中間選挙で上下院ともに大幅に議席を失っている民主党としては、大きな支持基盤となっているヒスパニック系(5050万人、人口の16%)が求める移民制度改革は避けて通れない重要課題だ。

的はヒスパニック票田の確保
 
移民制度改革には共和党の協力をとりつけなければ、実現は期待できない。しかし、民主党を含め、移民の増加について慎重論が強まっており、オバマ大統領が目指す移民改革はきわめて困難と見られる。

 本年5月にホワイトハウスは今後の移民政策に関するひとつの報告書をまとめたが、内容に新味はない。柱となっているのは次の4点である:

1.国境を守る連邦政府の責任

2.法を破り、アメリカ人労働者の雇用基盤を脅かし、入国審査に必要な書類を保持しない労働者を搾取するビジネスを取り締まる

3.アメリカが目指す価値と多様化したニーズにこたえうる、合法的移民を受け入れるシステムを創り、國際競争力を強化する

4.不法にアメリカ国内に居住する人々が合法資格を与えられるまでに果たすべき義務と責任
 
 この報告書のより詳細な評価については、別の機会に待ちたいが、最も対応が困難と考えられるのは、このブログでかなり細部まで立ち入っているように、すでにアメリカに居住する不法滞在者に対する具体的次元での政策対応である。膨大な数の不法在留者をいかなる基準で選別すべきか。その道は遠いが、ブッシュ大統領の再選を占う最重要課題のひとつだ。

  

Building a 21st Century Immigration System, May 2011.

 

 

 

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鎮魂の旅から(1)

2011年05月07日 | 特別記事



 このところ、多くの知人、友人との別れがあった。その中には、大震災の最中、突然病を得てなくなられたS先生もおられた。かねて「見るべきものは見つ」といわれていただけに、3.11大震災の一端を体験された直後に亡くなられたことは、お望みの通りの人生であったと思いたい。あの地震と津波がもたらしたすさまじい光景は、多くの人にとっても、一時は末世ここにきわまったように見えたのではないか。不安と騒然とした空気が漂うなか、メディアの注目も逃れ、別れは唐突ではあったが、名実共に激動の年月を過ごされた方の人生を閉じるにふさわしく、厳粛なものであった。

 日本では余震が続く時、オサマ・ビン・ラビンの米軍による殺害が発表された。9.11のワールド・トレード・センターで最愛の息子を失った友人にも、ひとつの区切りがついたようだ。アメリカのメディアの一部には、同胞の敵討ちを果たしたような報道もみられる。しかし、すでにアルカイダの報復宣言もなされている。新たな不安の始まりにすぎない。この時代の狂気に終止符を打つことはきわめて難しい。
 
 いくつかの仕事が重なり、小さな旅をする。節電で暗い東日本を離れて西へ向かうと、なにごともなかったような明るい日本がそこにあった。しかし、落ち着いてみれば、そこここに込められた被災地への思いに慰められる。阪神・姫路大震災を経験した西は、今度は東を支援することになった。かつて、信じられないほどの苦難の日々を過ごした西の人々の経験は、さまざまな形で支援の活動に生かされている。

 短い旅を決めさせたのは鎮魂の思いだった。故人がこよなく愛した古寺がある地を訪れることだった。名残の桜も美しく、やわらかな初夏の光が竹林の間から射し込んでいた。

































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