時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ついに断念:アメリカ移民法改革

2007年06月30日 | 移民政策を追って

 

  ブッシュ大統領が残る任期中、なんとか実現したいと期待していた包括的移民制度改革は、ついに成立の見通しがなくなった。ABC Newsなどが一斉に伝えている。この問題の帰趨は、これまでこのブログでもグローバル化の「定点観測」の対象のひとつとしてきた。

  6月26日、アメリカ上院本会議はアメリカとメキシコの国境の警備強化と不法移民の就労合法化などを含む包括的移民制度改革法案の採決を今月初めに続き、再び断念した。今回もブッシュ大統領の予想以上に、民主、共和両党ともに反対にまわった議員が多く、大統領の最後の望みも断たれた形となった。

  提出が断念された法案の骨格は、不法移民の流入を抑えるためにアメリカ・メキシコ国境の管理を強化する一方、すでにアメリカ国内にいる1200万人と推定される不法移民について条件付きの合法就労や永住権取得への道を開くなどの内容である。農業、建設分野などへの一時的移民労働者の受け入れについては、すでに年間20万人の枠で抑えることになっている。

  今年に入ってから共和党、民主両党の右派と左派議員による超党派の法案が提出されてきたが、結局実らなかった。移民政策は党派の違いを超えて、議員間の考えの差異も大きく、右派と左派の両端を抑えてもまとめきれなかった。

  今回、土壇場で法案提出を断念した背後には、民主党のみならず与党の共和党員の間でも、すでにアメリカにいる不法滞在者の合法化の道を開くことは恩赦であるとの反対も強く、大統領も最後まで説得にまわったが失敗に終わった。これで、この問題は次期政権が誕生する2009年1月以降まで、先送りとされることがほぼ決定し、残る任期運営で大きな政策の柱として期待していたブッシュ大統領は厳しい打撃を受けることになった。

  今回の挫折にいたるまでの経緯を見ていて感じることは、すでにアメリカ国内にいる不法滞在者の合法化の道がきわめて厳しいことである。アメリカの移民法の歴史で、恩赦(amnesty)の措置がとられたのは、1986年の移民改革規制法 The Immigration Reform and Control Act of 1986 であった。今回の改革案では、合法化への過程は当時よりはるかに厳しくなっているが、それでも恩赦に等しいとして反対する議員が多い。
これには、9.11以降、アメリカ国民の移民に対する保守化ともいうべき変化も感じられる。

  アメリカ国内で急速に増加する合法・不法のヒスパニック系住民への対応も年々困難さを加えており、来るべき大統領選挙選での政策上の難問となることは間違いない。
新政権の政策提示いかんでは、一層の不法移民の流入なども予想され、対応は一段と難しさを増すだろう。しばらく実態面での変化に着目して、ウオッチングを続けたい。

 

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工房の風景:キンベルの至宝(3)

2007年06月27日 | 絵のある部屋


Jean Siméon Chardin (French, 1699-1779)
Young Student Drawing c. 1738
 
Oil on panel
8-1/4 x 6-3/4 in. (21.0 x 17.1 cm)
Acquired in 1982
Kimbel Art Museum

  17世紀当時の画家の工房(アトリエ)の状況には、徒弟制度を通しての熟練養成という点からも関心を持っていた。このブログでも少しばかり取り上げたこともある。工房の情景が描かれた絵画作品はよく調べたわけではないが、かなりの数があるように思われる。ここで紹介するひとつの例は、工房かアカデミーでの画学生の制作風景を描いた作品であり、例のキンベル美術館が所蔵する名品のひとつである。

  これまで主としてスコープを充てていた17世紀から少し時代は下り、18世紀初めにフランスの静物画、風俗画の名手シャルダンが描いた「制作する画学生」と題する作品である。画面中央に座りこんだ画学生は後ろ姿であり、容貌は分からない。描かれる唯一の人物が最初から、背中を見せているという大変ユニークで、しかも深く考えられた構図である。後ろ姿とはいえ、彼が一心不乱に制作に没頭している有様は見る人に直接伝わってくる。きっと暖房もなく寒い工房の片隅なのだろう。毛皮の襟のついたコートを着込み、床に座り込んで制作に没頭している。彼が描いているのは、どうも人物らしい。

  壁にはキャンバスがこれも裏を見せた形で立てかけられている。また、模写用の手本だろうか、人物のデッサンがピンで止められている。足下には制作に使うナイフが置かれている。

  シャルダンは早くから画才が認められ、画家のギルドである聖ルカ・アカデミーの会員として受け入れられた。そして、1728年には王立絵画アカデミーの会員に選ばれる。後年にはアカデミーの収入役などの重要ポストにも就いた。当初は「動物と果物」の画家として知られたが、後にジャンルの分野へも対象を広げた。ほとんどパリに住んでいたらしい。大変洗練された画風であり、きっとパトロンも多かったのだろう。いずれの作品も、見る人の心がなごむような落ち着いた雰囲気を醸し出している。しかし、世の移り変わりも激しく、この画家の晩年は恵まれず次第に忘れ去られ、その作品が「再発見」されたのは19世紀中頃になってからであった。

 シャルダンは熟達した画家の例にもれず、直接にカンヴァスへ向かって制作した。この若い画学生がまさに行っている作業だ。こうした光景は、きっと当時の工房などで日常見られたのだろう。あるいは若き日の画家のイメージなのかもしれない。

 作品の色調は大変落ち着いている。その中で、画学生の靴下の青さとポートフォリオの間からみえる画材の青色、着衣の裏地の赤と背中の破れた穴から見える赤色、防寒用の帽子と襟の毛皮の黒色などが、さりげなくアクセントとなり効果をあげている。

  作品は大変小さいのだが、居間に置いていつも見てみたいと思わせるような、落ち着いた感じの良い一枚である。想像される通り、こうしたジャンルは大変人気があり、とりわけヨーロッパの王侯、上流階層が好んで求めた。同一のテーマで画家はかなり多数の作品を残したとみられる。有名な「カードの家」などの構図も複数のヴァリエーションがある。作家・思想家として「百科全書」編纂に当たったディドロ Denis Diderot が「偉大な魔術師」と絶賛した才能を持っていた。フェルメールの画風との近似点も感じさせるものがある。

  シャルダンの作品の独特な色合いは、画家自身がかなり工夫して職業秘密にしていたらしく、後年の分析で画材の顔料にチョークを混入させ、立体感を持たせるなどの工夫がなされていることが分かっている。

  X線分析の結果、この作品の下地には座っている女性が別の構図として描かれていることが分かっている。シャルダンは、この「制作する若い画学生」と対 pendantになる作品 として、女性をモデルとしての構図でも描いたようだ。実物をみたことはないが、ストックホルムの国立美術館が所蔵する「刺繍する女」は、そうした構想に近い作品といわれている。しかし、明確に関連性が確認されたわけではない。いずれにしても、この作品はシャルダンが画学生として過ごした日々を思い浮かべつつ制作したのではないかと思われ、小品ながら大変味わい深い作品である。
 

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古書が輝く時:パリゼの業績

2007年06月24日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

  また、いつもの状態になってしまった。少し油断していると、書籍や雑誌、書類などがアメーバのように増殖して机の上の空間を消し、手足の置き場もなくなってくる。必要な書類や手紙がどこかへ隠れてしまい、書類の山を探しまわる。ITの普及で、ペーパーレス時代が到来するといわれたことがあったが、世の中の印刷物が減る傾向は感じられない。これまで何度となく繰り返してきた書類の山との戦いが依然続いている。陋屋に住む身としてあまり有効な手はない。いつものように局地戦を試み、多少の失地挽回を試みる。古書店が引き取らなくなったジャーナルや書籍を廃棄処分とする。もったいないと思うが、他に手段がない。

  自分の守備範囲としてきた分野の書籍などが増えるのはいたしかたないとしても、いつの間にか存在感の増したのは、画集をはじめとする美術書、CD、DVD、大型の辞書、百科事典などである。それもさほど新しいものではない。画集は書棚の大きなスペースを占有している。70年代に刊行された世界美術全集など、当時はその美しさに純粋に感動したが、改めて見るとなんとなく迫力が低下している。見る側の視力も感受性も劣化しているのだが、最近の画集やカタログなどの鮮明な美しさと比較すると、やはり違いは認めざるをえない。しかし、古い出版ほど色調も柔らかく眼に優しいところもある。結局、処分するのはしのびがたく、今回も生き延びて領地を確保している。

  他方、印刷は古色蒼然としたモノクロであり、カラーではないのに、時間がいかに経過しようとも燦然と輝く書籍がある。その典型的な例は、ラ・トゥール研究の「聖書」ともいわれるフランソワ・ジョルジュ・パリゼ(当時ボルドー大学教授)の著書である。1948年、今から60年ほど前の出版である。

  大判の著書で、ページ数437ページ、注だけでも94ページに及ぶ。ラ・トゥール研究史における記念碑的業績だが、現在でもまったく新鮮さを失わない。この画家と作品に関する重要史料、評価などのほとんどが提示されている。その探求の次元の広さと深さは群を抜いている。もちろん、作品の帰属、考証など、その後の研究で修正されている部分もあるが、総体としてみるかぎり、今日でもこの大きな視野を持った力作を凌駕するものはない。近年は、テュイリエ、コニスビー、ショネなど、かなり大部な著作もあるが、パリゼの著作が生まれた時代は、今のようにパソコンもなかった。恐らく手書きとタイプライターだけの成果であろう。索引がないなどの後世の指摘もあるが、問題ではない。パリゼのなしとげた壮大な業績にはただただ敬服する。  

  この書籍、ラ・トゥールに関心を抱いた頃、すでに古書の仲間入りをしており、かなり入手が難しかった。当時もあまり知られていない名前の画家についての碩学の著した専門書であり、出版部数も少なかったのだろう。最初、出版されたフランスで探してみたが、古書市場に出てきたものは、かなり良く読まれたためか、書き込みや装幀の破損など、ひどい状態のものが多く購入をためらっていた。

  その後、イギリスの古書店で偶然、まずまず満足のできる状態の1冊を探し当てることができた。個人の蔵書家もなかなか手放さないのだろう。ある図書館の放出品である。幸い、イギリスではラ・トゥールへの関心はさほど高くないので、貸し出しもあまり多くなかったとみられる。図書館蔵書にありがちな書き込みなどもまったくない。年数相応のページの黄ばみなどはあっても、不用廃却処分(discard)のスタンプが押されているだけである。装幀も布テープで補強がされ、しっかりしていた。表紙カバー(ジャケット)がないのはあきらめねばならない。あのレンヌの「生誕」が印刷されていたらしい。

  山積した書類を片づけながら、また見入ってしまった。何度見ても圧倒的な迫力である。かくして、ラ・トゥール研究史上の金字塔は、きらびやかな新刊書の間に入っても、時代を超えて色あせず燦然と輝いている。


Preface

Première Partie     La ie
Deuxiè
me Partie     La formation
Troisième Partie     Les œuvres
Conclusion

*
Francois-Georges Pariset. Georges de La Tour. Paris: Henri Laurens, Editeur, 1948, 437pp.  

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苛酷な時代を生きた人々:17世紀農民の小説

2007年06月20日 | 書棚の片隅から

 30年戦争という名の戦争は、1618年に始まり1648年まで、地理的には現在のドイツに相当する中欧を主たる戦場として展開した。しかし、そればかりでなくアルザス・ロレーヌなど、ドイツ・フランスの国境地帯などへも拡大し、これらの地域も激しい戦場となった。このブログでもしばしば取り上げているカロやラ・トゥールの生涯も、この戦争で大きく揺り動かされた。 17世紀のヨーロッパの方向を定めた重要な意味を持つ政治的・宗教的戦争である。 

 宗教改革を背景とするカトリックとプロテスタントという新旧両派の軍事的衝突でもあり、ヨーロッパの宗教界は大激震を受けた。この戦争で、ドイツを中心とする地域は外国軍の度重なる侵略によって、荒廃、衰亡し、その後の回復に大きな遅れをとった。戦死者だけでも少なくも1000万人を下らないといわれる。

  さらに、この戦争の大きな特徴として多くの傭兵がスエーデン、スペイン、フランス、オランダ、ドイツの皇帝領などの軍隊に参加した。彼らは軍隊としての訓練をほとんど受けておらず、ならず者の集団のようなもの多く、侵攻した町や村々で略奪、殺傷、暴行など暴虐のかぎりを尽くした。ヨーロッパが広範囲にわたり戦場となったことで、ペストなどの悪疫も軍隊によって運び込まれ、蔓延し、飢饉も広がった。  

  しかし、この戦争の実態がいかなるものであったかという点は、思いのほか解明されていないようだ。シラーの「30年戦争」もブログに記したように、この重要な戦争のほんの一部分しか語っていない。

    実際の戦争の有様、そしてなによりも度重なる戦争の舞台となった地域の人々がいかなる対応と生活をしていたのか。単に皇帝軍と新教軍との狭間で軍隊に蹂躙されるだけだったのだろうか。ラ・トゥールなどの場合は、戦火を避けて安全な地へ逃れる選択もできたようである。しかし、土地に縛られた農民や一般市民などはどうしていたのだろうか。17世紀ロレーヌの歴史書などを見ている間にいくつかの疑問が湧いてきた。  

  疑問に駆られるままに文献を見ていると、いくつかの興味ある作品に出会った。そのひとつを紹介してみよう。

Hermann Löns. The Warwolf: A Peasant Chronicle of the Thirty Year War, Translated by Kvinnesland. Yardley:Westholme, 2006.
  
 
  実は、今回手にしたこの版は、ドイツ語からの翻訳版であり、ドイツ語の原著は Der Wehrwolf, Eine Bauernchronik のタイトルで1910年に刊行されている。この書名、なんとなく記憶に残っていた。若い頃ドイツ語を教えていただいた恩師が、17世紀の大詩人・小説家グリンメルスハウゼンJohann Grimmelshausen)『ジンプリチシムス』Simplicissimusの研究を専門にされており、関連して30年戦争を含むこの時代の話をお聞きしたことがあった。その中で本書に言及されたのが、どこか頭の片隅に残っていた。実際に読む機会があるとは思わず、すっかり忘れていたが、思いがけないことで記憶がよみがえり、手にすることになった。  

  表題からすると、一見30年戦争の間におけるドイツの一農民の日記か記録のような印象である。ところが、実際に手にとってみて、その推測は裏切られた。記録の体裁をとった歴史小説だった。著者のHerman Lons (1866-1914)は自然描写に秀でた小説家、詩人として知られている。英語版の翻訳に当たったRobert Kvinneslandは、1955年ニューヨーク生まれだが、親たちはノルウエー系ドイツ移民らしい。そしてドイツ文学、歴史の研究者である。経歴その他から見て、この著作を翻訳するにきわめて適切な人物と思われる。  

  この歴史小説は、著者の地道な調査、研究の成果の上に、北ドイツの荒野の自営農民ハーム・ウルフ Harm Wulf の人生を描いている。隣人や自分の家族が略奪目的の軍に殺害されたのを目のあたりにして、自己防衛に立ち上がる。いかんともしがたい冷酷・無残な現実と自らの道徳心との間に挟まれ苦悩しながらも、隣人たちと力を併せて外部からの容赦ない侵略者に対抗する姿が描かれている。

  ウルフ自身は平和な生活を望みながらも、戦争という現実の前に、隣人の農民たちと共に砦を築き、妻子を守り、「殺すか、殺されるか」という現実の中で、強靭に生きていこうとする農民群像が展開する。強い独立心と自衛意識を持ったたくましい農民の姿がそこにある。  

  この時代、多くの農民や市民たちは暴虐無比な軍隊を前に為すすべもなかった。しかし、中には数少ないながらも、こうして強い意志をもって過酷な時代を生き抜いた人たちがいたことも事実であろう。淡々とした叙述ではあるが、いつの間にか読み通していた。ドイツでは原著は今でも一定の読者があり、読み続けられているという。現代も30年戦争の時代ほどではないにせよ、厳しい時代であることに違いはない。読後、なんとなく力を与えられたような一冊である。


Hermann Löns. The Warwolf: A Peasant Chronicle of the Thirty Year War, Translated by Kvinnesland. Yardley:Westholme, 2006.
本書の表紙(上掲)は、ドイツ語初版(1910年)と同じものが採用されている。

 

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ラ・トゥール「占い師」をめぐる論争

2007年06月18日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

    たまたま見たBSハイビジョン「ニューヨークまるごと72時間」(6月16日)なる特別番組の一部で、メトロポリタン美術館の紹介がされていた。同館の17部門それぞれで、学芸員が3点を紹介していた。ヨーロッパ絵画部門では、フェルメールなどの作品が取り上げられていた。  

  フェルメールの作品も多数アメリカへ流出した。国外貸し出しをしないので、アメリカへ行かねば見られないものがある。その典型例が、ニューヨークのフリック・コレクションが所蔵するフェルメールの3枚である。このコレクションは、作品を館外貸し出さないことを方針として堅持している。また、メトロポリタン所蔵の「眠る女」もかつての所有者ベンジャミン・アルトマンが、遺贈に際して館外に貸し出さないことを条件としているので、門外不出である。

  この点、このブログで記したラ・トゥールの場合もきわめて似た状況である。フェルメールの上記作品ほど厳しい条件はないが、海外へはなかなか出展されなくなった。ちなみに、このBSの番組では、ラ・トゥールの作品については「二本の蝋燭のあるマグダラのマリア」が紹介されていた。

  少し残念だったのは、メトロポリタンが所蔵しているラ・トゥールのもう一枚「占い師」
が紹介されなかったことである。この作品、17世紀に制作されてからメトロポリタンへたどり着くまでの経緯が、かなりのいわく付きでなかなか面白いのだ。この画家とのつき合いも長くなり、一枚の作品についても、きわめて多くのことを知ることができるようになった。

  作品「占い師」については、メトロポリタンが取得してから真贋論争を含めて多くの議論の対象となってきた。真贋問題についても研究書が出ているほどだ。メトロポリタンの学芸員ファイルも他にあまり類がないほど大変分厚いものとなったようだ。その点について少し触れると、この作品がアメリカへ流出してから、メトロポリタンは贋作(forgery)をつかまされたのではないかという議論が起きた。

  なにしろそれまで長らくこの画家の「夜の作品」世界に親しんできた人たちには、「占い師」や「いかさま師」の発見は、驚天動地?ともいうべきものであった。いくら画家の署名もあるではないかと言われても、主題からしていかがわしく見えて信じがたい。加えて、この驚くべき作品が、いつの間にかアメリカへ流出してしまったとなると、フランス人としては心中あまり穏やかではないのだろう。大西洋を挟んで、新旧大陸研究者間の論争ともいうべき側面も生まれた。

  作品の真正さについての議論は、1960年に同館がこの作品を取得してまもなく始まった。ひとつの例をあげてみたい。メトロポリタンの購入時の来歴記録(provenance)は、かなり簡単なものであった。論争は、ひとつには描かれた人物の着ている衣装の当該時代との関連性と、その一部に書き込まれていた汚い用語(merde)をめぐって展開した。これは贋策説を主張する人たちには格好の論拠となった。そして、作品の理解や画家の品性にかかわるという議論にまで展開した。しかし、それにもかかわらず、この作品が、ラ・トゥールの手になるものであるという評価は揺るがなかった。

  1981年にメトロポリタン美術館は、作品の赤外線調査、顔料のサンプル分析などの結果を含めて、この作品の真正さについて、説得力のある回答を提示した。要約すると、「画面右上の署名は後から書き込まれたものではなく、完全にオリジナルなものであること、そのほか画面に記されている文字は、AMORとFIDESであり、問題とされたMERDEは左から二人目の女性の衣装の装飾デザインに、後年修復時などに誰かがいたずらに加筆したものであり、衣装の顔料には使われていない荒い粒子の黒色の絵具が使われている」などの論拠が示された。

  さらに、他の部分の顔料分析などによっても、ラ・トゥールの生きた17世紀の作品であり、後世の贋作ではないことも明らかにされた。ある種の顔料(鉛錫黄色)は、1750年以降は使われていない種類のものであることも判明している。「占い師」 はラ・トゥール「再発見」の前から存在したことが分かった。 こうした科学的調査で作品や画家の制作状況などについて、興味ある知見が付け加えられたが、論争が完全に終結したわけではない。メトロポリタンのファイルは、かなり厚みを増している。

  それにもかかわらず、今では「占い師」は、「いかさま師」シリーズと並び、ラ・トゥールの作品ジャンルにおいて確たる位置を占める。こうした作品の新たな発見においては、顔料の化学分析や赤外線調査などが強力な手段として当然のように使われてようになった。ラ・トゥールは今でも絶えず「再発見」されている画家である。

Reference
John M. Brealey and Peter Meyers, "Letter: The Fortune-Teller' by Georeges de La Tour," Burlington Magazine 123 (July 1981)

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アメリカで見るラ・トゥール(2):キンベルの至宝

2007年06月14日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
Attributed to Georges de La Tour (French, 1593-1652)
Saint Sebastian Tended by Irene early 1630s

  

  キンベル美術館の名前は日本ではあまり知られていないが、アメリカでもかつては同様であった。その名がかなり広く知られるようになったのは、実はラ・トゥールのおかげといえる。1996-97年、ワシントンのナショナル・ギャラリー・オブ・アートでの画期的な「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」特別展が、97年にはキンベルへ場所を移して開催されたからである。それまで、このテキサスの小さな美術館がラ・トゥールの名品を保有していることは、一部の人たちにしか知られていなかった。

  気づいてみると、もともと数が少ないラ・トゥールの作品の少なからざるものがアメリカに流出していた。それについては、フランス国内でさまざまな反響があった。いずれその一端も紹介する機会があるかもしれない。今日、40点余りの真作とみなされている作品に限っても、11点はアメリカの美術館が所有あるいは委託管理している。ルーブルでも6点しか保有していないのだ。特別展のような機会を除くと、この画家の作品に親しく接するためには、アメリカの美術館めぐりは欠かせないことになる。ヨーロッパとは異なる静かな環境で、ゆとりを持ってみるラ・トゥールの作品世界はまた素晴らしい。

  
  
「クラブのエースを持ついかさま師」、「女占い師」、「二つの炎のあるマグダラのマリア」、「老人」、「老女」、「鏡の前のマグダラのマリア」(ファビウスのマグダラのマリア)など、フランスにとっては文字通りどうしても保有しておきたかった傑作がアメリカにある。とりわけ、この画家の「昼の世界」を知るためには、アメリカにある作品を見ることが欠かせない。

  
さて、キンベルはラ・トゥールの真作に基づくコピー (Attributed to Gorges de La Tour)と鑑定されている「イレーヌによって介抱される聖セバスティアヌス」も所有している。もしかすると、ロレーヌ公シャルルIV世に贈られた最初のヴァージョンのラ・トゥール自身の手によるコピーの可能性もある。この作品は損傷した部分などもあり鑑定が難しいとされてきたが、ラ・トゥールの特徴でもある創作過程でのpentimento(下書きや構図がかすかに浮いてみえること)や位置取りの跡なども発見されており、その類い稀な美しさと相まって評価の高い作品である。機会があればぜひ見て欲しい、お勧めの一枚であり、キンベルという現代的な美術館にはその環境が準備されている。17世紀から現代へ時空は移り変わっても、この作品の意味する精神性は今日も間違いなく生きている。

                 

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頓挫したアメリカ移民法改革

2007年06月11日 | 移民政策を追って

  一時は楽観的な見方も生まれかけていたアメリカの移民規制改革法案だが、最終段階で座礁してしまった。上院は6月7日、法案採決を断念した。外政・内政ともにレームダック化しているブッシュ政権にとっては、包括的な移民制度改革を挽回の旗印としてきただけに大きな打撃となった。民主・共和両党の有力議員による超党派の妥協案で、今度はなんとかまとまるかと思われていただけに、この挫折で今後の道は一段とけわしくなった。

  上院が採決を断念した原因のひとつは、すでに1200万人に達している不法滞在者の処遇に対する強い反対である。法案は条件付きだが不法移民に永住権取得に道を開く内容であり、これが共和党保守派から「密入国者への恩赦」に等しいと批判された。

  法案は一定の条件下(5000ドルの罰金支払い、犯罪歴の有無など)で不法移民にも合法就労、永住権への道を開く内容となっている。現在の厳しい制約の下では、かなり良く詰められた案になっているが、共和党保守派にはこれでも「恩赦」(特別救済) amnesty と見えるようだ。

  アメリカ移民法改革で、これまでにアムネスティが大きな政治的論点となったのは、1986年の「移民改革規制法」 The Immigration Reform and Control Act of 1986 の時であった。当時アムネスティで合衆国に滞在と労働の権利を与えられた外国人はおよそ225万人と言われたが、同時にその資格要件を充足しえず、不法なままに合衆国に滞在した外国人も270-290万人と推定された。その当時と比較すると、不法滞在者の数は現在では1200万人といわれ、問題の難しさも格段に増加している。
   
  最大の論争点は、当時も今も不法滞在者が総合的に見て、果たしてアメリカのためになっているか否かという所にある。1980年代以降の移民政策論争で繰り返し議論されてきた問題である。不法滞在者は、彼らが支払う税金以上に、教育f、ヘルスケアなどを多く消費するかもしれない。そのプラス・マイナスは正確には確定できない。多分、連邦政府が得をし、学校教育や緊急医療などを担う州などの地域は持ち出しかもしれない。地域は不法滞在者の子供の教育費用も負担しなければならない。しかし、将来は得をするかもしれない。第一世代の子供は両親よりも所得が多いことが経験的に分かっている。不法移民は、アメリカ生まれの国民にGDPの0.07%程度の負担を課すという試算もある。こうした試算はいくつか行われてきたが、総合した結果はプラス・マイナス双方、いずれも微妙な範囲に留まっており、十分な説得力を持っていない。結局、政治家の判断に委ねられることになる。

  不法滞在者の数は、政策対応が遅れている間に増加し続け、年間数十万人の規模で加算されている。時間が経過するほど対応も難しくなっている。移民国家アメリカの土台はかつてなく揺らいでいる。流れてしまった法案は、現状ではかなり良く考えられた内容であっただけに、事態打開への道は多難である。今後いかなる収拾がなされるか。サミット・欧州歴訪から戻るブッシュ大統領には一段と厳しい試練が待ち構えている。


Reference
CBS News
 June 7, 2007

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アメリカで見るラ・トゥール:キンベルの至宝(1)                

2007年06月06日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
La Tour, Georges de (1593-1652)
The Cheat with the Ace of Clubs late 1620s
 
Oil on canvas
38-1/2 x 61-1/2 in. (97.8 x 156.2 cm)
Kimbell Art Museum (Fort Worth, Texas, USA)

 
    作家の伊集院静氏が、『美の旅人 フランスへ』(小学館、2007年)で、ラ・トゥールについても書いていたことを思い出した。(手元にあるはずの原本が見あたらず正確に記せないので留保付きだが)この画家が生涯に描いた作品がある場所を訪ねることで、新しい発見があるだろうとの内容だったと思う。完全な追体験は無理としても、これまでの「ラ・トゥールを追う旅」で、図らずもかなり似たような試みをしてきた。このブログでは、その一部分を、メモのようにとりとめなく記している。

  この画家の生涯は謎が多い。そのためには、わずかに残された作品を十分に鑑賞することはいうまでもなく、さまざまな関連史料の断片、時代環境などをから画家の生活、作品態度などを構想することが新たな発想への広がりを生む。事実、ラ・トゥールの「発見史」はそうした多くの努力や試みの集積である。

  ラ・トゥールについては、これからも新たな作品や史料の発見も期待される。思いもかけないところに作品が眠っている可能性もないわけではない。その意味でこれからも楽しみな画家である。 

  ラ・トゥールの真作とされる40点くらいの作品は、フランスばかりでなく、ヨーロッパ諸国、アメリカ、日本などの諸国の美術館、王室、個人などによって所有されている。これは愛好者にとってはプラス・マイナスの両面がある。自分の居住地に近い所で作品のいくつかに親しく接することができる。しかし、すべてとはいわないまでも、ほとんどを見ることはかなり大変なことだ。

テキサスにあるラ・トゥールの名品
  注目すべきことは、ラ・トゥールの名作のいくつかは、ヨーロッパを離れて、アメリカにあることだ。そのひとつの拠点、キンベル美術館(テキサス州フォトワース)を訪れたことは、さまざまな意味で衝撃的であった。この美術館は、テキサス州のダラス近郊にある。全体の所蔵点数は決して多くないが、「アメリカでベストな小美術館」を自負するだけあって、あっと驚く名品を世界中から集めている。

  ラ・トゥールについても、傑作中の傑作を2点も所蔵しているのだ。「クラブのエースを持ついかさま師」(真作)と「イレーヌによって介護される聖セバスティアヌス」(真作の最良と思われるコピーの一枚、真作は発見されていない)である。

  実は、この美術館の歴史はきわめて新しく、建設は1969年着工、完成して一般公開されたのは1972年10月だった。第一次石油危機の直前であった。この美術館、建物自体も際立ってユニーク、モダーンである。遠くから見ると、6棟のアーチを描いた屋根が特徴で、一見すると工場か倉庫のように見える建物だが、建築界のいくつかの賞を受けている。近くには安藤忠雄設計のフォトワース現代美術館もある。

  美術館の源になったのは、同地の成功した実業家で美術品の収集家であったケイ・キンベル氏 Kay Kimbell (1887-1964) であった。今から70年くらい前からゲインズバラ、レノルズ、ロムニー、ローレンスなどのイギリスの肖像画、フランスその他ヨーロッパ諸国の絵画を集め始めた。その後、コレクションの財団化などによる充実が進み、新美術館の開設にまでに発展した。

素晴らしい所蔵品
  美術館としては歴史は短いのだが、驚くような素晴らしい作品を所蔵している。古代ギリシャ、ローマの彫刻に始まり、イタリア、フランス、オランダ、イギリスなどの絵画、インド、中国、日本などの美術品、それも名品が目白押しである。日本についても運慶の仏像から尾形乾山の茶碗まである。この作品がどうしてここにと思うような名品に出会い驚く。  

  ラ・トゥールとの関連では、なんといっても「クラブのエースを持ついかさま師」(真作)を所蔵していることである。「昼の作品」の代表作だが、この主題の作品が発見されてから、ラ・トゥールという画家の評価は大きく変わった。

  ルーブルの「ダイヤのエース」とキンベルの「クラブのエース」のいずれが優れているかという点は、かなり鑑賞者の好みがあろう。「クラブのエース」の方は、上部の経年による損傷部分が継ぎ足されていたが、1981年の修復時に取り除かれている
。そのため、召使いの女の帽子の上部が少し切れている。

  この画家は同じ主題で何枚も描き、効果や反応を確かめることで知られている。「イレーヌによって介護される聖セバスティアヌス」の主題のように、確認されているものだけでも10点近いコピーがある作品もある(これら同一主題の作品の比較をめぐる問題はいずれ取り上げてみたい)。  

  「クラブのエースを持ついかさま師」がいかなる経緯で、キンベルの所有するところになったかについては、ミステリーめいている。

  1972年オランジェリーで「ダイヤのエースを持ついかさま師」が展示された時の衝撃は大変なものだった。この作品は著名なコレクターで(テニスの名手でも)あったピエール・ランドリーが所蔵していたものを、ルーブルが購入したものである。この主題の作品はこれ一枚と思われていたが、実は「クラブのエース」のヴァージョンがあったのだ。ルーブルの作品よりも少し前に制作されたらしい#。スイスの個人(Count Isaac Pictet)の所蔵*になっていたらしいが、同氏の死後に息子などが相続し、姪のマリエールMme. A. Marierの手に移り、1981年にキンベルの所有するところになった。しかし、この所有移転の経緯はかなり複雑らしく、さまざまな話を聞いたことがある。

  「クラブのエース」はキンベルにとっても、エース級の所蔵品であり、
大変素晴らしい展示であった1996-97年のワシントン国立美術館のラ・トゥール展カタログの表紙を誇らしげに飾っている。ちなみに裏表紙は、同国立美術館所蔵の名品「鏡の前のマグダラのマリア」、通称「ファビウスのマグダラのマリア」である。

  フランスで刊行されたラ・トゥールの研究書には、アメリカへ流出してしまったこれらの名作について、アンヴィヴァレントな思いが込められた記述が見られるのも面白い。アメリカのカネの力でまたフランスの宝がとられてしまったという嘆きが行間に感じられる。

   なにしろ「昼の世界」のジャンルのもうひとつ「占い師」は、ルーブルが1949年に入手したいと表明したにもかかわらず、結局アメリカに流出(ニューヨーク・メトロポリタン美術館が1960年に購入)してしまった。当時、フランスの文化相アンドレ・マルローが流出の事実について議会で釈明をしたほどであった(アメリカ大好きなサルコジさんだったらどんな反応を見せただろうか)。

  この作品「クラブのエースを持ついかさま師」との関連で、文字通り見逃せない一品がキンベルにある。ラ・トゥールがこの主題での制作に当たって発想のヒントを得たことがほとんど間違いないカラヴァッジョの「カード詐欺師」も所有しているのだ。この作品は1987年にキンベル美術館が入手した。それまで長らく行方が分からなくなっており、さる個人の保有するところになっていた。ある時期はカラヴァッジョのパトロンであったデル・モンテ枢機卿 Cardinal del Monteが所有していたことが、キンベルでの修復中に判明している。


  
    キンベルがカラヴァッジョのこの作品を取得したのは、ラ・トゥールの「クラブのエースを持ついかさま師」(1981年取得)の後の1987年であり、カラヴァッジョ=ラ・トゥールという最強の結びつきができた。「ダイヤのエースを持ついかさま師」を所蔵するルーブルなどが狙っていたことは想像に難くない。バブル期の初期であり、想像を超える高額の取引だったのだろう。ルーブルはさぞかし欲しかったに違いない。キンベルには、その他にも、カラッチ、ルーベンス、ベラスケス、ル・ナン、ロ・レイン、レンブラント、ゲインズバラ、レノルズなどの名品が目白押しである。キンベル美術館はさらに拡大の計画を公表している。見逃せない美術館である。 


Kimbell Art Museum, Fort Worth, Texas 


Michelangelo Merisi da Caravaggio. The Cardsharps, c.1594. Oil on camvas; 94.2 x 130.9 cm, Acquired in 1987. 
すでに1934年にシャルル・ステルランがスイスにあると指摘していた。

# キンベル側は逆の見解であり、興味深い。

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意外に近い17世紀: シラー「30年戦史」を読む

2007年06月03日 | 書棚の片隅から

  17世紀のヨーロッパは、きわめて興味深い時代である。現代から遠く離れているようだが、きわめて近い感じもする。「危機の時代」としても知られるこの世紀は、「戦争の時代」でもあった。ヨーロッパに限っても小さな戦争まで含めると、戦火が途絶えた年はわずか4年にすぎなかった。ペストなどの悪疫の流行、(今日とは逆の)気候の寒冷化など異常気象の世紀でもあった。世紀後半には、スイスの湖やヴェネツィアの潟ラグーナが凍結した。今日の泥沼のイラク、パレスティナ情勢、地球温暖化、エイズや鳥インフルエンザの蔓延などを見ると、「人間の進歩」とはなにかと改めて考えさせられるほどよく似ている。

  そして、最後の宗教戦争ともいわれる30年戦争。手元に積んであるカロの画集などを見ていると、昔世界史の授業などで教わったことはかなり異なったイメージが浮かんできた。

  ちょうど「岩波文庫創刊80周年記念」として、シラー(シルレル)の名著『30年戦史』(第一部・第二部)*が復刊されたので読んでみた。文豪シラーが始めてイエナの大学で講義した時、たちまち学生の人気の的となった。押し寄せる学生の群に、大学街の人々が驚いて「なにごとですか」とたずねると、シラーの「30年戦史」を聴きに行くのだ。」と口々に答えて先を争って急いだという逸話が残っている(同訳書解説)**。当時は聴講者が教授に直接授業料を支払っていたらしいが、この講義は無料の公開講座だったようだ。

  シラーが執筆したのは1790-93年、訳書は1943年の出版だが、さすがに文体も古めかしく読みにくい。しかし、がまんして読み続け、第2部に入ると、かなりこなれてきて読みやすくなった。

  本書は、シラーの詩人と歴史家としての側面を渾然として融合した作品と評価されている。読んでみてやや意外だったのは、30年戦争のバランスのとれた戦史的叙述とはいいがたいことだ。戦場の硝煙を背景にした英雄を、歴史劇の舞台に雄雄しく描き出すことに重点が置かれている。

  訳者解説では本書の真髄は、「戦争の史実的客観的な記述に優れているよりというよりも、むしろ描写の詩的形成に大きな意義」にあり、「シルレルの雄渾な筆に成るところの史的解釈、次にシルレルの意志対義務の問題における道徳性の発芽にある」と記されている。  

  シラーのイメージする英雄像は、スエーデン王グスタフ・アードルフと皇帝軍の将ヴァレンシュタインの対決という形で描かれている。ヴァレンシュタイン(1583-1634)は、皇帝軍司令官として活躍した傭兵隊長で、新教陣営の軍隊を次々に破ったが、野心を疑われて皇帝に暗殺された。ちょうど30年戦争の半分くらいの時点である。シラーの関心は、二人の英雄が登場、活躍する段階に留まっており、ヴァレンシュタインが戦場から去った時点で興味を失ったようだ。その後は失速したようにあっさり書かれている。この意味でも、30年戦争に関するバランスのとれた戦史とはいいがたい。  

  シラーの意図は、英雄の詩劇化にあったのだろう。グスタフ・アードルフは新教を代表する自由のための闘争に殉ずる純潔、高貴な心情の持ち主として描かれ、ヴァレンシュタインは自己の栄達を図るために皇帝を利用し、新教を抑圧する専横、倣岸な将軍として描かれている。しかし、最終段階で皇帝に悪用された薄倖の臣と評価される。新教徒としてのシラーの心情が反映されている。

  結局、この作品はシラーの著作範疇では、『オランダ独立史』と並んで歴史書の範疇に含まれているが、壮大な歴史劇として読まれるべきもので、30年戦争の展開に忠実な史実的、戦史的記述は期待すべきではないのだろう。  

  それにしても、30年戦争の実態は必ずしも十分に研究されていないようだ。しばしば宗教戦争といわれるが、その性格はかなり複雑だった。外国軍が蹂躙、暴虐のかぎりを尽くしたロレーヌでも、シラーの描いた英雄像とは逆に、新教側のスエーデン軍、フランス軍の残酷さは、住民の恐怖の的だった。

  戦争自体も30年の間に、当初の宗教的性格からさまざまな勢力の権力闘争へと変化した。この時代のフランス王ルイ13世にしても、太陽王ルイ14世の影にすっかり隠れて、宰相リシリューの意のままになっている凡庸な王とされているが、近年の史料の再検討などでかなりの見直しが必要なようだ。歴史像の修正は時間がかかるが、いかなるイメージが生まれてくるか、楽しみではある。


* 
シルレル(渡辺格司訳)『30年戦史』第一部・第二部、岩波書店、2007年
原著は、Friedrich von Schiller. Geschichte des dreißigjährigen Krieges (1790)

** シラーのイエナ大学での『歴史学講義』の初日のことか
Was heißt und zu welchem Ende studiert man Universalgeschichte? (Antrittsvorlesung am 26. Mai 1789, 1790)

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