時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

安らぎの時:ラ・トゥールの書棚(5)

2006年08月31日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

ラ・トゥールの書棚(5)
Isabelle Marcadé. Le Nouveau-Né de Georges de La Tour. Paris: Editions Scala, 2004. pp.31.
   

  仕事場の壁にかかった「生誕」のポスターとは、もうかなり長い間、時間を共にしてきた。しかし、掛け替えるつもりはない。キリスト生誕という宗教テーマを扱いながらも、それを感じさせない静かさに満ちた厳粛な空間がそこにある。

    マリアの手に抱かれ安らかに眠っている赤子の顔は、鼻の頭が光っていて、指で一寸突っついてみたいような衝動さえ起こさせる。母親の端正な面立ちとは違って、丸い鼻のなんとも形容しがたいかわいい寝顔である。例のごとく、蝋燭の光だけが映し出している光景である。

  左手の召使いと思われる女性の顔も不思議な表情である。17世紀中頃のロレーヌ人はこういう顔立ちだったのだろうか。マリアともに視線の行方は、幼子イエスでもないどこか空間の一点に向けられている。天啓を得た瞬間のように、二人ともなにか同じことを考えているようでもある。

  光に映し出されたマリアの衣裳の朱色は実に美しい。素材の風合いが伝わってくるような陰影の取り方である。

  この絵を表紙としてこの小著は、前回に続いていわばラ・トゥールの世界への入門書である。「生誕」が主題となっているが、画家の他の作品についても簡単な紹介が付されている。

  この作品も、召使いの頭上ぎりぎりのところで空間が切り取られていて、なんとなく上方が窮屈な印象を受ける。ラ・トゥールの作品にはこうした切断されたような作品がいくつかある。なにか意図があったのだろうか。小著はマリアのこめかみの上を頂点とする三角形の構図を使って、作品の説明をしている。

  ラ・トゥールの作品の中で恐らく最も知られた一枚ではないだろうか。せわしなく、なにかに追われるような現代社会とは遠く離れた空間がそこにある。


Georges de La Tour. Le Nouveau-Né. Musée des Beaux-Arts, Rennes.

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破綻した外国人研修制度(2)

2006年08月25日 | 移民政策を追って

  前回8月19日の記事で、日本の外国人研修制度が破綻していることをとりあげたが、期せずして8月23日、連合の事務局長が法務大臣を訪ね、研修・技能実習制度の廃止を含めた抜本改革に踏み切るよう要請したようだ。
  いかなる要請なのか具体的な内容は新聞記事では分からないが、「劣悪な労働条件や賃金未払いが発生している。(出身国の)送り出し機関の問題もあり、国内対策だけでは対応し切れない」と指摘し、「制度の趣旨と現実の運用が乖離している」として早急に制度見直しを求めたとのこと。不正行為の認定数が急増しているばかりではない。研修・実習生の失踪なども多い。不法滞在者の増加につながてゆく。政労使ともに、今度は正しい方向を選択してほしいと願うのみである。
  これまでの連合の立場もあまり明確とはいえなかった。概して、労働組合は外国人労働者の受け入れには消極的な立場をとっている。しかし、国際化、開放化と言われる時代だけに、歯切れの悪い対応が多く、なにを言っているのか分からないステートメントも多かった。
  経営側はグローバル競争に直面しているだけに、良い悪いは別として、自己主張ははっきりしているが、組合側は政策の確立が遅れがちだ。「連合」に代表される労働組合も時代に対応するモデル・チェンジができていない。組織、政策ともに旧態依然たるところが多い。20年以上も前に、組合も自己改革を図らないかぎり、「氷河期」に入ってしまうと苦言を呈したことがあった。かなり反発した人もいたが、実態はその通りになってしまった。
  日本の労働組合の組織率はその後減少一辺倒で、1年たりとも回復したことがない。2005年の推定組織率は、18.7%にまで下がってしまった。労働協約の一般拘束力もなく、春闘の波及効果もなくなった。組合は労働者を代表しているとはとてもいえる状況ではない。現代労働者の大多数は未組織労働者であるという現実を直視することなくして、未来に光は見えてこない。

Reference
「外国人研修制度抜本改革を要請」『朝日新聞』2006年8月23日

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破綻した外国人研修制度(1)

2006年08月19日 | 移民政策を追って

  意図や方針は必ずしもはっきりしないが、『朝日新聞』が「時時刻刻」シリーズで、労働問題にかなり力をいれている。一面トップで、偽装請負に続き、外国人研修・実習制度が取り上げられている。確かにグローバル化、市場原理の積極導入の過程で、過労死、長すぎる労働時間など、日本の労働環境は急速に劣化している。そして、それを抑止すべき制度の形骸化が著しい。

 とりあげられている問題の多くは、かなり前から深刻化し、改善が求めれられていたにもかかわらず、 部分的な対応の手直しなどで、抜本的な措置が講じられることなく、事態の悪化につながってきた。

  外国人研修・実習制度にしても、1990年代からその形骸化は指摘されてきた。表向きは「単純労働」(当初から意味不明な用語)の受け入れを認めないとしながらも、使用者側の圧力に押されて実質上、不熟練労働者を受け入れる「偽装された」仕組みが、この制度であった。

  制度の導入当初から悪用される可能性は指摘されていた。開発途上国からの研修生を「研修」という響きのよい名称の下で、実際には安い手当てで「働かせる」という実態が広がっていった。外国人労働者問題は多くの関係者の利害が絡み複雑であり、こうした制度も多少の試行錯誤は必要かもしれない。しかし、導入されてまもなく、制度が本来目指す方向へは進んでいないことが明らかになった。外国人労働者の調査をすると、この制度が日本人が働きたがらない分野で外国人労働者を受け入れる「隠れ蓑」であることは、多くの人が知っていた。もっと早い時期に抜本的改革を行うべきであった。

  日本人が働かなくなったきつい分野の仕事を、最低賃金にも達しない低賃金で外国人に押しつけ、働かせている実態がどうして「技能移転」といえようか。彼らの母国の発展に役立つ熟練・技能はなにも身につかない。日本についてのマイナス・イメージだけを持ち帰ることになる。

  「技能移転(」研修)と「就労」という異なった役割を、ひとつの制度に折衷すること自体が元来無理なのである。制度導入当初から破綻は目に見えていた。透明性がない制度は、必ず悪用されるか、機能しなくなる。現状の制度は複雑化の弊害や現実との間隙の大きさなど、機能不全に陥るのが当然という状況にまでなってしまっている。こうした制度は数多い。最低賃金制もそのひとつである。時給300円で外国人研修生が働かされているという実態が、研修制度ばかりか
最低賃金制も破綻していることを端的に示している。

  現在提案されている改善策?の多くは、相変わらずほころびを繕おうとする範囲にとどまっている。一部のグループの権益維持などのために、制度が歪んでしまっている。「國際化」に対応という表現が使われていても単に言葉の上だけであり、真の國際化とはほど遠い。1980年代以降、日本も外国人労働者問題についてかなりの経験を積んだはずである。問題の根源に立ち戻り、透明度の高い政策の再確立を望みたい。


Reference
「外国人実習生低賃金で酷使、雇用側の不正増加」『朝日新聞』2006年8月17日
   

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再び厳しさを増す国境の実態

2006年08月16日 | 移民の情景

  イギリス政府がまさに土壇場で発動した措置で、あの9.11の惨劇は辛うじて回避された。ほっと胸をなで下ろす。イギリスという国がその表向きの顔とは異なり、かなり厳しい管理社会であるということは、しばらく住んでみて気づいてはいたが、その効用が発揮された?といえるだろうか。しかし、未来につながる不安がなくなったわけではない。むしろ、執拗に忍び寄るテロイズムへの脅威は増大した。

厳しくなる国境管理
  この事件によって、少し緩みかけた国境の管理が再び厳しさを増すことは疑いない。アメリカ議会で調整の過程にある移民法改正案には、大きな圧力が加わるだろう。国境管理を厳しくせよという保守派の声は一段と強まるだろう。ABC放送などを聞くともなしに聞いていると、このブログでも継続的に追っているように、移民問題が国論を二分しかねない大きな政治問題となっていることが伝わってくる。
  
  テロリズムが直接の相手とみなしているのは、アメリカとその同盟国だが、被害は無差別に発生する。テロリストがどこに潜んでいるのか、一般市民には分からない。今回のイギリスの出来事も前回の地下鉄事件と同様に、逮捕された容疑者にはイギリスの市民権保有者が含まれているといわれている。国境を越えるに際してのチェックは再び強化された。

  しかし、国境の存在が感じられるのは空港や港湾ばかりではない。アメリカ・メキシコ国境のような場合は、日本人には想像できないような怪奇な状況さえ展開している。テロリストが紛れ込もうとすれば、抜け穴はいたるところにある。ABC やThe Economist July 15th 2006が伝える場合を紹介してみよう。

入りやすい地点を求めて
  メキシコ側からアメリカへの不法入国者が多い地点は、アメリカ側の国境警備の重点の置き所が変化することで、従来のカリフォルニアからアリゾナ、テキサスなどへ移動している。アリゾナ州の国境からメキシコ国内へ96キロほど入った所にアルター Altarという小さな町がある。かつては人気もないような寂れた場所であったが、今やアメリカへ不法入国しようとする人にとって最大の待機場所になった。毎月数千人の不法入国希望者がこの町へ流れ込む。

  通常は文明社会から遠く離れた灼熱の砂漠地帯をひかえた所だが、比較的涼しい季節には一日1000人から3000人が流れ込み、14,000人もの人口にふくれあがる。

横行するトラフィッキング
  予想もしなかった変化のひとつはこうした不法入国希望者を相手とするビジネスの繁盛ぶりであり、とりわけコヨーテの名で知られる人身不法取引ブローカーが横行している。一台のヴァンに25-30人を載せ、国境を越えてアメリカ国内に送り込むだけで、一人15ドルをとる。そこから、どれだけアメリカ国内深く送り込むかで値段が大きく変わるという。増強された国境パトロールやナショナル・ガードの目を避けて、「安全地帯」まで行くには4000ドルもかかる。
  
  幸運にもパトロールなどに見つかることなく、カリフォルニアでぶとう採取やフロリダで屋根葺きの仕事にありつける場合もあるが、多くはコヨーテなどに所持品を強奪され、この町へと強制送還されてくる。すでに28回も送還されたなどの例もある。しかし、国境を越えるだけで時間賃率1ドル以下から7ドル以上の世界へ入り込めるかも知れないのだ。

  送還者の多くは砂漠を越える途上で足にけがをしたり、脱水症状となり、町に来る赤十字のお世話になる。その数は月1000人近くとなる。厳しさを増す国境管理の下で、最後のチャンスと家族でこの町へとやってくる人の数は増加している。

移民なしにはなりたたない農場
  アリゾナ州ユマの農場では合法・不法の労働者が多数働いている。レタス、カリフラワーなどの野菜や、果実の栽培、採取を行っている。労働者の9割以上は、ヒスパニック系の労働者である。英語もほとんど分からない人が多い。

  現行移民法でも外国人労働者を雇用する使用者は、身分証明書をチェックする義務があるが、どれだけ実行されているか、実態は分からない。使用者は偽造書類も多く、素人が見ても分からないと答える。現実には不法就労者を雇わないとビジネスがなりたたない。

  他方、逆の対応をしている地域もある。同じアリゾナ州ダグラスでは、国境の障壁強化を州政府に要請している。その背後には、不法移民が増加すると、その分だけ州民が負担する教育費や社会保障費が増えるから阻止しなければという論理が働いている。

多大な公共コスト
  地域の病院側は多大な医療費を負担し、小さな病院に医療費を払わない不法入国者や家族が多数押し寄せる。学校もヒスパニック系で一杯だ。不法入国者が農場内を通過するので、農作物が踏み倒され、廃棄物で溢れる。フェンスも壊され、農場が荒れてしまう。しかたなく農場経営者などが自衛して、不法入国者を捕まえるという動きに出ざるをえない。

  国境管理は抜け穴だらけで機能していない。そのため、地元の農場関係者などが自主的な活動を始め、逆探知カメラで探知し、国境パトロールに連絡するなどの対応を行っている。
  
  幸か不幸か日本は島国であり、隣国と地続きで国境を接していない。国境の持つ重みについても認識が浅い。そのためもあってか、この国は近隣つき合いがはなはだ下手である。

  数年前に中国のある著名な大学を訪ねた折、副学長氏から本学は台灣海峡にトンネルを掘削できる土木工学技術を持っていると居丈高に言われ、唖然としたことがあった。英仏海峡トンネルに日本の技術が大きな貢献をしていることはあまり知られていない。日本と中国がトンネルでつながる日は来るのだろうか。

References
'Waiting to cross', The Economist August 12th 2006
'A plot, and chaos', -do-.

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ブログの背景色

2006年08月12日 | 絵のある部屋

  この「変なブログ」を始めるに当たって、そのデザインに多少迷ったことがあった。ブログに移行する前に、若い学生諸君の手助けでホームページを開設していた。その時は記事だけ書いて、後は日常の運営管理もまかせっきりであった。
 
  毎年、管理者が代わり、模様替えが行われた。年々若くなる世代のデザイン・センスの良さに感心したことも多い。その後、自由度が多く操作も容易なブログなるものを知り、見よう見まねで始めてみたが、デザインについてはお仕着せテンプレートのまま今日にいたっている。

多少のこだわり
  ブログに移行するに際して、少しこだわったのは背景の色であった。実はシンプルなオフ・ホワイトか透明系を使いたかったのだが、試してみてどうも収まり具合がわるいと思うことがあった。文字中心なら問題はなにもないのだが、記憶の再現、備忘録も兼ねて画像イメージも残したかった。

   たとえば、ラ・トゥールのイメージを伝えるのにオフ・ホワイト系の背景では、画像が浮いてしまってどうも落ち着かない。 もちろん、ブログのイメージなど、本物の作品を思い浮かべるためのヒントにすぎないのだが。

  この画家の作品展などに行かれた方は、お気づきかもしれないが、全体に照明が暗く、隔離された部屋の方がはるかにふさわしく、作品も生きてくる。オランジュリー展も東京展もそうであったが、かなり照明度を落としての展示だった。作品の細部を見ようと思ったら、ぐっと近づいて見なければ分からない程度の明るさである。もともと、そうした時代環境の中で描かれた作品である。  

「赤」の画家
  17世紀は、現代社会のようにまばゆいばかりの人工光が輝いていた時代ではない。画家のアトリエも日没後は、ラ・トゥールのように蝋燭の光にかかわるような画題をとりあげるのでもなければ、とても仕事はできなかったろう。

  こんなことを考えながら、背景としては重いなあと感じながらも選んだのが今の色である。元来、青色系は比較的好きではある。他方、以前のブログでもとりあげたように、ラ・トゥールの現存する作品で青色系が使われているのはきわめて少ない。ラ・トゥールは「光と闇」の画家であるとともに、「赤の画家」である。 この点は美術史家などもあまり指摘していない。 

  16世紀末から17世紀にかけて、コチニールの赤色がかなり普及し、この色を使う画家が増えたと思われる。ティントレット、フェルメール、レンブラント、ルーベンス、ファン・エイク、ヴェラスケス、カナレット、ラ・トゥール、ゲインスバラ、スーレ、ターナーなどの画家がかなり使っている。その中で、ラ・トゥールの赤色、赤褐色系の多用はかなり目立つ。

 現代は「青」?
  画家がいかなる画材を使ったかという点の分析が進んだのは、比較的近年のことであるといわれる。美術史の論文などにも、画家とその画材をとりあげるものも見られるようになった。最近読んだ 『青の歴史』の著者ミシェル・パストゥローは、実は赤の歴史を書きたかったらしいが、出版社から懇願されて青の歴史を書いたと記している。

  「赤」という色から連想するイメージもさまざまである。熱情、華麗、高貴、気品、権力、護符など、時代や状況によってかなり変化してきた。 12世紀には「赤」は高貴な色であり、権力のイメージでもあったようだ。法王、枢機卿などの衣裳などにも長く使われてきた。

  その後、「青」も人気を得るようになり、現代の色は「青」ともいわれる。いずれまた取り上げてみたいが、色は時代の動きを敏感に感じ取るバロメーターのようなところもある。


References
ミシェル・パストゥロー(松村恵理・松村剛訳)『青の歴史』筑摩書房、2005年
徳井淑子『色で読む中世ヨーロッパ』 講談社、2006年

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政治的武器となる最低賃金制

2006年08月08日 | 労働の新次元

表:アメリカにおける連邦最低賃金率にプレミアム加算をした州の一覧 


    最近いくつかの国で最低賃金の役割が見直されている。アメリカでは8月に入り、約9年ぶりに連邦最低賃金率を引き上げる動きが現れた。下院で連邦最低賃金率の引き上げと、金持ち優遇と批判される相続税軽減を抱き合わせた法案が可決された。

政治的妥協の産物
  この背景には、中間選挙で低所得者の支持を強めたい民主党と、富裕層対策に余念がないといわれる共和党の思惑が一致したことがある。「動機が不純」との批判もあり、上院の可決を経て成立するかは微妙だ。しかし、今回このような動きが急速に浮上した背景については注目すべき問題がある。

  8月4日の記事に記したように、アメリカでは景気拡大の恩恵が企業と富裕層に集中し、中産・低所得層の実質可処分所得が伸び悩んでいるという問題が指摘されてきた。

  企業・富裕層の間では相続税が高すぎ、努力が報われないという不満がある。他方、中産・低所得層の状態は、改善の兆しが見えず、中流階級の凋落、ワーキングプアの増加などが問題にされてきた。

  こうした共和党、民主党の選挙基盤のそれぞれに対応する目的で、こうした政治的色彩の濃い抱き合わせの法案が下院へ上程された。

民主党の武器:最低賃金引き上げ
  特に最低賃金引き上げは、中間選挙を前に民主党が長らく考えていた対応である。連邦最低賃率は97年以降改正されていないことから、民主党は好調な企業や富裕層と比較して、中層・下層は恵まれていないとの批判が続出していた。そのため、この中層・下層の集票を期待する民主党にとっては、絶好の政策手段とみられてきた。もちろん、共和党にとっても最低賃金引き上げはある程度イメージアップの効果はあるが、同党は伝統的に政府介入を嫌い、最低賃金引き上げには阻止的であった。上院では98年以来、11回引き上げを拒んできた。

  アメリカでは連邦最低賃金率に各州が状況に応じて上乗せしており、現在では18州がプレミアムをつけている。高過ぎる最低賃金は若年層の低熟練労働者の雇用を減らす可能性が高いといわれているが、これまでの実証研究はさまざまな問題を含み、評価はかなり難しい。

  今回の法案がもし上院も通過すれば、現在5.15ドルの時間当たりの連邦最低賃金を今後3年間で2.10ドル引き上げ、09年6月までには7.25ドルとする。

形骸化著しい日本の最低賃金制  
  最低賃金制度を持たないドイツ*でも導入の可能性について議論されているが、日本では最低賃金制度の存在感がきわめて希薄になってしまっている。戦後、しばらく大きな政治的論争の焦点であったこともある制度だが、今日では自分の事業所のある地域の最低賃金額を答えられない事業主も多く**、労働者の関心も著しく弱まってしまった。制度の実効性が疑わしい状態といえる。

  日本の最低賃金制は、大局観を失った関係者が制度を必要以上に複雑にしてしまい、透明度も大幅に失われた。財政支出を伴わないで労働条件を改善する効果が期待されるこの制度の意義を見直し、抜本的な変革がなされるべきだろう。イギリスのブレア政権成立に際して、全国最低賃金制度を大きな政治的スローガンにしたように、日本の場合も形骸化した制度を白紙に戻して再設計を行う構想も必要ではないか。



*ちなみに、ドイツは建設産業など一部の例外を除き、法定最低賃金制度を持たない国である。労働協約の一般拘束力があるためである。しかし、今年に入って最低賃金制度導入をめぐる議論が活発化している。EU加盟国25カ国中19カ国は最低賃金制度を導入している。

**ある調査では、正しい地域別最低賃金額を回答しえた事業所は、全回答事業所のわずか24%に過ぎなかった(労働政策研究・研修機構「労働政策研究報告書 日本における最低賃金の経済分析」2005)。

# 7月26日、アメリカ、シカゴ市議会は、大型小売店に従業員の時給を10ドル以上とすることを義務付ける条例を全米で初めて可決した。今回の条例は低賃金に批判が集まっている小売業最大手ウオルマート・ストアーズの出店をけん制する意味も強く、議論を呼んでいる。シカゴがあるイリノイ州の州法は、今回の連邦最低賃率引き上げ以前の段階で、6ドル50セント。この条例はおそらく違憲と推定される。

Reference
"November's $5.15 question." The Economist July 1st 2006.

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ラ・トゥールの書棚(4):楽しい手引き

2006年08月07日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚
  ラ・トゥールという画家が長らく闇に埋もれていた背景のひとつに、現存する作品がきわめて少なく、真作を目の前にする機会が限られていることを挙げることができる。最も多数を保有するルーヴルでも一部分(6点)しか見られない。そのために、世界の各地で時々開催される特別展などは、この画家の作品をまとめて鑑賞できる大変貴重なチャンスとなる。

  日本で近い将来、再び昨年のような特別展が開催される可能性はきわめて少ないが、比較的楽に海外に行かれるようになった今日では、どこに作品があるかを知っていれば実物に対面できる機会も生まれるだろう。この謎に包まれた画家の時代背景,生涯などを知っていれば、実際に作品を見る機会があれば、理解はさらに深まるだろう。

  ラ・トゥールの愛好者にとって、日本語で書かれ、しかも最も充実した最新の鑑賞の手引きは 昨年、国立西洋美術館で開催された際のカタログである(これについては、改めて紹介の記事を書くつもり)。しかし、大部のものであり、もっと手軽に参考になる書籍はないだろうかと聞かれるとちょっと困る。フランス語、英語では格好の手引きがいくつかあるのだが、日本語文献自体がきわめて少ない。

  今日は、フランス語版ではあるが、きわめてハンディでしかも充実した手引きを紹介してみよう。次の小冊子である。

Olivier Bonfait, Anne Reinbold, et Veatrice Sarrasin. l'ABCdaire de Georges de La Tour. Paris: Flammarion.1997. pp.119.

    表紙にはあの「いかさま師」の謎の召使が描かれている。手引きといっても、内容はかなり濃密である。簡単な年表から参考文献、作品を保有する美術館、索引まで含まれている。というのも、小冊子といえども、書き手はラ・トゥールの中堅研究者たちであり、かなり力が入っている。簡単な記述の中に最先端の研究成果が盛り込まれていて感心する。

  この限られた紙幅に出来るかぎりの情報を盛り込もうとする方法は、以前に紹介したことのあるキュザン=サルモンの著作ときわめて類似している。同年次の出版である。

  ラ・トゥールの出自、画家に影響を与えた同時代の画家の作品との比較など、この画家と作品を理解するための材料が小さなスペースにぎっしりと詰め込まれている。ラ・トゥールの研究史に登場する主要な材料は、ほとんど登場する。

  印刷も大変きれいである。というのも、出版社は美術関係では著名なFlammarionである。手元において時々眺めるだけでも大変楽しい読み物である。

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希望につながる道を

2006年08月04日 | グローバル化の断面

  「小泉劇場」も終幕近く、いくつかの劇評も見られるようになった。ここで指摘したいのは、ドラマの脚本がアメリカ社会の翻訳ではなかったかという点にある。「格差社会」という嫌な表現が生まれてさまざまな論議を生んでいる。実は、これはしばらく前からアメリカ社会が直面してきた問題だった。

「不平等な国」となった日本
  「格差」の概念や評価については、日本でもすでに多くの議論がある。問題点が整理され、議論自体が早期に収斂する状況には到底ないが、労働市場についてみると、実態は2極化ともいえる方向に進んでいることは、さまざまな点から確認できそうである。戦後の復興過程を通して、世界の中でも珍しいほど平等化が進んだ社会と評された日本だが、いまやOECDなどから先進国の中で、アメリカに次ぐ不平等な国と指摘されるまでになった。

  「格差社会」をめぐる議論については、その概念、実証などの点で今後十分検討しなければならないことはいうまでもないが、誰もが納得するような統計資料が早期に整備されるとは考えられない。その間にも事態は変化を続ける。そして大事なことは、統計数値では測れない次元もあることに注意しておかねばならない。

格差が「問題」ではなかった国:アメリカ
  それは、国民の多くが自国の現在および将来について、大きな不安感を抱いていることである。一部にみられる意図的とも思える楽観にもかかわらず、この漠とした不安感は、国民の行動の多くの面に反映している。この点を払拭することが、次の内閣に課せられた最重要課題であることは間違いない。政権側がいくら否定しようとも、国民はさまざまな格差の拡大を肌身に感じて不安に思っている。

  先進国中で最も「経済格差」が大きいといわれるアメリカは、これまで格差ということをあまり問題としなかった国でもある。移民の国として国家を形成してきた歴史的背景もあって、現在は貧しくとも努力すれば成功をつかめるかもしれないという「アメリカン・ドリーム」は今日でも根強く生きている。努力して運に恵まれれば、自分もあるいは富裕層の一角に入れるかも知れないという夢を生んできた。批判はあっても、「格差があるのは当たり前」と受け止めてきた。格差の存在をさほど気にしない国民性なのだ。時にはそれが自己努力につながるインセンティブとなってきた。これに対して、ヨーロッパ諸国では格差が生まれる源泉や分配のプロセスに多くの人が関心を寄せてきた。

  アメリカでは1995年以降の生産性上昇、そしてその間に停滞はあったが、2000年以降の経済成長は社会内部に進行する格差を覆い隠してきた。しかし、21世紀に入って生産性は再び伸びているが、所得税控除後の平均的な所得を見ると、上位層の伸びは顕著だが、労働者の多くが含まれる中位層・下位層の伸びは1%以下で停滞している。それまでの5年間は6%以上の伸びを記録していた。

ワーキング・プアの増加
  90年代から新しい世紀にかけて、中位層がかなり圧迫を受けて分極化していることが指摘されている。「ワーキング・プア」と呼ばれる最下層はこれ以上窮迫することはないほど貧困化が進む対極で、上位層の所得は天井知らずで伸びている。その間の中間層は分裂しつつある。「中流階級の終焉」ともいわれる変化が進行している。「富める者はますます富み、貧しき者はさらに貧しく」という2極化である。「アメリカン・ドリーム」といっても、そうした未来への希望を多少なりとも抱くことができたのは中流階級以上であった。最下層にとっては、その日を暮らすことに精一杯で、将来への夢など、もともと存在しなかった。

  日本でも「六本木ヒルズ族」の栄耀栄華ぶりはつとに知られるところとなった。彼らの派手な生活ぶりへの羨望と自分もできれば仲間入りしたいという異様なブーム状態は、その後「ホリエモン・村上」事件でやや沈静化したが、消えたわけではない。他方、さまざまな理由で正規雇用の仕事につけない労働者が大幅に増加し、貧困の固定化・拡大が憂慮されている。

  小泉首相はしばしば格差も個人の自由な競争の結果であれば「格差が生まれることは悪いとは思わない」と述べてきた。しかし、人間の能力にはかなりの個人差がある。スタートの条件も同じではない。社会的なセフティ・ネットを十分整備しないで導入される競争は、多数の脱落者を生んでしまう。
    
夢が抱けない社会からの脱却
  日本はまだアメリカほどの事態にまではいたっていないとはいえ、労働市場は顕著に2極化への方向をたどっている。日本にも「夢を子に託す」という形でのジャパニーズ・ドリームが存在したこともある。有名校への進学熱、大企業、官公庁などへの「寄らば大樹の陰」的集中現象はその一面であった。しかし、国民の多くはいまやそうした夢すら抱けなくなっている。少子高齢化、財政破綻、劣化する医療保障などの前に、漠たる不安が募っている。

  このまま進むと、きわめて憂慮すべき状況が予想される。国民の不安感をこれ以上増長することがないよう、下層部分の下支えを強化するために不安定雇用の減少、最低賃金制度、社会保障制度の見直しなどを含める強力な政策導入が待ったなしのところへ来ている。新政権は国民の不安を解消し、将来に言葉の上だけでない夢と希望を与えることに最大限の努力をすべきだろう。
  

Reference
"The rich, the poor and the growing gap between them." The Economist. June 17th 2006.

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変なブログ(2)

2006年08月02日 | 雑記帳の欄外

    このブログが世の中のブログの主流とはほど遠い、自他共に認める「変なブログ」であることは5月14日の記事で取り上げた通りである。読む側からすると、なにが出てくるか分からない、振幅の大きさに当惑し、書き手の意図の在処がつかめない。密林の中へ迷い込んだようだとの感想もいただいた。その通りだと思う。

  しかし、記事を書いている本人はそう感じていないのだから始末が悪いかも知れない。書いてみたいことは溢れるほどあるのだが、時間その他の制約であきらめることも多い。そのうちに忘れてしまうこともある。ブログは備忘録代わりのようなところも多少はある。 書くという行為を通して、雑然とした思考がわずかでも整理されるメリットもある。その間にも月日は経過し、気づいてみると量だけはかなりのものとなっている。とても、不思議な感じだ。


  記事の内容は、ブログの特徴といわれる読みやすさ、柔らかさ、迅速性、面白さなどもほとんど欠いている。本人だけが知っていればよいトピックスも多い。しかし、不思議なことに世の中には、数は少ないが同じようなことを考えている人々もいないわけではないことが分かる。そうした人々に出会えることは大変嬉しいし、ブログをなんとか続ける力となってきた。

  記事を書き続ける力の源泉には、自分の人生では果たせない別の世界をヴィジュアルに実現できるところにもある。このブログを始めた時には予想しなかったほど入り込んでしまった美術の世界もその一つである。

  戦後、「文化」という文字に飢えていたような時代に、博物館員を含めて、できればやってみたいと思った仕事がいくつかあった。結局はまったく違った職業に就くことになったが、心のどこかに残像のように消えずに残っていた。それがなにかのきっかけで、顔を出してくる。 記事を読んでくれた友人の一人が、「随分のめりこんでいるなあ」と評した部分が明らかにある。他方、本人にはこの際少し探索してみるかという思いがある。そういう探索過程の楽しさは、本業の比ではないのだから始末が悪い。

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