時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

コピー文化の黄昏? 〜大芬は再生できるか〜

2022年09月07日 | グローバル化の断面

 
Henri Fantin-latour(1836~1904), Grand bouquet de chrysanthemes
アンリ・ファンタンーラ・トゥール《菊の大きな花束》1882


現代人にとって、絵画などの美術品を見ることは、疲れた心身を癒すセラピーの効果があるのだろう。コロナ禍、ウクライナ侵攻など、地球規模の大規模な激変以前から、世界各地の美術展には多くの人が集まり、入門書や画集などの美術出版物も多数、書店などで目にするようになった。美術は世界的なファッションのようだ。

本ブログでも取り上げたことがあるが、かつては ”世界の美術工場”として知られた中国の大芬 Dà fēnという村(現在は深圳に含まれる)がある。この地を訪れた観光客が驚いたのは、多数の画家たちがまさに工場のような場所で、ヴァン・ゴッホ、レンブラント、レオナルド・ダ・ヴィンチなど有名画家の名作のコピーを次々と作り出している光景だった。彼らの主たる顧客は、世界中の商店、ホテル、観光客などであった。超一流ホテルでもなければ、世界のホテルの客室や廊下の壁に架けられているのは、こうした形で製作される工業製品?のようなコピーやプリント製品だ。この地を知る人は「文化の生まれる土地」というよりは有名絵画のコピー「生産工場」をイメージしてきた。しかし、この「コピー文化」の一大産地にも黄昏が迫っているようだ。新着のThe Economist誌が、その衰退ぶりを伝えている。

大芬は再生できるか
長年の「コピー文化」から脱却し、大芬は創造的な動機に支えられ、世界から尊敬される芸術の拠点に再生できるだろうか。この地の将来に投げかけられてきた課題である。

大芬 Dafenに関わる状況に変化が現れ始めたのは、2008年の世界金融危機の勃発であり、この時が転機になり、世界中からの注文が激減した。代わって中国国内から注文が来るようになったが、彼らは中国風の絵、とりわけ山水画を好むようになっていた。これは中国の貿易がかつての輸出依存型から内需依存型に変わってきたことのひとつの反映ともいえる。

中国は金額面では世界第二の美術市場とされる。世界のオークションで、中国人の富豪などが匿名で有名作品を巨額を支払って落札する例も報じられるようになった。しかし、今日、大芬の地を訪れる美術家は、そこには美術を育む文化的素地のようなものは何もなく、単なる工場群に過ぎないと感じるようだ。さらに、この度のパンデミックの間に、多くの工房は仕事がなくなり閉鎖してしまった。

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 N.B.
絵画工場の地として大芬が知られるようになったのは、1989年に複製の工房が生まれたことに遡る。彼らは、そこでゴッホ、ダリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、レンブラント、ウオーホールなど有名画家の複製を作り始めた。1990年代にはおよそ5万点の模造品を2週間で製作していた。中国の中央政府、地方政府ともに大芬 Dà fēnを「文化産業」の地域として指定し、各種の助成を行なってきた。

2014年の時点で、7,000人の画家が居住して、「美術工場」で絵画のコピー作業などをして働いていた。毎年およそ500万点の絵がアメリカ、ヨーロッパなどに輸出されていた。画家の中には100点近い作品を12時間で仕上げていた。コピーの上に一寸だけ絵筆で手を加えるのだ。こうした作品の制作のために、同地では大規模なプリンターやテンプレート作成のための多数のタブレットやiPhonesの類を開発し、活用していた。
出所:[Dafen Village - Wikipedia その他]

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中国政府は依然として大芬を「創造の地」としているが、果たして今後生き残りうるだろうか。地元の画家たちは、自分たちには「数十年の模写の蓄積がある」としているようだが、それがどんな意味を持つだろうか。最近、大芬を訪れた客が、模写ではないオリジナルだという作品に1,000元($145)を請求され、後退りしたという。後2年もすれば大芬は失くなってしまうとみる美術家もいるという(The Economist, Sept. 3rd, 2022)。

絵画が持つ不思議な力
この事例を追いかけていると、いくつかの疑問が生まれてきた。人々は美術作品のどこに、癒しやセラピーの源を見出すのだろうか。工場であっという間に製作されたモナリザやレンブラントのコピーを自宅の壁に架ける人々は何を期待するのだろうか。あるいはオフイスの自室の壁にコピーされた有名画家の作品を掲げ、自分の趣味の良さ?を誇示する経営者などもいるようだが。

かく言うブログ筆者も、美術館ショップや専門店などで購入したご贔屓の画家の作品のポスターや精密プリントなどを、時々は物置から引っ張り出しては仕事場の壁に掛けたりしてきた。そうした作品でも見ていると、過去の思い出がよみがえり、多少は癒されるような気もする。真作は遠い外国の美術館や個人が所蔵しており、頻繁に見ることはできない。プリント・コピーの類は、かつて心に刻まれた感激や強い印象を思い起こすよすがに過ぎないのだろうか。

これまで、17世紀を中心とした美術作品の歴史を多少追いかけてきて、真作、模作(模写)、工房作、偽作などをめぐる論争の実態も知ることができた。しかし、作品が生み出す感動や癒しの源については、探索したいことが未だかなり残っている。


References
[Dafen Village - Wikipedia]
https://en.wikipedia.org/wiki/Dafen_Village#cite_note-al-5

“The painters of Dafen: An art factory in decline” The Economist September 3rd ,2022

「モナ・リザもびっくり:中国絵画市場の実態 」- 時空を超えて Beyond Time and Space, 2006年6月15日

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異なる立場を理解する努力

2015年01月15日 | グローバル化の断面

 


ピケティ教授の大著邦訳刊行をめぐって
 昨年の夏のブログで、世界的に大きな反響を呼ぶことになったフランス人経済学者トマ・ピケティ教授の『21世紀の資本』について少しばかり記したことがあった。当時は日本ではほとんど誰も名前も聞いたことがないというほど、知られていなかった。しかし、その後、海外、特にアメリカでの評判が伝わり、当初は今年2015年に予定されていた日本語版の出版が昨年末繰り上げられるに及んで、本書の評判は単に一部の経済学者の範囲にとどまらず、広く一般のビジネスマンなどの間にも知られるようになった。


 他方で、あの大部の本を一体どれだけの人が本当に読むのだろうかという思いもする。しかし、世界が抱えるいまや危機的ともいえる重要課題を少しでも多くの人が、自分や次の世代のこととして実感し、深く考えることは大変望ましいことだ。

 幸い、難解でタイトルは知っていても実際には読んだことがない人が多いK.マルクスの『資本論』と比較すると、驚くほど読みやすい。
表題が、『21世紀の資本』なので、マルクス経済学者かと思いかねないが、そうではない。筆者のピケティ教授は、専門化が過ぎたアメリカの経済学に違和感を覚えて、自ら書き下ろした近代経済学の正統な流れを受け継ぐ大作である。

 著者ピケティ教授は本書で平易な叙述のために1年近くを費やしたと言っているが、その努力は全体の構成、問題の整理、見やすいグラフ、例示などに十二分に反映されている。世の中の多くの経済書がこうあってほしいと思う。とはいっても、その含意を正しく理解するには、相応の経済学の知識と思考力が欠かせない。


真摯な議論を
 日本や世界経済の現状や今後については、きわもの的な出版物も多数刊行されているが、本書はピケティ教授が10年近い年月をかけて構想し、分析を行い、刊行にいたっただけに、今後の経済社会を論じるに際して、ひとつの準拠基準を構築してくれた意味がある。今後、日本を含む世界経済の行方を論じるに際して、本書の分析と政策的含意を外して議論することは出来ないほどの重みがある。邦訳が刊行される以前に、欧米諸国では議論が一通り終わってしまった感があるが、周回遅れの日本でもしっかりとした議論が展開することを期待したい。

予断を許さない世界情勢
 欧米で本書が話題となっていた頃、日本はワールドカップに熱狂していて、ほとんど本書の提示している意義については、話題にすらなっていなかった。管理人はその点を含め(今日の記事とかなり重複するがお許しいただくとして)来たるべき時代の危うさについて少し記したことがある。


 ワールドカップに耳目を奪われている間に、世界は急激に変化していた。ウクライナ問題、イスラム国の出現とその急速な拡大、テロリズムと人種差別の増大、戦火の絶えない紛争地域、さらに一触即発ともいえる緊迫した地域の増加などである。とりわけ顕著なことは、多くの紛争の底辺に、宗教的対立があることを指摘できる。このブログのひとつの柱としている17世紀を特徴づけていた宗教戦争に似た点が多分にある。

戦争状態に入ったフランス
 今回フランスで発生したテロリズムについても、イスラム原理主義から派生したものだが、フランスのバルス首相が13日、国民議会(下院)で述べたように、「フランスはテロリズムとの戦争状態に入った」というまでの危機的事態が生まれた。バルス首相は「テロやイスラム過激主義との戦争であり、イスラム教やイスラム教徒への戦争ではない」と区分する発言も行っている。さらに、「フランスは友愛の精神があり、寛容な国だ。だれをも受け入れる」と強調し、「イスラム教徒の保護も喫緊の課題」と述べた。

 フランス議会では、自然に国歌ラ・マルセイエーズが歌われる雰囲気が生まれた。この「表現の自由」を厳として守り、愛国心を維持、高揚するフランス国民の心情は、フランスの誇るべきものではあるが、フランスに住むイスラム教徒やユダヤ人にとっては、日常生活においてさまざまな軋轢や恐怖として迫ってくる。


 世の中に存在する人種や性別による「差別」には、「明白な差別」(overt discrimination)もあるが、目に見えない「隠れた差別」(covert discrimination)もある。法律などの制度で減少や改善が期待できるのは、人の目に明らかに差別と見えるものに限られる。それはほとんど誰が考えても明らかに不当と思える「明白な差別」の部類に入る。他方、隠れた差別はしばしば陰湿で、脅迫的な形態をとる。差別であることの立証もしがたいことが多い。それが嫌ならフランスから出て行けというのが、「国民戦線」など保守派の考えなのだろう。しかし、戦火に追われる厳しい世界で彼らに安住の地はない。フランスの寛容さの本質が問われることになる。

 今回のテロ発生以前には、その政治手腕が問われていたオランド大統領だが、この事件の勃発で国民共々新たな事態への対応に追われる日が続く。しかし、ほどなくさらに厳しい日々が戻ってくることは必至だ。
 

宗教戦争の時代へ?
 万一、日本で同様な事態が発生したら、国民はいかなる反応を示すだろうか。この世の中、一色では塗りきれない。世界には自分たちとは違った考えや宗教を持つ人たちがおり、可能なかぎりその違いを話し合い、お互いの立場を認め合うことがないかぎり、紛争や殺戮は絶えることがない。すでに、時代は17世紀にみられた宗教戦争のような側面すら見せている。

 当時はその範囲はせいぜいヨーロッパにとどまっていたが、いまや事態は世界規模となっている。世界に生まれた時代の狂気を速やかに終息させねばならない。世界には宗教に救いを求める以外、生きるすべがない人々が多数存在する。

 イスラム教を含む世界宗教会議のような場を設定することも必要ではないかとも思う。空爆やミサイル攻撃で、この狂気な事態を消し止めることは不可能なのとは、当事者自身が認めている。近世初期、偶像破壊の時代に生きた人たちの日々の記録を読みながら、時代の宗教が持つ光と影に思い惑う。


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立ち止まるグローバル化:城砦化する世界

2013年11月01日 | グローバル化の断面

 

ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの生地ヴィック・シュル・セイユ、
改築中の城門(筆者撮影) 


城砦の再構築へ 

 TPPなどに象徴されるグローバル化の進行で、世界は、カネ、モノ、ヒトなどすべての面で開放化の道を進んでいると思われるかもしれない。しかし、一方向に向けて、すべて障壁が低くなっているわけではない。逆に国境の障壁がさまざまな形で新たに作りだされている次元もある。最近の The Economist誌は、「門が閉ざされた世界」 *1と形容している。その典型は近年の移民・難民の流れに現れている。本ブログでも再三記してきた問題でもある。

 たとえてみれば、グローバル化という流れの中で、各国が「国益」の擁護のために、自らの島の城砦を作りなおしている状況にあるといってもよいだろう。その有様は、ブログで再三とりあげてきた17世紀「危機の時代」の光景にもきわめて似ているところがある。フランス王国や神聖ローマ帝国などの大国から小さな領邦国家、公国にいたるまで、外敵の侵入に備えて、城壁で町を囲み、城門を設け、人々の出入の制限を行っていた。

 近年の状況は、城壁全体を高くするというよりは、城門を強化し、そこにおける出入りを制限するという形に見える。関税障壁を高くするなどで、国際的なルール違反をすることは避け、資本受け入れの相手方を選別するなどの外からは見えにくい巧妙な方法がとられている。日本のように、TPPを国内の非効率な部門を活性化する契機ととらえ、そのために財政・金融政策を背後で活用しようとしていると見られている国もある。

 前回のブログ*2で記したように、もし地球が増え続ける人口を支えきれない段階に入っているとすると、ひとつの過渡的対応として、人口移動で地域間の貧富の格差を多少なりと軽減しようとする動きは強まるだろう。とりわけ、移民にとっては国内の貧困から逃避し、海外で高い報酬が得られる道を選択しようと考える。しかし、現実には非常に難しい。受け入れ国側が制限的な政策に移行し、それぞれに門を閉ざしているからだ。居住の自由を含め、開放度を増した国は少なくなった。

 とりわけ、経済の停滞時には移民の排斥が起こりやすい。たとえば、ギリシャでは国家的破綻の過程で、移民を追い出すことをスローガンにした政党が急速に支持を獲得してきた。あからさまに反移民を掲げる政党が存在する国は増えている。現在の政権の側でも、イギリス首相デヴィッド・キャメロンのように、イギリスへのネットの年間移民受け入れ数を2015年までに現在の半減以上にするとしている。。他方、アメリカ、オバマ大統領の民主党は、移民法改革への意欲を喪失している。最初の大統領選当時は、移民法改革は最大の公約のひとつであったが、絶好のタイミングを失ってしまった。

 オーストラリアのような典型的な移民受け入れ国も、最近はボートピープルなどの不法入国者の問題に悩み、反移民的傾向が高まっている。カナダは1971年に多文化主義を法律化したが、9.11以降否定的方向に転じている。「多文化主義」の花は急速にしぼんでしまった。人口減少、高齢化の進展で、活力が失われ、将来が危惧される日本でも移民受け入れが国民的議論となったことはほとんどない。

経済理論と移民

 移民をめぐる現実の動きは、これまでも開放と閉鎖の間を行きつ戻りつしてきた。他方、伝統的な貿易理論では、同様な技術水準の国の間では移民がなくても、賃金は貿易を介して格差を縮小し均衡に向かうとされてきた。「要素価格均等化」理論といわれる仕組みである。さらに、グローバルな人の移動の増加は、経済成長を促進する効果があるとされてきた。しかし、現実にはそうした動きは見えてこない。

 人々を他国への移民に駆り立てる動機はさまざまだが、関係国間に存在する賃金・所得格差が大きな誘因となることが多い。たとえば2000年時点で、メキシコで働く自国民労働者は、同等の教育や経験を持ってアメリカで働くメキシコ人労働者と比較して、賃金は40%くらいしか稼げない。こうなると、機会があればアメリカで働きたいと考えるメキシコ人は増加する。 

 こうした考えに立って、移民の経済効果を推定する論文もかなりの数が提示されてきた。たとえば、地球上の豊かな国が国境を開き、発展途上の国から労働者を受け入れれば、彼らの平均賃金は年間1万ドル以上、上昇するはずだという試算もある。もっと現実的な?試算として、豊かな国が移民受け入れで自国労働力を3%だけ増加するだけで、現在未解決の貿易上の障壁をすべて撤廃することで得られると考えられる利益を上回るメリットがあるともいわれている。

 しかし、こうした移民がもたらす利点がいかに伝えられようとも、政治家たちは逆の方向へ走っている。確かに、不法移民、難民受け入れなどにかかわる社会的コスト、頭脳流出など、対応が難しく、さらに議論されるべき問題は残っている。

 こうした差が生まれるのは,主として両国の間に存在する生産性格差によるとされる。この生産性格差は、インフラ、制度、熟練の違いなどによる。一時に多数の労働者を受け入れけ入れれば、受け入れ国側の賃金水準を引き下げかねない。しかし、投資の増加などでそうしたマイナス効果を打ち消すような規模で、移民を受け入れるならば、国内賃金水準の低下を引き起こすことなく移民を受け入れ、経済拡大を図りうるはずだ。

 移民の自由化議論は、貿易の自由化議論に似ている。相対的に生産性の高い移民を受け入れることで、産出を増加できる。その結果生まれる市場の拡大は、コスト低減につながる。移民は理論と実際の双方において、後追いの考えだ。要素価格均等化法則は理論の世界では通用しても、現実の世界では、なかなか実効性が見えてこない。 

 経済活動がある限度を越えて拡大あるいは停滞すると、必ずといってよいほど出稼ぎ労働者が問題化する。経済発展に対応するための人手が不足する、あるいは停滞に伴い国内労働者との間で仕事の取り合いが始まり、出稼ぎ労働者の雇用機会は減少し、彼らを排斥しようとする反移民の動きが強まる。

 最近では単に経済的要因ばかりでなく、宗教問題が絡んでおり、状況は一段と難しくなっている。現代史上、一大事件となった9.11を契機として、オサマビン・ラディンの暗殺を挟んで、イスラム教徒の労働者の出稼ぎ先国での同化をめぐる軋轢が顕著になっている。互いに憎悪が高まり、イスラムフォビア(イスラム嫌悪者)と呼ばれる、狂信的なグループが生まれ、しばしば厳しい問題を生み出している。しかし、ドイツなどでもいつの間にかモスクの数は増加し、イスラムに改宗するドイツ人もいる。イスラムの数は増加し、2050年には世界人口の3分の1近くがイスラム化するとの予想もある。

ドイツも対応が難しい:多文化主義の破綻
  「ヨーロッパのドイツ化」が議論になるほど、EUで突出した存在となっているドイツでも、移民はきわめて対応が難しい問題だ。これまでドイツは移民の社会的「統合」を標榜し、試行錯誤を続けてきた。政府は長らく移民統合の過程で国民に「寛容」を求めてきた。この意味は、ほとんど忍耐に近い意味であったが、ついにその限度が近づいたようだ。「統合」もその概念と実態の間に大きなかい離が生まれた。「統合」と「同化」も同じではない。ドイツ人と同じように生きることを強いるのが、現実の姿だ。それが不可能ならば、移民と従来の国民との一体化を求めることはできない。理念と現実の間には大きな距離がある。

 ドイツではこれまで福祉国家化を目指す過程で、国民の自助努力が求められ、それは移民に対しても要求された。ドイツが最も多くの数を受け入れてきたトルコとドイツの間には、植民地関係は存在しない。しかし、9.11以後のほぼ10年間にさまざまな衝突、事件が起きてきた。

 ドイツではドイツ国籍を取得することは、それ自体安定した生活を保証するパスポートではないと政府が主導してきた。そのために、ドイツ語を話し、ドイツの社会ルールに従うことを求めてきた。連邦政府は統合講座を義務付け、規定の645時間の中にはドイツ語習得も含めてきた。ドイツ語の能力は、国籍取得の要件になっている。

入れ替わる先進国、開発途上国のランク
 注目される点のひとつは、頭脳流出の新しい変化だ。かつては開発途上国から先進諸国への高度な能力を持った技術者などの流出がその内容だったが、今日ではギリシャ、スペイン、ポルトガルなど、かつての先進国から逆に開発途上国へ高度な能力を持った人材が流出している。たとえば、アフリカのアンゴラでは、10万人近いポルトガル人が働いている。アンゴラにとってかつてポルトガルは宗主国であった。アンゴラは世界経済の低迷にもかかわらず、年率10%を越える高度成長を続けている。

 歴史の時間を超えて、繁栄を続ける国はない。繁栄の極みを享受したローマも衰亡した。先進国もいつまでも先進国ではいられない。世界の人口増加が人類が経験したことのない水準へ近づく中で、人口減少を止められない日本を含めて、次の世代に残された課題は数多くしかもきわめて重い。先を考えず、今だけを生きるという、これまで支配的であった考えは、明らかに破綻の時を迎えている。
 

 

 

*1 "The gated globe"  The Economist October 12th 2013

*2
 前回の記事の結末については、多数の照会、質問があった。しかし、著作権の問題もあり、掲載することをためらっていた。しかし、その後同書に関する注目度が高まり、科学者などを含めて論争が激化する過程で、ロンドンのThe Times紙など多くのメディアが文芸書評などで明記するようになった。また、本書がきわめて重要な問題を扱いながらもきわめて簡潔であることについてはThe Royal Court Theatreでの講演であることも判明した。全体文脈の中で正しく理解されるべき結論であり、深い意味が込められており、短絡した理解は著者の本意ではない。表現はきわめて厳しく悲観的だが、著者が人類の未来にまったく絶望しての表現とは思いたくない。
I asked one of the most rational, brightest scientists I know - a scientist working in this area, a young scientist, a scientist in my lab - if there was just one thing he had to do about the situation we face, what would it be?
His reply?
'Teach my son how to use a gun.'
Quoted from Stephen Emmott, 10 Billion, pp.107-108.



 

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歴史は繰り返す:バングラデシュのビル火災 (最新結果追記)

2013年05月03日 | グローバル化の断面



「トライアングル・シャツウエイスト火災事件」で、多くの人々の涙を誘ったイラスト記事。
Source:"Tad in the New York Evening Journal expresses the sentiment of many",
quoted in The Triangle Fire by Leon Stein, ILR Press (an inprint of Cornell University Press), Ithaca: New York, Centinnial Edition, 2011.



  タイムマシンはまた現代へ舞い戻ることになった。5月2日、PBSの番組 NEWS HOURで、4月28日、バングラデシュの首都ダッカ近郊サバールで、縫製工場などが入るビルが崩壊し、その後火災を起こし、若い女性労働者を中心に370人を越える死者(5月4日現在では500人以上との推定)を出した大惨事について、2人の専門家とキャスターが議論をしていた。専門家はグローバル化の研究者であるジョージタウン大学のリポリ教授とタイム誌記者のポンドレール氏だった。

 それによると、4月28日、最後の生存者と見られていた女性の救出作業中に火災が発生し、女性は死亡した。この世界に伝えられた悲惨な事故で、4日以上におよんだ生存者救出作業で、女性は唯一の希望の光となっていた。彼女はすでに夫を亡くしていたが、一人残った息子のために必死で生きようとしていた。

 議論で注目されたことは、リポリ、ポンドレール、そしてキャスターの3氏が、それぞれにニューヨーク市で1911年3月25日に発生した「トライアングル・シャツ・ウエイスト火災」事件を例に挙げていたことだった。日本ではアメリカ史の研究者の間でも必ずしも知られていない悲惨な事件だが、当ブログではすでに何度かとりあげている。

 バングラデシュの事故での犠牲者の多くは、崩壊したビルの中にあった縫製企業の女子工員だった。最新の統計では、バングラデシュの衣服産業は、中国に次ぐ世界第2位の同国を支える重要輸出産業である。バングラデッシュのアパレル産業は年間産出額200億ドル、直接的には300万人を越える労働者を雇用し、製造業雇用の40%近くを占める。間接的には1千万人を越える労働者がアパレル・繊維産業で働いている。バングラデシュのアパレル製品の輸出が始まったのは、1970年代末であり、その後の成長ぶりは驚異的なものであった。現在では中国に次ぐ。同国の主たる輸出先はEU15カ国とアメリカである。

 バングラデシュのアパレル産業の競争力は、世界のアパレル産品輸出国の中でも際だって低い労働コストにある。これに加えて、同国の衣服加工産業は、手工業時代から伝統産業として長い歴史を有してきた。そのために、ニットの分野などではローカル産業が根強い競争力を蓄積してきた。

 そして、最大の競争力である労働力は、圧倒的に若い女性たちである。彼女たちは信じられないほど低廉な賃金、そして劣悪な環境下で働いている。トライアングル・シャツウエイスト・ファイア事件の犠牲者が、ほとんどすべて若い移民労働者の女性であったように、今回の事故の犠牲者も若い女性たちだった。

 ビルの所有者はモハメド・ソヘイ・ラナと呼ばれる富豪で、建物はラナ・プラザとして知られ、3つのアパレル加工企業が操業していた。火災は建物の崩壊後、生存者の救出のためにコンクリートを補強していた鉄線を切断する作業でスパークしたことが原因のようだ。

 ビルの所有者ラナはインドへ逃走中に国境付近で逮捕され、ダッカへ連れ戻された。ビル内に工場を持つアパレル加工企業グループは、3.122人を雇用していたと発表したが、当日実際に何人が働いていたかは明らかではないとしている。生存者は約2,500人と伝えられている。これらの企業の経営者も逮捕されたようだ。

 図らずも明らかになったことは、ここで働いていた労働者の劣悪な賃金だった。彼女たちは月38ドル(4000円弱)という驚くべき低賃金で働いていた。そして、加工された製品は中間加工業者を経由して著名な国際的企業のブランドで世界中で販売され、年間数百万着のシャツなどの衣服が生産されていた。現在の段階では、このビル内にあった企業で生産された製品が最終的にどこの企業の製品ブランドで販売されていたかは明らかにされていない。

 このラナ・プラザ火災事件は今の段階では未解明な点が多いが、バングラデシュの歴史に残る国民的な出来事として、末永く記憶されることだけは間違いない。こうした悲惨な事件は、その後の労働安全衛生、建築規制などの改善につながったことが多い。この事件がそうし改善につながることを期待したい。

追記

 5月11日現在、犠牲者の数は1043人という悲惨きわまりない数に上った。唯一の救いは若い女性ひとりが17日ぶりに救助されたことだ。この事故の詳細な評価がいずれ行われるだろう。

 

コメント (2)
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17世紀のヨーロッパを見る目

2012年10月14日 | グローバル化の断面

 

 

Le singe antiquaire ('The Monkey Antiqarian')
oil on canvas, in a painted oval, unframed
32½ x 25¾ in. (82.5 x 65.4 cm.)
Paris, Musee du Louvre

クリックして拡大

 

 東京で『シャルダン展』(三菱1号館美術館)が開催されている。出展されている作品は、シャルダンの全作品数と比較すると、決して多いとはいえないが、この画家特有の落ち着いた穏やかな色彩の静物画や世俗画を好む人には、見逃せない展覧会だ。静物画にしても、セザンヌともスルバランとも異なる、見る目に優しい、穏やかな色彩だ。見ていて心が休まる。かなりのシャルダン・フリークでもある筆者にとって、記したいことはきりがないのだが、今回は世の中にあまり知られていない作品との関連に触れたい。シャルダンの作品の中では、注目されてこなかった一枚の作品である(上掲)。

 シャルダンJean Siméon Chardin (Paris 1699-1779) の『猿の骨董品屋』なる作品を見てみたい
。シャルダンには『猿の画家』なる作品もある。いずれも立派なガウンなどを着こんだ猿が、もっともらしく骨董品のメダルを拡大鏡で調べていたり、絵画の制作をしている光景が描かれている。美しい静物画や世俗画を好んで描いた画家が、なぜ突然、それから逸脱したようなこうしたテーマを描いたのか、気になっていた。

 残念ながら、今回の東京展の展示品にも選択されていない。シャルダンの主要な制作ジャンルからは外れていて、あまり紹介されることがない。手元にあった2000年にパリ、デュッセルドルフ、ニューヨーク、ロンドンで開催された
「シャルダン展」のカタログを開いてみたが、作品の記述はあるが、図版は含まれていなかった。うろおぼえだが、1997年の東京都美術館での『ルーブル展』では見たような気がする。しかし、その頃はとにかく忙しく走り回っていた時でもあり、詮索してみる時間もなかった。

 少し、話を進めると、シャルダンの生きた18世紀から、1世紀ほど前、「危機の時代」ともいわれた17世紀ヨーロッパが、グローバリゼーションの黎明期であったことは、これまでも断片的ながらも、何度か記したことがある。単なる日常の生活の一齣を描いただけに見えるフェルメールの作品も、別の目で眺めてみると、それまで見えなかった世界が見えてくる。

希有な天文・博物学者ペイレスク
 17世紀、電話もインターネットも未だなかった時代であったから、主たる情報の伝達は、手紙、人の移動による交流、書籍、絵画などの文物による情報の移送などが主たる手段であった。たとえば、カラヴァッジョの画風がいかなる経路と手段によって,ヨーロッパに伝播したかという問題は、それ自体きわめて興味深いテーマであり、すでにかなりの研究成果が蓄積されている。17世紀まで、長い間世界の文化の中心として光り輝いていたローマから新興の都市パリへ、さまざまな文化的情報や美術品が移転する過程(ヨーロッパの文化センターの移転)についても、最近研究者の関心が高まっていることについては、このブログでも一端を記したことがある。

 

Nicolas-Claude Fabri de Peiresc


 今回取り上げるのは、ペイレスクあるいはペイレシウス Nicolas-Claude Fabri de Peiresc (December 1580-24 June 1637)と呼ばれる希代の人物である。プロヴァンスの富裕な家に生まれ、エクサン・プロヴァンス、アヴィニオンなどで教育を受け、17世紀ヨーロッパきっての天文学者、考古学者、骨董品収集研究者、学識者として知られていた。博物学者といえるかもしれない。とりわけ、その骨董品収集の熱意と規模は想像を絶するものがあり、骨董品への趣味を博物学の次元にまで引き上げた偉大な功績を残した。

 特に,通信手段が未発達な時代に、自らの知的活動の手段として実に1万通を越える手紙を、ヨーロッパのほぼ全域そしてビザンチンにわたる各地の知識人と送受信していた。これらの手紙はそのほとんどが幸いにも記録として継承され、研究対象になっている。ペイレスの交信相手にはグロティウス、デュピュイ、リシユリュー、ガリレオ、ルーベンスなど、当時の政治家、学者、画家など多数の知識人が含まれている。タイプライターすらなかった時代、すべて手書きでの仕事であった。ひたすら感嘆するしかない。

 
 ペイレスクは当時は珍しかった天体望遠鏡観測をしており、1610年にはオリオン大星雲を発見している。月食も観測し、あのクロード・メランと月面の地図を制作していたが、作業半ばで世を去っている。この人物の60年に満たない生涯における活動を、今の時点で回顧、展望してみると、その視野の広さ、博識、そして時代の文化的主導者への刺激などに驚かざるをえない。短い人間の一生に、これほど広範囲なことができるのかと思わされる。



Peter N. Miller, Peiresc’s Europe, Learning and Virtue in the Seventeenth Century


ラ・トゥールとのかかわり
 
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールについて、ある程度ご存じの方は、パン屋の息子であったジョルジュの秘められた才能を見出し、さまざまな支援の手を差しのべて、17世紀フランス絵画の巨匠といわれる今日の評価につなげた人物のひとり、ロレーヌの代官アルフォンス・ド・ランベルヴィレールの名をご存知かもしれない。代官は友人のニコラ・ド・ペイレスクと美術品などの交換もしていた。ある時、ペイレスクはジャック・カロの作品を入手した。それをみて代官は「ペイレスクは生まれつきの鑑識眼があるな」と誉めたという。そして、ラ・トゥールの作品も買ったらどうかと勧めた」ともいわれている(Thuillier, 1992)。

 
 シャルダン研究の第一人者ピエール・ローザンベールは、ここに取り上げた猿のモティーフは、いずれも伝統的な制作モデルに適合さえしていれば、高く評価されていたパリの美術界のエスタブリシュメントに対する批判であるという。当時のパリの画家たちが束縛されていた、古い慣行や風潮が風刺の対象になっているようだ。自由な芸術活動に制約となるアカデミーの実態を暗に批判しているのかもしれない。旧態の踏襲は、しばしば創造よりも重視されていた。骨董品屋についても、絵画の収集家や専門家たちへの風刺なのだろう。ロザンベールは、シャルダンは、モチーフを1世紀前、17世紀のフレミッシュの画家たちの作品から借りていると記している。すでにシャルダンの生きた18世紀には、17世紀のアイディアを借りることは、流行になっていたらしい(Rosenberg, 224)。

 絵画や骨董品の収集、古代趣味などが風刺の対象になっているようだ。古代の文物などを絶対視し、それに取り囲まれていることが目的となり、新しい時代を見通す創造的で真に哲学的なあり方を忘れている風潮だ。

 しかし、すべての収集家にこの風刺は当てはまらない。ペイレスクは単なる骨董収集家の次元を越えた17世紀では稀有な博物学者ともいえる存在であった。ヨーロッパ全域にわたる広範な知的視野と活動は、驚嘆に値する。後世には公的な博物館などが行った収集活動を個人の力でなしとげたといえる。シャルダンとペイレスクが直接関わるわけではない。この時代の文化・芸術活動の精神的次元にもう少し入り込んでみたい気がしているのだが。




Pierre Rosenberg, Chardin:1699-1779, Paris: Editions de la Reunions des musees nationaux, 1979, 224.

Peter N. Miller, Peiresc’s Europe, Learning and Virtue in the Seventeenth Century, New Haven and London: Yale University Press, 2000.

Chardin, exhibition catalogue organized by Royal Academy of Arts, and the Metropolitan Museum of Arts, 2000

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国家の盛衰を定める人と金の流れ

2012年05月26日 | グローバル化の断面

 

  ギリシャの財政破綻、シリアを初めとする中東の不安定など、世界経済は明らかに大きな転換期を迎えている。とりわけ従来の先進国と開発途上国の関係に顕著な変化が見え始めた。ダイナミックな変化が進む世界では、先進国でも舵取りを誤ればその地位を保つことは難しい。他方、今は貧しい国でもチャンスをつかめば、先進国入りは夢ではない。国家の盛衰を定めるテンポが速くなってきた。
  
  グローバル化の進展とともに、盛者必衰、国家の盛衰は避けがたい。盛衰を定める要因は、国家財政・運営の健全性、その国が置かれた地政学的状況、潜在的革新力、教育水準、国民の幸福感、など数多い。

 こうした変化の方向を占う尺度のひとつに移民労働者の流れ、そして彼らが本国へ送る外貨の流れがある。経済不振で自国民の雇用を守ろうと門戸を閉ざす先進国が増えている。その背景には失業の深刻化、格差拡大などがある。いかなる変化が起きているか。最近発表されたデータで、考えてみたい。

Source: The Economist April 28th 2012


豊かな国を侵食する貧困
 たとえば、アメリカは依然豊かな国ではある。しかし、明らかに衰退が進んでいる。格差拡大によって、豊かな国の内部で貧困が急速に拡大している。2010年、アメリカの「貧困層」(4人家族で年収$22,000以下、日本円概算約180万円)の数は4620万人と、前年より400万人も増加した。たとえば、医療費が高いため、アメリカで治療を受けられない人々がメキシコ、インドなどで治療を受けいている

 世界最長の国境、アメリカとメキシコ間は、閉鎖性が格段に強化された。南から北への人の流れは明らかに減少している。他方、アメリカからメキシコへの金(送金)の流れは、顕著に増加した。2011年、その額は240億ドルに達した。この増加の一因には、送金統計の実態把握度が改善されたこともある。

 送金の実態も変化している。少し細部を見ると、メキシコにおける銀行などの窓口では、送金受領者の多くはメキシコ人ではなくなり、(アメリカへ入国できず)メキシコで働くグアテマラ、ホンジュラスなどの労働者が本国へ送金する姿が目立つようになった。

 開発途上の貧しい国への送金は急増している。1966年末以降、その額は開発途上国援助を上回るまでになった。世界銀行によると、2011年の貧しい国への送金は3720億ドルに達した。全送金額は5010億ドルであるから、きわめて大きな比重を占めることがわかる。開發途上国への直接投資に近づく数字である。開発途上国への送金は、額が増えるばかりでなく、伸び率も大きくなった。
 
 2009年にリーマンショックで世界経済が破綻した時でも、開発途上国への送金は5%程度の減少を示しただけで、2010年には元の水準を取り戻した。他方、これらの国々への海外直接投資は、この危機の時期には3分の1近い大きな減少を示した。企業はリスクに過敏に反応する。

 1970年時点では、世界全体の海外送金の46%はアメリカから送られたものであった。しかし、2010年にはアメリカのシェアは17%に減少した。アメリカからの送金先も、メキシコばかりでなく、フィリピン、インド、中国など多様化している。

多様化する送金の流れ
 送金元として大きな増加を示したのはガルフ(湾岸)諸国である。石油危機以降、多数の外国人労働者を受け入れてきた。彼らは建築ブームに湧いた湾岸諸国で働き、本国へ送金してきた。海外送金の流れは、図が示すようにいくつかの流れに分かれてきた。

 南アジアやアフリカへの送金の半分以上は、湾岸諸国から送られた。世界レベルでは2000年、湾岸諸国は17番目の送金元であったが、2010年には4番目まで上昇した。めまぐるしいほどの送金関係国の変化がみられる。

 通貨価値の変動には外貨送金は敏感に反応する。近年、アメリカ・ドル、ユーロの人気は衰退した。背景には、これらの地域における競争力の低下がある。他方、アフリカのいくつかの国では輸出が顕著に伸び、通貨価値が上がった。かつては、ヨーロッパで5年出稼ぎをすれば、本国で住宅が買えるだけの貯金ができた。今は、海外出稼ぎ自体難しい。仕事自体が見つからない。ヨーロッパ、アメリカなどの先進国へは仕事を求めて入国することすら困難になってきた。

帰国しない人々も
 アメリカからメキシコなどへ帰国する流れも大きくなった。しかし、他方で一度帰国してしまうともう再入国は難しい。仕事はないが、なんとか踏みとどまろうとする人々も多い。ピュー・ヒスパニック・センターの調べでは、こうした中でメキシコ人の27%近くが帰国したといわれる。かれらの多くはアメリカに1年以上滞在していた。アメリカ大統領選の過程で、国内に不法滞在する人々への対応は、大きな論点となるだろう。

 自国民の雇用維持のため、移民抑制など閉鎖的な方向へ傾く先進諸国が増えたことで、人の流れは縮小している。しかし、高齢化が進む国は、自国民だけに頼っていたのでは、いずれ衰退する。新たな活力を求める以上、閉鎖的政策は続かない。

 
他方、金(送金)の流れは拡大・多様化している。IT技術の進歩によって、人が動かないでも自国で仕事をする、逆にいうと先進国から人材の豊富な国へアウトソーシングが可能になっている。しかし、外貨送金の受け入れが多い国は、経済発展の速度が早いかというと、必ずしもそうではない。受け入れた送金を生産的な活動にまでつなげる道には、いくつかの媒介要因がある。

 国の活力の一端を定める移民の動きは、複雑さを増している。新しい側面も生まれつつある。海外送金が、そのまま国の活力拡大につながる保証もない。台頭する新しい動きを注意深く見つめたい。



 
 

References
”New rivers of gold” The Economist April 28th 2012
「逆転する世界」NHKBS1 2012年5月25日

 

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行動の人マーガレット・サッチャーのある日

2012年04月01日 | グローバル化の断面

 

 

  映画評論家ではないので、映画「鉄の女」The Iron Ladyがどう評価されているか、特に興味はないのだが、やはりそうではないかと思ったことはいくつかある。

 そのひとつは、マーガレット・サッチャーを演じたメリル・ストリープの演技評価だ。ざっと目にした限りでは、ほとんどの評論が絶賛しているのだが、これが客観的なサッチャー像かという点については、かなり議論があるようだ。マーガレット・サッチャーの映画ではなく、メリル・サッチャーの映画だという評もある。確かに、メリル・ストリープのこの役への入れ込みようはすごい。

 さらに、映画がイギリスではなくアメリカの映画会社(WB)の制作になったということは、多くのイギリス人とって、かつてのサッチャー首相への政治的立場を超えて、複雑な心情を生んだようだ。2時間足らずの映画に、この世界の注目を集めたひとりの女性の政治家が過ごした濃密な時空を描き出すことはもとよりできることではない。しかし、よくここまで描きこんだという批評も多い。

緊迫の日々
 
折しも昨日、BBCがフォークランド紛争勃発30周年の日が近いことを告げていた。最近フォークランド諸島は新たな紛争の火種を内在している。30年前の4月2日、アルゼンチン軍はフォークランド諸島に上陸した。サッチャー首相は極度に緊迫した時間を過ごしていた。紛争の場が遠く離れ、戦略的にはきわめて不利な地勢学的状況で、国内に開戦反対の議論が沸騰する中でフォークランド諸島への大量の軍隊、艦船、航空機などの投入を決断した。彼女の心情は同時代人 contemporary として生き、自ら事態の一部始終に没入しないかぎり、理解できないだろう。このフォークランド紛争の部分だけでも、十分映画化できる内容を持っている。

 同じアングロサクソンの国とはいえ、戦争当事国イギリスと同盟国アメリカの間にも微妙な受け取り方の相違があった。サッチャー首相は盟友レーガン大統領を通して、多大な支援をとりつけた。当時、多くの日本人にとっては、対岸の出来事のように感じられていたのではないか。

 さらに、サッチャー首相の在任中は、同僚議員との確執、炭鉱争議、労働組合の没落、労働党の変質、IRAのテロ事件など、めまぐるしく背景が移り変わった。11年半にわたる年月を乗り切った彼女の強い意志は、チャーチル以来の政治家という評価をも生んだ。

記憶に残る一齣
 
筆者の網膜に小さな残像として残っているのは、日産自動車のイギリス、北イングランド、サンダーランドへの直接投資にかかわる一幕である。John Cambellの伝記にも現れてこない出来事ではある。

 サッチャー首相は就任当時から、炭鉱閉鎖などで失業者が多いイングランド北東部地域における雇用創出のために、地域の内発的な産業・雇用の活性化を強調していた。さらに、国内資本が投資をしないならば、外国資本を積極的に導入して、産業基盤の育成、雇用の創出を促進するとし、産業が地域に生まれないならば、外国資本に優遇措置を与え、産業育成を図ろうとしてきた。

 その重要な事例のひとつが、日産自動車のイングランド北東部サンダーランドにおける工場設立の育成・助成であった。今では日本の自動車企業の海外工場は珍しくないが、当時は投資リスクが大きいとして、慎重な企業が多かった。とりわけ、労働党政権以来、強力であった労働組合の力を恐れる日本の企業が多かった。日本企業はおとなしい企業別組合に慣れていて、同一企業内に多数の労働組合が存在し、経営者に強力な交渉力を発揮することを恐れて、投資をためらう風潮があった。

 1986年9月、たまたま、この地に近いダーラム大学で教壇に立っていた友人Bと、日産自動車を初めとする日本の自動車関連企業の地域開発に与える実態調査を行っていた筆者は、工場開所式の前日、旧知のイギリス人人事部長へのインタビューを行っていた。話には「カイゼン」、「カンバン」、「ジャスト・イン・タイム」などの言葉が頻発した。帰りがけに、明日の開所式のテープカットには大変興味深い人が来られるよとのリーク?があった。その時は誰だか分からなかったが、翌日の新聞を見て驚いた。サッチャー首相自らが現れたのだった。外国企業の工場開所式に首相自ら足を運ぶとは、当時の状況からも想像していなかった。あたりはまだ企業も少なく草深い荒野のような状況だった。

 実は、この2年ほど前に来日した彼女は、日産自動車の社長に自ら北イングランドへの工場進出を強く働きかけていた。その結果、彼女の説得が実り、およそ2年間という短時日で、サンダーランドに年産30万台の乗用車生産工場が建設されたのである。筆者が訪れた頃は、工場周辺は身の丈ほどの草が生い茂る、ほとんどなにもない荒野だった。英国日産は今や20万台を欧州などへ輸出、英国にとって最大の輸出企業に成長している。 

 日系メーカーの在英工場はサッチャー首相就任前には十指に満たなかったが、80年代の後半以降急増した。雇用の増加を通じて英国経済の活性化に寄与する外資を国内企業以上に優遇すべしとの割り切った考え方の成果といえる。

 サッチャー首相は決断と行動の人であった。日本も輝いてみえた時だった。

 

 

 

 NISSAN サンダーランド工場開所記念

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混迷からの脱却:イタリアの教訓

2012年03月26日 | グローバル化の断面

 

 

  近刊の雑誌の記事を読んでいると、いきなりかつて不慮の死をとげた友人マルコ・ビアッジの名が目に入ってきて、一気に10年前に引き戻された感じがした。話は1999年まで遡る。ローマでイタリアの硬直的な労働市場を改革し、より流動性を持たせたいと、中道左派の政府案作成に働いていた労働法のマッシモ・ダントーナ教授が、テロリスト「赤い旅団」によって暗殺された。この不慮の死を、後世の記憶に留めるための銘板(上掲)が悲劇の現場に貼られている。しかし、その後3年して、ダントーナ教授の描いた基準を政府案に採り入れようとしたマルコ・ビアッジ教授(労働法・労使関係)も、同じテロリスト・グループの凶手にかけられた。図らずも10年前の3月の出来事であった。

  イタリアではひとたび就いた仕事は一生のものとの考えが、社会に強く根付いており、労働者の解雇は企業倒産などの場合を除き、原則禁じられてきた。このことは、法律の改正が単に法制上の次元に留まらず、社会の制度や人々の考えに深くかかわっていることを示している。しかし、その後改革に着手することなく放置されてきた。硬直的な労働市場の弊害として、失業率は2012年1月で9.2%、若年層にかぎると失業率は31.1%の高率に達している。ヨーロッパでは、スペイン、ギリシャに次いで、ポルトガルとほぼ同じ高い水準だ。

Source: The Economist February 18th 2012.

 ギリシャ、ポルトガル、スペインなどに続き、財政危機、高い失業率に悩むイタリアでは、国民や議会で高い信任率を回復したモンティ内閣が、これまで労働者の解雇を原則禁じてきた同国の労働法を改め、企業が業績悪化などの理由で解雇ができるようにする改革案(労働者憲章法18条)を導入することを企図している。近く閣議決定の上、議会に提出する。モンティ首相は議会の圧倒的信任を背景に、この「聖域」改革に着手することに踏み切った。

 改正案では、企業の業績など経済的理由での解雇が可能になる。さらに、失業保険制度で給付の期間や金額が統一される。企業に男性の育児休暇制度の創設を義務づける。試用期間中の年金保険料は企業が負担するなどの改正が盛り込まれている。

 モンティ首相は、こうした改革によって、労働市場を流動化し、外国企業などの参入を促し、国際競争力を強化することを目指している。そして、5月に予定される地方選挙前に労働組合、経営者などの合意をとりつけたいとしている。

 しかし、同国最大労組「イタリア労働総同盟」(CGIL、組合員約600万人)は安易な解雇が増大するとして、激しく反対している。そのため、法案の帰趨はまったく分からない。

 この激動の時代にあって、ひとたび仕事に就けば安泰であり、その権利を奪うべきではないという考えは、ほとんど「幻想」に近い。そうした考えが根強いかぎり、若い人たちの仕事の機会は増えることはない。今日の世界では、仕事自体の存在、存続性が限りあるものになっている。限られた仕事の機会をいかに公平に分け合うか、話し合いは労使の間ばかりでなく、労働者の間でも必要だ。

 イタリアに限ったことではないが、法律の導入は正しく状況が見通されている場合には、一定の整理の役割を果たすが、方向を見誤ると、かえって世の中の変化への対応を妨げる桎梏にもなりかねない。グローバルな変化を十分見据えた新しい労働観に基づいた政策を、労使などの関係者は共有しなければならない。現状は、イタリアも日本もかなり混迷している。どこの国でも、労働組合など組織された側の勢力は、未組織の分野に本質的に冷淡である。国家的な危機ともいえる今、組織労働者、未組織労働者の別なく、グローバルな展開を背景とする新たな労働市場観の形成と共有が必要に思える。

 久しぶりに、カヴァレリア・ルスティカーノを聴いてみたくなった。

 

“Labour Reform in Italy: Dangermen” The Economist  February 18th 2012.

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歳を重ねて賢くなるドイツ

2010年04月12日 | グローバル化の断面


大戦経験の風化の中で
 戦後長らく日本とドイツは、さまざまな点で比較されてきた。両国共に、第二次世界大戦の経験はすっかり風化しつつあるようだ。ある若い世代のグループに日独の戦後にかかわる話をする機会があったが、どれだけ分かってもらえたのかまったく定かでなかった。日本とドイツが第二次大戦における敗戦国であるという実感が想像以上に希薄化している。大戦についての現実感がまったくなく、「のれんに腕押し」という印象だった。時の流れの生み出す恐ろしさ、虚しさを厳しく感じる。

 総じて1980年代までは、両国ともに「奇跡の復活」をとげた国だった。とりわけ、ASEANなどのアジア諸国、そして中国、インドの台頭まで、かつての敗戦国日本はアメリカ、ヨーロッパとともに、世界経済の牽引車の役割を果たした。その後、日本はバブル経済破綻後の経済運営に失敗、長い停滞と国力の著しい衰退の過程にある。ドイツは日本ほどの決定的破綻は回避したが、ベルリンの壁崩壊による東西ドイツ統一の熱狂的高揚は急速に冷却していった。しかし、ドイツには今の日本のように国を覆いつくすような将来への不安感はあまり感じられないようだ。

オルソン仮説の生きた時代 
 今は亡き優れた経済学者M.オルソンが、イタリアを含めた第二次世界大戦の敗戦国が、戦後ある時期まで揃って高度成長を享受しえたのは、これらの国々が敗戦によって、戦前に蓄積した様々な政治・経済・社会的束縛、しがらみの多くを失い、アメリカやヨーロッパの戦勝国よりも進んだ最新技術、新産業の展開をなしえたことだと述べたことがあった。さらにこうした敗戦国は、財閥やコンツエルンあるいは労働組合などに代表される「特殊利益集団」の社会的束縛からも相対的に解放され、企業や労働者は自由な活動の場を享受しえたとした。

 しかし、その後のグローバル競争の場では、早い時期に脱落したイタリアを含め、日独両国ともにかつての輝きを失い、すでに長い時間が経過した。その間、敗戦という思いがけない歴史的出来事で、戦前の新たな経済効率や成長を阻害する要因が、これらの国々に形成されたようだ。主要工業の設備年数なども老朽化が進み、新興国に追い抜かれてしまった。ドイツにしても、東西ドイツ統一達成の輝かしいユーフォリア、高揚感に包まれていたのは短い時間であった。

 日本の惨状はもはや語るまでもない。この国は、次世代にあまりに大きな負担を残してしまった。戦後の硬直化した政治・経済・社会制度を修正しようとした規制緩和などの制度改革の試みは、全体的展望、時代的方向性、具体化の過程など、多くの点で重大な誤りを犯し、現在の深刻な状況を生んだ。その後、国民の失望と不信を背景に、政権交代に成功した民主党系連立政権も、国家としての基本構想、政策立案などの面で、国民に確たる方向性を示し得ず、惨憺たる混迷状況を続けている。あたかもオルソンが提示している経済的停滞をさらに「下方への悪循環」へと導く危険性が感じられる。

 もうひとつの極であり、世界の指導者を自負してきたアメリカも、その基盤は大きく揺れ動いた。オバマ大統領も就任当時の国民的熱狂はどこへやら、支持率も低空飛行を続け、医療改革はなんとか形をつけたが、秋の中間選挙への反転材料を確保するのにやっきとなっている。米ソ核兵器削減など、最近ようや人気回復・反転の時を迎えたとされているが、どうだろうか。

見直されるドイツとメルケル首相
 その中でこのところ注目を集めているのがドイツだ。国家として動きが鈍い、特色がないとの評判だが、予想外に弾力的だ。経済成長は2006年から低下の一方だが、失業率はなんとか一定範囲に抑え込んできた。EU域内のライヴァル国であるフランス、イギリスが不振を続ける傍らで、ドイツはヨーロッパのエンジン(Europe's engine: The Economist March 13th-19yh 2010)と積極的に評価されている。ドイツなしにEUは浮揚できない。

 評価が高まっているのは、アンゲル・ドロテア・メルケル首相だ。2005年CPU(キリスト教民主同盟)党首として、第8代ドイツ連邦共和国首相の座に就いた当時と大きく変わった。当時は「コールのお嬢ちゃん」Kohls Mädchenなどと揶揄されていたが、いまや「鉄のお嬢さん」 Eisenes Mädchenに変わっている。サッチャー首相の「鉄の女」に対比されていることはいうまでもない。メルケル首相のことを最初から注目して観察していたわけではないが、サッチャー、クリントンなどのアングロ・サクソン系の女性指導者と比較すると、デビュー時、そしてその後の活動ぶりがかなり対照的に見える。派手さはないが、抑えるところをしっかり抑えて危なげがない。もっとも、これはヨーロッパから離れて見ているからかもしれない。

 興味深いのは、西欧の政治世界ではスタンドプレーに走らず、地味な印象に終始してきたことだ。「最初は処女のごとく?」なんとなく控えめで、なにをやるのか、できるのか分からなかったが、着実に実績を積み上げてきた。東ドイツ出身、科学者、保守系、女性という出自・背景が影響しているのかもしれない。感情をあまり露わにしないのも、野党やマスコミの攻撃を抑えている原因かとも思う。果断さはあまり感じられないが、着実で安定している。ギリシャ救済問題でも、彼女の意思は強く、EU単独で救済した場合にドイツが最大出資者になることを恐れて強硬に反対を続け、ついに他のEU諸国の結束を揺るがし、意図を貫いた。隣国フランスのような派手さはないが、しっかりと国益は守るしたたかさを備え、なんとなく現代ドイツという国を象徴するような女性だ。 

 現在のドイツは、かつてのような先端技術産業の旗手というイメージはないが、自動車産業を中心に幾度となく大きな破綻を回避し、手堅い国家運営ぶりを示している。自動車企業もそれぞれ国際的な企業連携の道でなんとか生き抜こうとしている。

 もっとも、GDPに占める研究投資も先進国の間では、ほぼ中位に位置し、戦前と異なり、グローバルな市場で首位を走る産業・企業もさほど多くはない。高等教育でも過去にとらわれすぎ、卒業生の数が少なく、時代の変化に対応できていないともいわれる。かつて世界をリードした医学もアメリカなどにとってかわられた。科学技術国ドイツというイメージはかなり薄れた。他方、女性と移民労働者は十分活用されているとはいえない。多文化主義の理想は、破綻状態だ。

 統合後の東西ドイツは相互に近づいているが、真に融合するには多くの時間を要するだろう。アメリカや日本のように、政権が民主勢力に変わることはなかったが、政党の分裂状態はこの国でも避けがたい。

 このような問題を抱えつつも、ドイツには頑健さと安定感が感じられる。The Economist誌*が、ドイツの特集のタイトルに「歳を重ね、賢くなった国」と形容している。しばしば利害の衝突を見せながらも、EUにおけるドイツへの信頼と期待は強まっているようにみえる。かつて同じ道を歩んだ東洋の国は、ドイツからはどうみえるのだろうか。同じように歳はとったが、賢くなったという評価はどうも聞こえてこないのだが。 





*References
Olson, Mancur. The Rise and Decline of Nations: Economic Growth, Stagflation, and Social Regidities. New Heaven and London: Yale University Press, 1982.
“Older and wiser: A special report on Germany.” The Economist March 13th 2010

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中東式格差解消?法

2010年01月28日 | グローバル化の断面

 ドバイ・ショックがリーマン・ショックのごとき世界経済への決定的な大衝撃にいたらず、多くの人々がほっとしたのではないか。といっても、問題が完全に解決したわけではない。関連して読んだ記事*の中から、このブログのテーマに関連する話題をひとつ。

 ドバイ危機の騒ぎの中であまり話題にはならなかったが、この国に世界最高のビルと誇示するブルジュ・ハリファBurj Khalifaが竣工した。公称168階建て、最高828メートルの超高層ビルだ。これまで順風満帆であるかにみえたドバイ経済が急発展した中から生まれた大胆な建造物だ。ドバイ・ショックの洗礼を受けた後では、なにやら「砂上の楼閣」の感も禁じ得ない。  

 注目すべきことは、この建物がほとんどすべて外国人によって企画、建造されたことだ。アメリカ企業が設計し、施工、管理は韓国、ベルギー、日本などの外国企業が行い、もっとも時間と労力を要する土木工事は東南アジアを中心とする外国人出稼ぎ労働者が担った。 関与した労働者の国籍は100カ国を越えた。

 実際、アラブ首長国連邦の労働力の90%は外国人だ。カタール、クエートでは80%以上である。サウジアラビアのように2200万人近い自国民を擁する国であっても、同国の仕事の半数近くは外国人が担っている。しかし、彼ら外国人はこの国に住むことを認められていない。仕事が終われば、直ちに国へ帰るしかない。生産工程に投入される原材料のように、融通無碍に増減されるフローの労働力として位置づけられている。  

 他方、公務員に代表される高給で安定した仕事の機会は、ローカルの自国民にしか開放されない。彼らは事業や景気の後退時にも解雇されることがない、いわばストック労働力だ。経営管理者層や中間管理職層などの仕事は、UAEの自国民、下級技能の事務や肉体労働は、ほとんどすべて低賃金・フロー型の外国人労働者によって担われている。両者の間には賃金など労働条件でみても、「超絶格差社会」ともいうべき実態が存在する。

 湾岸諸国の多くは、概してマクロ経済的には豊かだ。しかし、この豊かさはその反面で、無気力、無関心、退廃、安逸に流れるなどの後退現象を引き起こす。自分がこの世界でなにをなすべきか、なにができるかを見出すことができず、無為、無気力に日々を過ごしている若者たちが増えている。彼らは低賃金の民間雇用の機会には就こうとしない。やむなく、そうした仕事は出稼ぎ外国人労働者にゆだねられている。自国民でありながら、積極的に生きるインセンティブを見出せない人たちの増加に、国の指導者たちのいらだちはつのる。なんとなく、日本の現実に通じるところもある。

 こうした湾岸諸国の物質的には恵まれた豊かな国民と、貧しい出稼ぎ外国人の実態を、「マリアナ海溝」にたとえる人もいる。社会が別の社会のように、深く断絶、分け隔てられているという意味だ。近年、UAE政府は、「首長国化」Emiratisation あるいは「サウジ化」Saudisationというのスローガンの下に、企業に割り当て制で自国民を優先雇用するように勧めている。さらに、UAEとサウジは、景気後退時には外国人を最初に解雇するように指示してもいる。ローカル優先策である。

 こうした状況で、バーレーンの採用した政策に湾岸諸国の注目が集まっている。バーレーンも民間部門の仕事の80%近くを外国人労働者に頼っている。 しかし、政府は外国人労働者の雇用を抑制する反面で、ローカルな自国民をより雇用しやすい状況を生み出すことを意図している。豊かな社会に取り残された無気力な若い労働者の雇用機会の創出だ。

 この目的のために、2008年7月以降、バーレーン政府は、外国人の労働ヴィザの発給について、企業に対し外国人一人当たり200ディナール(530ドル)の費用支払いを、さらに外国人従業員一人当たり、毎月10ディナールの課金支払いを求めている。外国人労働者を雇用するコストを高めて、ローカルな国内労働者に目を向けさせようとする考えだ。

 しかし、バーレーンの経営者たちはこうした課金を払っても、外国人労働者を雇用することをやめられないでいる。 バーレーンはその後、外国人労働者への課金を増やし、年間9百万ディナールが課金収入として入ってきた。その80%は「タムキーン」(Tamkeen バーレーン企業と労働者の生産性改善のための機関)へ、安いローンと訓練費用負担という形で注入される。19,000人のスキルを持たないバーレーン人労働者を訓練し、データ入力の仕事、新聞配達などの仕事を与えようとしている。 言い換えると、外国人労働者を雇用することを課金によってコストが高いものとし、得られた課金を原資に自国民労働者の雇用改善を図ろうとする政策だ。

  安い労働力の存在は訓練、技術への投資を妨げていると、バーレーンの労働大臣は述べる。「だから生産性は低く、賃金も低い。そのため民間部門はバーレーン人にとって魅力がないものとなる。バーレーンはローカルな人々が期待する高い賃金にふさわしい労働力を養成したい。」

 合理的な考えのように見えるかもしれない。しかし、どこかおかしい。いくつかのことが考えられる。最大の問題は、バーレーンに代表される湾岸諸国は、外国人労働者の力と才能を十分に取り入れない限り、発展はありえないということだ。彼らの存在を必要悪のように考え、「2級市民」として固定化する政策に固執するかぎり、望む成果は得られない。

 外国人労働者の受け入れを国民的議論の対象とすることなく、先延ばしにしている日本とは、大きく異なると思われるかもしれない。しかし、この問題、よく考えると、日本の格差縮小政策についても、大きな示唆を含んでいる。


バーレーン労働者と外国人労働者の労働コスト
民間部門 (通貨単位:バーレーン・ディナール)

 

 

 

References  
  * "Briging the gap" The Economist  2010


 中東湾岸諸国の労働実態は、日本ではあまり知られていない。下記の新著は出版時とドバイ金融危機が運悪く重なってしまって大変残念だが、中東を代表するドバイの実態を深く解明した労作だ。ご関心のある方々にぜひお勧めしたい。

佐野陽子『ドバイのまちづくり』慶応義塾大学出版会、2009年

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日本は「ディズニーランド」か

2010年01月06日 | グローバル化の断面

日本はディズニーランドか
 

 新春にたまたま読んだイギリスの総合雑誌の論説に、日本に言及した興味深い記事があった。このブログの関心領域に触れる課題なので、忘れないうちに簡単に感想を記しておきたい。

 今日の日本で、外国人がどこへ旅行しようとも、初めて外国人を見るような奇異な目で遇されることは恐らくないだろう。日本各地の人々にとって、外国人は少なくとも珍しい存在ではなくなった。

 日本に外国人労働者が目立つようになった1980年代以降、ずっと現場を見続けてきた者にとっても、瞠目する変化だ。少なくも「第二の黒船」論は聞かれなくなった。交通・通信手段の著しい発達もあって、外国人とのアクセスの場面は明らかに増加した。お隣の国、韓国では2008年時点で人口の42%が外国人と話をしたことがないとの調査もある。しかし、韓国の外国人居住者の数は過去7年に120万人増え、人口の2%に達した。外国人労働者の受け入れには、日本より積極的だ。  

 外国人(移民)労働者受け入れという点では、先進諸国の中で日本はかなり特別な目で見られてきた。人口に占める外国人の比率が2%に達していない。日本は外国人にとって本当に居心地が悪い国なのか。もしそうだとすれば、なにが原因なのか。これまでにも、さまざまに探索がなされてきた。外国人(移民)については、多くの視点からの分析が可能だ。従来、経済学、社会学、文化人類学などに立脚した研究が多いが、それだけでは一面しか見えてこない。実態を正しく見るには、多面的な観察と分析が欠かせない。  

 その中で興味深い視点は、Foreign (外国の、異質の、関係がない、などの意味)とは、いかなることを意味しているかという観点からのアプローチだ。この観点に立つと、いくつかの注目すべき側面が見えてくる。たとえば、アメリカでは旅行者は別として、国民の誰もが自分は外国人であるとは思っていない。あるいは場違いな所にいるとも感じないようだ。それは、いうまでもなく、ほとんどすべての国民が、元来外国人あるいはその子孫だからだ。彼らの先祖の国籍は、世界のほとんどすべてをカバーしている。  

 他方、外国へ旅をして自分がそこでは外国人として見られている、あるいは地元の人とは違った「異質な」(foreign)存在だと感じる地域は、地球上で少なくなっている。外国から来た人たちが自らを「異邦人」と感じ、現地に住む人たちから彼らとは異なる「外国人」としてみなされる地域は、アフリカ、中東、アジアの一部くらいだろう。  

 先進諸国における外国人の人口に占める比率は約8%、不可逆的に増加しており、外国人が真に自分が外国人と見られていると思う国は次第に少なくなっている。外国人であることは、まったく珍しくない状況になった。   

 こうした中で日本は依然特別な目で見られている。確かに、移民受け入れの歴史も浅く、外国人比率も先進国中でも最低に近い部類だ。この点について興味深い視点は、日本という国はディズニーランドのような仕組みで出来上がっているという見方だ。それによると、日本は外国人を含めて、誰もがある定められた役割を演じることを求められている国であるという。すべてが同じ目的の為に暗黙裏にも準備されている。

 確かに思い当たることは多々ある。外国人は定住が認められた後も、ずっと外国人であり続けることが求められている。外国人は外国人らしくあるべきだという有形無形な枠組みが日本には存在するとでもいえるだろうか。高い言語の壁、宗教、道徳性などがその仕組みを支える役割を果たしている。さらには急速に西洋化することへのためらいや反発があり、近年の中国の急成長への対応もあって、アジアへの傾斜も見られる。 

 他方、アメリカでは心理的には誰もあまり壁を感じることなく、アメリカ人になれる。しかし、日本では外国人が日本人になることはきわめて難しい。日本に長く住み、日本語に熟達していても、いつになっても外国人のままなのだ。確かにその通りだといえよう。しかし、もしそうであるとしても、この仕組みを作り上げている論理は不明な点も多く、十分には解明されていない。  

 日本は外国人労働者(移民)の受け入れに、出入国管理などの制度上でみるかぎり他の先進国並みあるいはそれ以上に開放され、寛容であるとの主張がある。しかし、現実には日本が望むような高度な技能、専門性を持った人たちが期待するほど入国、定着しない事実は、そこに目に見えないしきたりや制約(壁)が存在することを暗示しているかもしれない。

 他方、アメリカの覇権を求める帝国主義的行動あるいは専横性を嫌う人々がいても、アメリカの最大の力は人々がそこに住みたいと思うことにある。世界の移民希望者に最も移住したい国を聞けば、アメリカは図抜けて希望者が多い。外国人を外国人と思わせることなく、吸収・同化してしまう国である。アメリカを最大のライヴァルとみなす中国でも、アメリカ留学希望者はきわめて多い。その中には、北京の最高指導者たちの子女も含まれている。彼らは、大きな摩擦なく受け入れ国に留まる上で必要な世俗の術にもたけている。合法移民・滞在者として税金を納め、生活に困らない程度の英語を話し、受け入れ国に親密な態度を示すという程度の内容である。   

 明らかに国家的衰退の兆しが顕著になっている日本にとって、活性化の重要な選択肢のひとつに移民(受け入れ)政策がある。しかし、国家のあり方まで含めて、徹底議論されることはほとんどない。先進諸国の中で、唯一人口を増やしているのはアメリカだ。もちろん、移民がアメリカを強い国としている唯一の原因とは考えられない。デメリットも当然ある。しかし、基本的に外国人が住みたいと思わない国に明るい未来があるとは思われない。オバマ大統領の誕生に見るように、新しい考えが生まれないかぎり、創造も発展もない。100年先の国のあり方を見据えて、外国人も視野に含める新しい人口政策の構想が必要だろう。「国家戦略局」(仮称)が考えねばならないことは、日本の将来にかかわる基本構想、基軸を国民に示すことではないか。
それなくして日本が「輝く国」とはなりえない。



References
“The others”and “A ponzi scheme that works” The Economist December 19th 2009
George Mikes. How to be An Alien.
1973

上記ブログ記事は雑誌論説に触発された管理人の感想にすぎません。当該雑誌の論説詳細は上記を参照ください。

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日の当たる場所?:東ドイツの日々

2009年11月12日 | グローバル化の断面

未来を見るために過去を見る

 ベルリンの壁崩壊20年目の今年、世界中のメディアがさまざまに、この歴史的出来事を回顧している。その中のほんのわずかを目にしたにすぎないが、ひとつの感想を記してみよう。

 マーガレット・サッチャーの回顧録によると、彼女の首相在任中に起きた東西ドイツ統一についてとられた政策は「まがうことない失敗」unambiguous failure だったとしている。それによると、彼女は旧東ドイツの民主革命を歓迎はしたが、壁の崩壊後すぐに、ドイツの国民的性格と統一後のドイツが中央ヨーロッパで占める位置と規模から、多くの人々が期待したヨーロッパの安定化ではなく、逆に不安定化の力が生まれると思ったという。イギリスのドイツ・アレルギー?が感じられる。

 確かにベルリンの壁が崩れた当時、ドイツを中心に世界へ広がったユーフォリア(多幸感)は急速に薄れ、代わって強まったのは「混沌」、「不安」、「格差」、「貧困」などネガティブな側面だった。今日では、東ドイツの時代への懐旧すら生まれている。統一ドイツの下で恵まれない人たちに限ったことだと思われるが、彼らには「日の当たる場所」Auf der Sonnensiteだったのだろうか。

 確かに西側世界も、東の人たちが想像していたような、正義が貫徹し、政治家も官僚も信頼できるという希望に満ちたものではなかった。計画経済の世界は崩れ、市場経済が席巻する世界にはなったのだが、期待が大きすぎたのだ。

 サッチャーの感想が当てはまるかに見えるが、そのままには受け入れがたい。ドイツ統一についての各国の政策がどうあろうと、いずれは起きた変化だ。その後の金融危機にいたる大激動の根源を壁崩壊に求めるのは、正しくないだろう。この多元化した世界で、ベルリンの壁崩壊というひとつの歴史的出来事から、その後の世界の大きな変化が連鎖的に展開したと考えるのはナンセンスに近い。

 他方、ベルリンの壁崩壊に先だって、予兆が感じられたことは事実だろう。ジャック・アタリによると、壁崩壊に先立つ1987年、ゴルバチョフは民衆に発砲するなと指示していたようだ。すでに地鳴りが聞こえていたのだ。衝撃的なことは、今日でもロシア人の7割は、壁がなぜ構築されたか、そしてなぜ崩壊したかを知らないと答えていることだ。

 20年という時間は短くもあり、長くもある。ドイツでも国民の記憶は急速に風化し、壁があった時代を実感しがたいと答える若者が多いと伝えられる。日本ではどうだろうか。いくつかの話を聞くと、肌寒い感じがする。同じような企画の洪水には辟易もするが、壁崩壊前後を、追体験し、回顧することは必要なことだ。過去を振り返ることなくして未来は見えてこない。




「ジャック・アタリ
が語る市場経済の20年」BS1 2009年11月9日

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臨時休館のお知らせ:幕を下ろさないアフガニスタン

2009年09月23日 | グローバル化の断面


 本日9月23日、ニューヨークのメトロポリタン美術館は臨時休館で、一般への公開は行われない。昨日、22日(現地時間)に急遽発表された。ニューヨークの国連総会などの行事に参加する人々の観覧に供するためという理由である。

 ニューヨークは見所はいたるところにある。なぜ、メトロポリタンなのか。この世界的に著名な美術館を知らない人は少ないはずである。一般公開を行わないというのは、恐らくテロリストなどが観客に混じって入り込むことを防ぐためだろう。あの壮大な美術館を警備することは、きわめて大変なことは説明するまでもない。気候変動サミットなど国連の諸行事へ参加する各国の要人・有名人の中には、いまさら美術館見学でもあるまいと思う人もいるかもしれない。そこには企画者側が深く考えた理由があると思われる。

 去る日曜日、2009年9月20日、メトロポリタン美術館でひとつの企画展が幕を閉じた。『アフガニスタン:カブール国立美術館の秘宝』 Afghanistan: Hidden Treasures from the National Museum, Kabulであった。

 これは、このブログに記した 2006年12月から07年3月まで、パリのギメ東洋美術館で開催された企画展が大西洋を越えて、いくつかの地を転々とした後、ニューヨーク・メトロポリタンで実現したものだ。アフガニスタンが戦火に巻き込まれて以来、カブール(カーブル*)の国立美術館に所蔵されていた貴重な所蔵品の九割近くは、焼失、散逸、窃盗などで失われたといわれていた。その中で同館館員の献身的な努力で、宮殿・中央銀行の地下室深くに密かに移転されていた秘宝があった。それらは25年の間、人の目に触れずにいたが、上述のパリの企画展で初めて公開された。

 この懸命な努力で地下室に隠匿されていたアフガンの名品は、再び人の目に触れられるまでになった。文字通り、東西文明の交差点にあった、この国に残っていた秘蔵品の精髄とも言うべき品々だ。数はないが、見る者の目を奪う素晴らしさだ。ギメ東洋美術館で公開された時の人々の驚嘆を思い起こす。決して多くはないが、息をのむような華麗で優雅な出土品の数々に、声を失い、魅了された。出展された品々は、西暦前2000年から西暦5世紀くらいまでの選り抜かれた名品である。

 主として、ラクダによる隊商に依存した東西交易では、美術品は小さく、精緻を極め、芸術的価値も至高な品だけが交易の対象となった。遠いヘレニズム文化の流れを明瞭に留める品々、東西文化の精髄を凝縮したような装飾品など、その美しさ、文化的価値は計り知れない。このような華麗、珠玉の文化遺産を生んだアフガニスタンが、なぜ今日のような殺戮と破壊の巷に化してしまったのか。

 アフガニスタンが国連の最重要問題のひとつであることは改めていうまでもない。今回の国連行事の参加者のために、メトロポリタン美術館が選定されたというのは、目的が美術館の一般展示を見せるためではないことはもはや明らかだ。幕を下ろしたばかりの『アフガニスタン』展を特別に公開し、栄華をきわめたアフガン、そしてカーブル美術館の在りし日の残光から、そのほとんどを破壊、散逸させてしまった人間の恐るべき愚行と悲惨な結果について、深く思いをめぐらせてもらうことだ。

*
KABULの現地の読み方は、「カーブル」に近いようだ。しかし、日本の新聞、マスコミなどは「カブール」と記すものが圧倒的に多い。表記の難しさを感じさせる。ここでは、過去の記事とのリンクもあって、「カブール」としておくが、今後は表記を改めて行きたい。

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アメリカ人は学校嫌い?

2009年07月03日 | グローバル化の断面


マーク・トゥエイン『ハックルベリー・フィンの冒険』初版(1885)の口絵
  



  グローバル大不況がもたらした経済活動の下降も、ようやく下げ止まり、底を打ったのではないかとの観測が生まれている。景況感も改善の兆しがあるようだ。しかし、日本、アメリカ、EU、いずれをとっても労働市場の停滞は厳しい。アメリカの6月の雇用統計は、非農業部門の雇用者数は前月から46万7000人減少し、予想を大きく裏切ることになった。失業率も9.5%と前月より悪化している。早期に改善の兆しはない。

 こうした中、アメリカでひとつの論争が生まれている。小学校、中学校などの義務教育課程で、アメリカは他国と比較して授業日数が短いのではとの問題提起だ。アメリカの学校は通常月曜日から金曜日までの午前中と午後の早い時間だけ授業が組まれ、夏の間は3ヶ月間、夏期休暇になる。この長い休暇も問題視されている。しばしば、ヨーロッパ、とりわけフランス人の長いヴァカンスを茶化しておきながら、お膝元の状態には気がついていないようだ。

 平均的な子供たちはこの休暇の間に、授業の1ヶ月分に相当する成果を忘れてしまう。数学については、ほとんど3ヶ月分の成果が消えてしまう。学者の間では「夏期の学習ロス」”summer learning loss” とまでいわれている。さらに、授業が終わった後の長い休暇に、裕福な家庭では父親が子供を教えたり、家庭教師をつけたりできるが、貧しい家庭ではそれもできず、結果として貧富を背景に知的格差が拡大してしまうとの議論まである。

 さらに、国際比較をしてみると、子供たちの学力という点では、アメリカは、中国、韓国などアジアの子供たち、さらにヨーロッパの多くの国々と比較しても、遅れているとの指摘がなされている。カリフォルニアの州立大学では大学の水準を維持するために、新入生の3分の1近くを英語と数学の補習に当てねばならないという事態まで生まれた。

 オバマ大統領も事態を憂慮し、アメリカはもはや「日の出から日没まで、子供たちも親たちと一緒に畠を耕していたような農業中心のカレンダーではやっていけない」と述べ、改善の必要を求めている。さらに、「中国やインドの子供たちは、アメリカ人の子供よりもアカデミックだ」との指摘さえある。

 公立学校の中にはオバマ大統領などの要請を受けて、学年暦を変更し、月曜から金曜日まで朝7時半から夕刻5時まで授業をし、時には土曜日にも授業をするという方針に切り替えようとする学校も生まれている。夏期休暇も2週間程度短くする。アメリカの良い所は、悪いとなると改めるのが早いことにある。しかし、こうした決断に踏み切った学校の数は未だすくない。

 アメリカ人の多くは、こうした変化に乗り気ではない。教員組合などの利益集団の反対も強い。さらにサマー・キャンプ産業なども、商売の機会を奪われると反対している。

 そればかりではない。アメリカには公教育に乗り気ではない文化的風土があるとの説がある。ひとつはセンチメンタリティだ。アメリカ人の子供の原型はハックルベリー・フィンにあるという。彼は学校には余り行きたがらなかった。ハック・フィンは村の浮浪児で、基本的にひとり独立して生活し、社会の秩序に縛られず、自然のままに自由に生きる少年というイメージがある。学校よりは家庭、家庭より個人という流れだ。

 もうひとつは自己満足だ。アメリカの親たちは授業日数を7月、さらに8月まで延長することに抵抗する。父親の負担となりがちな宿題の増加にも後ろ向きだ。しかし、親たちは、教科書にしがみついて懸命に勉強している中国人が、将来自分たちの子供の仕事を奪うのだということを信じがたいようだ。現実はすでにはるか先まで進んでいる。シリコンバレーの企業の半分近くは、インド、中国人など外国人によって創業されたものだ。高い専門性、技能を持った移民労働者の頭脳なしには、アメリカの競争力は維持できない。

 ハックルベリー・フィンは、1885年の出版だ。農業、そして工業の時代は、終わりを告げている。肉体労働は依然として必要とはいえ、そのウエイトは大きく減少した。一日の仕事の終わりに、残った仕事をインターネット上で地球の反対側に送って作業を頼み、翌朝オフィスでその結果を受け取ることが可能な時代だ。

 他方、1980年代、「会社人間」「働き中毒」workaholic とまで揶揄され、世界一の勤労意欲の高さを自認し、義務教育の充実と成果を誇った日本だが、その後国際的にもランキングが急低下している。ハックルベリー・フィンのようなロール・モデルも見あたらないこの国では、教育のあり方についての国民的議論はきわめて少ない。初等・中等教育から大学・大学院まで含めて、日本の教育内容は劣化が著しい。教育水準の低下は、さまざまな次元での国民の議論の質的レベルダウンをもたらしかねない(実際、政治家先生?の低次な議論、どうにかならないかと思うことが多い)。就活のために、週日教室に出ず、会社を駆け回っている学生の実態ひとつをとっても、その影響は「夏期の学習ロス」どころではない。こうした問題ひとつ解決できないことに、関係者は大きな反省をすべきだろう。教育は国の将来を定める。アメリカの議論は対岸の火ではない。

 

 



Reference
“The underworked American” The Economist June 13th 2009.

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デトロイトザウルスの破滅

2009年06月24日 | グローバル化の断面
 イギリスで出版されている文庫や雑誌には、表紙が秀逸なものが多い。ペンギン・シリーズについては、過去に出版された作品の表紙だけを集めて一冊の書籍としたものもあるほどだ。これを見ていると、20世紀社会史のおさらいをしているようで楽しい。同様に、これも著名な英誌The Economist誌の表紙もおもしろい。タイトルからは経済誌のような印象を受けがちだが、経済、政治、科学、文化と幅広くカヴァーしている。

 最近の同誌の表紙、「デトロイトザウルス壊れる」‘Detroitosaurus wrecks' は、GMに代表されるかつてのビッグスリーの大破綻をシニカルに描いたものだ。General Motors (なんと壮大な社名だろう!)は、去る6月1日付けでチャプター11の申請を行い、事実上破産した。同社創立後101年目の出来事だ。  

 GMは2008年にトヨタにその座を取って代わられるまで、世界最大の自動車企業として君臨し、年間9百万台の乗用車、トラックを34カ国で生産してきた。463の子会社、23万4500人の従業員を雇用し、そのうち9万1000人はアメリカ国内での雇用だった。さらに、GMは49万3千人の同社退職者に医療給付と年金給付を支払ってきた。そして、アメリカだけで5008億ドルの部品やサーヴィスを購入してきた。  

 GMは幾度となく危機を克服してきた。不況時には従業員のレイオフも頻繁に実施された。しかし、ひとたび景気が回復すれば、彼らは次々と再雇用された。長い先任権を確保した基幹従業員になれば、早期に退職して人生を楽しむことができたし、親、子供、孫と3代にわたり勤務する従業員もいた。GM独特の企業風土が形成されていた。ひとたび就職できれば「鉄鍋飯」といわれ、退職しても住宅から医療まで企業が丸抱えで面倒をみてくれた改革・開放前の中国国営企業を思い起こさせる。それを可能にしたのは、ビッグスリーの名が示す強力な市場独占力とビッグレーバーとして知られたUAWの交渉力だった。    

 破滅は地滑り的に進行した。GMは今回の再建過程で、難航していたUAWとの交渉で、重荷となっていた健康給付の負担を組合が運営する基金へ移転し、新規に雇用する労働者の賃金・給付コストをトヨタやホンダのようなライヴァルの海外工場と同等水準まで引き下げることを意図している。同じデトロイト・スリーのフォード、クライスラーは、一足先に再建過程に入っている。  

 GMを構築したのはアルフレッド・スローンだ。ヘンリー・フォードほどの起業家的あるいは技術的才には恵まれなかったが、組織を構築する非凡な才を発揮した。あらゆる収入と目的にかなう車を作ることを目指した。  

 彼の企業組織は、北米のような市場の独占を企図するには格好なものであったが、ひとたび環境が変化すると救いがたいほど非弾力的であることを露呈した。1970年代にビッグスリーが直面した危機は、良質で小型な日本車の登場ばかりが原因ではなかった。GMが、そうした変化に対応できなかったことが問題だ。 デトロイトが政府の保護を求めてワシントンでロビイングに没頭することを少なくし、日本車などに対抗できるより良い車の開発、生産に当てたならば、事態はこれほどまでにはならなかっただろう。

 80年代に訪れたデトロイトのビッグスリーの某社企画担当者から、なぜ日本車が売れるのかと聞かれたことがあった。市場のニーズに的確に対応しているからではないかと答え、日本市場で販売を伸ばすには、ハンドルくらいは右側にしなければと口を滑らせたら、アメリカ企業はそんなことはできないとにべもない答で唖然としたこともあった。
 
 さらにGMは退職者に完全な年金と医療給付を保証したのだ。これは政府にも一端の責任がある。もし、アメリカが高価で不適切な医療給付のあり方に適切に対処していたならば、組合要求のコストは今回のような破滅的な負担にはならなかったろう。2007年の組合交渉でデトロイトの車は外国車と比較して、1台ごとにおよそ1400ドルの年金と医療給付のコストを積み上げられた。  

 IMFの予想では2050年に世界はおよそ30億台の車を所有することになると予測されている。今日の7億台と比較すると4倍以上の驚異的な水準になる。これからの5ー6年に中国は年間生産台数でアメリカを上回る。中国は世界が現在保有すると同じくらいの車を所有することになる。そして中国は40年後には、現在世界に存在する車とほとんど同じ台数を持つまでになる。    

 需要がこれだけあれば、自動車産業は宝の山を前にしたようなものではないかと思われるかもしれない。しかし、現在、世界には年間9千万台の生産能力があるが、需要は好況時でも6千万台に留まっている。    GMは今回の政府との取引で14工場、29000人の労働者と2400のディーラーを失う。進化をしなかったGMはまさに恐竜のようだ。滅亡に値するといえよう。トヨタやホンダは恐竜ではない。しかし、油断はできない。自動車産業はその産業史上最大の環境変動が起きている。  

 それは自動車産業創生以来、フォーディズムの名で知られた大量生産様式の大転換でもある。電気自動車、水素自動車など代替エネルギーへの転換も急速に進みそうだ。すでに三菱自動車、日産、VMWなどが電気自動車の生産・販売を公表している。ガソリン・エンジンを基礎とする自動車文明は長く続いたが、クリーンエネルギーが求められる時代を迎え、参入障壁が急速に低くなり、世界的な寡占体制も大きく崩れる。業務用小型車、スポーツタイプの車など、特定分野に絞り込んだ企業など、こまわりのきく小さな企業が参入してくる余地も多い。電池産業などで優位を確立した企業が参入してくるかもしれない。  

 動植物がそうであるように、時代の変化に生き残るためには、産業・企業も進化が必要だ。進化は変化と同義ではない。世代を超える未来を見据え、大胆に自己変革できる企業のみが生き残る。



Reference
‘A Giant falls’ 'The Economist June 6th 2009
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