時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ラ・トゥールとウッチェロ

2006年05月29日 | 絵のある部屋

一人の愛好家として、ラ・トゥールという画家に関わるさまざまな断片を記してきた。美術史家でもないので、かなり自由な視点で、人生の途上でめぐり合ったことを含めて、心覚えのメモのようなものである。こうしてブログに書き出したりすると、自分でも予想しなかったほど、この画家とはつながっていたのだと改めて思う。

ラ・トゥールの他にも好きな絵は多いが、ラ・トゥールの作品には深い心の安らぎを与えてくれる不思議な力がある。その力は、文字通り時空を超えて人々の心を打つ。どちらかというと、大美術館の華やかな雰囲気の中で見るよりは、小さな美術館や教会、修道院の一部屋などで1-2点、一人静かに対面するに適した作品が多い。美術館の雑踏の中ではどうしても印象が薄くなってしまう。作品も世界に知られるようになり、現代社会ではかなえられない願いである。それにもかかわらず、この画家が描いた作品の多くが秘める深い精神性は、人々の心を強くとらえてきた。

作品以外には画家本人が記した資料はほとんどなく、あくまで他者が記した文書の断片などからの推測にすぎないのだが、激動の乱世に過ごしたこの画家の生き様にも大変興味がある。

ラ・トゥールより少し時代が下がるが、しばしば引き合いに出されるフェルメールとは画家としての人生の過ごし方もかなり異なっている。フェルメールも好きな画家だが、ラ・トゥールのような厳しさ、精神的深みはあまり感じられない。彼らの生きた時代環境の反映でもある。市民生活が確立していたオランダと戦乱のロレーヌという風土の違いは大きい。

17世紀バロック美術の流れにおいても、ラ・トゥールは今やフランス画壇の主流に聳える柱の如き存在だが、長年に渡り、どちらかといえば傍流の方に位置づけられてきた。このブログでも取り上げたヴーエやプッサンのようにルーブル宮殿や大伽藍の天井画、壁画を飾ったような華やかな画家でもない。作品の多くは個人的パトロンなどの依頼に応じて、制作されたものである。

今日ここにご紹介するひとつのブログは、ジャック・エドゥアルド・バーガーという美術愛好家の生涯と事業を記念してのものである。美術好きの人はすでにご存じだろう。バーガーは1945年にスイス、ローザンヌに生まれ、その人生を美と美術の追求のために過ごしてきた。残念なことに1993年に心臓病で急逝してしまった。日本を含め、東洋美術への関心と造詣も深かった。その生涯の間に125,000枚を越えるカラースライド・コレクションも残している。

この人生を美の探求に捧げた人物を記憶にとどめるために、彼の名前を付した財団JACQUES-EDOUARD BERGER FOUNDATIONが創設され、素晴らしいサイトが運営されてている。実はバーガーが最も好んだ画家の一人が、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールであった。すでに14歳の時に、ラ・トゥールに関するエッセイを記している。サイトには、彼の美術をめぐるさまざまな跡が残されている。画像の画質はデジカメ時代の初期のものもあり、かならずしも良好とはいえないが、ラ・トゥールについての講演(オーディオ・レクチャー、フランス語)なども収録されていて、非常に興味深い。

そして、現在のサイトのカバーページを飾っているのが、このブログでも紹介したことのある15世紀の画家ウッチェロ Paolo Ucchelloの『森の中の狩』である(6月1日からカラバッジョに代わっているが、ウッチェロ、ラ・トゥールもワン・クリックで見られます)。さらにサイトの今週の画家(painter this week)はこのブログでも少し触れたことがある大画家プッサンである。世界に数ある絵画の中で、どうしてこれほど関心が重なり合ったのか、不思議に思う。


本ブログ内関連記事
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/3a7b58fe8e09d6493ab8364ddf945a1f

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アメリカ移民法案上院可決

2006年05月26日 | 移民政策を追って
  
    国論を二分するほどになったアメリカの不法移民問題だが、その後少し変化があった。

  ABCなどが伝えるところでは、アメリカ上院は5月25日、一定の条件を満たす不法移民にゲストワーカー(一時労働者)の資格を認め、将来の市民権獲得に道を開く計画を盛り込んだ法案を62対36で可決した。ブッシュ政権の路線にほぼ沿った内容である。しかし、下院が昨年末に通過させた不法滞在者に強硬な法案との調整が残っており、上下院の衝突が予想されている。下院には不法移民に強硬な立場をとる議員が多い。ブッシュ政権が目指す年内成立のめどは立っていない。

  上院可決の法案では、年に20万件のゲストワーカー・ビザの発給を認めた。不法滞在の年数に応じ、(1) 5年以上の場合は、英語を習得し犯罪歴がないことなどを条件に市民権申請を認める。(2) 2年から5年の場合はいったん帰国し、グリーンカード(永住許可証)を申し込む。(3) 2年以下の場合は本国に送還とされている。またブッシュが提唱した最大6千人規模の州兵派遣も含んでいる。

  ブッシュ政権側としては、上院・下院の妥協が成立しそうな内容であるとしているが、まだまだもみ合いが続くだろう。さらに、もはや無視できない存在となった(合法、不法を問わず)ヒスパニック系移民の動きも見えていない。いずれにしても、不法移民問題の根源への視点が欠如しており、長期にわたり難路が続くだろう。
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アフリカを離れて(2)

2006年05月25日 | 移民の情景
  このブログでも再三取り上げているが、アフリカからヨーロッパを目指し不法入国を試みる人々が増えている。しかし、彼らがたどる経路に変化が出てきている。欧州での豊かな暮らしを夢見る彼らにとって、それまでよく使われてきた地中海経由の密航が警備強化で難しくなったのである。

  その結果、アフリカ内陸部のセネガルなどから大西洋沖の「欧州」を目指す新ルートがとられるようになった。スペイン領カナリア諸島を足がかりとして、大陸への上陸を図る道である。カナリア諸島はモロッコ沖の大西洋にある火山群島で、スペイン17自治州のひとつである。その最東端はアフリカ大陸から105キロ離れている。ジブラルタル海峡をはさんで、アフリカとスペインの最短距離は14kmにすぎない。

  カナリア諸島はヨーロッパでも良く知られたリゾート地だが、そこに突然移民が殺到する状況が生まれた。アフリカからの越境者は小さな船外機がついたボートなどで、アフリカのモーリタニア、セネガルなどからカナリア諸島を目指すが、その数は急速に増えている。対応に窮して、音を上げたスペイン政府はEUに支援を要請した。もっとも、これが最初ではなく、これまで繰り返し同様な支援を依頼してきた。

  海路であるため荒天などでボートが沈没するなど、遭難のケースも相当あるとみられる。スペイン赤十字は昨年だけでも、1千人以上が航海中に命を落としたと推定している。今年の不法入国者はすでに7384人になっている。昨年は9750人であった。したがって、昨年水準を上回ることはほとんど明らかである。

  アフリカからの危険な旅には危険がつきものである。危険は単に嵐などの自然条件ばかりでない。密航者を餌食とする人間が多数暗躍している。

  密航を斡旋する組織は密航者を大型船で近海まで運び、小型船に移して同諸島に運んでいるとの情報がある。スペイン政府は難民申請者以外は本国送還する方針できた。しかし、身分証明書を持たず、出身国を確認できないケースが大半である。彼らはしばらく収容施設で過ごした後は、スペイン本土へ移送されて自由になり、欧州各地へ散っていく。

  スペイン政府は5月19日、密航者対策はスペイン政府だけでなく欧州全体の責任としてEUとしてアフリカ支援に力を入れることや、密航を水際で防ぐための装備や要員の援助を要請した。こうした要請は、過去にも再三行われている。しかし、密航者の数は増えることはあっても、減少することがない。アフリカの貧困という究極の問題への有効な対策が講じられないかぎり、危険を冒してもヨーロッパ大陸を目指す人の流れは途絶えることなく続くだろう。


Reference
More illegal immigrants flood the Canaries, The Economist, May 11th 2006
Still they come. The Economist. May 13th-19th, 2006

本ブログ内関連記事

http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/d/20051207

http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/057353e23dad18b44584eff2b316caf6
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ラ・トゥールを追いかけて(75)

2006年05月22日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

ラ・トゥールは日本に3点も来ていた
  ラ・トゥールという画家に関心を抱くようになってから、かなりの数の作品を見てきた。といっても、真作といわれるものは40点くらいだから、数自体はとりたてて多いわけではない。しかし、よくもこれだけ散らばったと思われるほど、世界各地に作品が散在している。結果として、特別展などで集められた折に見た作品が多いことになる。個人や王室所蔵などのため、こうした機会でないとご対面できないものもある。そのため、特別展は楽しみでもあり、できるかぎり足を運んできた。

  思いがけず、盲点であったのは足元の日本であった。台湾のある博物館長をしている友人と話をしている時、たまたまラ・トゥールに話題が移った。この友人は画家でもあり、アメリカの大学で教壇に立っていた経験もあり、折に触れて色々なことを教えてもらってきた。思いがけなかったことは、ワシントンDCとソウルで日本から出展されたラ・トゥールの作品を見ているという。

ワシントンに集まった3点
  ワシントンDC(およびキンベル・フォトワース)の特別展(1996年11月6日ー97年1月5日、3月2日ー5月11日)については見ているので知っていたが、ソウルまで作品が行っていたとは思わなかった。

  今考えてみると、ワシントンの特別展には多少の時間的ずれはあるとはいえ、少なくも一時は日本の収集家や美術館が所蔵していたと思われるラ・トゥールの3点が、すべて勢ぞろいしていたことになる。このラ・トゥール展には『聖トマス』、『リボンのあるヴィエル弾き』および『煙草を吸う男』の3点が出品されていた。

  『聖トマス』は現在、国立西洋美術館の所蔵するものとなり、多くの人が親しく見ることができるようになった。ワシントン展当時は日本の収集家Ishizuka Collection(石塚博)の所蔵になっていた。この時の展示が、日本から出て最初の公開展示であったようだ(テュイリエによると、1991年6月22日、クリスティ・モナコでオークションにかけられ、Ishizuka Collectionが落札したとある)。

  ちなみに、他の2点についても簡単に紹介しておこう:

『リボンのついたヴィエル弾き』 (断片)
Le vielleur au ruban, a hurdygurdy player with a ribbon.c.1630-1632, The Prado, Madrid. Oil on cancas, 84x61cm
  
  記録によると、この作品は最初1986年イギリスで美術品市場に現れ、ロンドンで修復された後、日本のコレクターIshizuka Collectionの手にわたった。その背景は、東京とパリで画廊を営む友人から少し聞いたことがあった。Ishizuka Collectionの所蔵になってから公開展示されたのは、このワシントン(およびフォトワース)展が初めてらしい。

  1990年にピエール・ロザンベールによって発見され、評価が公表された。その後、ロンドンに戻り、1991年12月16日(13日と記した資料もある)、クリスティ・ロンドンで競売にかけられ、プラド美術館がおよそ1900万フランで入手した。

  来歴その他さまざまな点から検討された結果、元来は全身を描いた作品の一部とみられている。ラ・トゥールの他のヴィエル弾きとモデルも同じと思われる。しかし、細部はかなり異なっている。特に頭部と楽器につけられたリボンが判別の特徴点である。  

『煙草を吸う男』
Le souffleur a lá pipe. Boy Blowing on a Firebrand,  Tokyo Fuji Art Museum Oil on canvas, 70.8x61.5 cm. c.1645-1650, Signed upper right corner: La Tour fec...

  この作品は、最初南フランスの個人のコレクションであり、1973年に発見された。そして、1985年12月3日パリのDrouotで売りに出された。この作品も1990年東京富士美術館の所蔵になってから、初めてアメリカの特別展に出展されたらしい。テュイリエによると、1973年にロザンベールが発見、評価をしていた。ちなみにソウル(1990)で展示されたのは、この作品であった。詳細については、別途とりあげてみたい。

  当時はかなり人気があったとみられ、コピーなどで少なくも9枚の作品が存在することが明らかになっている。オランダ派の作品と思われたこともあった。

  主題やサイズなどから、中程度のブルジョアの家庭で求められた作品と考えられる。若い男が火のついた棒から煙草へ火を移そうとしている。宗教的含意などがあるわけではないが、当時の風俗としてよく見られた情景であったのだろう。居間などに掲げることで、人々は心の安らぎを感じたのだろう。

   『リボンのついたヴィエル弾き』がプラドへ行ってしまったのは今となると大変残念だが、日本で2点を見ることができるのは大変うれしいことである。

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ラ・トゥールを追いかけて(74)

2006年05月19日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 

 

ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの年譜
  ラ・トゥールという稀有な画家の作品と生涯に関心を抱いてから、かれこれ40年近い年月が経過した。長らく「謎の画家」といわれ、昨年の国立西洋美術館での「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展」などの開催にもかかわらず、日本では依然として知名度が高い画家ではない。しかし、ひとりの愛好家としてみると、この画家についての調査、研究はこの間、著しく進んだと思っている。


  複雑なジグソーパズルを解くように、思いがけないところから新たな資料が見出されたり、今もってラ・トゥールの手になるものではないかと思われる作品が発見されたりしている。この画家の20世紀初頭の再評価から今日にいたる過程は、まさに発見の歴史であったことはよく知られている。

  ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品と表裏の関係にある画家の生涯についても、輪郭はかなり見えるようになってきた。同時代には名前だけで作品も人生についても、ほとんどなにも分からない画家も多いことを考えると、ラ・トゥールは今では大変解明が進んだ画家といえるだろう。

  日本語で読むことができる文献で、しかも最新の研究成果を伝えてくれるのは、昨年東京で開催された「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展」のカタログである。このカタログには、ラ・トゥール研究の専門家ディミトリ・サルモンによる「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:その生涯の略伝」が含まれている。最も詳しく、最新の研究成果を伝えてくれている。

  このサルモンの略伝は、テュイリエ (Thuillier, 1997, 242-279)が作成した、現在の段階では最も完全に近い年譜にほとんど基づいている。ちなみに、このテュイリエの著作は大判の大変美しい印刷で、読んでいても楽しい。他方、ランボルReinboldのようにラ・トゥールの作品よりは、家系や時代考証に重点を置いた研究も生まれ、着実に解明が進んできたことを示している。このブログ記事との関連で、恣意的だが注目される部分を抽出してみよう。メモ代わりに極度に簡約化しているので、より詳細にご関心の向きは、Referencesをご覧ください。

1593年 ロレーヌ、ヴィック・シュル・セイユに生まれる
1613年 パリにいたかもしれない
1616年 洗礼代父として記録に初登場
1617年 リュネヴィルの貴族階級の娘ディアヌ・ル・ネールと結婚
1618-20年 画家の父死去。第1子誕生
1620年 リュネヴィルへ移住。最初の徒弟クロード・バカラを受け入れる
1621年 エティエンヌの誕生、洗礼。エティエンヌと妹(2歳下)クロード、クリスティーヌ(5歳下)だけが両親より後に生きながらえる
1623年 ロレーヌ公アンリ2世、ラ・トゥールの作品を買い上げる。リュネヴィルの義理の両親の住居と牧場を義母から購入
1626年 徒弟シャルル・ロワネを受け入れる
1631-34年 フランスと神聖ローマ帝国との戦争がロレーヌに波及
1632年 フランス王ルイ13世ロレーヌ滞在
1634年 リュネヴィルでフランス国王への忠誠誓約書に署名
1636年 徒弟フランソワ・ナルドワイヤンを受け入れる。リュネヴィルでペスト流行。末子マリー誕生。代父はサンバ・ド・ペダモン、フランス国王の代理人、総督
1638年 フランス軍リュネヴィル略奪。作品、工房など滅失と推定
1639年 ナンシーで代父、国王付き画家の称号
1640年 パリに行った記録、ルーヴル宮の部屋を使用する特権
1641年 自作「マグダラのマリア」の代金を受け取っていない旨の訴訟
1642-43年 徴税吏と紛争。リシリュー枢機卿猊下の衣装部屋に「聖ヒエロニムス」の絵画があった旨、リシリューの死後、財産目録で発見
1643年 徒弟クレティアン・ジョルジュ受け入れ
1644年 所領をリュネヴィル市に賃貸
1645年 毎年リュネヴィル市から総督アンリ・ド・ラ・フェルテ=セヌテールへ贈るための絵画の注文
1646年 ラ・フェルテに「たばこを吸う男」を寄贈。ロレーヌ公(ルクセンブルグに一時退去)にリュネヴィル住人から嘆願書。修道僧、修道女、ラ・トゥールがあたり一帯の土地、家畜を占有していることを非難する内容
1647年 エティエンヌと商人の娘フリオの結婚。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは「国王の画家にして年金受領者」と記載されていた
1648年 画家の末娘マリー、天然痘で死亡。徒弟ジャン・ニコラ・ディドロ受け入れ
1650年 聖セバスティアヌスの絵、ラ・フェルテに寄贈。5点のロレーヌの巨匠(ラ・トゥールと推定)の作品が軍務官でコレクターのジャン=バティスト・ド・ブルターニュの死後、財産目録に発見
1651年 ラ・フェルテ「聖ペテロの否認」寄贈。ジョルジュとエティエンヌがヴィックでの結婚式に出席(ジョルジュの最後の署名)「国王付き画家」の肩書き
1652年 妻ディアヌ死亡。ジョルジュも死亡。住宅はカプチン会の神父へ寄進。エティエンヌ家は徒弟ディドロも伴い、ヴィックへ引越す
1660-70年、エティエンヌはリュネヴィル周辺メニルの自由領地を購入。シャルル4世からリュネヴィルのバイイ裁判所の代理官に任じられ、リュネヴィルに戻る。
1669年 メニルの領地はロレーヌ公によってメニル・ラ・トゥール封地に昇格された。
1670年 シャルル4世はエティエンヌに授爵状を与えた。紋章を持つ
1692年 エティエンヌ、リュネヴィルで死亡。「メニル・ラ・トゥールおよびフランの領主」と記されている。

References
Cuzin, Jean-Pierre et Salmon, Dimitri (1997) Georges de La Tour Histoire D’Une Redécouverte, Paris: Découvertes Gallimard, Réunion des Muséés Nationaux.

ジャン=ピエール・キュザン & ディミトリ・サルモン (高橋明也監修・遠藤ゆかり訳) (2005) 『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』 東京、創元社。

 

Reinbold, Anne (1991) Georges de La Tour. Librairie Artheme Fayard, 271pp

Thuillier, Jacques (2002) Georges de La Tour. Paris: Flammarion, 320pp
.
Georges de La Tour ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展カタログ、2005年3月8日―5月29日、国立西洋美術館・読売新聞社

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堀田善衛『ラ・ロシュフーコー公爵傳説』を読む

2006年05月18日 | 書棚の片隅から

「物事をよく知るためには、細部を知らなければならない。そして細部はほとんど無限であるから、われわれの知識はつねに皮相で不完全なのだ。」(M106)  
           堀田善衛『ラ・ロシュフーコー公爵傳説』集英社、2005年

  デュマの『三銃士』*を再読した時にも感じたが、17世紀も今日でも人間の愚かさには変わりがないようだ。時代が変わっても世の中にいさかい、争乱は絶えることがない。堀田善衛の長編三部作『ミシェル城館の人』は以前読んだことがあったが、この『ラ・ロシュフーコー公爵傳説』は初めて手にした。

  元来、金言集とか名言集というものはあまり好みではない。というのは、金言や名言は多くの場合短文であり、読む人が置かれた状況次第で受け取る意味も変わってくるからだ。しかし、この作品は、別の点で興味を惹かれた。堀田善衛というきわめて強い個性、ユニークな思想を持った作家が、独特の文体をもって、この17世紀のモラリスト、ラ・ロシュフーコーなる人物を描き出している点である。「箴言集」が生まれる背景の物語といってもよい。ただし、あくまで創作である。ちなみに、堀田善衛はラ・ロシュフーコーの著作マキシムは、わが国ではしばしば「箴言集」と訳されているが、箴言という言葉はなじみがないので、原語のMaximesをそのまま採用するとしている。
  
 たまたま、以前取り上げたリシリューの生涯について、少し立ち入って関連した文献を読んでいる間に、この作品に出会った。前半はリシリューの時代であり、後半にはマザランが登場する。マザランについては、肖像画などから受ける印象では、人当たりの良い穏健な人物であるかに見えるが、リシリューが推薦しただけに、かなり似たところも持ち合わせていたようだ。当時、巷に流行した小唄に次のような「生まれ変わったリシリュー」というのがあったという(本書、p.238)。

  彼(リシリュー)は死んだのではない。
  年齢を変えただけなのだ。
  この枢機卿(マザラン)は誰も彼もを怒らせる。

  堀田善衛がラ・ロシュフーコーというモラリストの生涯と思想の根源に迫った作品は、読み出すと止められない独特の面白さがある。この創作が現実とどのくらいの距離があったかについては、語ることができない。しかし、17世紀フランスという時空を理解するについて、多くのヒントが散りばめられていることは確かである。

著者は作中で、ラ・ロシュフーコーに17世紀を「女の世紀」と呼ばせている。デュマの『三銃士』でもそうであったが、王妃を始めとしてさまざまな女性が、縦横無人に活躍しているのは大変印象的であった。離れて見ると、実に面白い時代であったことに改めて気づく。

  冒頭に記したマキシムについて、一言。このブログ、お気づきの通り、「断片」ばかりである。それが集まると、なにかが見えてくるだろうか。


本ブログ内関連記事
*

http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/d/20060418

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州兵まで投入:アメリカ移民対策の行方

2006年05月17日 | 移民政策を追って

    ブッシュ大統領は、15日夜、不法移民対策についてテレビ演説し、メキシコ国境の警備に州兵6千人を来月上旬から派遣すると表明した。このところ、移民問題はアメリカ、ヨーロッパなどで大きな政治問題となっていることは周知の通りであり、このブログでも再三取り上げてきた。大統領は国境警備局の人員を現在の1万2千人から2008年末までに6千人増やすと言明。11月の中間選挙を控えて、懸案になんとか妥協点を見出したいというねらいのようだ。

  さらに、すでにアメリカ国内にいる不法移民に条件付きで就労を認める一時労働許可制度を新設すること提案した。この一部就労許可については「恩赦」(アムネスティ)ではないことを確認するとしている。これらの提案内容はすでにブッシュ大統領が折に触れて発言していたことであり、その意味で特に目新しい点はない。

  アメリカ国内に居住する不法移民は、1200万人。いまや大きな存在となり、とても強制送還などできる数ではない。この点、ブッシュ大統領の判断は現実的といえよう。しかし、こうした事態にいたるまで有効な施策を講じなかった大統領にも責任がある。アメリカにいれば、近く合法化の対象になりうるとの見通しも流布し、駆け込み入国する者もあるといわれている。

州兵を配備
  現在の警備体制では不法越境をとめられないとの判断もあって、ブッシュ大統領は国境警備に州兵を配備することに踏み切ったようだ。共和党保守派などへのアッピールでもある。
  
  米国の正規軍は法律で国内の「法執行」任務を禁じられており、不法入国者を発見しても逮捕できない。このため、国境パトロールの人員不足を補う策として、同法の適用対象外である州兵の派遣を決めたものである。しかし、新しい任務にあたる州兵も「監視、情報分析、フェンス構築などで国境警備局を補佐する」として、不法入国者の逮捕など「法の執行」にはかかわらないという。
  
  アメリカ・メキシコ国境は約3千キロあり、国土安全保障省が管轄している。傘下の国境警備局の要員は約1万2千人。昨年摘発された密入国者は110万人であった。しかし、国境でつかまる不法移民は数分の一と推定されている。

問題の根源はどこに  
  この問題の重要な論点は、不法移民と福祉国家との関係をいかに評価するかにある。入国時の不法性は別にして、彼らの労働を通しての貢献と国家による教育、医療支出などを秤量すると、いずれが大きいかという問題である。

  不法移民の圧力で、国内労働者の賃金水準が下方へ引きずられる、あるいは仕事が奪われるという見解もある。理論上は双方ともにありうる推定である。

  NHK・TVで意見を求められたコロンビア大学のデラガルサ教授は使用者罰則で不法移民の雇用を禁止すること、出身国政府が魅力ある国づくりにより専念することを挙げていた。前者については過去にも試みられたが、実効は上がらなかった。後者はこのブログでも取り上げたように、根源的な問題なのだが、これまでまともな形で取り上げられたことがない。

  ブッシュ大統領は、移民規制関連法案は包括的でなければならないと述べてきたが、こうした不法移民を生み出す根源については、なんら対策を提示していない。国境警備強化で不法移民の流入はかなり抑えられるだろうが、隙あらば流入しようとする人の流れの圧力は高まるばかりである。壁を強化すれば、それを乗り越えようとする人たちの圧力はさらに高まる。今回の大統領の対策提示で上院・下院、そして世論がすぐに収斂する見込みはない。

  国内の議論が真っ二つに割れ、先が見えなくなったアメリカの移民政策はどこに落ち着くだろうか。ブッシュ大統領は、中間選挙までに答を出したいと述べているが、具体化までにはまだまだ多くの紆余曲折があるだろう。
 

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世界のバックオフイス化する中国

2006年05月15日 | グローバル化の断面

Graph:Quoted from The Economist May 6th 2006.
  

  インド、中国におけるIT・ソフトウエア産業の台頭が注目を集めている。最近、この問題に関わる小さな調査に携わって感じたことを少しだけ記してみよう。中国が日本、アメリカなどのIT企業のバックオフイス(裏方の仕事場)化していることである。

  先進諸国が海外へ仕事を外注(オフショアリング)する傾向が高まっている中で、世界の労働のあり方
が大きく変わりつつある。特に、ITソフトウエアの分野では、産業の階層分化が急速に進んでいる。とりわけ注目されるのは、中国内陸部へ下層(下流)部分の仕事が移転し始めたことだ。

激変する内陸部
  中国内陸部の古都西安では、一室に数十人から百人近い若い女性労働者が、コンピューターの画面を前に働いている光景は珍しくなくなった。かつての靴、衣服、玩具などを労働集約的に組み立てている光景とはかなり異なっている。しかし、それを支えているものが、他の地域に比較して圧倒的に安い賃金であることには変わりはない。

    彼女たちが行っているは、日本、韓国、アメリカなどのソフトウエア企業や販売業の裏方の仕事である。人手のかかるデータ入力、ソフトウエア・チェックなどの工程、車のローンの事務手続、医療保険の処理などを請け負っている。

ハイテクの裏側
  西安はこれまで中国の宇宙産業の拠点のひとつであった。7500社を抱え、中国のシリコン・バレーといわれてきた。100以上の大学があり、毎年12万人以上の卒業生を送り出してきた。「西安ハイテク産業開発区」として、世界のソフトウエア開発の先端に躍り出る構図を描いてきた。しかし、現実には日本、韓国、アメリカ企業などのアウトソーシングの拠点となっている。BPO(Business Process Offshoring)といわれる企業の工程の一部あるいは全部を請け負っている。

  IT(ソフトウエア)分野ではインドと中国が競っている。英語圏のインドは優れた理系人材と低賃金を基盤に急速に拡大・発展をとげてきた。しかし、最近では大卒の俸給が急騰、離職率も高くなった。

低賃金が武器の内陸部
  他方、中国もこの分野での拡大を目指しているが、初任給段階では中国の大卒給与は月300ドル程度、アメリカの10分の1であり、コスト面で非常に競争力がある。特に内陸部の賃金水準は低い。The Economist(May 6th 2006) が伝えるように、中国でも上海、北京など沿海部と比較して、西安など内陸部の賃金水準はかなり低い。北京、上海の40-50%という水準である。

  IT労働力の質という点で、中国はインドよりも5-10年間は遅れているといわれる。中国については、いくつかの問題点が指摘されている。英語圏でないため仕方がないが、英語を話し、書く能力が不足している(コールセンターなど顧客との頻繁なやり取りを必要とするサービスには不適である)。大学教育もインドと比較すると現実社会との距離が大きい。産学協同の経験も浅い。一部の重点大学を除くと大学生の質が低い。ソフトウエアのコピーなど知的財産権の侵害も多い。

先行するインド
    このように、ITソフトウエア産業について、インドは中国よりも明らかに先行している。中国がデータ入力、ソフトウエア・テスト、定型処理など低層(下流)のBPOのシェアを高める反面、インドは英語圏の強みと理系人材の豊富さを武器に、大きな創造性や言語能力を必要とする中層分野への展開を目指している。

    急速に人口減少が進む日本にとって、下層・中層工程を中国、インドなどへ依存する傾向はますます強まるだろう。問題は、高度に創造的な能力を要する上層部分で日本は生き残れるかという点にある。グローバルな競争に生き残る「創造的企業」とは、いかなるものか。日本が直面する厳しい課題である。


References
'Watch out, India: Outsourcing to China' The Economist May 6th 2006.
「アジア諸国の国際労働移動」Business Labor Trend. April 2006.

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変なブログ(1)

2006年05月14日 | 雑記帳の欄外

  久しぶりに会った友人が、このブログにアクセスしてくれていた。最初の感想は、とにかく「驚いたよ!」の一言であった。「驚いた」内容は、必ずしも十分伝わってこなかったが、どうも「変なもの」を作ったなあということらしい。

  「変なもの」という表現は、実は大変的確なのだ。というのは、ブログを書いている本人自身がそう思っている。あるきっかけから始めたのだが、それまではほとんどブログなるものにアクセスしてみたこともなかった。ただ、老化の進む脳細胞を補填する手段として、日々折々に頭に浮かんだことを覚書、メモ程度に書きとどめる手段を求めていた時、ブログに偶然出会っただけである。ホームページは、運営上も覚えねばならないことが多く辟易していた。近くにパソコンに強い若い友人がいて、そそのかされて乗ってしまった。多少の遊び心も手伝ってスタートしたのだが、この頃は改めて自分でも「変なブログ」と思うようになった。


  友人が「驚いた」理由のひとつは、記事の対象が振幅が大きすぎ、なにが出てくるのか分からないことにもあるらしい。その点、実は書いている本人が一番感じている。しかし、それほど揺れているとは本人は思ってはいない。大体、心身疲れた時などにふと浮かんだトピックスが多いだけに、右往左往はしている。その時は、キーワードだけメモしておいて、少し時間がある時に書き足している。 不思議なのは、こうした平常でない時にかぎって、頭脳の片隅に残っていたような記憶の断片が、脈絡もなく浮かんできたりすることである。

  そのひとつ、セントローレンス河をさかのぼる
の著者は、いまだに確認できていない。内容もかなり覚えており、著者名も確かと思うのだが、国会図書館の検索をしてみて該当名がなかった。となると、記憶力が劣化したことになる。「忘却とは忘れ去ることなり。・・・・・・」なのだから、別に差し支えないのだが、少しばかり悔しい思いもする。実は、この件は、ながらく職場を共にした友人、認知科学の大家HG氏に大変近い方が著者ではなかったかと思っていた。いずれお会いした折に確認したいと思っていたのだが、残念なことにこの世ではかなわぬことになってしまった。

  ブログを開設してしまって、その始末に困惑しているところもあるが、思いがけない利点もある。それは、記憶力が衰えてきたことを実感している時に、備忘録代わりになってくれることである。途切れ途切れになった記憶の断片を、なんとか結びつけることができることも多い。こんなブログでも読んでくださる皆さんからのコメントでしばしば助けられてきた。予想外に多くの方がアクセスしてくださっている。どなたに読まれているか分からないと思うと、多少の緊張感も生まれる。しかし、基本的には「ティールーム」の雑談のつもりである。もう少し続けてみるか。

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ラ・トゥールを追いかけて(73)

2006年05月11日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Jacques Bellange. Hurdy-Gurdy Player Attacking a Pilgrim. Etching and engraving with drypoint. 310 x 210(sheet trimmed inside platemark). Etched inscription: Bellange feci(trimmed). Watermark 1

ラ・トゥールに影響を与えた画家たち
ジャック・ベランジェ(3)

  ベランジェの人生は推定で40年という短いものであったが、当時の画家として彼の生活は、大変恵まれていたといってよいだろう。徒弟としての修業時代の後、まもなく宮廷画家としての生活が約束され、ロレーヌではかなり著名な画家であった。ベランジェは宮廷画家としての契約を1602年10月に行っていることが明らかになっている。

恵まれた生活
  ロレーヌ公シャルル3世が世を去る2ヶ月前であったが、1608年にはフランスへ画業の修業のためとして135フランが給付されている。当時としても決して大きな額ではないが、短い期間パリなどで流行を見聞するには十分だったのだろう。そして、アンリII世の治世になっても、宮廷画家としての地位は維持された。

  ベランジェは1612年ナンシーの富裕な薬剤師ピエールの娘Claude Bergeronと結婚した。この時の持参金は少なくも6000フランはあり、さらに両親没後はその財産を相続できることになっていた。当時としては、膨大な資産であった。ベランジェは画家として裕福な後ろ盾をもって後顧の憂いなく画業に励むことができたと思われる。あのラ・トゥールが貴族の娘ル・ネールと結婚したのと似たところが感じられる。

  ベランジェは結婚後ほどない1616年に原因は不明だが、この世を去っている。しかし、生前について残されている文書記録から推察されているところでは、ナンシーにおいてかなり著名な人物であったようだ。ラ・トゥールと同じように、洗礼の代父や結婚の証人などにもなっていた。3人の息子が生まれたが、長男の洗礼については公爵アンリII世自ら代父となり、名前もアンリと命名されている。画業を継いだ息子もいたが、父親を抜く存在にはなれなかったようだ。

宮廷画家の活動と制約
   こうした宮廷画家たちが実際にいかなる仕事をしていたかも、かなりの程度判明しており、大変面白い。彼らは今日われわれが知る画家の生活とは違い、自分の創作意欲で自由に仕事ができる訳ではなく、主として宮廷側の要望に従い、宮殿内の装飾、壁画などを描いていた。さらに、公爵や宮廷人の肖像画を描くことも大きな仕事であり、時には外国への贈答品とされた。ロレーヌ宮廷の栄光や威信を誇示するためであった。さらに、公爵領地の地図などの作成も行っていた。

  この時代、ロレーヌ宮廷は多数の仮面劇やカーニヴァルをおこなっているが、宮廷画家たちはそのためのデザイン、衣装や仮面、舞台装置などの設計をしたり、下図を描き、それに基づいて緞帳、衣装、旗、幟、垂れ幕などが職人たちによって制作された。 この時代は、新奇さ、スペクタクルな表現の追求などを求める装飾的なテーマは衰退しており、劇場、祝祭・パレード、仮面劇などが主題として前面へ出ていたようだ。 以前に、紹介したドリュエの花火の光景にもその一端がうかがわる。

  ベランジェの銅版画は、マニエリスムの最後の時代を代表するといわれるが、一度見ると忘れられない独特な様式、誇張された衣装や人物などの線が大変印象的である。現代人の目からすると、異様な感じを受ける作品もあるが、この時代が求めたものであり、大変人気があったと思われる。

  当時、銅版画は絵画と違って、広い範囲に作品を頒布しうる手段として大変人気があった。ナンシーは銅版画の黄金時代を迎えていた。画家として出発したベランジェも、広範に作品の頒布ができる銅版画の流れに乗ることを考えたのだろう。

  この時代は、エッチング(銅板腐食画)の技法が普及していたので、比較的短い期間で修得できたと思われる。ベランジェは油彩画家として出発しているので、それが可能だったのだろう。エッチングの前の版画は、エングレーヴィングと呼ばれ、ビュランと呼ばれる道具で一方向にのみ彫ってゆく技法であり、大変な熟練を要した。これに対してエッチングの場合は、銅板などの素材の上を覆う膜をニードルで彫ってゆくため、自由、奔放、繊細な線も描くことができる。

特異な作風
  ベランジェのエッチングだが、署名のあるものは多くない。今日ではほぼ48枚がこの画家の手になるものとして確認されている。ベランジェのスタイルはエッチングの歴史では、デザインも特異であるため議論の余地はあまりない。 マニエリスムの後期を代表するものとされ、16世紀初期のスタイルを継承している。当時の宮廷人や貴族階層などの好みに合わせて、細長く引き伸ばされたり、膨らんだ衣装や特徴ある髪型の人物などが、狭い空間にかなり複雑な構成で描かれている。現代人の感覚からすると、やや異様に感じられる描写の作品もある。

  宮廷画家たちは、当時の風説で伝わってくる他の画家たちの作品などを見に旅する機会もあり、必ずしも移動の自由を束縛された存在ではなかった。それでも、作品の主題や嗜好については、さまざまな制約を受けたことは想像に難くない。宮廷画家として名声と生活の安定を求めるか、芸術家としての自由な精神世界と活動の場を選ぶかは、当時の画家たちにとっても大きな選択の岐路だったのだろう。

ラ・トゥールへの影響
  カトリックの拠点であったナンシーで活動したベランジェには当然ながら宮廷人や聖人などを描いた宗教的な主題の作品が多い。他方、巡礼、放浪者、旅音楽師、乞食、花売りなど、世俗の世界の人々を描いたものもある。なかには放浪、貧困の果てであろうか、乞食のようないかにも卑俗な印象を与える作品も含まれている。しかし、これらも当時のナンシーなどでも普通に見られた日常や風俗を描いたものと思われる。

  ラ・トゥールの「ヴィエルひき」、「辻音楽士の喧嘩」などの発想源ともいわれ、カタログなどでしばしば例示されている。ここに紹介するベランジェの銅版画は、「音楽士と巡礼の喧嘩」ともいわれてきたが、形相もすさまじく争う二人がそれぞれヴィエルとリコーダーを持っていることから、このごろは「辻音楽士の喧嘩」といわれているようだ。しかし、作品の名称を詮索することはあまり重要なことではない。

  注目すべき点は、こうした身なりや服装の人たちは、いたるところに見られ、町や村を放浪して歩く音楽師たちや争いも見慣れた光景であったことにある。ベランジェや他の画家たちの作品では、きわめてリアリスティックに描かれている。しかし、ラ・トゥールの非凡な点は、こうした現実を十分踏まえた上で、ひとつの新しい作品ジャンルを創造していることにある。同じ主題を扱っても、天才ラ・トゥールの手にかかると、まったく違った雰囲気を持った情景に変容する。そのために、画家はいかなる作品や情景を念頭に置いた上で、自らの作品テーマを構想し、制作に当たったのだろうか。興味は尽きない。
 

References
本ブログ内関連記事(「辻音楽士の喧嘩」)
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/bed89ee77ffe451bc50c946c3274cdb4

Antony Griffiths and Craig Hartley. Printmaker of Lorraine. London: British Museum Press, 1997.

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ラ・トゥールを追いかけて(72)

2006年05月10日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
The Death of Portia. Etching. 248x183(sheet trimmed within platemark). Engraved inscription:Bellange Eques in incide.
Watermark 31. *

ラ・トゥールに影響を与えた画家たち
ジャック・ベランジェ(2)   

  調査・研究が進むにつれて解明への光が射し込んできた「ラ・トゥールの世界」だが、闇に包まれた部分はあまりに大きい。この画家の生涯について理解を深めるには、どうしても同時代の画家たちやその日常の活動について知る必要が生まれる。彼らが日々いかなる生活を過ごしていたかを通して、ラ・トゥールの人生における選択のあり方も見えてくる。前回に続き、ロレーヌの画家ベランジェの過ごした環境に入り込んでみたい。  

  ベランジェは当初油彩画家としてスタートしたようだが、残念ながら真作とされる作品は残っていない。一時はベランジェの真作といわれたものも、コピーの可能性が高くなっている。真作はラ・トゥールの多くの作品同様、戦火や略奪の過程で消失してしまったと思われる。こうした作品群が残っていたら、フランスの美術史も大きく塗り変えられているだろう。

  アルザス・ロレーヌは自然も大変美しい地域だが、ヨーロッパでもこれほど長年にわたり繰り返し戦火に苛まれたところも少ない。第二次大戦後ようやく平和を取り戻したが、かつて友人に案内されて小さな町や村々を回って見た折、墓碑や慰霊塔、戦場遺跡などの多さに驚かされた。

銅版画家に転換したベランジェ  
  ベランジェは今日では銅版画家として知られている。しかし、この画家が銅板を手がけたのは晩年のわずか5年程度であり、油彩画を制作していた年数の方がはるかに長かった。ラ・トゥールは少なくもベランジェの油彩画家としての実績は熟知していただろう。ラ・トゥールの徒弟修業先として最も可能性が高い親方画家の一人なのだから、おそらく注目していたはずである。  

  さて、記録によると、ナンシーの人口は1628年頃でおよそ16,000人であり、それほど大きな町ではなかった。しかし、宮廷やそれに関わるさまざまな活動で賑わっていた。ロレーヌ公領の埋蔵する鉛や岩塩鉱など鉱物資源も富の源であった。

宮廷美術の保守性
  それにもかかわらず、ナンシーは基本的に宮廷がすべての活動の中心であり、教会や修道院などもきわめて多かった。一時は「修道院村」 ville conventと呼ばれていたこともあった。最近、ヴァティカン宮殿でスイス傭兵の功績を称える式典が実施されたが、この17世紀初めのナンシー宮殿には350人以上の人々とロイヤル・ガードとして護衛の役に当たるスイス傭兵42人が住んでいた。宮殿はその後、ほとんど破壊され残っていないが、現在のロレーヌ歴史美術館は当時の宮殿の一部である。

  こうした状況を反映して、当時のナンシーでは、画家や彫刻家にとって、宮殿、教会や修道院の仕事はかなりあった。これらの仕事は概して規模は大きいが、依頼者側が求めた主題や好みも保守的テーマで繰り返しも多かった。斬新な試みをする余地は少なかったといえよう。

消滅を免れた文書
  この時期のナンシーの美術界については、興味深い特徴がある。宮殿壁画や油彩画などはほとんど滅失してしまったが、文書記録は幸い多数継承され、今日まで残っている。パリの王宮文書館ですら1737年の火災に遭って多くの文書を失っているのだが、ロレーヌ王宮の文書館は1635-61年と1670-98年のフランス軍侵攻時の略奪・火災時を別にすると、1476-1736年については、フランスの水準からすると大変良く継承されているらしい。 

  特に財政関連の文書が残っているので、公爵たちがベランジェを含め画家に制作依頼した金額などが明瞭に確認されている。他方、教会や修道院が支払った額などは、不明な点が多い。

宮廷画家の生活
  これらの文書が明らかにした興味ある点のひとつは、ロレーヌ公の宮殿では宮廷画家は通常二人(多いときは四人)おり、一人が死亡すると、かならず補充されていたことである。そして、一人100から200フランの歳費が支払われていた。特別の仕事が委託されると、これに上積みされた。

  宮廷画家はしばしば世襲あるいはそれに近い形で継承されていたようだ。時には、才能を見込まれると、宮廷に使える前に当時の美術先進国イタリアへ修業に出されている。帰国して実績が認められると、貴族の称号が授与されたり、結婚に際して祝い金なども支払われていた。以前にこのブログで触れたシモン・ヴーエなども若い頃に才能を見込まれ、王室画家になる前から年金をもらってイタリアへ修業に行っていた。 これまで厚遇されると、プッサンのようにイタリアへ戻ってしまうこともできない。

  ラ・トゥールはこれまで見てきた通り、こうした幸運には恵まれていない。しかし、宮廷画家として若い頃から将来が保障されることが、芸術家として望ましいかは疑問もある。当時の宮廷画家たちがいかなる環境にあったかは次回に記すことにしよう。


* この作品に描かれた女性ポルティアは、ジュリアス・シーザーを殺害した暗殺者のひとり、ブルータスの妻であった。彼女はブルータスが自殺したことを知り、悲しみに打ちひしがれ、自らも熱く溶かした石炭を飲み自殺したと伝えられる。忠誠な妻の象徴と見られてきた。ナンシーの公爵宮殿のブルボン・カトリーヌの室を飾るために依頼されたと伝えられる。ベランジェの最晩年の作品と推定されている。(Griffiths & Hartley124)。

Reference
Antony Griffiths and Graig Hartley. Jacques Bellange c.1575-1616: Printmaker of Lorraine. London:British Museum, 1997.
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ラ・トゥールを追いかけて(71)

2006年05月09日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋


ラ・トゥールに影響を与えた画家たち: ロレーヌの画家群像

ジャック・ベランジェ(1) 

  ラ・トゥールの作品を見ていると、この画家も時代の風をさまざまに取り込んでいたことが分かる。一見すると、17世紀前半のフランスやロレーヌの画家、とりわけバロックの流れの中では、孤立した存在であるかに見えるラ・トゥールだが、当時の美術の流れをしっかりと感じとり、熟慮の上で制作に生かしていたことが分かる。比類のない作品の背景には、画家の多くの思索の跡がうかがえる。断片的な記録に残る自己中心的で?、偏屈で頑迷な?人物像の裏側にある画家の精神構造は大変興味深い。この点は、いずれ改めて記す機会があるだろう。

  ラ・トゥールの活動の中心であったロレーヌは、地理上は現在のフランスの北東部に位置している。しかし、17世紀前半までの状況は、今日とはまったく異なっていた。ラ・トゥールの活動していた17世紀前半についてみると、1630年代半ばにフランスに軍事力で支配され、フランスの総督によって支配されるまでは、独立したロレーヌ公国であった。(ちなみに、リュネヴィルがフランス軍によって激しい略奪の対象となったのは1638年のことである。以後、1659年までフランスの総督が統治していた)。
  地理的にも文字通り、神聖ローマ帝国とフランスとの間に位置し、難しい微妙な政治バランスを図りながら、なんとか国家としての自立性を維持していた。この当時ロレーヌ公であったシャルル三世とアンリ二世は、巧みな外交政策で列強の間で存在を確保していた。平和と繁栄が維持され、文化的にも輝いた時代であった。

  17世紀前半、ロレーヌの文化的活動の中心はナンシーであった。かつてナンシーを訪れた時、その華やかな時代の一端に接して色々と思い浮かぶことがあった。そして、機会があれば再び訪れてみたいと思う場所となった。今日ではどちらかというとアール・ヌヴォーのデザイナー、エミール・ガレの名とともに日本では知られているかもしれない。しかし、その昔、16世紀末から17世紀初めにかけての繁栄の時がここでの関心事である。

  ナンシーは今も美しい都市だが、幸い17世紀初め(1611年)の俯瞰図が銅板画として残っている(Friedrich Brentel. Plan of Nancy, etching, 1611, British Museum)。それを見ると、大変美しい城郭都市の全体像が分かる。原図をお見せできないのが残念だが、昔の柱時計を横にしたような形であり、時計の振り子が入る部分は旧市街、丸い文字盤にあたる部分は新市街であり、その間を一本の道路が隔てている。しかし、新旧両市街を含める堅固な城壁で囲まれていた。ナンシーの印象については、あらためて記す機会もあるだろう。まずは、時空を超えて17世紀初めのナンシー、ロレーヌの世界に立ち戻ろう。

ラ・トゥールとナンシー
  この時代のナンシーには、前回記したようにきわめて多数の画家、彫刻家などが集まり活発に活動していた。あのラ・トゥールがナンシーではなく、リュネヴィルに活動の拠点を求めたのはなぜであったかは、大変興味あるところである。同業の画家たちとの競争を避けたのかもしれない。

  ラ・トゥールの生地ヴィック・シュル・セイユには、ラ・トゥールの後年の記録にも登場する画家ドゴスClaude Dogoz(1570-1633)の工房があって、地域の需要を独占していたのかもしれない。ヴィックは今訪れると、静かな小さな町だが、ラ・トゥールの時代はもっと人口も多く、にぎやかだったと思われる。
  他方、ロレーヌ公国の中心ナンシーには多数の画家たちが集まり、若い画家ラ・トゥールにとっては参入の壁が高かったのかもしれない。結果として、妻の生家があり、貴族層とのつながりもあるリュネヴィルを選んだのではないか。しかし、ラ・トゥールにとっても、ナンシーで活躍する画家たちの動きから目が離せなかったはずである。リュネヴィルやヴィックからも20キロくらいの距離であり、生涯に何度か訪れ、戦火を避けて家族も滞在したのではないかと推定されている。
 
名前の残る画家たち
  ラ・トゥールの時代にナンシーで活動した画家は数多いが、そのほとんどは作品や記録が残っていない。ラ・トゥールに影響を及ぼしたと思われる画家たちをあげてみよう。

  まず、今回とりあげるジャック・ベランジェJacques de Bellange (c.1575-1616)、続いて10年ほど後、1587年くらいの生まれでクロードデュルエClaude Deruet ,ジャン・ルクレールJean Le Clercなどがいる。時期はすこしずつ重なるが、ラ・トゥールやカロの時代はその後になる。いずれも、日本ではあまり知られていない画家たちである。余談だが、日本人のフランス美術への関心は、印象派以降に偏りすぎていると思う。この近世バロックの時代、ロレーヌの世界にはあまり知られていないが、多くの素晴らしい画家が活動していた。

  閑話休題。ラ・トゥールに関心を抱いて同時代の画家の作品などを見ていた時に、カロと並んでベランジェの作品に出会った。初めてベランジェの作品と推定される油彩画に接して、かなり衝撃を受けた。決して万人向きではないが、当時はきっと注目を集めた作品だったのだろう。カラヴァッジョに似てきわめて写実的ではあるが、人物の描き方が大変個性的で強烈な印象を受けた。この現存するほとんど唯一に近い作品も、今日ではベランジェの作品のコピーであるとされている*


銅版画家としてのベランジェ
  残念ながら、この画家の油彩画や宮殿壁画などの作品はほとんどすべて失われてしまい、わずかに48枚のエッチング(銅板腐食画)だけが残っている。作品を見ると、きわめて繊細なタッチであり、宮廷風の人々、聖人、世俗の人々などを描いた独特な構図である。宗教的雰囲気を持って描かれたものが多い。優雅に膨らみをつけて描かれた繊細な衣装の線、髪型など一度見ると、好き嫌いを超えて忘れがたい作品であった。
  その中にはラ・トゥールの作品展などに参考展示されていて出会ったものもある。東京町田市の国際版画美術館も所蔵している。マネリスム後期の流れに沿ったきわめてユニークな作品であり、見慣れると、他の画家との区別はかなり明瞭にできる。

  実は17世紀前半のナンシーは、ベランジェ、カロなどの優れた版画家が活動した華麗な時代であった。銅版画家として知られるカロは、1400点近いともいわれるきわめて多数の作品を残している。これに対して、今日に伝わるベランジェの作品はきわめて少ない。その理由はすぐに分かった。

謎に包まれた人生
  この時代の芸術家の生涯は、むしろ知られることが少ない。記録や伝承が残る方が稀といってよい。ベランジェも謎に包まれた画家であった。ベランジェの名前は1602年、ナンシーの公爵領の文書に始めて現れる。公爵シャルルIII世の宮廷画家の一人であったのだ。その後、この画家の名前は頻繁に公爵領の文書に現れる。報酬を受け取った時や特別の任務への支払いが行われた時であり、1602-1616年の間についてそれらの記録が残っている。そして、1616年の末に突然記録がなくなる。この年、1616年にベランジェが40歳くらいで死亡したことを示す短い記録が残っている。

  1602年以前の人生についてはまったく空白で、わずかに1981年に発見された作品について唯一の文書が残るだけである。これによると、ベランジェは公爵領の南に住み、1595年にナンシーで徒弟を採用している。当時、親方として徒弟をとるためには画家は20歳には少なくもなっていたはずであった。これが今日、1575年頃の生まれと推定される理由となっている。ベランジェ自身の記録についてはこれだけしかない。当時、画家を志す者にとって、ほとんど必須の過程であった徒弟時代の記録はなにもない。しかし、誰かの工房で修業したことはほぼ間違いない。
  
  他方、別の記録で1604年に前回言及したクロード・デルエが16歳でベランジェの工房で、徒弟修業のために4年間の弟子入り契約をしたことが分かっている。デルエはベランジェの絵画を引き継ぎ、1620年代にナンシーを代表する画家となった。デルエはカロの友人でもあった。

  記録の少なさにかかわらず、ベランジェは注文の依頼の内容などから判断するかぎり、当時のナンシーでは大変著名な画家であったようだ。人生の後半において、油彩画から銅板画へ転換を図ったのも、より広い範囲へその名を知らしめようとしたのではないか。

*
Jacques de Bellange(attributed to), Lamentation for the dead Christ. Oil on canvas, 116x173cm. Hermitage Museum, St Petersburg. 

Refernences
**
ベランジェの作品(銅板画)および生涯については、Griffiths & Hartleyによる次の文献によるところが多い。この文献は、それまでベンチマークがつけにくかったベランジェの作品について、使われた紙のすかし文様watermarkの研究を通して、制作順位を推定するなど、大変ユニークな研究の成果が含まれている。
Antony Griffiths and Graig Hartley. Jacques Bellange c.1575-1616: Printmaker of Lorraine. London:British Museum, 1997.

冒頭に掲げたイメージは本書の表紙部分である。

ベランジェについては文献は少なく、ラ・トゥールの著名な研究者であるテュイリエのカタログ(2001)もあるが、未見。

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存在は力か:アメリカ移民デモ

2006年05月03日 | 移民の情景

  仮想の世界でしか起こりえないことが現実に起こる。5月1日、アメリカで「移民がいなくなる日」Un dia sin immigranteというスローガンの下で、ヒスパニック系不法移民や支持者によるデモが行われた。

  不法移民規制への抗議デモを組織してきたヒスパニック(中南米系)の団体が「働かず、学校にいかず、買い物もしない」というボイコットを全米レベルで実施した。移民の存在および影響力がいかなるものかを考えさせる新たな示威運動である。この動きは、グローバル化の進む世界で起きているさまざまな事象と根底でつながっている。

グローバルな流れの中で
  このブログで継続的なグローバル化ウオッチ(定点観測)の対象としている移民問題だが、次々と予想する方向へ事態が展開するので、少し恐ろしい気もする。変化の速度が高まっており、対応が追いつけない。アメリカでもフランスでも移民問題は、国家を揺るがし、世論を2分している。

  しかし、こうしたことが起こる予兆はすでに以前からあった。合法・不法を問わず、アメリカ社会におけるヒスパニック系移民の圧力は90年代から着実に増加していた。しかも、その数の増加を背景に次第に組織性が生まれていた。移民社会には不可欠な、さまざまな情報ネットワークが着実に根を張りつつあった。

存在は力となる 
  不法移民は初期の段階では、自他ともに目立たない存在である。しかし、時の経過とともに経済力を備えた移民たちは、次第にその存在を顕示するようになる。「不法移民たちは暗闇から踏み出して、表通りへ流れ出した」。そして、「今日はパレードだが、明日は選挙だ」 "Hoy Marchamos; Manana Votamos" [Today we parade, tomorrow we vote.](ABC News, May 2, 2006)。

  かつて1996年にアメリカ(サンディエゴ)と日本(浜松)で初めて、同一の枠組みで大規模な外国人(移民)労働者の実態調査を行ったことがある。その時、驚いたことはアメリカではインタビューした外国人労働者の大多数が、不法入国者であることを隠さなかったことである。それだけ不法入国者が多かったばかりでなく、彼らなしにはビジネスが成り立たない状況が形成されていた。罰則が存在するにもかかわらず、使用者も合法、不法のチェックなどは、ほとんどしていなかった。

    不法移民であろうとも数が増えると、それだけで大きな力を発揮するようになる。最近の世論調査では「移民を本国へ送り戻せ」という回答もかなりの比率を占めるが、実際に1000万人を越える不法移民を送還できるとは考えていないだろう。
  
  あのフランスの「郊外暴動」の基底にも、長らく「二流市民」扱いされてきた移民の存在があった。たとえ合法的に定住権・永住権を得ていても、「社会的に認知されない」移民は、受け入れ国の国民でもなければ、国境の外の外国人でもない不安定な存在である。彼らはいつかその存在を正当化しなければならない。

  グローバリゼーションの進む世界では、ヨーロッパやアメリカで起きることは、形態は異なってもいずれ日本でも起きるだろう。すでに合法・不法を併せると、90万人近い外国人労働者が日本で働いている。この外国人労働者が、ある日職場からいなくなったら、自動車、電機をはじめとして日本の誇る産業は、たちまち麻痺状態、大混乱となるだろう。今回のアメリカでのデモよりも衝撃は大きいかもしれない。アメリカでは外国人労働者は、主として農業やサービス業に多いが、日本では裾野の広い製造業で多数の外国人が働いている。

デモの影響力は
  査証など入国に必要な書類を持たないで入国したり、期限を越えて滞在している不法移民は、アメリカ全体で約1200万人と推定されている。その多くは農場、建設、サービス業などで、アメリカ人がやりたがらない仕事をしている。他方、移民の増加でアメリカ人の仕事が奪われていると主張するグループもいる。これまでの調査で判明したかぎりでは前者に有利だが、後者の可能性を否定するものではない。現実は決して白か黒ではないからだ。たとえば、最低賃金率の変更など政策次第でかなり変化する余地もある。

  今回のデモには空前の数百万人が参加するのではないかとみられたが、実際には100万人規模だったようだ。しかし、移民の多いロサンゼルスなどでは、かなりの存在感を示したようだ。数日続いたら、影響はさらに深刻だったろう。青果物などの供給は、決定的な打撃を受けるだろう。アメリカ国民の食料供給は、ヒスパニック系移民労働者に頼っている部分が非常に高い。

収斂の行方を見つめる
  ヒスパニック系移民はアメリカの政治世界において、いまやキャスティング・ボートを握る存在である。11月の中間選挙、08年の大統領選挙を前にして、与野党ともに大きな関心を寄せざるをえない。
  
  今回の示威行動も移民に対する国民のイメージ形成にプラス・マイナスいかなる影響を与えたか、十分確認はできない。アメリカ国民がいかに受け止めたか。評価のためには、しばらくの時間が必要だろう。

  不法移民を完全に阻止する手段がない以上、できるかぎり合法化の道を整備し、不法な抜け穴を少なくするしかない。そして闇に隠れた部分を明るみに出すことである。おそらく、今回も議会の法案可決にはさらに時間がかかるが、かなりの数の不法移民を対象とするアムネスティが適用されることになろう。アメリカとしては、これだけになってしまった不法移民を放置しておくわけにはいかない。しかし、こうしてアムネスティを数年から10年くらいの間に繰り返すことが定着することはアメリカにとって好ましいことではない。次のアムネスティへの期待は高まり、アメリカ国内の同調者のリアクションも強くなって対応が難しくなる。
  
  NAFTA成立の基本に立ち戻り、メキシコ国内産業の興隆を図り、移民としての流出圧力を減少させる努力が必要だろう。しかし、この点について、ほとんど議論がない。大統領、上下院ともに、当面は分裂した議論の収拾にかなりの時間が必要だろう。アメリカ国民の関心がどのあたりに収斂するか、行方を見つめたい。


References
「移民」巡り米世論二分『日本経済新聞』2006年5月3日
移民「合法化」広がる期待感『朝日新聞』2006年5月3日
「時時刻刻:中南米系 全米ボイコット」『朝日新聞』2006年4月30日
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最後の頼りは

2006年05月02日 | 雑記帳の欄外

  連休入りを前に、身の回りの整理にとりかかる。机の上ばかりでなく床にもあふれた書籍や資料の洪水! 古書店に数台の車に積みきれないほどお引き取りいただいたのも、ほんの少し前なのだが。この頃の古書店は短期に売れそうもない本はなかなか引き取ってくれない。皮肉なことに書店が売れないと思うものほど、こちらの投資額は大きい(要するに、時代が必要としないものばかり読んでいるということ!)。それなら本など購入するのはやめればと思うのだが、老化する脳細胞へのヴィタミンみたいなもので、かなり減らしたが簡単には止めるわけにもゆかない。


細胞再活性化?
  整理の仕事は、いつもの通りなかなか進まない。実は、これが結構面白く、あまり嫌ではない。脳細胞が衰えてきて、身の回りの整理は、埋もれていた記憶の再発掘のような効能があるのを、本能的に感じるからかもしれない。

  暇ができたら読みたいと思って積んでおいた本や、処分するには惜しいものに出会う。座り込んで、「さようなら」をいうはずの本をまた読んでいる。愛読する作家トレーシー・シュヴァリエのサイトで読書リストを見ていたら、彼女も再読している本がいくつかあるのを見て、安心?したりする。

「さようなら」と言ったはずだが
  もう使えないことが分かっていても、捨てるに忍びがたいものがある。今回見つけたもののひとつが、HP200LXという小型パソコンである。1994年頃に購入し愛用してきた。携帯電話が出現する前の製品である。数年前まで使っていたのだが、バッテリーも寿命が切れ、使えなくなった。それでも愛着があり、机の引き出しの片隅に収まっていた。この製品を使い始めた動機は、それまで使っていたHPの小型計算機が優れていたためであった。逆ポーランド方式という演算法が使いやすかった。多重回帰の計算などもかなり簡単にできた。


  この200LXなる製品はなんとかポケットに収まるし、つくりが頑丈であった。キーボードは小さいながらも、しっかりとしている。画面はモノクロだが、入力には十分であった。旅行や図書館での使用には最適だった。ややマニアックで愛用者も多数いたようだが、ついに生産中止となってしまった*。その後Jornadaというカラー液晶の後継機も出たが、サイズも大きくなりLXの使いやすさをしのぐことはできなかった。両機種ともすでに生産中止であり、部品サービスも後継機もない。

使わない携帯電話
  携帯電話は、いちおう持ってはいるが、よほどの時以外は使わない。電車の中で、皆いっせいに携帯電話を取り出して画面に見入る光景には、いまだなじめないでいる。大都市ではいまや見慣れた光景だが、私には異様な社会病理現象に見える。とても携帯電話で、メールやブログの打ち込みをするつもりはない。これまでかなりせわしない日を過ごしてきたが、携帯電話を使わなくても、仕事や生活面で困ったことはない。

  しかし、パソコンはアクセスできないと一寸困ることがでてきた。郵便物の代わりにメールですますという風潮がかなり定着してきた。原稿も手書きは歓迎されなくなった。学会などでは、いつの間にかワープロ・デジタル原稿が前提になっている。

やはり頼りは鉛筆か
  ふと思いついたことを書き記すのには、手近かなメモが一番確実で早い。ちなみに、長年愛用しているのは、STAEDTLERのMARSという芯ホルダーである。これだけは、死ぬまで「さようなら」をするつもりはない。また長らく使い続けてきた鉛筆削り(DUX pencil sharpner)も実に良く出来ていて、他の追随を許さない。真鍮の削りだしで3段階の調節ができる小さな製品だが、鉛筆削りとして最低限の要件を充たし、堅牢そのものでもある。こうした製品は見ても美しい。

  しかし、少し長いことをメモしておくには最初からワープロ入力ができれば、二度手間にならない。最近はパソコンも随分小さく、軽くなったとはいえ、開いて起動するまでには結構時間もかかる。鉛筆や芯ホルダーのような手軽さがない。
  
 インターネットにつながるなど、余分な機能は必要ない。適度に小さく堅牢な作りで、立ち上がりが早く、入力機能本位の製品をどこかのメーカーが作ってくれないかなあと思っているのだが。それでも最後の頼りは鉛筆かもしれない。



画像イメージは動いていた時のもの。アメリカには生産中止となったこの機種を買い取ったり、再生してくれる会社があり、一時は頼りにしており、Newsletter まで購読していた。

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