時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

日本の苺は誰が摘むのか

2008年01月30日 | 移民の情景

  日本へ来たアメリカ人の友人が、スーパーやデパートの店頭に並んだ果実、なかでも、苺の粒の大きなこと、サクランボの宝石箱のような美しさ、そして恐ろしく高価なことに驚いたようだ。近くには輸入品のアメリカン・チェリーが箱に入れられることもなく、無造作に置かれていた。野菜の売り場でも、かつては見かけたホワイト・アスパラガスも高級スーパーなどへ行かないとないようだ。主流は採取も容易なグリーン・アスパラガスに代わっている。

  消費者の嗜好・要望に応えようと、日本の生産者が大変な努力をしてきた結果としての光景である。いまや曲がった胡瓜や土のついたままの野菜などを見る機会も減ってきた。あの土の匂いが、農家と消費者の家庭をつないでいた絆のような気がするのだが。 

  苺やサクランボなどの繊細な果実は、人間の手で採取しなければならない。農業ロボットに頼ることは、少なくも現状では難しいだろう。しかし、高齢化の時代、人手不足が厳しい。生産を維持しようとすれば、外国人労働者が選択肢とならざるをえない。

  この主題での記事を書いたばかりだが、1月29日付の「毎日新聞」が「イチゴ農家:中国人実習生と雇用めぐりトラブル」と題して、中国人実習生との未払い賃金問題をとりあげていた。栃木県の農園側が「不作」を理由に契約期間前に解雇し、強制帰国を図り、残業代についても同県の最低賃金を下回る時給500円しか払っていなかったことが、紛争の種となったようだ。

  また、外国人研修・技能実習生制度にかかわる問題である。法務省は昨年12月に「研修生及び技能実習生の入国・在留管理に関する指針(平成19年改訂)」を公表したが、徹底されていない。他方で、外国人に依存しなければならない状況を反映して、2006年の在留資格「研修」の新規入国者数は92,846人、技能実習への移行者は41,000人にまで増加している。制度を実施、管理する体制も、この増加に対応できていない

  このブログでも再三指摘してきたように制度上に根本的欠陥があり、こうした指針も徹底せず、ほころびを繕いきれないのが現実だ。制度が複雑過ぎて、当事者でも「研修」と「技能実習」の違いを十分理解できていない。あるいは理解した上で、悪用される可能性を随所に残している。一時はやっと抜本的制度改正かと思わせたが、その後すっかり後退してしまった。

  これまで日本の農業が長年にわたり努力してきた成果も、働き手が確保できなければ継承されることなく、失われてしまう。外国人も日本人と同等の労働条件で雇用されるような透明性のある新たなシステムづくり以外に、もはや選択の道は残されていない。日本の苺は誰が摘むのだろう。

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なぜ17世紀なのか(1)

2008年01月29日 | 雑記帳の欄外

    なぜ、17世紀ヨーロッパの画家に興味を持つのかと聞かれた。考えたことのない問いであったので、一瞬言葉に詰まった。入り口は多分、はるか昔10代の頃に遡る。それも偶然の美術や文学との出会いに始まっているので、とりわけ17世紀を意識していたわけではない。これまでの人生で携わってきた仕事も、17世紀美術や文学とはまったく関係ないものだった。

  問われてみて、少し考えてみた。確かにこの時代の画家や作家に、関心の在り処としてのピンが打たれている。なんとなく惹かれる対象が多い。 ラ・トゥールやレンブラントなどの絵画の世界ばかりではない。文学、劇作などの世界でも、この時代の作品にいつの間にかのめりこんできた。とはいっても、体系的に追いかけようと意識したこともなかった。いつの間にか次々と脳細胞の回路がつながってきた。

  他方、最近の美術や文学の世界でも、カラヴァッジョ、レンブラント、フェルメール、ブレヒトなど、この時代へスポットライトが当たっている。最近の映画「レンブラントの『夜警』」、30年戦争を舞台としたブレヒトの音楽劇「肝っ玉おっ母とその子供たち」の再三の上演、フェルメールやレンブラントへの人気もその一端である。フェルメールもラ・トゥールも私が関心を持ち始めた頃は、一部の人にしか人気はなく、美術館に展示された作品の前も人影が少なかった。カラヴァッジョでさえ、画家の名を知る人も少なく愛好者は限られていた。

   強いて言えば、17世紀という時代、とりわけ前半は、現代と共通する点がきわめて多いことにあるかもしれない。しかも、想像をめぐらすに適度な時空の隔たりがある。16世紀では少し遠過ぎ、18世紀ではやや生々しい感じがする。現代と程よい距離があり、客観的に対象を見ることができるような気がする(この意味で、デューラーやクラナッハは少し遠い)。といっても、まったく個人的な感じに過ぎない。

  現代と共鳴することが多いのは、17世紀のヨーロッパが危機の時代であったことも関係しているかもしれない。「17世紀の危機」という表現があるように、
時代はさまざまな苦難を抱えていた。戦争、悪疫、宗教対立、気象など、深刻な問題ばかりで先が見えない時代だった。不安が人々の心に深く宿っていた。

  誤解を恐れず、あえて整理してしまえば、危機への対応は、それぞれに異なっていたが、同じ主題を各国の劇場が異なった振り付けで上演しているような感じさえあった。政治、宗教面では、イギリスにおける国王と議会派の対立がピューリタン革命、名誉革命へとつながっていった。フランスでの国王と貴族の対立は、フロンドの乱を経て王権の確立を生み、ドイツでは皇帝と諸侯が対立し、30年戦争は農村部の荒廃をもたらした。

  ロレーヌ公国は大国の狭間にあって、30年戦争の戦場として、その争いに翻弄、蹂躙された。しかし、1620年代までは、ロレーヌは繁栄を享受し、文化が咲き競った。

  この中でオランダだけは「17世紀の危機」に巻き込まれなかった。1581年に独立宣言をしたネーデルラント共和国は、ドイツなどの荒廃と比較すると、香辛料貿易、バルト海貿易などを通して、目覚しい繁栄を享受した。まさに「黄金時代」であった。文化の中心はイタリアから北方へと移りつつあった。

  レンブラントの「夜警」の背景には、オランダの繁栄と富に、なんとか劣勢挽回の手づるを見出そうとするイギリス王室あるいは宰相リシリューに追われたフランス王妃などの動きと、それを栄達や蓄財の手段としたいオランダ国内のさまざまな利害グループの策略が渦巻いていたようだ。舞台を現代に置き換えても違和感がないほどだ。一枚の絵が時代の深奥へと見る人を誘い込む。 

 

  

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隊長の化粧直し

2008年01月25日 | レンブラントの部屋

 
  レンブラントの「夜警」(「市民隊フランス・バニング・コック隊長と副官ヴィレム・ファン・ライテンブルフ」)は、描かれた時からさまざまなことを経験してきた。この絵画が完成、依頼者たちに公開された時は、(状況から判断するにすぎないが)彼らの多くは画家の描き方に満足しなかったようだ。当時のオランダでは、グループ肖像画は今日の記念写真のような役割を果たしていただけに、かなりの費用を払ったにもかかわらず望んだようには描かれなかった人物は不満だったろう。少なくも依頼者の一人バニング・コック隊長とレンブラントの関係は、しっくりいってはいなかったようだ*

  レンブラントは、一種の歴史画(あるいは劇場画ともいうべきか)を試みたようで、当時の依頼者たちが抱いていた肖像画のイメージとは明らかに乖離があった。作品の評価は毀誉褒貶さまざまだったが、その後300年を超える年月の経過とともに、「夜警」の評価は次第に高まり、オランダの国民的遺産の地位にまで引き上げられてきた(結果として、歴史画に近いものとなったといえる)。

  それが脅かされるような事件も起きた。物理的に傷つけられたことがあった。1975年には刃物で、1985年には強い酸を画面にかけられて損傷した。とりわけ、1975年の事件は深刻なものだった。

切り裂かれた「夜警」
  この年の9月14日、日曜日のこと、「夜警」は一人の若者によって鋭利な刃物で傷つけられた。そうした行為に及んだ動機は明らかにされていない。とりわけ、主役たるバニング・コック隊長および副官ライテンブルフが描かれた中心部は、ダメージが大きかった。

  「夜警」が損傷したことは、政府、美術館など関係者にとどまらず、オランダ国民にとっても大きな衝撃であった。オランダ政府は事態を重視し、損傷された翌日から修復の事業にとりかかった。修理委員会が設置されるとともに、カナダから専門家が呼ばれ、大規模な修復作業が開始された。この作業の一部始終は映像を含む記録として残され、主要な部分は公開もされている**。さらに、修復作業はかなりの部分、ガラスを隔ててはいたが、美術館を訪れた観客も目のあたりにすることができるよう配慮された。こうした対応は、国民の美術、文化遺産への関心を高める教育的効果も意図したようだ。修復作業は1976年6月19日まで、ほぼ8ヶ月を要した。

  鋭利な刃物で切られた画面の損傷は、関係者の予想を超えて重大なものだった。傷の一部は以前の補修の際に付けられた下地のライニングを切り裂き、裏側まで達していた。画面に強い光を当てると、裏側に光が漏れているのがはっきり分かった。顔料の一部はそのままでは、剥がれ落ちる危険性があった。

  修復技術の点でも、大変興味あることが多かった。そのひとつ、作品表面の脱落防止、修復中の保全のために、大量の和紙が被覆のために使用されたことである。作品の表裏の修復中に、滲み出た水分なども和紙は吸収する性質があるためだった(レンブラントが和紙に大変関心を抱き、版画作品などに使用していたことは知られているが、まさか修復に使われるとは思わなかったろう。)

「修復」の理念と発見
  大変大きな作品であるだけに、額縁、木枠が取り外されて水平に床に置かれ、作業が行われた。作品の上を、修復にあたる技術者が自由に動くことができるように、作品上を平行移動する装置まで導入された。しかし、修復に使われた基本的な道具は、筆、ナイフ、鏝、アイロンなど、ほとんどがレンブラントの時代とさほど変わらない素朴なものであった。修復素材も、当時のものにできるかぎり近接したものが使われた。たとえば、17世紀当時のオランダのリネンなども使われた。

  工程で最も大変に見えたのは、リライニングという作業だった。蝋と樹脂を溶かした摂氏65-67度の液体を支持体の裏面に塗布し、蒸気アイロンでなじませる仕事である。あの大きな作品の裏側全体に手作業でアイロンがけをする、見るからに暑そうな作業だった。

  修復の最後に近い工程では、長年にわたる経年変化で汚れ、黒ずんだ画面を洗浄する作業が行われた。古くなった表面の汚れとニスを取り去り、新たなニスをかける作業である。見ていると、驚くほどの鮮やかさを取り戻して行くことが分かる。剥落した部分などについては、充填、リタッチなどの作業が施された。バニング・コック隊長の顔も当時の色艶を取り戻した。この修復作業で新たに発見されたこともあった。

  改めて化粧直しをした隊長の顔を眺めてみる。どう見ても、知性が感じられる顔ではない。時の経過で汚れていた方が良かった? 美術史家のケネス・クラークが、うわさの出所は明らかにしていないが、「彼はアムステルダムで一番愚かな男と言われていた、そしてそのように見える」 "he is said to have been the stupidest man in amsterdam and he looks it." と大変手厳しい評価を記している。やはり、画家とバニング・コックの間にはなにかあったと読むのが正しいのかもしれない。


どちらが実物に近い?
* バニング・コックは「夜警」完成後、別の画家に水彩で小さな写しを作らせ、自分の個人ノートに貼り付け、アムステルダムの自宅を訪れる重要人物に見せていたといわれる。しかし、そこには「夜警」がレンブラントによって制作されたとは記されていなかった。自分が依頼者であり、最重要な位置に描かれていることを自慢したかったのだろうが、レンブラントには好意を抱いていなかったのだろう。後に、肖像画家として地位を確立していたファン・デル・ヘルストに、改めて下に掲載する肖像画を依頼している。こちらは、確かに見た目は「夜警」よりは立派に描かれている。

Bartholomeus van der Helst
Officers of the St-Sebastian militia at Amsterdam
1653
Oil on canvas, 49 cm x 68 cm
Louvre, Paris

画面、左から3人目、脚を組んでいるのが、バニング・コック

「夜警」が完成してまもなく、バニング・コックはアムステルダムの市長となった。1655年死去するまで3回の人気を勤めた。「夜警」がレンブラントによるなんらかの告発の意味を持っていたとしても、バニング・コックの公的キャリアには影響を与えなかった。アムステルダムの支配階級の自衛の仕組みは強固だった。




Reference
**

The Rembrandt Collection. Kultur. West long branch, NJ., 2005.
(de restauratie van "DE NACHTWACHT" in het Tijksmuseum te Amsterdam, 1975-76).
Kenneth Clark, An Introduction to Rembrandt (New York:Harper and Row, 1978), p.79. 

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誰が苺を摘むか

2008年01月23日 | 移民政策を追って

  かつてイギリスでしばらく暮らした時、この国の野菜や果物が概して不味なことに落胆した。その原因を考えてみたが、複数の要素が重なっているように思えた。

  ひとつは、全体に繊細な野菜を育てるには地味が良くないようだ。地元の農家直売の野菜を買ってみたが、味はいまひとつだった。
作物によっては適した地域もあるのかもしれないが、真偽のほどが分からない。ほうれん草なども、日本人が好んで食べるような「お浸し」にはとてもならない。あくが強くて、ばりばりとして硬い。ポパイの缶詰?のように、ほうれん草の形態がなくなるまで煮るか茹でるかしないと、食べられないことが良く分かった。 

  さらに、果物などの品種改良が進んでいない。苺やトマトなども日本の味に慣れてしまったこともある。それでも、オランダやスペイン、イタリアなどからの輸入品は、価格は高いが味はまずまずであると思った。イギリスの名誉のために付け加えると、隣家からいただいた野生のベリーなどは、それぞれ固有の味があった。しかし、概してこの国の人は食べることに日本人ほど関心がないようだ。 

  さらに関連して、その後、イギリス国内の農業労働者が不足し、ポーランドなど東欧諸国、果ては中国人の不法滞在労働者にまで依存している実態も伝わってきた。  

ポイント・システムへの移行  
  こうした中で、今年3月からイギリス政府は、これまでの移民受け入れシステムを、オーストラリア型のポイント制度に変えると発表。対象となるのはEU域外から入国してくる移民労働者である。評価は、教育、稼得収入、年齢、英語力などの採点に基づいて行われる。

  新制度導入の理由は、第一に従来の複雑な制度の簡素化である。ちなみに、現行システムは5階層からなり、80種類に及ぶ分類となっている。もうひとつ、関係大臣が述べているのは、イギリスが本当に必要とする人材だけを受け入れるという方向である。この路線に沿って行われる今回の制度改革は、イギリスの移民システム始まって以来の大改正といわれている。  

  今回の改正に関連して、ゴードン・ブラウン首相は、「イギリス人労働者にイギリスの仕事を」 'British jobs for British workers'と発言。 付け加えて、過去10年間、270万人分の雇用が創出された中で、150万人分は外国人労働者のものとなったと、言わずもがなのことまで口にしてしまった。

新システムの評価  
  イギリス政府は新システムに期待をかけているようだが、施行前からすでに限界も指摘されている。移民問題の専門家、ロンドン大学のジョン・サルト教授は、新しいポイント・システムでカバーされるのは移民労働者の40%以下であると推定している。理由は、EU新加盟国のルーマニアとブルガリアを別にすれば、EU国民ならば、ヨーロッパのどこでも自由に働けるからとしている。   

  高い報酬を得ている専門性の高い労働者(科学者、企業家など)は、5階層区分の第1階層に区分される。年間4万ポンド以上の報酬が期待できる大卒者は、簡単な質問に答えるくらいで入国を認められる。仕事のオッファがなくても入国が認められるなど、格段に入り口が広がる。4年後には定住資格も与えられる。看護士、教師、エンジニアなど第2階層区分に入る中程度の熟練の労働者は、ポイント・システムの運用に十分配慮する必要が生まれる。この階層区分は臨機応変に調節されるらしい。そして、この階層以下はヴィザの期限失効とともに、出国しなければならない。
  
最大の問題領域は不熟練分野
  今回の改正で最大の影響を受けるのは、熟練度の低い労働者である。新システムでは、第3の階層区分に分類されるこれらの低熟練労働者(EU域外からのみ)は、少なくも当面は閉め出される。残りの2階層は留学生と特別の短期低熟練労働者に対応する。いずれもヴィザの失効とともに、出国が義務付けられる。  

  深刻な影響を受けるのは、苺摘みなどをしているウクライナからの労働者やロンドンのレストランなどで皿洗いなどをするバングラディッシュ労働者などに象徴される熟練度の低い労働者である。建設労働者もこの第3階層区分に入る。この区分の労働者の入国は格段に厳しくなり、オリンピック直前の建設工事のような緊急の必要が発生した時にのみ開放されることになった。 第4階層は学生、第5階層は外国企業からの派遣、文化交流による若者の滞在など、その他の短期労働者である。

  他方、イギリスでは、青年はまもなく18歳まで教育課程に在学するようになる。こうした熟練度の低い仕事は、学校を卒業した若者にとって魅力に乏しい。結局、早晩、現在は受け入れていない ブルガリア、ルーマニアなどから受け入れる可能性が高い。一度閉じたドアを再び開けるということになりかねない。

激しくなる労働者の争奪 
  かつて、1970年代のアメリカで高度資本主義国では、熟練度の低い、きつい労働は引き受け手がなくなるという議論があった。「誰が汚い仕事をするか」 Who will do the dirty work? という衝撃的なテーマであった。この問題は、日本でもバブル期以降、「3K労働」の名の下にひとしきり議論された。

    アメリカはメキシコとの間の国境管理を緩やかにすることで、農業、サービス分野での労働力不足に対応してきた。その結果は、1200万人近い不法滞在者の存在と、改善されることがない農業その他の労働分野での移民労働者への依存状況を生み出した。今回の大統領選で、各候補にとって、きわめて対応の難しい問題となっている。

  世界的な人口増加が続くなかで、先進国の労働力不足は単に高度な熟練カテゴリーにとどまらず、多くの分野で深刻化し、労働者の争奪が展開しつつある。

  目先の問題に明け暮れる日本は、すでに労働力不足が深刻化してかなりの時間が経過しているのだが、まだほとんどまともに議論がなされていない。労働力は余っているよりは、足りない方がまだましと思われているのだろうか。フリーター、ニート問題以降、労働市場についての議論がバランスを失しているようだ。地方の衰退も高齢化、若者の流出などによる働き手の不足が要因となっていることが多い。医療や看護・介護分野の人材不足もひとつの側面である。日本が誇る農業や果実栽培も、風前の灯火である。国の活力の衰退を含め、労働力不足の打撃がいかに大きいか、新たな視点が求められている。



Reference
”Guarding British soil”The Economist January 5th 2008.
UK Home Office. Selective Migration, 2005.

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北方への旅:デューラー

2008年01月20日 | 書棚の片隅から

St Jerome
1521 Oil on panel, 60 x 48 cm,
Museu Nacional de Arte Antiga, Lisbon
 


    前回記した「北方への旅」との関連で、印象深い書籍がある。昨年のことになるが、旅の徒然に読んだデューラー『ネーデルラント旅日記』(前川誠郎訳、岩波書店、2007年)は大変興味深いものだった。

  デューラー(Albrecht Dűrer, 1471-1528)が、ネーデルランドへ旅をした時代は16世紀前半で、今日から遡ること500年ほど前になるが、それだけの隔たりを感じさせない。時代は16世紀なので、レンブラント、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールやジャック・カロなどの時代よりも1世紀遡るが、同じ画家たちの北方文化圏への旅として、多くの示唆を得ることができた。なによりも、驚くほど活動的で好奇心が衰えない、この偉大な画家の日常を知ることができて、興趣が尽きない。

  本書は、デューラーが1520年7月から翌年1521年7月にかけて、ニュールンベルグからネーデルラント地方に旅した日記である。日記といっても、その主たる部分は毎日の出納簿覚書のような形になっているが、これが単なる覚書の域をはるかに超えて、期せずしてこの大画家の人生を集約したような作品になっている。しかも大変緻密な翻訳の労をとられた前川誠郎氏の詳細な解説、あとがきによって、一見小著ながらきわめて読み応えがある作品に仕上がっている。あまりに面白く、その後も何度か読み返すことになった。   

  デューラーが、その人生の絶頂期にあった49歳から50歳にかけての時期の旅である。この偉大な画家は、この時までに生涯の作品の大半を完成しており、その名声はヨーロッパに広く行き渡っていた。それはデューラーが旅の途上、各地で受ける歓迎、歓待に象徴的に示されている。   

  旅には画家デューラーに妻アグネスと召使スザンナが同行した。デューラーがこの旅を企画した直接的動機は、訳者の「解説」によると、1512年2月ころから、当時の神聖ローマ帝国皇帝マクシミアヌス1世のために、画家が作成した大木版画や祈祷書の周辺装飾挿絵等の制作に対して、報酬として約束された年金100グルデンの支払いが、皇帝の急逝などもあって、継続給付の見通しがつかないため、問題解決の請願のために自ら出向くことにあった。たまたま新帝カルロス5世のアーヘンでの戴冠式を機に、自らの手で解決を図ろうとしたようだ。   

  ちなみに、この年金というのは現代の福祉政策概念のそれではなく、皇帝、領主などが芸術家など顕著な功績のあった者に、一種の報酬として付与する個人的な約束に基づくものである。たとえば、このブログでも取り上げているラ・トゥールも真偽は不明だが、晩年フランス王から年金を付与されていた可能性を推定させる記録がある(真偽のほどは不明)。また、同時期の宮廷画家ヴーエ(Simon Vouet, 1590-1649)なども、フランス王からイタリア修業の際に同様な給付を受けていたことが知られている。そのため、プッサンのようにイタリアにとどまらることなく、パリへ戻ったという事情もあるようだ。   

  デューラーが約束されていた年金は、100グルデンだった。この額が当時の貨幣価値で、どの程度のものであったかは推測が難しいが、これも前川誠郎氏の「解説」によると、当時アントヴェルペンに滞在していたポルトガルの商務官の年俸が3千グルデン、ニュールンベルグの外科医の年収が80グルデン、内科医が100グルデン、市参事会付き弁護士が160~260グルデン、他方学校教師はわずかに20グルデンであった。ポルトガル商務官の額が飛びぬけて高額だが、これはポルトガルが香辛料貿易で巨富を上げ、アントヴェルペンなどの港市の財政に多大な利益をもたらしていた。こうした商務官などは市の収入役のような役割まで果たしていたらしい。ともかく、デューラーにとって、この年金は大変大きな額であったことが分かる。   

  さて、デューラーは、旅の最初の段階に、ブラッセルでマルガレータ女公から年金問題への支援をとりつけて安堵したこともあって、当初2ヶ月くらいの旅の日程をなんと1年近くまで延ばして滞在するという豪勢な旅に変えてしまった。行く先々で歓待されて居心地もよかったことはいうまでもない。画家は旅の終わりに収支を総計し、この旅で大きな散財をしてしまったと嘆いているが、前川誠郎氏が記されているように、それは「少し欲が深すぎる」のであり、デューラーは実際この旅を大変楽しんだのだった。   

  とにかく、この時代に妻ばかりか召使まで連れて、行く先々での土産代わりや販路開拓のための版画など大量の美術品を携行しての豪勢な旅は、誰もができるものではなく、大画家デューラーだからこそなしえたものだった。この旅で、デューラーは当時の貴顕諸侯をはじめとして、同業の画家など、きわめて多数の人々と交流していた。クラナッハ(1472-1553)にもこの旅で会っている。そして、アントヴェルペンを拠点として、全ネーデルランドの画家たちとの交流が展開する。   

  さらに本書の白眉ともいうべきことは、1521年5月17日、マルティン・ルッターが陰謀によってアイゼナッハ近郊で逮捕されたという報せを受け、長文の哀悼文を寄せていることである。この事件は、実際には5月4日に起こり、すでにルッター自身がクラナッハに身を隠す旨をあらかじめ報せていたらしい(同書訳注194)。デューラーがルッターをいかなる存在と考えていたかが、切々たる文面で記されている。この出来事に関連してのエラスムスの老獪な態度なども伺われて、きわめて興味深い。   

  一見すると、一日の現金出納の覚書を中心に日々の出来事が淡々と記されているような印象だが、興味深い記述が多々出てくる。とりわけ、驚くのは当時の交通費の高さであり、馬車、船賃、通関料など、富裕でなければとても支払えない額となる。とりわけ、マイン川、ライン川などの舟行などは関所だらけの観を呈していた。当時の領邦国家の実態が彷彿とする。さらに、暴風雨で航行中に遭難しそうになったり、アントヴェルペンで凱旋門といわれる屋台の制作を手伝ったり、巨鯨を見に行ったり、画家は東奔西走である。その好奇心の強さには、レンブラントと似たところを感じる。   

  かくして、この旅は大画家デューラーの晩年を飾り、人生を総括するような充実した旅となった。画家はニュールンベルグへ戻り、7年後に世を去った。

 
Source
デューラー『ネーデルラント旅日記』(前川誠郎訳、岩波書店、2007年)

Albrecht Dűrer. Schriften und Briefe (Reclam-Bibliothek Band 26 Leipzig 1993).

アルブレヒト・デューラー『デューラーの手紙』 (前川誠郎/訳・注, 中央公論美術出版, 1999年12月)刊行以来年月が経過し、古書扱いになっているが、新刊で入手できる可能性もある。

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北方への道

2008年01月18日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

ロレーヌ公国ナンシーから主要都市への道
17世紀初めのヨーロッパ

  

    旅の記録や資料は一切残っていない。それでも、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールはイタリアへ行ったのではないかとの議論が行われてきた。17世紀初め、ヨーロッパの画家たちにとって、イタリア、とりわけローマは文化の聖地のような存在だった。誰もがローマやフローレンスの素晴らしさを語っていた。イタリアの風が広くヨーロッパを渡っていた。レンブラントのように、はっきりとイタリアへ行く必要はないと言えた画家は少なかったのだ。

  ヨーロッパ各地からの人流の交差点のひとつとして、ラ・トゥールの生まれ育ったロレーヌでもイタリア礼讃者は多かったらしい。確かに、この時代、イタリアへ行ったことのない画家の方が少ないのではないかと思うほど、イタリアは吸引力を持っていた。ナンシーから送られた郵便物は1週間くらいでローマへ配達されたらしい。ローマには、ロレーヌ出身者の大きな集まりまであったといわれる。ロレーヌ、とりわけナンシーとローマの間には絶えない人の流れがあったようだ。こうした事実を列挙した上で、ラ・トゥール研究の大家テュイリエは、ラ・トゥールがローマへ行かなかったということの方がおかしいとまで述べている(Thuillier 1992, pp26-28)。

  ラ・トゥールがもしかすると出会ったかもしれない、ナンシー出身の銅版画家ジャック・カロはイタリアへの憧憬があまりに強く、再三家出してまでイタリアへ出かけている。

  ラ・トゥールがどこで画家修業をしたかは別として、イタリアはロレーヌの工房などでも日常の話題だったのだろう。それだけに、イタリアの文化動向については情報がかなり流布していたともいえる。 こうして、ラ・トゥールがその生涯にイタリアへ行ったかどうかは、この画家の研究史上は大きな論点とされてきたが、意外に議論となってこなかったのが北方への旅行である。

  この画家の作品を見て、直感したのはバロックの時代と言われながらも、ゴシックあるいはゲルマン的な潮流との強いつながりだった。 この点を考えながら、地図を眺めてみる。ヴィックあるいはリュネヴィル、ナンシーなどのこの画家ゆかりの地からは、フローレンス、ローマなどのイタリアの地はかなり距離もあり、アルプス越えなどの難関も控えている。

  それに比較すると、北方ネーデルラントは距離の点でもパリへ行くのとさほど変わらない。今ではパリ・ナンシー間はTGV(特急列車)で1時間半の旅だが、当時馬車などによっても片道3-4日程度の旅であったと思われる。フローレンス、ローマなどへは2~3週間はかかったのかもしれない。個人の旅行者は旅商人や巡礼などの仲間に加えてもらって旅をすることも多かったようだ。

  17世紀前半、レンブラントの時代はネーデルラントの黄金時代でもあった。イタリアの芸術文化の最盛期は過ぎ、新たな文化が興隆する地として北方ネーデルラント、フランドル地方が注目を集めていた。ラ・トゥールの作品に長年にわたり親しんできて、南よりも北の美術世界の方がこの画家には強い影響を与えたのではないかと思うようになった。ローマやフローレンスへ行った可能性以上に、アントヴェルペン(アントワープ)などへ行った可能性の方がはるかに高いのではないか。

Reference    
Jacques Thuillier. George de La Tour. Paris: Flamarion, 1992.

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見たくない白昼夢?

2008年01月17日 | グローバル化の断面

  ITや映像技術の進歩もあって、思考にかかわる時間が圧縮されるのだろうか。時々白昼夢のようなことを考えてしまう。 
  
  1月13日、台湾立法院の選挙結果を見る。予想以上の国民党の大勝である。前日、選挙前夜の熱狂ぶりをTVが伝えていた。この国の選挙時の盛り上がりはすごい。かつて、その現場に居合わせたことがあったが、台湾全土が燃えているような感じがした。一見、過熱しているのではないかと思わせる光景の裏側で、この国の人々の脳裏を常に離れることのない関心事は、なんといっても中国との関係のあり方だ。人々は日々の営みの中で、ふと我に返る時があれば、いつか来るかもしれない、その日のことを考えている。ある友人は台北の空が真っ赤になった夢を見るという。そして子供たちを勉学の機会にと海外へ送り出し、もう何年も遠く離れて住んでいる。

龍の国が抱える問題
  台湾は大国中国に呑み込まれてしまうのか、それとも政治経済上の独立性を維持できるのだろうか。中、台両国に知人・友人がいることもあって、 他人事には思えなかった。最近会った中国人の友人は、台湾はもはや中国にとって大きな政治経済上の問題ではなくなったという。そういえば、中国側のメディアへの台湾問題の登場度は低いようだ。とりわけ、政治家は行き着く先がみえてきたと考えているらしい。台湾から本土への産業移転が進んで、経済面でも一体化が進み、脅威ではなくなったとの見方なのだろう。柿が熟するのを待つのだろうか。他方、中国には台湾問題をはるかに超える大問題が頭上に覆いかぶさっているという。そうかもしれない。

  しかし、台湾の人々にとっては、今回の立法院選挙、そして3月に行われる総統選挙は、今後の台湾のあり方を大きく定める。しばらく目を離せない。とにかく、台湾海峡が平和な海であるよう祈るばかり。 

  他方、本土側へ目を移すと、今年8月の北京オリンピックを目前にして、中国は活力に溢れている。だが、沸騰する圧力を十分に制御できないようだ。北京空港と市内を結ぶ高速道路が完成した当時は、その改善ぶりに目を見張ったが、日ならずして渋滞の道路になってしまった。大気汚染はひどく、呼吸器の弱い私などは敬遠気味である。オリンピックという国家的行事が、分裂しそうな民心をかろうじて支えているようなところもある。しかし、その後を考えるとかなり怖い。一層の発展への踊り場となるか、反転下降への峠となるか。

  すさまじい環境汚染、格差の拡大、安全性の低い輸出品など、憂慮すべき問題が山積している。上海にいる知人は、北京オリンピックのことはあまり伝わってこないし、大きな関心事ではないという。オリンピックは北京の事業だと考えているようだ。13億という人口の生み出すエネルギーはすさまじい。

走り出した象の国
  そして、アジアではもうひとつ人口大国インドの発展が急速に注目を集めている。最近、30万円(10万ルピー)を切る超低廉、小型自動車「ナノ」を同国の財閥タタ社が発売することを発表し、大きな話題となった。先進国企業は価格が安すぎるというが、この価格で国民が満足できる車ができるのならば、文句のつけようがない。文字通り国民車となる。環境対策でもユーロIII基準を満たし、努力すればユーロIVも不可能ではないというが、アジアの開発途上国の10億人が、この車に乗っている光景は想像するに恐ろしい。

  中国、インドの人口は併せると24億人、地球の全人口の3分に達する。最近、中印両国の近接が目立つが、そのエネルギーはすさまじい。「ひよわな花」といわれた戦後日本の発展の比ではない。したたかな力を最初から保持している。すでに、日本以外のアジアの富裕層(資産1億円以上)は120万人ともいわれ、日本の百貨店なども重要な顧客とみなし始めた。日本人が買えなくなった高価な商品をこともなげに買ってゆく人々。百貨店や秋葉原で、現金払いで一人100万円の買い物をするなど珍しくないらしい。いつか、どこかで見たような風景でもある。

文化の香りのする国
  龍にたとえられる中国、象のインド、その二つの大勢力を前に、なんといっても気になるのは急速に矮小化してゆくこの国、日本の姿である。「年金崩壊」、「医療崩壊」、「教育崩壊」、「家庭崩壊」・・・、など惨憺たる文字がメディアを覆っている。絆創膏を貼るような対応ばかりで、前途に光が見えない。

  人口の規模も国力そのものではないが、国力を構成する柱のひとつである。少子化対策もさしたる効果は見られない。一時はアジアの東で燦然と輝いたこともあったが、今その光は急速に薄れている。内政、外政、目を覆うばかりの迷走で、国力の低下は避けがたい。このままではアジア大陸の縁辺に張り付いたような存在感のない国になって行きそうだ。せめて中規模国になっても、文化の香りのする、誇り高い存在感のある国であってほしい。自分が確実に存在しない先のことなのに、その行方が気になるのはなぜだろう。

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画家と政治家

2008年01月15日 | レンブラントの部屋

 Rembrandt.Andries de Graeff(1611-79)
Canvass, 200x125cm. Bredius 216
Kassel, Gemaldegalerie Alte Meister

 
推理の力
    グリナウエイ監督の新作映画「レンブラントの夜警」は、主要紙のほとんどが映画評に取り上げた。それだけ注目を集める内容であり、単なるミステリー、エンターテイメント次元の作品ではないことが伝わってくる。とはいっても映画は見ていないのだが、画集で「夜警」の細部を改めて見てみると、これまで気づかなかったレンブラントを考え直す新しい材料が多数含まれていることに驚く。今までなにを見ていたのだろう。

  映画の方も記録ではなく興行を目的とする作品である以上、多くの推理で構成されていることはいうまでもない。しかし、脚本作成に際しては、最新のレンブラント研究の成果が十分に考慮されていることが推測できる。同時代の画家と比較すれば、格段に史料も多く、研究も進んでいるレンブラントだが、断片的史料の間隙を埋めるのは推理の力である。レンブラントはこの作品を制作するについて、かなりはっきりとした論理を組み立てていたことは確かである。しかし、さすがに大画家であった。その論理を読み取ることはきわめて難しい。かなり細部にわたって綿密な計算が仕組まれている。


政治との係わり合い
  この時代に限ったことではないが、画家が世に出るためには、有力なパトロンの確保が大きな鍵を握っていた。「夜警」をめぐる人物の複雑な関係が示すように、多くの画家は処世の上でも政治とさまざまな係わり合いを持っていた。アムステルダム市の政治世界の中に、レンブラントも確実に身を置いていた。それがどの程度のものであったかについては、推測の域を出ないが、世に出るまではともかく、ひとたびその名が知られるようになると、これだけの力量を持つ画家を世の中が放っておくわけもなかった。

  駆け出しの画家は、自らパトロンや顧客へのつながりを求めるが、レンブラントのように名を成した大画家になると、自分の肖像を描いて欲しいという有名人は数多かった。その範囲もオランダにとどまらず、ヨーロッパ全域にわたっていた。しかし、肖像を描いてもらう側からすると、画家が自分が期待するように立派に?描いてくれるとの保証はもらえない。

作品を受け取らなかった男
  中には自分で肖像画を依頼しておきながら、作品が気に入らないと返却し、代価を支払わないという者まで現れてくる。レンブラントの場合、よく知られているのが、アンドリュー・デ・フラー
フ Andries de Graeff(1611-1778)というアムステルダムきっての資産家といわれた男である。後に同市の市長にもなったようだ。財力、権力ともに持ち合わせていたことは疑いない。

  1639年、レンブラントが33歳の時、全身の肖像画を依頼される。当時の肖像画はほとんど半身像である。ひとつの理由はコストのためと思われる。全身像は作品が大きくなり高くつくので、財力や権力を誇示する目的でもなければ半身像が普通だったのだろう。

  このフラーフの場合、依頼しておきながらなにが気に入らなかったのか、作品は返却され、報酬の支払いもなかった。推測されているのは、比較的単純な理由で、フラーフの顔の頬がやや赤く描かれ、酒を飲んで酔っ払っているようにみえ、背景に描かれている鉄の扉が同市の知られた酒場の前であることを暗示しているとの推測がなされたためと言われる。

謎の手袋
  現存する作品を見てみると、確かに指摘されるような部分は見受けられるが、酒を飲んでいることを暗示するのか、同時代人でないと判断しにくいほどのものである。ただ、描かれたフラーフの右手の武闘用の手袋がわざわざ脱ぎ捨てられ、足元に放置されているという謎の部分もある。画家がフラーフの男らしさを強調する意味で、あるいはなにかへの挑戦(フラーフが酔っ払っていることを揶揄?など)を暗示するために、こうしたポーズを選んだとしか思われない。

  レンブラントは、このアムステルダムでも数少ない実力者に画家は敢然と立ち向かい、裁判に持ち込み、勝訴し、報酬を支払わせた。この画家はかなりの自信家でもあり、強い信念を持っていた。
  
  ちなみに、この係争事件以降、フラーフ一族からレンブラントへの注文は途絶えたようだ。そして、さらに謎を呼ぶのは、フラーフと「夜警」に描かれた中心人物バニング・コック隊長は義理の兄弟だったということが判明している。「夜警」ではコック隊長は左手の手袋を外している*

 

* 隊長が右手に持っているものが、自分の手袋なのか、地面に落ちていた右手用の手袋を拾い上げたものかは、確認できない。もし、後者だとするとコック隊長がフラーフに代わって画家に挑戦するという含意があるとも考えられる。


Reference
Rembrant's Universe:His Art, His Life, His World by Gary Schwartz. New York: Abrams, Hardcover, Sep 2006.

 

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塗り込められた陰謀?:「レンブラントの夜警」

2008年01月11日 | レンブラントの部屋

The Nightwatch, 1642
Oil on canvas, 363 x 437 cm
Rijksmuseum, Amsterdam
Detail 


  映画「レンブラントの夜警」の監督ピーター・グリナウェイ氏のインタビューが、「日本経済新聞」2007年1月7日夕刊に掲載されていた。短い記事なので一般読者には分かりにくいが、「この絵(「夜警)には陰謀が塗り込められている」と、監督は大胆な仮説に基づく今回の新作を表現する。  

  確かに「夜警」(通称)は、レンブラントとその作品を多少なりとも知っている人にとっては、画家が作品に籠めた真意を推測するについて、理解しがたい謎めいた部分があることを感じさせる。しかし、この作品が圧倒的に素晴らしい傑作であり、オランダの国家的遺産ともいうべき存在であることに異論を唱える人は少ない。  

レンブラントはなにを考えていたか
  監督はこの作品には51の謎が含まれていると言う。それが何であるかは別として、この画家の制作意図を推定することは興味深い。1645年当時、「火縄銃手組合」から依頼され、クロフェニールスドゥーレンの大広間に、「夜警」を含む6枚の絵画が掲げられた状況が、今日ではコンピューター・グラフィックスなどで再現されている*。   

  それによると、レンブラント以外の画家の手になる5枚の作品は、当時流行のグループ肖像画のお定まりの構図が採用されていた。他方、レンブラントの「夜警」の構図は際立って特異であり、図抜けて迫力があった。「夜警」と比較すると、他の5枚はトランプのカードのように平板だとさえ言われてきた。   

  他の作品では依頼者の肖像だけが描かれているのに対して、レンブラント作品では、謎の少女を初めとして、「火縄銃手組合」の構成メンバー以外の人物が描かれている。しかも、組合員と思われる人物でも顔面部分のみ、あるいは人物が同定できない程度の鮮明度でしか描かれていない。これは依頼者との関連においても、不思議な感じを呼び起こす。描かれる人物にこれほどのウエイトの差がつけられるとすれば、当然その扱いの軽重に不満も生まれよう。他のグループ肖像画では、これほどの差異はつけられていない。この点は「トゥルプ博士の解剖学講義」、「織物商組合幹部」など、レンブラントの他の作品についてもいえることである。 「夜警」だけが際立ってドラマティックである。

当初の作品依頼者は
  この作品をレンブラントに依頼するについて、1640年当時、最初に交渉に当たったのは、火縄銃手組合の側はキャプテン、ピールス・ハッセルブルフ  Captain Piers Hasselburghと副官イエーン・エフレモント Lieutenant Jean Egremontであり、間に入ったブローカーは、レンブラントの画商を務めたこともあったヘンドリック・アイレンブルフ Hendrick Uylenburghであった。しかし、アイレンブルフは実際のレンブラントとの交渉はお気に入りの姪サスキアに依頼していたようだ。サスキアは当時の女性としては珍しいといわれる読み書き、算術などの能力に長けており、制作ばかりで家政や工房の経営などが不得手なレンブラントを助けてきた。

  隊長ハッセルブルフと副官エフレモントは、1638年、フランスの王母マリー・ド・メディチのアムステルダム訪問に公式につき添った。彼女はフランス王室と対決の関係にあり、富裕なオランダに支援を求めていた。これは火縄銃手(当時はマスケット銃へ移行)組合にとっても重要で名誉ある仕事だった。彼らは王室から多額の資金を受け、さらに信頼という得がたいものを獲得した。それによって組合のメンバーはアムステルダム市の政治できわめて早い昇進の道をたどることができた。

「フランス派」対「イギリス派」の反目?
  ハッセルブルフとエフレモントは、追放されたフランス・ユグノーの子孫だった。父親と祖父はオランダに避難の場を求めた。しかし、当然ながらフランスへの愛着もあった。他方、誠実に彼らに名誉と安全を保証したオランダへの忠誠心も強かった。こうした経緯もあって、彼らは火縄銃手組合のメンバーの間では「フランス組」として知られていたようだ。  

  実は、当時アムステルダムには、もうひとつの国家的訪問があった。イングランドのチャールスI世の娘、王女メアリー・スチュワートでだった。彼女は婚姻の関係でフローレンス・メディチ家につながっていた。メアリーはアムステルダムのオレンジ公ウイレム2世に輿入れすることになっていた。イングランドで王は議会と対決していた。王は来るべき市民戦争への資金を必要としていた。その目的で、娘をアムステルダムへ送り、資金調達を図ろうとした。英国王の王冠の宝石類の質入れが考えられていた。
 
  この取引には、レンブラントの「夜警」で、最重要人物として描かれているバニング・コック Frans Banning Cocq の一族が関係していた。バニング・コックは1642年当時、アムステルダムのマスケット民兵組織6隊のひとつの隊長だった。香料や薬の貿易で財をなした富裕な商人の息子だった。バニング・コックとその取り巻きはマスケット隊の中では「イギリス派」の代表だった。

  映画は、レンブラントの「夜警」は、マスケット隊組織における「フランス派」と「イギリス派」の血みどろな抗争の顛末を凝縮して描いたものとして、展開するようだ。レンブラントは誠実なハッセルブルフと快活なエフレモントと親しかったらしい。作品の画家への依頼時は、二人が当事者だった。しかし、この二人の運命はその後、驚くべき経緯へとつながる。彼ら二人は「夜警」ではどこに?

レンブラントのその後
  レンブラントの「夜警」の完成後、バニング・コックはアムステルダムの市政において市長を務めるという順調な栄達への道を確保した(なぜ、ハッセルブルフではなく、バニング・コックが隊長になっているのか。)他方、レンブラントの画家生活は反転、窮迫化する一方だった。有能で画家の足りない部分を補い助けた愛妻サスキアもこの年に世を去った。なにがそこで起きたのか。

  さらに、グリナウエイ監督は、レンブラントは17世紀当時、一般家庭に蝋燭が普及し始めた頃であり、自然光に新しい可能性を見出し、絵画において映画的な実験をいち早く行ったと述べている。いわば、現代の映画化を油彩画作品で実現したものだと評価している。確かに、この一枚の作品の中に登場人物をめぐる複雑な関係が光の明暗の中に、濃密に描きこまれている。こうした効果を、すべてカラバッジョの影響とする風潮も一部には感じられるが、イタリア行きを断固として断ったレンブラントは心に期したものがあったに違いない。

  レンブラントのこの作品を見た同時代の人々は、それぞれにストーリーを思い浮かべつつ、画面に見入ったものと思われる。いずれにせよ、今回の映画化が、レンブラントという偉大な画家の人生、制作態度などについて、新しい切り口を導入するきっかけになることは予想される。しかしながら、グリナウエイ監督も自認するように、かなり大胆な仮説に基づいた映画化であり、今後のレンブラント像の修正にどの程度結びつくのか、興味ある点である。



* Gary Schwartz. The Rembrandt Book. New York: Abrams, 2006.p.175.

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循環か統合か:移民政策の行方

2008年01月10日 | 移民政策を追って

取り残される日本
  世界の人口はすでに昨年末に64億人のレヴェルを突破、さらに増加を続けているが、大きな人口減少が避けがたい日本は急速に取り残されてゆくようで、このままでは国家として衰退の兆しが濃い。人口の大きさは「国力」そのものではないが、国力を構成するひとつの重要な構成要因であることは多くの人々が認めている。

  こうした状況で、アメリカを初めとして多くの先進諸国は労働力不足の様相を強めている。仕事の機会があっても国内労働者が就こうとしない分野が増加し、移民(外国人)労働者を招きいれないと、経済活動が機能しなくなっている。農業、建設、製造業やサービス業の一部などで、深刻な人手不足が拡大している。他方、国家として競争力を維持、活性化する上で、創造力の高い技術を体得した専門的人材も争奪戦の状況が展開している。

「移民労働者」なしには存続しえない先進経済
  はからずも、今週のThe Economist (London)と「エコノミスト」(毎日新聞社)が特集として移民問題を取り上げている。双方を読んでみての印象は、(小生の寄稿も含めての話だが)、率直に言ってやっとここまできたかという思いがする。多少議論が進んだと思えるのは、外国人労働者が珍しい存在ではなくなったこともあって、国境管理の次元ばかりでなく、「社会的次元」への注目が進んだことだろう。それでも、全体の流れは依然として、1980年代頃の議論の繰り返しが多い。それだけ、この問題は答案が書きにくいということかもしれない。それにもかかわらず、認識しなければならないことは、日本やEU諸国などが、もはや移民労働者に依存しないかぎりどうにもならない所まで来ているという事実である。

  日本経済を支えている重要産業である自動車や電機産業も、親企業の工場に外国人労働者が見えないとしても、下請け・関連企業まで含めてみると、外国人労働者がいなくなったら、企業活動が停止してしまうだろう。そればかりではない。看護、介護などの領域でも、人手不足が深刻な事態を生んでいる。この分野だけはロボットで代替するわけには行かない。高齢化の進行に伴い、人手不足は加速するばかりだ。

  アメリカ南部の農業のように、メキシコ人労働者などに依存する以外にはどうにもならない分野も多い。彼らのほとんどは国境を入国に必要な書類を保持することなく、越境してくる不法就労者である。外国人労働者をなんとか合法的に受け入れ、しかも受け入れ側に負担がこれ以上加わらない方策がないか、模索が続いている。

新味のない「循環」政策
  最近、注目を集めているのが「循環」circulation と呼ばれる政策である。EUの「公正と家庭問題」委員会のフランコ・フラティニ委員長などが提唱している。受入国側が必要とする労働者を、送り出し国側である開発途上国から一定の訓練などを条件に受け入れる。そして、受け入れ国側に定住することを認めず、一定期間後に母国へ戻ってもらうというシステムである。いわば、1950年代からドイツ、フランスなどが南欧、旧ユーゴスラビア、トルコなどから「ガスト・アルバイター」と呼ばれる労働者受け入れ、還流させようとした政策の新ヴァージョンともいえる。当時は「回転ドア政策」とも呼ばれた。

  「循環」政策の導入で、現在アフリカ諸国とポルトガル、スペイン、イタリアなどの地中海諸国にとって大きな問題となっている小船などでの密入国を企てる者の航海途上の危険、監視体制、麻薬や犯罪問題へ有効に対応できると考えられている。さらに、母国への送金などで送り出し国発展への寄与も想定されている。こうした「還流」政策自体は、とりわけ新味があるわけではない。万策尽きた先進国側が窮余の一策として再提示した方策といえなくもない。

基軸は送り出し国の「内在的発展」支援
  他方、こうした「循環」政策を導入したとしても、受入国で働く間にさまざまな理由で定着、定住化する可能性も否定できない。こうした動きは従来、合法、非合法いずれの労働者についても見られたものであり、受入国側は「統合」、「同化」、「共生」などの名の下に、自国民に組み込んで行くことを想定、努力してきた。しかし、1973年末の第一次石油危機以降、、導入された「統合」政策も問題山積であり、十分機能していないことが明らかになった。将来を見通した場合、「循環」、「統合」、いずれの政策もそれだけでは十分なものではない。基本的には、送り出し国内に仕事の機会を拡大する内在的発展の道を関係国の協力で確保することである。この方向を基軸に、「循環」と「統合」を、いかに組み合わせ、新たな時代に対応しうる移民政策を構想、導入してゆくかが問われている。 受け入れ側だけの必要性から作られた移民政策は、いずれ破綻する。


References
「労働開国」『エコノミスト』2008年1月15日
”Open up" The Economist January 5th 2008.

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画家の命運:レンブラントとラ・トゥール

2008年01月07日 | 絵のある部屋
REMBRANDT Harmenszoon van Rijn
(b. 1606, Leiden, d. 1669, Amsterdam)
Self-Portrait, 1659
Oil on canvas, 84,5 x 66 cm
National Gallery of Art, Washington

    天才を見出した人々について記したことがある。まだ原石のうちに、秘められた宝石の輝きを見出しうる能力を持った人々である。しかし、画家の場合、そうした稀有な鑑識力のある人々の目にとまって幸い世に出たとしても、時代の経過とともに忘れられてしまうことも少なくない。ドゥ・メニル(ジョルジュ)・ド・ラ・トゥールはそのひとりであった。

  優れた美術史家エリー・フォールは、その壮大な「美術史」においてこの画家について触れ、「偉大な人間というものは、自分の立場でしか物事をみないどんな者たちの視線からも逃れてしまうのだ。痛ましい悲痛なる歴史。」(p175)と記している。このブログの読者はすでにご存知のとおり、ラ・トゥールという天才画家はその死後、急速に忘れ去られ、20世紀初頭になって闇の中から再び見出されるまではほとんど知られることがなかった。

    ラ・トォールについての認識度はその後急速に上昇していると思われるが、同時代の画家ではしばしばニコラ・プッサンのそれと比較されることが多い。プッサンが天才的な画家であることはいうまでもない。そして、フランスで生まれながらも、その生涯のほとんどをイタリアで過ごしたにもかかわらず、フランス人好みの画家でもある。フォールは「プッサンが存命中に体験した運命は、その才能の性質それ自体に帰せられるべきではなく、イタリアへのーーーーーその自発的な亡命、さらにまた彼をきわめて強く特徴づけている絵画とは別の力にも負っているといえよう。」(p174)といささか皮肉めいた論評を残している。

  フォールはさらにラ・トゥールについて、つぎのように言っている:

  「ここには同じようなものは何もない。世界に直接触れ、その視覚的感情のほかにはなんら媒介するもののない人間。彼に関しては、宗教画、あるいはむしろ《宗教的主題》、羽を欠いた天使などが語られてきた・・・・・・。それがわれわれにいったいどんな関係があるというのだろうか。どんな《主題》も、宗教をもって存在や事物に接近するものにとっては宗教的である。彼は聖人伝に人間性を感じるがゆえに、聖人伝をやすやすと人間性へ移し変える。ドゥ・メニル・ド・ラ・トゥールは、その時代にただひとりレンブラントと共に、おそらくジョット以後ただひとりレンブラントとともに、人間の心と肉体のなかに神々しさを見出したのだ。まさに奇蹟といえよう。彼は奇蹟以外のなにものでもない。《ロココ》と《バロック》、《明暗》と《現実》との和合をわれわれにもたらすのだから。現実こそは、われわれが体験し、力や愛とともに表現することのできるすべてなのだ」。(エリー・フォール邦訳、pp175-176)

  レンブラントとラ・トゥールを対比させ、論じている美術史家はきわめて少ない。しかし、この二人の天才は私にとっては、時に同一の人物ではないかと錯覚しかねないほど、多くの部分で重なっている。とはいっても、二人は同じ17世紀のほとんど同じ時期に(ラ・トゥールは12歳年上)その生涯を送ったが、同じヨーロッパとはいえ、オランダとロレーヌと主たる活動の地は離れ、相互に直接的交流があったとは思われない。お互いの存在自体を知っていたかも明らかではない。しかし、レンブラントの作品は数多く、当時のヨーロッパ世界に広がっていたので、少なくもラ・トゥールはレンブラントという画家を知っていた可能性は高い。

  二人の画家活動を取り囲む環境条件は大きく異なっていた。たとえば、ラ・トゥールはレンブラントが得意とした肖像画のジャンルでは、ほとんど作品を残していない。それにもかかわらず、この二人の個性的な画家の間には目に見えない血脈のようなものが感じられる。

  レンブラントは、修業時代を別として、アムステルダムというヨーロッパ有数の大都市の中で、前半の成功、栄光の座から後半の零落、貧窮という波乱の人生を過ごした。しかし、彼の画家としての基本軸は大きく揺れ動くことはなかった。世俗の生活面ではすさまじい変動を経験したとはいえ、レンブラントは画家としての姿を最後まで堅持した。

  他方、ラ・トゥールは戦乱、悪疫などがしばしば襲ったロレーヌの地で、画家としての環境は決して恵まれたものではなかった。その中で、画家は日常生活においては、時には傲慢とも見られかねない強い意志と対象への深い沈潜によって、激動の社会を生き抜いた。

The Quarrel of the Musicians. Detail. c. 1615. Oil on canvas. J. Paul Getty Museum, Malibu, CA, USA.


   レンブラントとラ・トゥールというそれぞれに個性の強い画家を比較することは、少なくとも今の課題ではない。 しかし、二人ともに、現実を鋭く直視し、人間の肉体と心の中に神性を見出した稀有で偉大な画家である。これまでの人生の途上で、この画家たちに出会い、少しばかり?のめりこんできたことが、単なる偶然ではなかったことを喜んでいる。

 

エリー・フォール(谷川握・水野千依訳)『美術史:近代美術[I]』(国書刊行会、2007 

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経験より変化?

2008年01月05日 | 雑記帳の欄外

  アメリカ大統領選挙も熱気を帯びてきた。1月3日、アイオワ州での民主、共和両党の党員集会の結果を見る。民主党はオバマ上院議員、共和党はハッカビー前アーカンソー州知事がトップとなった。序盤ということはあるが、3ヶ月ほど前の下馬評とは大きく異なる結果だ。選挙は水物。キャッチフレーズとしては「経験」Experienceよりも「変化」Changeの方が、’フレッシュ’に響くことも確かだが。「改革」の評価は、ご存知の通り。

  共和党については、これから図抜けた有力候補のいないこともあって、いくつもの波乱がありそう。共和党候補はこちら側から見ていても誰もいまひとつ精彩がない。民主党は、エドワーズ上院議員を含めて、文字通り三つ巴の状態。誰が残っても不思議ではない。ただ、一時はかなり抜けていたヒラリー・クリントンには大きな衝撃だろう。やはりアメリカは若い国ではある。

  年末から年始にかけてのアメリカの友人からのメールやカードからは、ブッシュ大統領のレームダック状態は今が最悪、ブッシュが辞めれば後は良くなるという切羽詰った感じが伝わってくる。その気持ちは分からないわけではない。しかし、ブッシュがホワイトハウスを去ったからといって、アメリカの基盤がそう大きく変わるとも思えない。ブッシュを選んだのも彼ら国民なのだから。

  気になるのは新大統領が決まった後の日本である。オバマ、クリントン両候補の選挙メッセージ*を見ても、この国についての論及はまったくない。完全に忘れられたような存在感のなさである。

  新体制が動き出せば、それなりの対応は生まれるのだろうが。オバマ候補のハワイ州ホノルル生まれ、父はケニア人、母親はカンザス生まれの白人という家族的背景も一寸予想がつかない。クリントン候補のメッセージには、国連などの国際機関の働きに加えて、インド、オーストラリア、日本、アメリカの同盟でテロリズム、地球環境、エネルギー問題などへの対応に触れているが、内容はない。さすがに覇権を争う中国との協力はできないらしく、インドへの強い期待が述べられている。

  忘れられてしまった国といえば、新年、苦しい時の神頼み。福田総理も小沢代表も伊勢神宮詣でだった。 こちらも基盤は変わっていない。

*
References:
Barack Obama. "Renewing American Leadership." Foreign Affairs. July/August 2008.
Hillary rodham Clinton. "Security and Opportunity for the Twenty-first Century." Foreign Affairsl November/December 2007.

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この少女は誰?

2008年01月03日 | レンブラントの部屋


The Nightwatch, 1642
Oil on canvas, 363 x 437 cm
Rijksmuseum, Amsterdam

  

レンブラントの大作「夜警」を主題とする映画が、新年に上映されることになり、話題を呼んでいる。レンブラントはラトゥールと同じ17世紀の大画家であり、ごひいきにしてきた最たる画家のひとりだけに、脚本の概略はすでに知ってはいる。数多いレンブラントの作品の中でとりわけ「夜警」」(より正しくは、「市民隊フランス・バニング・コック隊長と副官ヴィレム・ファン・ライテンブルフ」)だけは、オランダ国外に出展されることはないとされてきたので、アムステルダム滞在の折など機会があるとかなり注意して見ていた。オランダの国民的遺産という点は別にしても、あの大きさを前にするだけで、移動展示の可能性がいかに乏しいかも直感する。

自らを貫いた画家
    レンブラントに強く惹かれるのは、栄光の頂点から零落しようとも、人生の最後まで自分を貫いた強い精神力である。それは画家が残した数多くの自画像が直裁に語っている。若く光り輝いた時代には、自信に満ちて得意然とした姿を描き、老いて貧窮のきわみに落ち込んでも飾ることなく、そのままに描いている。いかに大きな精神的打撃が画家を打ちのめそうと、あるがままに自らを描きぬいた。

  「夜警」の映画を特に見たいとは思わないのだが、怖いもの見たさの要素がまったくないわけではない(原作を上回る映画があるとは思えないが)。これまでの「夜警」の印象が多少揺れ動くことは確かだろう。レンブラントの「夜警」を見た時に、初めはその臨場感に衝撃を受けただけだったが、次第にこれはパトロンからの依頼で描いた単なるグループ肖像画ではないと感じるようになった。何か形容しがたい不気味ともいえるメッセージが、画面から見る者に伝わってくる。

謎を秘める作品
  この作品には映画や小説の種になりそうな謎めいた、不明な部分がかなり含まれている。作品に秘められた寓意やストーリーなどは、同時代人であったならば、画家の言動、依頼者との応対などを通して流布していたうわさ話を知っていたかもしれない。しかし、その後4時代の経過によって、歴史の闇に埋もれてしまい、後世の人たちにとっては断片的資料から推測するほかはなくなってしまった。

  不思議な点のいくつかは、この巨大な作品を一見しただけで気がつく。たとえば、画面のほぼ中心部に二人の少女が描かれているが、誰なのだろうか。火縄銃手の隊員たちといかなる関係があるのか。唐突に隊列出発の場面に放り込まれたようにも見える。だが、その一人は明らかに中心人物として光の中にいる。単なる通りすがりの少女ではないのだ(油彩画面ではやや左寄りに見えるが、後に述べるように原画の左側が後年大きく切り取られたので、最初はもっと中心寄りであった)。もう一人の少女はよく見ないと分からないが、その背後で顔の一部だけが見えている。大きく描かれた少女は、画家の最初の妻サスキアがモデルとの説もあるが、そうではないだろう。そして、左下隅に描かれている、サイズの合わない大きなヘルメットを被ってまさに走り出そうとしている少年の正体も分からない。

  とりわけ、画家が作品の中心にこの少女を配した真の理由が、よく分からなかった。少なくとも、依頼者の「火縄銃手組合」の隊員たちだけを集めて描くというグループ肖像画の「常識」とはきわめて異なった、緊迫したドラマ性が画面から強く伝わってくる。この少女は、作品においてきわめて重要な役割を担った人物であることが次第に観る側に分かってくる。彼女はいったい何者なのか。


  
    この作品、「夜警」と通称されているが、実は夜間のパトロールが始まったのは、まだ市民隊がなんとか存続していた、ずっと後年の1800年頃以降のことらしい。これに加えて、「夜警」の名が生まれたのは、画面を覆っていた黄色の鉛分の多いニスの暗さが、経年変化が付け加わって、さらに暗さを増してきたことに由来するようだ。この暗い画面に光を当てられて浮かび上がった中心人物と他の人物が織りなす劇的な効果は、当時のグループ肖像画の域を脱して、レンブラント独自の絶妙な世界を創り出している。

  この作品の依頼者は「火縄銃手組合」(実際にはマスケット銃)といわれる市民の安全を守ることを目的とする民兵のような一種の自衛組織であった。1630年代、火縄銃手組合の組合長は本部が置かれることになった新たな会館クロフェニールスドゥーレン(Kloveniersdoelen) の大広間に、仲間の肖像を絵画として掲げることを企画し、当時6つあった分隊ごとに、レンブラントを含むアムステルダム屈指の画家6人に制作を依頼した。

  当時、およそ200人いた火縄銃組合員の中で120人が肖像を描かれることを望み、費用負担をした。画家に依頼した際の契約書は残っていないが、幸い当時の状況を推測するに十分なかなりの文書が残っていた。後年1659年に記された重要文書では、一人平均100グルデンを支払ったことになっている。作品で自分が描かれる位置などによって、支払い額には違いがあったようだ。別の文書には、レンブラントの「夜警」の作品に合計1600グルデンが支払われたと記されている。100グルデンは当時のレンブラントの引き受けたひとりの半身の肖像画の相場だった。

  描かれる隊員たちは、あらかじめ自分がどの位置に置かれるのか大体知っていたらしい。この作品のX線像には大きな修正の跡はなく、レンブラントはほとんど完全な素描を準備し、依頼者には概略は説明していたと推測されている。制作は1638年から42年末にかけて行われた。

マリー・ド・メディシスが見ていた
  この作品を生み出すことになったと思われる重要な出来事もあった。1638年9月1日、フランス王の元摂政で亡命中であったマリー・ド・メディシスがアムステルダムを訪れ、盛大な歓待を受けた。当時の市民隊は市の城門警備と秩序の維持を任務としてきたが、17世紀にはその役割はほとんど名目化していたともいわれる。それにもかかわらず、このマリーの訪問時の警備はきわめて名誉あるものとされていた。この時、城門内部などの警備は作品に描かれている第2地区隊が当たり、マリーと市民の前で行進をして見せた。作品は、あたかも隊長バニング・コックが副官ファン・ライデンブルフに出動の指揮命令を下した瞬間を描いたようだ。

  これらの出来事を背景に、「夜警」は1642年に作品が完成した。レンブラント36歳の時であった。この画家の生涯を通してみると、この時が人生、画業のいずれにおいても絶頂の時であった。この年、最愛の妻サスキアは世を去り、画家の生活も急速に反転、下降の軌道へ向かった。単なる偶然とは考えにくい部分もある。

  いったい、なにがあったのだろうか。「夜警」についても、客観的な証明資料はないが、絶賛を得たというわけではなかった。ひとつには当時のグループ肖像画のイメージからは、きわめて逸脱していて、直ぐには受け入れがたかったのだろう。推理を生むに格好なさまざまな材料が存在することもあって、映画化するには格好なテーマであることは確かである。    

時代を先んじていた画家
  当時のグループ肖像画と比較して、レンブラントの個性が強く発揮されたがために意図が十分理解されず、描かれた側の満足度が高くなかったとの説もある。レンブラントは一人一人の肖像よりも、全体の構図や劇的効果を大事にしたこともあって、明暗の点で描かれた一部の隊員を同定するのが困難な結果にもつながった。少女のスポットライトを当てられたような鮮明な容貌と比較して、ほとんど判別しがたい人物もいる。しかし、それらの隊員の不満などを直接示すような証拠は残っていない。少なくとも、バニング・コック隊長はある程度満足しており、この作品の模写の制作を別の画家に依頼し、さらにその水彩画を自分の記念帳に貼り付けていた。確かに、隊長は場面の中央で光を浴びて衣装なども、それらしい「品格」?で描かれてはいる(この世の中、「品格」ほどあやしいものもないのだが)。

  それにしても、バニング・コック隊長や隊員などは、完成した作品を見て、中央に描かれた少女について、画家になにか言わなかったのだろうか。多くの隊員は、この少女より格段に存在感を落として描かれているのだ。映画化されるひとつの謎もここにある。画家は時代を飛び越えていた。

  「夜警」が最初に掲示された火縄銃手組合の本部が置かれた、新会館クロフェニールスドゥーレン(Kloveniersdoelen) の大広間は、当時、アムステルダム第一の名高く人気の場所であった。さまざまな機会に、多くの名士たちがここに集まった。この作品に込められた寓意を彼らがいかに話題としたか。大変興味深いところだ。

切り取られた作品
  さらに、作品が完成、展示された後にも、作品自体、さまざまな衝撃を受けてきた。この巨大な油彩画は1715年頃にアムステルダム市庁舎に、そして1885年に現在の国立美術館Rijksmuseumの前身である新設の王立美術館に移転された。この移転に際して、建築家ピエール・カイパースは、「夜警」をオランダの歴史をとどめるに最重要な場所に置くことを想定していた。しかし、原画が大きすぎて収まらないために、周囲を切り取るという、今では考えられないような荒っぽいことが行われている。とりわけ、原画の左側が大きく切り取られたために、2人の大人と一人の子供(?)の像が完全に削除されてしまった。

  さらに、驚愕する事件も起きた。1975年9月14日の日曜日、この作品)が暴漢のナイフによって大きく損傷するという事件である。損傷は大変大きく、特に中央のフランス・バニング・コック隊長の下半身と副官ヴィレム・ファン・ライテンブルフの右側部分の損傷は大きく、カンバスの裏側まで達するほどの深い傷になっていた。原画の寓意とこの犯罪的行為との間には、なにかつながりがあったのだろうか。この点も分かっていない。修復は国家的事業となり、翌日から直ちに大規模な修復事業へとつながった。その作業の過程はヴィデオに収められて、公開されている(この事業については興味ある部分もあり、後日取り上げることがあるかもしれない。)

 現在は傷ついた部分の修復も終わり、いわば仮住まいの状態である。そのため、作品と観客との距離が最初に設定されていた状況より短い形で展示されているが、2009年に完成する新国立美術館では、元通り高い位置へ戻されると予定されている。

    新年早々、長々となにを言いたいのか。一枚の絵に籠められたあまりに多くの真実と虚構。

  

References:
マリエット・ヴェステルマン著(高橋達史訳)『レンブラント』岩波書店、
2005年。pp351

Rembrant's Universe:His Art, His Life, His World by Gary Schwartz. New York: Abrams, Hardcover, Sep 2006.

http://www.wga.hu/html/r/rembran/painting/group/night_wa.html

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新年のご挨拶

2008年01月01日 | 雑記帳の欄外

 

謹賀新年

 

 

*イメージは、友人E.R氏の力作「礼文島から望む利尻富士」

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