時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

断裂深まるアメリカ(6):国民への道を定めるものは 

2011年01月25日 | 移民政策を追って

 

今年いただいだ寒中見舞いの中に、ブログのタイトルの意味が多少分かってきましたという添え書きのついた一枚があった。有り難うございます。とはいうものの、本人も分かっていないところもある()。いったい、なんでこんなことをくどくどと記しているのかと思われる読者の方も、多くおられるはずだ。他方、対面しての交流ができない以上、もっと書かないと真意は伝わらないとも感じている。しかし、気力、体力ともに続かない。もともと、老化防止のメモ代わりでもあるので、ご勘弁を。


国家形成にかかわる移民問題
 この移民問題のディテールも、そのひとつだ。広大な問題領域であり、しかもかなり深く入り込まないと正解は見えてこない。ひとつには、国家の存否、形成にかかわる難しさにつながっているからだと思う。

 日本にしても、人口減少がさらに進んでも、政治経済的コントロールが適切に行われれば、中規模国として存立していくことは可能だろう。しかし、さらに高齢化が進み、人口の3人に1人が高齢者ということになったら、今でさえ大変な状況なのに、いかなることになるか。移民受け入れは不可避な選択肢となるだろう。しかし、その現実と具体化は生やさしいものではない。政治家はそれを予知してか、国民的議論の場に乗せることはしない。

ロボット輸入ではないヒトの受け入れ
 人口減少以上に高齢化は対処が難しい。「移民」といってもさまざまな形があるのだが、ロボットを輸入するわけではない以上、国民の間で長い試行錯誤の段階が不可欠になる。移民に長い歴史を持った欧米諸国でさえ、厳しい経験を繰り返してきた。時には、フランスの「郊外」暴動、アメリカの9.11との関連など、移民は国家の屋台骨を揺るがすような問題にもなった。

 国境の「完全開放」も「鉄の扉」も選択できないとすれば、その間の政策的選択肢は無数に存在する。どこで、いかなる推論の上で、ある折り合いをつけるかという問題となる。アメリカの移民政策をめぐる議論には、長い時間をかけた国民的な試行錯誤のやりとりが含まれている。

 このブログでも時々記しているように、現時点で最大の問題は、アメリカについてみれば、移民で国家形成をしてきた国として、今後どれだけ移民を受け入れることが可能か、そして、すでに不法滞在している
1100万人近い社会の表に浮上できない人々への対応だ。全員の救済(アムネスティ)が不可能となれば、国民が合意できる基準での選択的合法化が残された道となる。

 オバマ大統領の今年の一般教書においても、短い表現ではあったが、高い創造性などの能力を秘めた外国人の留学生を受け入れ、卒業後も国内に留まってもらうことについての言及があった。超党派での移民法改革の必要にも触れていたが、後手を踏んだ大統領としては、それ以外にない。しかし、東京都の人口にも匹敵するような不法滞在者すべてにアムネスティ(恩赦)を与えることは、民主党が下り坂の政治環境では考えられなくなった。

 これまでは、犯罪歴などがなく、ある程度の雇用記録などがあり、10年近く実質上、アメリカ国内に居住していれば、かなり厳しく、時に恣意的な選別の上に、合法的居住者としての道が開かれてきた。

どれだけ受け入れ国に根を下ろしたか
 重要なことは、合法市民化を認めるか否かの基準として、単に(滞留)年数という時間の経過が重要なのではなく、本人あるいはその家族がいかなる社会生活をしてきたかという点の重みの評価だ。言い換えると、本人の活動、地域の受け取り方の面からみて、社会的メンバーとしていかなる位置づけがなされてきたかということにある。

 社会的メンバーシップとは、本人は不法滞留者であったとしても、その後の合法生活者(アメリカ市民)との結婚、入国後今日までの雇用(仕事)の内容、地域社会での活動などを通して、どれだけ米国社会の構成員になっているかとの評価になる。しかし、その状況は個人差が大きく、実務上の判定も恣意的になりがちで、判定に時間もかかり効率的ではない。近年、市民権取得が困難になっている理由のひとつではある。

現実の複雑さをいかに処理するか
 筆者の知人(日本人)が、アメリカ人と結婚したが、アメリカ入国後、ことあるごとに偽装結婚ではないかと入国管理官から監視されているようだとこぼしていた。この問題をテーマとした数々の映画、たとえば『グリーンカード』もあるほどだ。

 市民権付与の判定について、入国管理官などの現場に裁量権を与えると、対応が複雑化し、差別的になりかねない。時間もかかり効率も低下する。しかし、1100万人にアムネスティは出せないとなると、なんとか、多くの国民が合意、納得できる選択基準を設定したいというのが、移民問題をめぐる議論のひとつだ。移民受け入れの経験が少ない日本では、国民の間に、こうした問題について地に着いた議論をする土壌はほとんど形成されていない。したがって、狭い個人的経験などを背景にした粗雑な議論が横行する。

 滞留年数は移民(不法滞留者)の社会的同化の程度を示す尺度として、どの程度つかえるだろうか。アメリカのような移民で立国、国家形成をしてきた国では国民の間での
時に激しいやりとりを通して、今日のごとき枠組みが形作ってきた。その仕組みをいかに組み立て直すのか、もう少し考えてみたい。(続く)

 

 

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就活が日本にとって持つ意味

2011年01月21日 | 労働の新次元

 

 
20113月卒業予定の大学生の就職内定率が68.8%と、
これまでで最低水準とメディアが伝えている。高齢化が社会の活力低下など、厳しい状況を生みつつある日本で、創造性の発揮の担い手など、最も期待されるべき人材となりうる大学生の仕事の機会が十分保証されないという問題は、国家にとってもきわめて憂慮すべきことだ。

 
320日の『朝日新聞』「声」の欄に、ひとりの大学生の観点から「入社時期を(卒業後の)秋にずらしては」という投書が掲載されていた。投書の主旨は、就活の負担を減らし、大学生として4年間十分な学業の研鑽を積んできたという成果を身につけ、採用者側の期待に応えるためにも、新卒の入社を4月ではなく、卒業後の9月ごろにすることが望ましいという内容だ。
 
 今日の大学生、大学、そして企業など採用側が抱える問題を中長期的観点から大きく改善する
至極適切な提案ではないかと思う。もちろん、実施には関係者の十分な理解、調整が必要なことはいうまでもない。実は、同様な主旨の提案はすでに10年以上前からなされており、比較的最近にもこのブログでも紹介したことがある(『朝日新聞』2008122日朝刊「声」欄に、「卒業待っての採用できぬか」との投書が掲載されていた。)

 この時期になると、ほぼ毎年同じことを議論していながら、その場かぎりの妥協ですましている大学側、経営者側の責任はきわめて大きいと思う。前者の社会的無関心・無気力、後者のエゴイズムなどが、大学と企業社会という異なった二つの次元のつなぎ方を根本的に考えることなく、成り行きにまかせてきた。

 
日本の大学教育は、一部の上位の大学を別にすると、すでにはるか以前から、その国際競争力のなさが問われてきた。海外から日本の優秀な大学を目指して留学したいという状況は生まれていない。働きながら、楽に卒業できる大学が多い国という受け取り方までされている。現実に、この列島に溢れかえる「大学」という名のついた奇妙で不思議な存在。皆さんは日本の大学名をいくつご存じでしょうか(300書けたら、おそらくかなりの大学通?です。4年制大学だけでも700を越えています)。

 大学で学業を十分身につけた証である「卒業証書」を手にしてはじめて、真の就職活動が可能になるという社会的枠組みを設定することは、学生、大学、企業のいずれにとっても、望ましいはずである。それが不可能であるということは、当事者とりわけ力関係で優位な地位にある大企業の社会的責任感の欠如といえるだろう。「就活」という現象で、大学生活の1年近くはほとんど形骸化している。さらに、入学の時から就職しやすい大学というPRなどもあって、学生の勉学の方向が揺れ動いてしまう。大学は就職の準備をする場ではないはずだ。

 「就活」という形で、大学の教育過程を著しく脅かすまでに、企業の浸食を認めることは、大学教育の劣化につながるばかりか、十分な教育を受けた優れた人的資産を確保できなくするという意味で、中長期的に企業にとっても決して得策ではない。「就活」をめぐる世の中の議論は、「会社研究」と称する情報収集、面接方法など、テクニック次元のものが非常に多い。結果として、大学生に同じ行動を強いて、不安を煽るようなことになる。

 前掲の投書の主旨のように、就活を大学卒業後に移行することは、短期的視野からはためらう関係者も多いだろう。大学、企業のそれぞれに思惑があり、現状から離れることを恐れてもいる。しかし、すでに企業は人材についても、必要な時に必要なだけ採用するというジャスト・イン・タイム形の雇用システムに移行している。高度な人材の養成と活動に大きな期待をかけねばならない日本の今後にとって、大学教育と企業の関係のあるべき出発点に立ち戻り、問題を検討しなおすことが焦眉の急務になっている。移行過程における対応は別として、重要なことは「就活」が内在する本質的問題にある。毎年、個性を奪うようなリクルートスーツを着て、不安な面持ちで全国を走り回る若者の姿を目にするのは、なんともつらいことだ。ひとつの投書が持つ重みを改めて考えたい。
 



* 
再掲になるが、すでに十数年前から、同様な提案は行われていた。たとえば、
学生の職業観の確立に向けて:就職をめぐる学生と大学と社会』日本私立大学連盟・就職部会就職問題研究分科会、1997年6月。筆者も研究分科会の一員であったが、提案について大学側の認識もきわめて低かったことを痛感していた。

 

 

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アメリカ、中国、そして日本はどこへ

2011年01月20日 | 午後のティールーム

 

  米中首脳会談が行われた。120日のメディアは、それとともに2010年、中国のGDP(国内総生産)が日本を抜いたことを大きく報じている。かつて「大国」の名がついたのは、人口についてだけの中国だったが、いまや経済力、軍事力においても大国となった。政治・外交力も強力だ。

 ウィキリークス事件もあって、米中首脳会談もおそらくかつてなく厳しい報道管制の下で行われたのだろう。主要な議論だけは報じられてはいるが、オバマ、胡錦濤両首脳の間で、なにが話されたか、本当のところは分からない。TV画面でみるかぎり、
両首脳共に、表情の硬さが目立った。

 アメリカはホワイトハウスという有利な環境で会談に臨んだが、中国は自国に不利な問題はすべて反論あるいは聞き流すか、無視している。中国はいまやそれだけの強さを手にしている。相対的にアメリカの力の低下を感じる。オバマ大統領はかろうじて面子を保ったという印象が強い。昨年末、あるアメリカ人の友人からのクリスマスカードには、あの尖閣列島問題に言及しながら、アメリカはいまや自国の問題に対処するだけで手いっぱいであり、遠く離れたアジアの問題に、時間と力を発揮する余裕がなくなっていることが記されていた。

 
折しも、 隣国から春節を祝う一枚の賀状が届いた。中国では数少ない親日家であり、文化人といってよい方だ。Z氏としておこう。日本にも多数の友人・知人を持ち、有力な政治家でもあった。今は齢80歳をはるかに越え、ほぼ隠退の生活を過ごされている。

 
添えられた手紙には、1990年代以降を回顧し、北京五輪、上海万博が成功裡に終わったことに安堵しつつ、今日の繁栄を喜びながらも、すでに自分の時代は終わったという一抹の寂しさが漂っていた。同氏の生涯は文字通り、中国の現代史そのままに波乱と激変で埋め尽くされていた。いうまでもなく、日中戦争、内戦、文化大革命の下放など、想像を超える苦難を自ら前線で経験してきた。書簡の行間から伝わってくるものは、今日の中国の全体的な繁栄にもかかわらず、あるいはそれゆえに押し寄せてくる複雑な思いだ。中国はいまや自国のみならず、アメリカ国民の雇用まで支配するまでになっている。他方、かつて社会主義国としての中国が目指した、すべての人民が等しく豊かになるという理想が、もはや誰も修正できないほどの巨大な力で、それとは別の方向へねじ曲げられて進んでいることへの不安と悔恨の思いであるかのように感じられた。


 

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北方の光; フランス・ハルスとジョルジュ・ド・ラ・トゥール

2011年01月14日 | 絵のある部屋
新年を迎えたが、国内も海外も憂鬱でさえない話題ばかりが目立つ。少し、時代を飛んでみよう。また、17世紀への飛翔だ。

 ジョウルジュ・ド・ラ・トゥールと北方ネーデルラント美術との関連については、すでに度々記してきた。ラ・トゥールは明らかに北方美術の影響を受けている。とりわけ、この画家のリアリズムは、ネーデルラント画家たちと深い脈流でつながっている。

 特に、人物を描いた作品が注目される。たとえば、あのデカルトの風貌を知るには、
ハルスの作品が欠かせない。写真がなかった時代、肖像画が持つ情報量は大きい。ハルスは兄弟と思われるフランス・ハルス Frans Hals(1581ca-1666)とディルック・ハルス Dirck Hals(1591-1656)の存在が知られている。弟は小さなジャンル画を描いていた。知名度では、兄のフランス・ハルスの方が著名だ。ハールレムには、フランス・ハルスの名を冠した美術館がある。

 ハルスの家族は16世紀後半、ハールレムにやってきて、衣服・繊維関連の仕事をしていたらしい。当時のハールレムは商工業や美術の中心のひとつだった。フランスは人物画に秀で、当時の画家の周辺にはどこでもいたような人物を、リアルに、しかも自由で屈託のない形で描いている。しかし、彼の修業に関する背景はあまり明らかではない。後年、ギルドの親方職人になったことは判明している。1616年にはアントワープへ行ったことが分かっている。ルーベンスと会ったかもしれない。少なくも、彼の仲間には会っているだろう。生涯では、あのホントホルストやテルブルッヘンに会った可能性もある。ラ・トゥールも採用しているように、半身の人物画が多い。また、しばしばレンブラントの並んでと比較される民兵を描いた集団人物画でも著名だ。

 ハルスの作品には、当時貿易などを通して自由な空気を享受していたオランダ人の面影を伝えるような堅苦しさのない、自由闊達な市民たちの姿が躍動している。北方絵画から多くを学んだと思われるラ・トゥールもハルスに劣らないリアリズムの画家だが、ロレーヌ特有の深く沈潜した人物像だ。対比して眺めていると、さまざまなことが思い浮かぶ。脳にたまった夾雑物がすこしずつ消えて行く。

 



Frans Hals & Georges de la Tour.wmv
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断裂深まるアメリカ(5)

2011年01月11日 | 移民政策を追って

  
 
最近、このブログで、アメリカに移民政策に起因する人種的、そしてそれに基づく政治的分裂の可能性が高まっていることを指摘してきた。このたびのアリゾナ州における民主党ギフォーズ下院議員などに対する銃乱射事件は、この予想が不幸にも的中したことを示している。

  事件の真相は未だ不明だが、南のメキシコ側から進入してくる不法移民の増加が、それまでの住民との間にさまざまな軋轢を生み、保守派の強い反発を招き、不満が高じた結果、こうした不幸な事態へとつながる風土を生み出した可能性が高い。オバマ大統領の医療制度改革への反発もその一環だ。移民政策への着手が遅れたオバマ大統領にとっては、厳しい試練が加わったといえるだろう。すでにオバマ再選不可能説すら議論されている。しばらく目が離せない。

 
外国人(移民)労働者問題は、多くの国民が自分の体験や見聞などから、ある考えを抱き、発言できるようにみえるが、それをもって国民として妥当な公平性のある見方とは直ちになしえない難しさがある。人生経験や立場によって、極端に異なる考えが生まれる。このところ取り上げている不法滞在者について、いかなる立場をとるかという問題も、そのひとつだ。現在の段階では、日本は比較的不法就労者は少ないが、本質的にはどの国にも適合する問題だ。

 いずれにせよ、世界が事態にいかなる対応をしているかを、辛抱強く、しかも広い視野を確保して見なければならないことは明らかなようだ。時間を要するが、さまざまな移民現象の根底に流れる本質的問題を熟考する必要がある。各国の対応と経験の蓄積を客観的に観察すべきだろう。その範囲はミクロとマクロの双方にわたる。
前回に引き続き、欧米諸国の事例をもう少し見てみよう。


事例3
 
ヒュー・ルイ・ング Hiu Lui Ngはヴェトナム生まれで、17歳の時に両親に伴ってアメリカへ来た。その時は観光査証での入国であった。査証の滞在期限が失効した後、難民としての庇護申請を行った。申請の審査が行われている間、彼には労働許可 work permit が付与されていた。しかし、結果として難民申請は却下されてしまう。

 
その後、いわば不法滞在の形であったが、彼は勉学を続け、コミュニティ・カレッジでコンピュータ・エンジニアリングを学び、エンパイア・ステート・ビルで働いていた。そしてアメリカ市民の伴侶に出会い、結婚し、二人の子供を得た。2007年、彼の存在はアメリカ移民局の役人が注目するところとなる。ングは適切でないアドヴァイスを受けてグリーンカード(永住許可証)の申請を行うが、移民・入国管理局 Immigration and Custom Enforcement は彼に国外退去を求めた。しかし、ングはその前に失望と肝臓がんのために死んでしまった。

 
この経緯はニューヨーク・タイムズ紙の注目するところとなった。移民局の決定に反対する運動が始まった。ングは法的な問題を除けば、あらゆる意味でアメリカ人になっていた。なぜ、彼は強制退去の対象とされたのか。

 
事例2で取り上げたグリモンの場合とどこが異なるのか。ングはグリモンのように子供の時にアメリカに来たわけではない。そのために、子供の時代に受け入れ国での社会的経験は少ない。他方、青年になって入国したxングは、アメリカ市民である女性と結婚していた。

 とりわけ移民の場合、結婚はその国の人との深いつながりを強化するばかりか、配偶者の背景につながる人々との関係の輪に入ることになる。ヨーロッパの多くでは、家庭生活の基盤は基本的人権として守られている。家族の靱帯をまもる家族の再結合の道は、最重要な原理であり、配偶者と子供たちを結びつけるものとして守られてきた。そのため現在居住する国に合法的な地位を持つ親は、海外にいる配偶者や子供を呼び寄せることができる。実際ングはこの点を基礎にアメリカへの定住許可を求めていた。彼はアメリカ人女性と結婚しており、彼女はこの国を人生の基盤とし、彼もまたその範囲に定着していた。配偶者がアメリカ市民あるいは永住権を保持する場合、その人と結婚している者を海外へ強制退去させる対象とすべきではないという考えは、どこの国でもかなり有力で根強い。

 
ングはこの点に加えて、すでにきわめて長い期間にわたって、アメリカに居住していた。グリモンのように70年近くも相手国に滞在していたわけではないが、15年間も問題を起こすことなく、学び、働き、社会的関係を築いてきた。人間の生涯で15年は中途半端な長さではない。

 
こうして不法に滞在しているからとして、彼らの出身国へ送還しようとする当該国の権利は、滞在している時間が長くなるに従い、後退して行く。彼らが滞在していることはその国の法に反しているかもしれないが、窃盗、殺人などの犯罪者ではない。確かに、不法滞在者の中には、犯罪を犯す者もいるが、不法であれ合法であれ、外国人・移民を受け入れているということは、人間のすべてを受け入れていることに等しい。言い換えると、移民を受け入れることは、労働力の部分だけを切り離して受け入れるわけではない。

 
こうしてみると、入国の経緯はいかなるものであれ、時間の経過とともに、これらの外国人の社会的メンバーとしての重さは変化を生む。時間は二つの方向へ切り込む。本国送還は望ましくないと考えられる期間はどのくらいだろうか。これまで見てきた僅かな事例からも、犯罪歴などがなければいかに保守的な立場でも、市民権付与の道へ導く期間として、5-7年、最大限でも10年あればほぼ条件を満たしていると考えられるのではないだろうか。

 
他方で、市民権付与の道を開くにはいかにも短すぎるという年数もあるだろう。1-2年では認められないというのが、多くの国の基本的考えだ。

 この問題については、さらに考えたい問題もある。すでに制限字数を大きく越えでしまった。次回以降にまわすが、こうしたルールを社会的な対話を通して確立して行き、市民権付与への安定した道を準備することは欠かせない。欧米諸国は長い年月にわたる試行錯誤を通して、今日の政策形成に至っている。日本人がお好みのどこかの国の制度を移植してくればといった安易な方法は、まったく通用しない領域だ。いずれ人口の3人に1人近くが65歳以上になる日本が、外国人を受け入れることなく、社会を維持し、活性度を保ってゆくことなど、到底できるはずがないことは、さまざまな現場で体験してみれば直ちにわかることだ。(続く) 

 

Carens (2010) pp.13-17

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新春、天を仰いでいます

2011年01月06日 | 労働の新次元



  年々、新春を迎えたという季節感や新鮮さが薄れている。年末に行きつけの理髪店の店主が、このごろは一年中同じようなものですと話していたが、実際そうなのだろう。大都市のデパートなどは、以前は形だけの仕事始めであった
12日から実質営業をしている。それどころか、某店の新春福袋セールには20万人近い人出があると聞いて、改めて仰天した。ちなみに私はこの種の現場?には近づいたことすらない(笑)。

 

 今年も年初から、職がなく求職活動をしている人々の復職を支援する事業をお手伝いすることになった。昨年初めから、毎月およそ250人から300人近い人々の求職活動(就活)の一部にかかわってきた。新しい熟練の習得の可能性、プランの設計の仕方、労働市場の状況などについて、いわば側面からの支援である。最初は、ほとんどボランティアのつもりであった。しかし、その実態に接している間に、さまざまな予想を超える現実に直面し、新年早々、かなり疲労ぎみだ。

 

 長らく仕事の世界を経験し、自分なりに問題のありかも整理してきたつもりなのだが、このごろの実態に接すると、改めて考えこむようなことが増えた。対面する人々は文字通り老若男女、年齢も20歳台から60歳台まで、実に幅が広い。世の中の縮図を見ているようでもある。これまでの人生ではどちらかといえば、10歳台後半から30歳代の比較的若い世代と日々対してきたのだが、労働市場が大きく変わってしまったということを改めて実体験している。

 

対面する人たちの中には、大学卒業後一度も会社との面接の機会を得られずに、すでに2年近く過ぎたという若者、小さな工務店に勤めていたが、倒産で失職してしまったという60歳代の大工職人の男性、自分で切り盛りしていた和食の料理店に働き手が来なくなり、店を閉めざるをえなかったというかなり高年の女性、中堅企業に勤めていたが、早期優遇退職に応募、退職した後、改めて求職活動しているが、以前に会社で聞いていた話と違ってまったく仕事がないという50歳代後半の男性、介護ヘルパーの仕事を転々としてきたが、これでは心身ともに持たないと思うと語る30歳代の女性、果ては大学のキャリアセンター、ハローワークのジョブサポーターに相談したが、役立つ情報が得られなかったという若者まで、ほとんどあらゆるケースが出てくる。


 近年の高い失業率の背景には、「労働需給のミスマッチ」があるといわれるが、そう簡単な表現では片付けられないという実感だ。ちなみに私は「ミスマッチ」という表現にはかなり前から抵抗感を持っていた。需要と供給の数がなんらかの原因で合わないという語感が与えるものと現実は、まるで別世界のようだ。今後に期待される雇用創出分野は、IT、環境・エネルギー、医療・介護、インフラ整備など、活字は躍っているが、現実の雇用創出につながってくるにはかなりの時間を要する。雇用政策にも新しい視点が必要に思える。他方、メディアが伝える政治の世界には、雇用対策にかかわる与野党間の議論など、ほとんど見かけることがない。さて、うさぎさん、どうしたものだろうか。

 

 

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謹賀新年

2011年01月01日 | 午後のティールーム

 

新年おめでとうございます。

明るい話題が多い年になりますように。

 

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