goo blog サービス終了のお知らせ 

時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

博物館のユリノキ

2025年05月17日 | 午後のティールーム


快晴の1日、かねて予定していた東京国立博物館へ出かけた。梅雨入り前の貴重な快晴の日である。目指すは、平成館で開催中の『蔦屋重三郎〜コンテンツビジネスの風雲児』展(2025.4.22~6.15)である。NHKドラマ『べらぼう〜蔦屋栄華乃夢噺〜』とリンクした特別展になっている。

と言っても、ブログ筆者は取り立ててこのテーマに関心があるわけではない。久しぶりの上野公園界隈、運動不足の解消もかねて出かけてみた。

初夏を思わせる晴天も手伝ってか、上野はかなりの混雑であった。土日ではなかったので、特別展も長時間待つこともなく鑑賞できた。3時間近くは館内にいただろうか。関連する展示まで含めると、一通り見るには半日近くかかるかもしれない。体力が限界になってくる。

外国人観客も多い。ドラマ「べらぼう」が放映中ということもあって、日本人には理解できたとしても、初めてこれほど多数の浮世絵を目にして、一般の外国人がどんな印象を受けたのだろう。詳しく聞いてみたい気がした。

特別展への感想は、別の機会としたい。本文だけでも385ページあるカタログは、充実していて読みがいがある。感想を記すにも、時間がかかりそうだ。



特別展もさることながら、筆者が楽しみにしていたのは、最近の上野(恩賜)公園かいわいの変化である。かなり頻繁に来ていた時期もあったが、このところ、足が遠ざかっていた。快晴も手伝ってか、木々の緑も美しく、爽快であった。

思いがけない出会いは、平成館前の大きな樹木ユリノキであった。しばらく見ない間に立派な巨木になっていた。

ユリノキ(百合の木、樹)というと、美しい草花の百合を思い浮かべるが、それとは違い、モクレン科ユリノキ属に属する落葉樹である。見上げるほどの巨木に成長していた。運よく開花期に当たり、薄いオレンジ色の花が美しく咲いていた。

銘板:
明治8、9年頃渡来した30粒の種から育った一本の苗木から明治14年に現在地に植えられたといわれ、以来博物館の歴史を見守り続けている。東京国立博物館は「ユリノキの博物館」「ユリノキの館」などといわれる。



子供の頃、不忍池で外科医の従兄とボートを漕いだ思い出が蘇る。当時見たユリノキは、辺りの普通の樹木とあまり違わなかった気がしていた。今は圧倒するような一大巨木になっている。上野公園に連れて行ってくれた従兄は数時間にわたる手術中、目前の仕事への集中と緊張感を維持するため、手術室へ入る前にグラスでウイスキーを飲んだことがあったと内緒で話してくれたことがあった。その従兄も若くして心臓疾患で世を去った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花見より人見?

2025年04月28日 | 午後のティールーム


梅、桜、躑躅、藤・・・・・。この季節、日本には多くの花が次々と開花し、その美しさを求めて多くの人々が集う。素晴らしい季節だ。

なかには、スギ花粉、ヒノキ花粉などで、辛い季節となってしまう人たちもいる。それでも、防備をしっかりすれば、それぞれに美しい花々を楽しむことができる。イギリスから来た友人が、彼の地では春が来るとほとんどの花が一斉に開花するので、日本のように時間の経過とともに花を追って各地へ旅して、それぞれ異なった環境で花を楽しむ情景が生まれ難いと話してくれた。

日本へ初めて来た外国人でも、距離の移動を気にしなければこれからでも桜の開花を楽しむことができる。現に台湾、オランダから来た友人が札幌で桜を見た楽しさを語っていた。

花見といっても、梅や桜に限られない。例えば、今の季節、藤の花の美しさも特記すべきだろう。先週、東京都内のある場所(さて、どこでしょう→最下段)へ藤を見に行った。毎年ではないが、かなり以前から度々訪れてきた。

10年ほど前に見た時は、藤棚も整備が悪く、花も貧弱な感じがしたが、今回は手入れもよく、見違えるほどに改善されていた。驚いたのは社殿にシートが被せられ、大規模な改修工事が行われていたことだ。その財源がなにであるかは、週日であるのに境内を埋め尽くした人々を見れば、いわずもがなであった。土日だったら境内に入れないほどの大混雑だろう。

見るともなしに、御守りや祈祷を求める人々の列を眺めていると、数万円もする御守りや御札の類をこともなげに買う明らかに中国本土からと思われる観光客がいて驚かされた。中国本土の友人から現代中国の宗教事情について話を聞いたことを思い出した。諸事情で、このテーマ、このブログでは取り上げることができなくなってしまった。


亀戸天神の藤棚
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遠く離れてしまった友人を偲んで

2025年04月06日 | 午後のティールーム


なんのことかと思われるでしょう!
実は最近、この変なブログ?のある古い記事『初夏のザールブリュッケン』および『Am Statenに突然アクセスがかなりあり、記事のその後を書いてほしいとのご依頼もありました。それは昨年世を去ったオーストリア在住の友人エーリヒ(Erich  Kaufer)に関連する思い出話にもつながっています。
* この記事の発端となったこれらの画像の出所についても、大変不思議とも思えるお話がありました。

この友人(オーストリア人だが、ドイツから移住)は、私が1960年代にアメリカにいた頃にふとしたことから親しくなりました。彼はドイツ、フライブルグ、フランクフルト、ザール、そして後年オーストリアのインスブルックに移住しました。

私も勉学や仕事で日本からアメリカ、カナダそしてフランスなどへせわしなく動いている時代でした。若い頃はどこへ行くのも楽しみで、移動も苦になりませんでした。飛行機に乗れること自体が嬉しい時代でした。アメリカへ行くのも、羽田からホノルルかアンカレッジを経由していた時代でした。知らない土地を訪れることで世界が大きく広がる思いがしました。そして後で振り返ってみると、予想もしなかった人生を過ごしていました。コロナ禍の間、しばらく音信が途切れたりした時が続いた後、昨年彼が亡くなったことを知らされました。半世紀を超える長い友人でした。

友人エーリッヒは、当初はドイツの新進経済学者として、産業組織論、とりわけ企業集中、カルテルやパテントの研究者として立派な業績を残していました。他方、私は最初はカナダの巨大企業と資本提携をした金属工業で働き、日本とカナダやジャマイカ、オーストラリアなど原料産地あるいは新興の中東諸国の間を往復したりしていました。その間、当該産業における独占の成立、企業分割の歴史、労働の国際比較、とりわけ労働の移動のあり方に関心を持つようになっていました。共通の話題がいくつか芽生えました。一時は北米大学院の寄宿舎で同じフロアーで生活していました。

お互いに親しくなり、何度か日本とドイツ、オーストリアを会議などで往復もしました。日本では奥日光やチロルの山々でトレッキングをしたり、彼がインスブルック大学の経済学部長の時には、私が卒業式に列席する機会もありました。彼はその後、経済学の領域を離れ、同大学の社会経済史研究所の所長を務めてきました。


インスブルック大卒業式

真に研究したいことに専念
私が大きな影響を受けたのは、インスブルックへ移住してからの彼の人生の過ごし方でした。若い頃から現代経済学の先端の研究に従事していたのですが、ある日突然、経済学の書籍を全部処分し、中世イタリア社会経済、宗教の研究に専念することを始めたのです。そのために、イタリア語の家庭教師について、イタリア語の習得を始めました。そして没年までこの分野でも立派な業績を残す学者になっていました。数冊の書籍が残っています。コロナの発生前に受け取った手紙には、自分の英語はほとんど消えてしまったと記されていました。

美術への傾斜
このブログの柱の一部を構成しているロレーヌの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの画家人生にいつの間にかのめり込んだ私とつかず離れず、イタリアやロレーヌの美術のトピックスを紹介、探索にもしばしば同行してくれました。

インスブルックの空港を眼下に臨み、航空機が視野に入ってきてから家を出発しても離陸に間に合うよと、ご自慢の家に泊めてくれました。

ある日のインスブルック空港

最近、当時の資料の終活をしているときに、彼ら夫妻が案内してくれたドイツ・バイエルンに所在するオットービューレン修道院のオルガンに関するパンフレットに出会いました。修道院は764年に設立され、世界的にも大変著名なオルガンがあり、毎週土曜日のコンサートで演奏されていました。まさに天上の音楽に接した思いでした。
機会があれば、もう一度来たいと当時は考えていましたが、時が経ち、私にその時間はなくなりました。




危機の世界を思わせる昨今の騒然とした時代からいまや遠く離れた友人は、何のしがらみもなく天上のオルガンに親しんでいることでしょう。半世紀を超える友情を思い、ここに深い哀悼の意を表します。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の長所は変えるべきか:小中学校の教育

2025年01月06日 | 午後のティールーム
 
PD


冬の朝まだ薄暗い頃、新聞を取りに郵便箱へ向かうと、低学年とみえる小学生が、一様にマスクをして、背負ったランドセルの蓋をバタ、バタとさせながら、急ぎ足で駅の方へ小走りで駆けて行くのを見る。父親あるいは母親らしい大人がついていることが多い。親たちは自分の通勤時間を子供に合わせているのだろう。何かを子供に話しかけながら道を急いでいる。聞こえてくる会話からは、こうした折に細々としたことを教えているようでもある。

しかし、子供だけが真剣な顔で小走りに歩いていることもある。決まった時刻の電車に乗るのだろうか。親はどうしたのだろうか。大都市の片隅とはいえ、最近では多少不安な気がしないでもない。こうした行動は、どうも日本にかなり根付いたものらしい。外国では子供一人で公道を歩かせることで、親が罰せられることもあるようだ。

もっとも、子供の数が極端に減少した日本では、あまりこうした光景を見ること自体が少なくなった。20−30年前だったら、誰も気にとめなかっただろう。

本題から外れるが、筆者の目には子供の数の減少と併せ、この数年、朝夕の通勤・通学時に外国人の姿が明らかに増えたように映る。東京都では外国人居住者68万人、都民の4.8%になるとTVが報じていた。筆者等がかつて予言した?『明日の隣人 外国人労働者』が現実になっていることを感じる。

閑話休題。昨年末のThe Economist誌(December 21st 2024-January 3rd 2025が「日本式の育児法」(THE JAPANESE ART OF CHILD-REARING)と題して、日本の学校教育の印象的な点として幾つかの例を挙げている。大きな見出しには「なぜ日本では小さな子供一人で地下鉄に乗るのでしょうか?」とある。そのひとつを引用してみよう:

日本の子どもたちは学業成績が良いだけでなく、幼少期から驚くほどの自立心も示している。6歳児が付き添いなしで歩いたり、地下鉄に乗ったりして学校に通う(この国が異様に安全であることも助けになっている)。7歳のスギウラ君は毎日10分の道のりを歩いて通っている。「息子が幹線道路を渡らないといけないので緊張するけど、みんなが手伝ってくれる」と父親のヒロキさんは言う(The Economist, p50)。

この記事自体は、The Economistの東京支局長を務めていた女性がメキシコ・シティに赴任した後、改めて日本の教育に関心を抱き、日本に戻って調査を行った結果の一部とのことだ。長年にわたり、彼女は日本の教育制度の長所、つまり子どもたちに自制心や他人への思いやりを植え付ける点と、その反面に見る過剰な同調主義などの欠点の両方を見てきた。The Economist誌の記事は、日本式の学校教育をいつまで続けるべきかという彼女の家族内での議論から生まれたものだという。

その中には、公立の小学校で 放課後、教室の整理・整頓、掃除などを生徒自身が行うことに始まり、アメリカで活躍する大谷翔平選手が、グラウンドでゴミを拾ったりする行動まで含まれているようだ。要するに、日本人はなぜ、こうした例に示されるように秩序正しいのか。そして人によっては、その根源は日本の小学校にあるという。小見出しには「世界で最も規律正しい小学校の長所と落とし穴」とも記されている。

日本の公立の小中学校では、授業が終わると係りの生徒が黒板をきれいに消しておく。授業の始まりと終わりには、全員揃って挨拶をするなどの行動を生徒が主導して行っている習慣がかなり根付いている。

さらに日本では小学生の低学年でも、一人で電車通学をしている子供を見かけるのは今の段階では別にめづらしいことではない。ランドセルを背負い(最近ではリュックサック姿も)、小さな動物などの人形などをペットのように吊り下げたりして通学している光景はよく見る。周囲の乗客も特に問題視しているようではない。筆者が知る限り、日本では小中学生がひとりで電車に乗ってはいけないというような議論は、社会的になされていないようだ。

西洋では、多くの親が一瞬でも子どもから目を離したら何かひどいことが起こると確信しており、公的権力でこのような行動を認めていない国もあるようだ。日本でも最近は学校の生徒が交通事故や犯罪に巻き込まれる出来事も発生し、憂慮すべき事態も報道されている。

現在はメキシコで特派員をしている女性は、日本の教育に特に興味を持っているようだ。東京でThe Economist誌に務めていた時、彼女の子どもたちは東京の幼稚園に通っていた。現在はメキシコの日本人学校に通っている。長年にわたり、彼女は日本の教育制度の長所、つまり子どもたちに自制心や他人への思いやりを植え付ける点と、反面で過剰な同調主義などの欠点の両方を見てきた。この記事は、日本式の学校教育をいつまで続けるべきかという彼女の家族内での議論から生まれたものという。公平に制度を評価するために、彼女は日本に戻って調査を行った。

外国人の目からすると、日本の社会が生み出し、その結果形成されてきた教育制度は、かなり不思議なものに見えるらしい。淵源を辿ると、江戸時代(1603-1868年)、武士階級が設立した寺子屋の段階に始まったとも推測されている。その後4世紀余りを経過し、日本は西洋諸国の多くのように自由民主主義の国となったが、教育制度を見てもその実態は大きく異なったものとなった。改めて指摘されると、確かにアメリカ、ヨーロッパあるいはその他の国々ともかなり違っているようだ。

この小学校教育の実態に示されるような「人づくり」の仕組みは、西欧人ばかりでなく、アジアや中東の人々にとっても、羨望を伴う不思議なものにも感じられるようだ。エジプトの独裁的な大統領アブドルファッターフ・エルシーシー氏は、日本はイスラム的な道徳を持っているとまで形容している(p.52)。

日本に住む内外人の中でも、少数だが日本の小中学校に子供を通わせることをせず、インターナショナル・スクールに通わせている人もいる。その理由は様々なようだが、日本の学校では「国際性」が育たないという趣旨の説明を聞くことが多い。

日本の公的教育の利点を認めながらも、それを窮屈な制度と考え、子供をもっと自由に育てたいのだという。「教育の国際化」を標榜する学校もあるが、日本の公教育システムはそれに合わないのだろうか。


NOTE
The Economist誌は年末年始の合併号(CHRISTMAS DOUBLE ISSUE)のテーマに、通常号とはかなり異なった主題を選択、記事としてきた。筆者は半世紀以上にわたり、関心を抱いて購読してきたが、今回の特別号では表紙にも世界最大と言われる東京豊洲市場の魚市場の光景を戯画化して掲載している(下掲)。外国人ならずとも、かなり興味深い場所だ。日本社会の現状がポジティブに取り上げられるのは最近では珍しい。



The Economist  December 21st 2024-January 3rd 2025
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新年おめでとうございます

2024年12月31日 | 午後のティールーム

新年おめでとうございます。

2025年元旦

世界は今年も波乱と緊張に満ちた1年となるでしょう。
時空をさまよい、小さくも輝く石を求めたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メリークリスマス SEASON'S GREETINGS

2024年12月24日 | 午後のティールーム

東京駅北口前夜景
Photo YK

2024年も残り少なくなった。クリスマスイブも平日であり、あまり特別な日という感じはしない。盛り場の電飾だけが華やかだが、寒々とした思いが募る。

振り返ると、今年1年、ウクライナでもガザでも戦火は消えることがなかった。ノーベル平和賞は日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)に授与されたが、言葉にならない空虚な思いが頭をよぎる。心から手を挙げて喜びたいが、過ぎ去った年月の重さが押しとどめてしまう。新年早々に戦火は消えるだろうか。人類は進歩しているといえるのだろうか。

Geroges de La Tour(1593-1652)
Le nouveau-ne/The Newborn
Musee des Beau-Arts de Rennes, France
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール
『生誕』


筆者の目の前には、今もこの作品のポスターが掛かっている。17世紀、人々は何を思い、今日を過ごしたのだろうか。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あなたは10歳児を上回れる? 〜進歩とは(2)〜

2024年12月19日 | 午後のティールーム

いつの頃からか電車などに乗ると、反対側の座席に座っている乗客のほとんどが「スマホ」を覗き込んでいる光景に出会うことが日常になった。かつて多かった新聞を開いて読んでいる人を見ることはきわめて稀になった。今では読書している人すら少ない。電車に駆け込んで来て座席に座ったとたんに、ポケットやバッグからスマホを取り出し見入っている。私にはとても異様な光景に見えるのだが、多くの人はそう思っていないようだ。

10人がけの座席に座っている乗客のほぼ全員が、スマホに見入っているという光景も珍しくない。スマホ嫌いで古い機種を緊急用に置いてあるだけの筆者には、人々がスマホに魂を奪われているように見える時がある。横断歩道で「歩きスマホの人」に衝突されたり、足を踏まれたことも何度かある。「ケータイ」(携帯)という言葉も近頃はあまり使われなくなった。現代人にとって、「スマホ」はもはや身体の一部になっているかのようだ。スマホをどこかに置き忘れ、半狂乱になった人に出会ったこともある。

OECD調査では
最近、この問題に関する小さな記事を目にした。人々を対象とした成人スキル調査で、成人の5人に1人が、小学生レベルの数学と読み書き能力テストで、10歳の子供たちと差がない結果が示されたという。

計数能力では過去10年間に平均点が上昇した国がいくつかあったが、下落した国もほぼ同数あったとの結果が示された。成人がかつてないほど、大学などで高度な教育資格を取得しているにも関わらず、読み書き能力では点数が上昇するよりも下落する国の方がはるかに多くなっているとの結果も示された。

Adult skills in literacy and numeracy declining or stagnating in most OECD countries,
the second OECD Survey of Adult Skills 10th 0ctober 2024
この調査では個人の成長、経済的成功、社会貢献のための重要なスキルである読み書き能力、計算能力、適応型問題解決能力に焦点が当てられた。

この結果は、日本でも短く報じられたが、幸いなことに日本はフィンランドに次ぎ、オランダ、ノルウエイ、スエーデンなどに並び、上位の国にランクされた。しかし、細部についてみると、いずれの国も今後の社会、経済的変化に対応するには多くの改善すべき点があることが指摘された。


こうした調査結果の原因解明はかなり難しく、時間を要する。人口構成の変化も関係するかもしれない。新しい移民は受け入れ国での言語習得に苦労するかもしれない。他方、現地生まれの人々は外から持ち込まれる変化に対応できていない。人は高齢化に伴い、新しい変化への対応力が鈍っているかもしれない。

字を忘れたり、本を読まなくなったという現象も指摘されている。ネットフリックス、ビデオゲーム、SNSなどが、脳の活力を奪っていると考える人もいる。さらには、こうした変化に対応する教育・訓練システムが追いついていないとの指摘もある。

今回の調査では16-65歳を成人の対象としているが、実際の成人層はこれより遥かに高齢の層を包含しており、現実と調査の間でも大きなギャップが生じてしまっている。社会制度、教育制度も現実の変化に合わせて変革が必要だ。高齢化の進展は各国が対応できないほどの大きな変化を生んでいる。

このOECDテストでは、対象となった成人の収入、健康状態、人生への満足度、他人への信頼関係、政治への参加なども影響していると考えられている。

時代に追いつけない成人教育
更に、大きな困難は成人の教育システム自体が旧態依然で変化に対応できていなかったり、機能していないことだ。多くの国では、移民やハンディキャップを負った人々が抱える問題を認識してはいても、政府がそのために支出する予算も少なく、対象者も参加への意欲が低下しているとの問題が指摘されている。

学位の意味も薄れつつあり、大学卒業生の中でも、子供が恥ずかしくなるような計算力や読み書き能力の成績を出している者がいるとの結果が提示されている。

ある時期、本ブログ筆者も、こうした変化に応えるために大学の教育システムを改革したいと、かなりの時間を費やしたこともあったが、満足できる成果は得られなかった。システムを企画する側と求める側の意図がうまく合わないところもある。

今回のOECDの調査が意味するものは、その解明にも時間を要する。しかし、その結果は今後の人類のあり方にも関わる。戦争、紛争、天災など、多くの危機に直面する世界は、愚かな戦争に終止符を打ち、人類の進歩のために真になすべきことに尽力すべきだろう。教育はそのための柱となる。

始めるは遅きにしかず
身近な所に目を移そう。筆者の近くでも、90歳を超えて、小中学生の算数教室に通い、プールや体操などで、知力、体力の維持に努めている方がいることを知った。その意味や背景を知った子供たちが、大きな尊敬の念で見ていることは間違いない。彼女は70歳代からこうした努力を個人として続けてこられた。さらに、生活に困窮する人たちのために月に1度、バザーを開くなどで社会貢献にも尽力されている。

改革の手がかりは、足下にもあるのだ。政府が十分に対応できないならば、個人が努力する以外に、眼前に広がる危機に立ち向かうすべ、方策はない。AIの変化も目を見張るばかりの速度で進んでいる。生成AIのいくつかの成果は、実際に使ってみて圧倒される。しかし、その結果がどれだけ正しいものか、判定は困難なことが多い。技術の変化に翻弄されないうちに、人間が技術を制御できるシステムの確立も必要と実感する。しかし、今や頸木が外れたような急速な技術の進歩に人間は対応できるだろうか。疑問は尽きない。


REFERENCES
“Can you read as well as a ten-year-old?”   The Economist 14th-20th 2024

Adult skills in literacy and numeracy declining or stagnating in most OECD countries the second OECD Survey of Adult Skills 10th 0ctober 2024

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「博士と彼女のセオリー」:10年後に見る

2024年11月28日 | 午後のティールーム



映画「博士と彼女のセオリー」(原題:The Theory of Everything)をご覧になった方はどのくらいおられるのだろうか。ブログ筆者はかねて見たいと思っていたが、その機を逸していた。封切り以来、10年近くが経過してしまっていた。この度、偶々、TVで見ることができた(2024年11月27日BS1、映画は日本では2015年に封切られた)。大変美しい感動的な映画であった。

イギリスの理論物理学者スティーブン・ホーキング博士 Stephen William Hawking(1942-2018)の生涯を、元妻、ジェーン・ホーキングの回顧録に基づいて映画化したものである。博士はALS(筋萎縮性側索硬化症)に罹患し、「余命2年」と衝撃的な通知を受けながらも、ジェーンと結婚、長女ルーシーも生まれた。彼女の献身的な介護を受けながら、偉大な成果を上げる。しかし、病気の進行とともに声、そして行動の自由も失い、ジェーンとも別離することになる。

しかし、離婚をしても、博士の生存中は3人の子供と共に良い友人関係を築いているというホーキング博士とジェーンの関係が美しくも哀愁に満ちた情景が描かれている。

晩年、著書『ビッグバンからブラックホール』が世界的なベストセラーになり、アメリカでの授賞式にホーキング博士が献身的な看護師エレインを連れてゆくと話したことから、博士とジェーンは離婚する。ジェーンは、教会聖歌隊でピアノ教師をしており、子供たちの父親の代理のように慕われていたジョナサンと結婚する。ジョナサンも博士の置かれた状況を良く理解した素晴らしい男性だった。そして博士はエレインとも5年後に離婚している。博士の病状も日を追って悪化し、彼女に加わる負担も大変なものだったろう。

エディ・レッドメインの好演が目立つ。第87回アカデミー賞主演男優賞、第72回ゴールデン・グローブ賞ドラマ部門主演男優賞などを受賞した。

ホーキング博士の病状の悪化と並行して、歩行や意思疎通が困難になり、それに併せて車椅子も介添人が手で押すものから、コンピュータや発声装置まで装備した高度なものへと進化してゆく。映画では、その変化が詳細に示されている。

映画の主たる撮影場所は、ケンブリッジのセント・ジョン・コレッジとクイーン・ロードなどがあてられたようだ。メイボールの光景も筆者は見たことがあるが、大変美しい。

ケンブリッジで卒業式の後、いくつかのコレッジで開催される公式のダンス・パーティなどの行事。

ブログ筆者は、ホーキング博士とは研究分野も何の関係もない領域であったが、1995-96年にケンブリッジ大学に客員として滞在していた。ホーキング博士は、その頃すでに大変著名な人物であったが、健康の点では比較的お元気な時期であったのだろう。毎朝筆者が駐車していた経済学部の前の道、シジウイック・アヴェニューを付き添いも誰もなく、電動椅子で舗装も十分でない道路を横断し、移動しておられた。時間帯がほとんど同じで、滞在中、幾度となくその光景にであった。その当時の経緯は、以前に上掲のブログに記したこともある。「世界は小さい」The world is small. という表現が当てはまる経験であった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『虎に翼』の足下で(2):事実とフィクションの間

2024年10月12日 | 午後のティールーム



NHK連続テレビドラマ『虎に翼』が終了した。かなり評判は良かったようだ。結局3分の1くらいは見たかもしれない。前回記したように、筆者は新聞連載小説、TVの朝ドラは、これまで読んだり、見たりすることはなかった。

今回は時間的な余裕はあった。しかし、積極的に見ようとは思っていなかった。あまり気乗りがしない原因は他にもあった。筆者の体験あるいは見聞した現実とドラマの間には、かなりの間隙があった。いうまでもなく、フィクション(虚構)であるドラマである以上、事実の取捨選択、歪曲などは当然起こりうる。

今回は別の事情が加わった。偶々、筆者が、ドラマに登場した人物と同時代のかなりの部分を共に生きてきたということに加えて、筆者の近くにいた人たちが、実際には登場人物を支える裏方のような役割を果たしていたからだった。たとえば、戦後、しばらく筆者の義父も、最高裁判所設立当時、事務総局の責任者として日夜働いていた。

特に気にかかったのは主人公たちが演技する舞台だ。ドラマだけに余計な部分は捨象され、背景も美しく整然としている。しかし、ブログ筆者が理解した限り、戦後しばらくの間、最高裁判所を取り巻く環境は、ドラマより遥かに混沌とした状態だったようだ。敗戦によって、旧体制は崩壊し、新たに最高裁判所を頂点とする裁判制度自体が、戦前とは大きく異なる価値観に基づき構想されることを求められ、根本的な再検討を迫られていた。

ドラマの影響力
ドラマと現実は当然異なって当然なのだが、長い年月が経過すると、影響力あるドラマが生み出したイメージが歴史的現実を席巻してしまう。今回は珍しく関連出版物も多かったが、とりわけ気になったのは、それらの多くが、「団塊の世代」(1947-49年生まれ)よりも若い世代の手になる調査や叙述であり、筆者には臨場感が薄いものが目についた。利用された史料も出所が同じものが目立った。

戦後、さまざまな折に集まった法曹分野の人たちの間で、当時の思い出話などに花が咲いたことがあった。筆者は法曹界には関係ない職業に就いていたが、傍らで聞いていて共感したことが多かった。

ドラマの一場面から:
『虎に翼』、第10週の場面。終戦後、民法改正に携わることになった寅子(演:伊藤沙莉)は、思い出の公園で花岡悟(演:岩田剛典)と再会し、並んで弁当を食べる。ところが、食糧管理法に関する事案を担当している花岡は、法を犯して闇市で米を得ることを拒否、あまりに少なく質素な弁当を持参していた。

全国の裁判所の事務室に米つき瓶、蒸しパン製造器などが並んでいたのは珍しくなかったようだ。前者は玄米、粟、稗などの雑穀を一升瓶に入れ、棒で突いて簡易の脱穀器のように使っていた。手製の電熱の蒸しパン製造器なども、多くの家庭にあったのではないか。筆者の家でも使っていたのを記憶している。鶏などを飼って卵を得ていた家庭も珍しくなかった。筆者の家でも一時期、2羽の鶏を飼っていたことを思い出した。

こうした話の中で、裁判所に出入りしていた魚屋のSさんの話を思い出した。裁判所を訪れる客人との会食の際の素材などの供給をしていたようだ。当時は鰊、ホッケ、鱈などは比較的入手できたが、鮮度がすぐに落ちてしまう。他方、主食の米が全くないという、今の若い世代の人たちには想像し難い状況もあったようだ。

飽食の時代に住む今日の我々には想像できない、栄養失調・餓死と隣り合わせだった戦後日本の暮らしがそこにあった。深刻な食糧不足に陥った日本は、「生きるために法律を犯して闇米を食べるか、法律に従って餓死するか」という極限状態にあった。

東京区裁判所の判事だった山口良忠(1913–1947年)といった「法の番人」である裁判官も、「自分たちが法を犯して闇米に手を出すわけにはいかない」と、当時の食糧管理法という法律に沿って配給される食糧のみを口にし、1947(昭和22年)10月11日に栄養失調で餓死するという事件が起きている。当時最高裁判所事務局にいた筆者の義父が記していた日記にも、この出来事の新聞記事が書き残されていた。

今日に残る関連記事の多さを見ても、いかにこの出来事が衝撃的であったかが分かる。三淵忠彦最高裁長官のもとに過労で栄養不足の裁判官がいたら差し上げてくださいと、自宅の鶏が産んだ卵を届けた人もあったという。彼女は長官室に招き入れられている。その後、長官はこの事件を重く見て、マッカーサー司令官に裁判官の報酬を改善する制度の進言をしている。

この例に見られるような苛酷な状況にあって、最高裁判所を頂点とする新たな裁判所制度の構想を具体化するために、裁判所内外で多くの人々が努力を続けていた。英語の勉強会は、さまざまに行われていたようだ。戦後、義父の遺品整理をした折、英語の法律関係の書籍、当時の著名な思想家たち、とりわけイギリスの哲学者バートランド・ラッセル(1872-1970)の作品がかなり残っていたことが記憶に残っている。婦人解放運動に熱中し、ケンブリッジ大学から解任され、後にアメリカへ移住したこの偉大な哲学者の思想も、戦後の家庭裁判所構想などに何らかの影響を与えたのだろうか。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時空を旅して:「進歩」とは

2024年09月11日 | 午後のティールーム



21世紀が始まって、ほとんど4半世紀が経過した。見るとはなしにTVを眺めていたら、あの2001年、9月11日に突如として起きたアメリカ同時多発テロの番組を放映していた。忘れようとしても忘れられない光景だ。今日はあの日から数えて23年目に当たる。過ぎてみれば、なんと短い時間だったのだろう。


世界にはこの間あまりに多くの悲惨な出来事が起きた。戦争は世界各地で絶えることなく続いてきた。

世界貿易センター(ワールド・トレード・センター)へ立て続けに2機の航空機が突入する衝撃的な光景が目の前に再現されていた。筆者もこのビルで働く友人に会いに何度か訪れたことがあった。このブログの初期の頃に、的確なコメントを寄せられていたK.N.さんもそのひとりだった。

World is Small
TV画面には、ブログ筆者自身、若い頃に短い期間ではあったが働く場所を共にした住山一貞さんが写っていた。筆者は間もなく転職したことで、その後再会する機会はなかったが。

住山さんの長男の住山陽一さんは、当時、34歳、当時の富士銀行で金融マンとして、世界貿易センタービル(ワールド・トレード・センター)にある銀行のニューヨーク支店で働いていた。

このテロ事件によって、判明しただけで、日本人24人を含むおよそ3000人が犠牲になった。筆者のアメリカ人の知人も犠牲者に含まれていた。

陽一さんの遺族は、その後今日まで同時多発テロの真相を究めるため、多大な努力を費やしてきた。なかでも、父親の住山さんはアメリカの独立調査委員会がまとめた567ページにわたる報告書の邦訳に人生を捧げてきた。

Terrorism  Everywhere 
筆者自身にとっても、9.11は大きな心の転機をもたらした。この話は、本ブログにも短く記したことがある。

住山さんはテロリズムの真相を追って、その後の人生をその追求に費やした。言葉に尽くし難い日々であったろう。その後、テロリズムは世界中に拡散し、いつどこで、何が起こるか分からない時代となった。筆者もオウム真理教の地下鉄テロを電車一本の差で、免れたこともあった。

筆者の友人が遭遇して犠牲となったテロ事件は他にもあった。これもブログに記したことがある。テロリストに襲撃され、命を落としたイタリアの友人の話もそのひとつだ。
世界は小さくなり、リスクは至る所にある。

一時は大きな希望が寄せられていた21世紀だが、四半世紀を過ぎた今、その前途はかつてない多くの不安に包まれている。人類は果たして「進歩」しているのだろうか。「進歩」とは何か。終幕近い小さなブログでは、到底答えられない問いがそこにある。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『虎に翼』の足下で

2024年08月24日 | 午後のティールーム




これまでTVの連続ドラマなるものは、出勤前の忙しさなどで、ほとんど見たことがなかった。最近早朝に目が覚めてしまうこともあって、時々見るともなしに見るようになった番組がある。そのひとつが『虎に翼』NHK総合1である。実はこの番組の後にMLBの試合があることも、ひとつの楽しみでもある。

偶然ではあるが、ブログ筆者の周囲には、ドラマの主役たちとほぼ同じ時代に、同じ職業領域で過ごした人々が多数おられた時期があった。判事、検事、弁護士、さまざまな法曹界の関係者である。中には、司法界の社交場として建てられた法曹会館の総務部長を務められた方なども含まれていた。雑談の折などに戦前から戦後にかけての法曹界の変化の断片などを、うかがったこともあった。例えば、戦前、そして戦後しばらくの間、最高裁判所に出入りされていた魚屋さんの話などを聞いたこともあり、戦後間もなく生まれたばかりの最高裁判所のイメージの一端に触れた思いもした。

ドラマでは裁判所等のロケ地は、東京ではなく名古屋が多いようなので(名古屋市市政資料館、市公会堂など)、史実上の場所とは一致しないとしても、筆者の記憶の片隅に残るイメージと重なるような部分もある。

そのひとつ、現在の法曹会館は、昭和12年(1937)に竣工したもので、尖塔のある塔屋や窓などがバランス良く配置され、特徴のある建物だ。お濠端という場所にふさわしい静かな雰囲気を生み出すよう配慮されたデザイン、尖塔屋根や正面にはめ込まれたステンドグラス、真紅の絨毯が敷かれた階段など、時々目に浮かぶことがある。

戦前の大審院の建物は、イメージにはあるが、内部へ入ったことはなかった。全く偶然ではあったが、筆者が最初に仕事に就いた職場は、法曹界とは全く関係はないが、千代田区隼町の現在の最高裁判所(上掲写真)のあるところに仮事務所があった。

昭和 22 年 8 月に着工した旧大審院庁舎の復旧工事は,昭和 24 年 10 月に完成した。昭和24(1949)年11月11日、最高裁判所新庁舎1階の大ホールに国会、政府関係者、各政党、法曹界から1,200名が出席し、落成式が行われた。昭和24(1949)年11月11日、最高裁判所新庁舎1階の大ホールに国会、政府関係者、各政党、法曹界から1,200名が出席し、落成式が行われた。マッカーサー元帥が祝辞で、日本の民主主義国家への再生・シンボルとして、大きな賛辞と期待を寄せたことが伝えられている。残念なことにこの建物はその後取り壊され、現在は高層の東京高等裁判所合同庁舎が建てられている。

隣接の司法省庁舎は昭和23(1948)年から25(1950)年にかけて改修工事が行われ、法務省本館として使用された。その後、1991年から1994年に外観を創建時の姿に復元、重要文化財に指定されている。建物内には法務総合研究所と法務図書館があり、内部は最初に建てられた当時の室内写真をもとに復元され、見学もできる。筆者は一度見学した記憶がある。

不思議なご縁で、ドラマに出てこられる登場人物、内藤 頼博(ないとう よりひろ、1908年 ー2000年)先生とも、後年、先生が教育界に転じられてから、親しくお話を伺ったこともあった。

ブログ筆者は法曹界には直接関わったことはほとんどなかったが、間接的にはかなり多くの人々とのつながりが生まれていた。これまで気がつかなかった見えない糸のあれこれが連続ドラマへの関心を繋ぎ止めているようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美術館の将来:入館料は何で決まる?

2024年04月19日 | 午後のティールーム

Photo: YK


The Economist 誌に興味深い記事が掲載されていた。美術館の入館料はいかにあるべきかというテーマである。子供の頃から大の美術好きだったので、これまの人生でかなりの数の内外の美術館に出入りし、およそ想像し難い額を入館料やカタログなどに支払ってきた。時には海外にまで出かけたこともあった。圧倒的に持ち出しかなと思っていたが、今になってみると人生の楽しみのひとつとなり、コスト・ベネフィット比ではかなり取り戻した感がある(笑)。

’A different sort of art heist’  The Economist March 30th 2024
海外美術館の入館料については、同上記事を参照した。

最近、世界の主要美術館は次々に入館料を引き上げている。個々の美術館の常設展入館料は、映画館などと比較してみると、高いとは思わないのだが、しばらく前から企画展などは随分高くなったなあと感じる時も増えてきた。

どこまで上がる入館料?
ニューヨークの近代美術館の例が取り上げられている。この美術館の入館料については、「美術館は無料であるというのは、ほとんど道徳的義務である」Glenn Lowry, director of the Museum of Modern Art (MOMA)という考えがこれまではかなり有力だった。2002年時点では、MOMAの入館料は$12(今日の価格ではほとんど$19)であったが、その後引き上げられ、最新時点では昨年10月に$30に引き上げられた。今後はどこまで上がるのだろうか。

ニューヨークのメトロポリタン美術館 Metropolitan  Museum of New York は長年にわたる「払いたいと思うだけ払う」”pay what you will” policy を2018年に廃止、2022年に市外からの訪問者の入館料を$30に引き上げた。美術館側からは「推奨料金」とされ、ほとんど義務化されている。

昨年夏には、サンフランシスコ近代美術館、フィラデルフィア美術館、ウィットニー美術館、グッゲンハイム美術館などもこの流れにに従い、標準入館料を$25から$30にした。アメリカ大都市にある有名美術館の入館料は、当面$30がひとつの基準値であるようだ。

コスト上昇が背景に
美術館側はコスト上昇と、長引いた”コロナ禍”が財政面を圧迫していると、値上げを弁護している。確かに、アメリカでは3分の1の美術館だけが、コロナ前の入館者数を確保あるいは上回っている。

アメリカではおよそ30%の美術館は無料だ。さらにスミソニアンや民営でもロサンジェルスのゲッティ美術館などは無料だ。寄付などで十分に支援を受けている美術館は、入館料を無料にすべきだとの考えが有力なようだ。

状況はヨーロッパでもほぼ同じらしい。エネルギー価格の上昇、労務費の上昇はヨーロッパでも入館料引き上げを生んでいる。アメリカ同様、2024年1月、ベルリン国立美術館、ルーヴル、システィン礼拝堂を含むヴァチカン美術館は、入館料をそれぞれ20%、29%、17%引き上げた。

入館料が引き上げられていないのは、アジア、中東の美術館だけらしい。歴史が短く、国家などの財政支援が寛容なためと推定されている。

============
N.B. 常設展の例
国立西洋美術館 常設展
常設展観覧料

個人
団体 (20名以上)
一般
500円
400円
大学生
250円
200円

高校生以下及び18歳未満、65歳以上、心身に障害のある方及び付添者1名は無料。 
文化の日その他、美術館が特別に指定した日 [常設展無料観覧日は、Kawasaki Free Sunday(原則毎月第2日曜日)、国際博物館の日(5月18日)、文化の日(11月3日)]は無料。
出所:同館HP

国立新美術館(六本木)は入館は無料だが、観覧料は展覧会によって異なる。
日本の美術館の入館料の平均は、大体1000円前後〜2000円前後と推定される。
==========

しかし、美術館協会 The Association of Art Museum が主張するように、美術館がいかに料金設定しようと、運営費をカヴァーできないとの見解もある。アメリカの美術館において、入館料は2018年時点で全収入の7%程度に過ぎないとの調査もある。会員制度がある場合は、さらに7%程度の追加の寄与になる。予算の残りの部分は、美術館によって異なるが、通常は、endowments 基金、寄付金、charitable donations 慈善的献金、grants 贈与、ショップなどの小売事業によって賄われている。

ヨーロッパの美術館は、入館料への依存はアメリカよりは少ない。というのは政府の助成金で手厚く保護されているからだ。そのため、入館料を高くして納税者にさらに負担を強いるのは気まずいし、実際に二重課税となる。多くの美術館は若者、年金生活者及び当該地方居住者には割引を適用している、

イギリスの全ての国家機関は入館料は無料だ。中国でも国家が運営する美術館は無料だ(但し、特別展示などは例外)。

減少する観客と適正な入館料
諸物価が風船のように嵩んでゆくにつれ、美術館がより広範な観客に美術を鑑賞する機会を与えるべきだとの考えに対応できなくなってくる。今でも多くのアメリカ人が美術館やギャラリーを訪れる機会を減少させている。しばらく美術館には行ったことがないという人が増えているようだ。2017年と2022年の間に観客数は26%も減少した。コロナ禍の厳しさを痛感する。

未だ10代の頃、当時かなりのめり込んでいた正倉院展などにはしばしば2〜3時間も並んだことを思い出した。娯楽や知的関心を喚起する対象が少なかった時代だったので、どこも大変な行列だったが、あまり苦痛に感じなかった。

近年、一般の美術館への関心低下、とりわけ若年層の減少は、公的支援に大きく依存する美術館にはとって厳しい挑戦となっている。こうした傾向は、美術館へ行かない人たちは、将来、政府支援のない美術館や入館料が高い美術館へ行かない人たちを増加させることになるかもしれない。他方、高額な入館料支払いを厭わない美術好きは、美術館の中のギャラリーに彼らだけの場所を設けることも予想されている。いわば同好者サークルのようになるかもしれない

しかし、美術館へ行くコストを大幅に切り下げることが解決につながるとも考え難い。西欧の美術館が今後どんな価格設定が良いか議論するとしても、入館料をゼロにするというのは最もありえない答だろう。美術館の将来には、これまでとは異なった新しいヴィジョンが必要に思われる。

とりわけ日本の美術館は規模の差異などは別として、国際的にみても全体に常勤職員の数も少なく、労働条件も非常勤職員での補充など、低下傾向がみられる。今後加速化が予想される人口減少を含め、いかなる形で充実を図るか、将来像が判然としない。財政面での弱体化への対応も不安を残している。

博物館学 museum studies や経済政策の領域では、かなり興味深いテーマになりうるかもしれない。残念ながら、筆者にはこれ以上検討する時間が残っていない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

しばしのお休み(2): 旅の道連れ

2022年10月22日 | 午後のティールーム

 白老のウポポイや苫小牧などについては記したいことは多いのだが、旅の途上でもあり、あきらめて近くの登別温泉に向かう。秋の山々は美しいが、コロナ禍の影響で人影は少ない。タクシーの運転手さんが問わず語りにコロナ禍前後の町の変化を語ってくれた。一時はインバウンドの観光客目当てのコンビニ、ドラッグストアまで開店し、大変盛況だったようだが、今はほとんど廃業してしまったとのこと。ホテル、旅館が林立する有名温泉街も昔日の面影はなく、多くの店が入り口を閉めており、昔日の賑やかさは想像もし難いほどで寂寞感が漂っていた。直後の旅行制限の撤去がどれだけ改善効果を発揮するだろうか。

旅の徒然に
林芙美子と内田百閒
旅に出る時は、若い頃からの習慣で途中で読む本を持っていく。大体肩の凝らない随筆とか短編が多い。今回は刊行されたばかりの林芙美子(1903年〜1951年)『愉快なる地図』(中公文庫、2022年)と内田百閒(1889年〜1971年)『蓬莱島余談』(中公文庫、2022年)の2冊にした。戦後書籍の出版数が少なかった頃、林芙美子、内田百閒、獅子文六などの作品は両親、更には両親の友人の蔵書まで借りて読んだ。その記憶が残っており、長らく読むことがなかった著者の名前が懐かしく久しぶりに手に取った。戦後生まれの若い世代の人たちは、ほとんど手にとることのない著者であり、作品だろう。



今回読んだのはいずれも広く紀行文の内に入る作品といえる。この作品は、1930年から1936年にかけて、台湾、樺太、パリなどへの旅に関わるエッセイである。『女人芸術』、『改造』などに寄稿された短い印象記などが後に編集され、一冊となっている。代表作ではないが、林が文壇に登場した頃の飾り気のない人生の時期が記されており、波瀾万丈であったこの作家を理解する上で得難い作品である。

林は昭和3年「改造社」刊行の自伝的小説『放浪記』がベストセラーになり、一躍文壇に登場した。彼女自身が幼い頃から貧窮な生活を経験しているがゆえに、貧民街に泊まることなどを物怖じしない、率直で飾り気のない文体で記されている。今の時代の若い人たちも抵抗なく読めるのではないか。文庫版表紙のイメージは、着物と下駄で旅先を走っていた林芙美子の時代、人生とは違和感を覚える今風のものになってはいる。

樺太を除くと、ブログ筆者も訪れたことのある場所があり、懐かしい思いがした。台湾の旅は林にとって初めての海外旅行でもあり、婦人作家との団体旅行だった。帰国後、『放浪記』(改造社)が予想を上回り売れに売れて、女性の新人作家としては異例のベストセラーとなった。

彼女は『放浪記』の印税が思いがけず入ったことで、3百円の現金を腹巻に、パリに始まるヨーロッパ大陸への旅に出た。インド洋を経由する海路もあったが、月日も費用もかかることもあって陸路を選んだ。時は昭和6年満州事変の最中であった。スポンサーも出版社などのアテンドもあるわけではない、女ひとり、3等列車の旅の情景が描かれている。

ブログ筆者の時代には、ヨーロッパへの旅の主流は航空機に転換しつつあり、モスクワ経由でヨーロッパへ旅する経路が一般化していた。シベリア鉄道を利用するのは、安価な学生旅行など、例外的になっていた。その意味でも、林が経験した大戦直前の中国、ロシアの庶民の日常の光景がきわめて興味深い。次々と入れ替わる乗客たちの描写は、何の飾り気もない粗野で貧しい庶民の振る舞いそのままだが、旅を終わってみると、彼女にはロシア人が最も人間らしく好感が持てる存在として残る。ブログ筆者の友人にもロシア人(カナダへ移住)の親友があり、20代から今日まで交友を続けてきており、同感することが多々ある。ロシアのウクライナ侵攻が、ロシア人一般へのマイナス・イメージを作り出したことに深い悲しみを感じる。

パリでの生活では、貧困な日々ではあったが、フランス語習得に「アリアンス(AllianceFrançaise)に通ったり、努力を怠らない人であった。

林は旅行好きで前後8度中国大陸に渡航、その中に2度は従軍して戦線に向かった。しかし、その思想、言動の故にかなり嫌な体験もしたようだ。戦時中は『放浪記』などは風俗撹乱の恐れある小説として発禁になったこともあった。貧困に背中を押され、原稿依頼を断ることがなかったこともあってか、林芙美子の著作数はきわめて多い。実生活では毀誉褒貶ただならぬ人生であったが、林本人としては最後までひたすら走っていたのだろう。

人と人とのつながりも、いまはあまり魅力を感じなくなった。私は旅だけがたましいのいこいの場所となりつつあるのを感じている
(『私の紀行』序、新潮文庫、1939年7月)。

1951年(昭和26年)6月28日心臓麻痺で急逝した。享年47歳。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



內田 百閒(1889年- 1971)も、その軽妙洒脱な筆致で肩が凝らない作品が多く、『 百鬼園随筆』『阿房列車』など、かなりの作品を読んだ。

百閒が 陸軍・海軍関連の学校、法政大学などで教鞭をとった後、しばらく失職していたが、友人辰野隆の計らいで1939年(昭和14年)、 日本郵船嘱託(文書顧問 - 1945年)の職を得た。今回の『蓬莱島余談』は、その間の出来事を台湾旅行を中心に関連する旅行談、周遊記、交友談などをまとめたものだ。

嘱託といっても実に優雅な勤務で、午後2時から半日づつ、水曜か木曜は休み、月二百円の手当だった。公務員の初任給が月70円か80円くらいだったといわれるので、大変恵まれた仕事だった。郵船側も百間になにか特別な期待をしていたとも感じられない。良き時代の大会社郵船の「社会サーヴィス?」だったのだろうか。

時には郵船の大型船の船上に当時の著名文士や知名人を招き、社費で盛大な宴会を開催するなど、金繰りに奔走したなどと言いながらも、優雅な仕事?を楽しんでいたようだ。大型豪華客船の一等船室に泊まり、豪華な食事に好物の麦酒(ビール)を飲み、日常の些事はボイ(ボーイのこと)に頼んで旅を楽しむ光景は、どう考えても借金に苦しむ貧しい生活とは見えないのだが。

                 
 点描
            〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

借金と錬金術
旧制岡山県立中学校在学当時から父の死により実家の造り酒屋が倒産し、以後金銭面での苦労が多かった。著作には借金や高利貸しとのやりとりを主題としたものも多く、後年は借金手段を「錬金術」と称し、長年の借金で培われた独自の流儀と哲学をもって借金することを常としていた。「錬金帖」という借金ノートも現存している。

宮城道雄との縁
今回の『蓬莱島余談』にも、頻繁に登場してくるが、百間は岡山時代から箏曲の名手宮城道雄と親しく交流していた。逆に宮城道雄の著作については百閒が文章指南をしていた。百閒と宮城は、ロシア文学者の米川正夫や童謡作詞家の 葛原しげる らともに「桑原会」(そうげんかい)という文学者による琴の演奏会を催していたこともある。

1956年(昭和31年)6月25日未明、宮城が大阪行夜行急行「銀河」から転落死した後、百閒は追悼の意を込めて遭難現場となった東海道本線刈谷駅を訪問し、随筆「東海道刈谷驛」を記している。

円本
1926(大正15)年末から、改造社が刊行し始めた『現代日本文学全集』を皮切りに、出版各社が次々に刊行し始めた、一冊一円の全集類のことだが、これによって出版業界に製本から販売までのマスプロ体制が確立されたといわれる。印税で円本成金になった文士たちが相次いで海外旅行などに出かけたようで、百間もその例に漏れなかった。

林芙美子さんとの出会いもあったようだ。新造船八幡丸に神戸から林さんが乗船されるとのことで、高名な巾幗(キンカク:女性の意)作家をご招待し、歓待しようとしたが、そっけない対面だった。どうも波長が合わなかったようだ。このくだりも百間は記しており、読んでみて面白い。林芙美子の側にはこの時については何も記述も残っていないようである。スポンサーに恵まれ、苦労もない贅沢文士にしか見えなかったのだろうか。

1971年(昭和46年)4月20日、東京の自宅で老衰により死去、享年81歳
老衰で原稿が書けなくなっていたと伝えられる。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

​しばしのお休み:北方への旅

2022年10月09日 | 午後のティールーム


爽秋の1日、思い立って北に向かって旅をする。素晴らしい快晴に恵まれ、残り少なくなった人生の旅を楽しんだ。

旅のスナップショットから、いくつかお見せしよう。直ちにどこであるか分かった方は、特別かもしれない。この施設の開設は2020年7月12日であったが、コロナ禍で大きな影響を受けたようだ。筆者は以前にも2度ほど訪れたことがある地だが、あたりの光景は一変していた。







場所は北海道白老郡白老町。ウポポイと呼ばれる場所である。
この新しい施設が生まれる以前の白老を訪れた時の印象は、寂寞とした雰囲気が漂っていたが、明るい観光拠点になっていた。アイヌの貴重な文化遺産の継承という意味では、今後の拠点となりうるだろう。しかし、何か大切なものが失われたという思いが残った。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ウポポイは、北海道白老郡白老町にある「民族共生象徴空間」の愛称とされる。主要施設として「国立アイヌ民族博物館」、「国立民族共生公園」、「慰霊施設」を整備しており、アイヌ文化の復興・創造・発展のための拠点となるナショナルセンターとして開設された。「ウポポイ」とはアイヌ語で「(おおぜいで)歌うこと」を意味している。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



館内の展示から:織物の作例

アイヌ民族は、近世には北海道全域、東北北部、樺太、千島列島という広い地域に居住、暮らしてきた。交易民として本州や北東アジアと関わり、独自の言語や文化をもった海洋民であり、日本の先住民族でもあった。しかし、世界の多くの地域で先住民が移住者などにより抑圧され、迫害を受けたり、衰退した事実はアイヌの場合も例外ではなかった。

「アイヌ」という言葉は、アイヌ語で「人間」を意味する。この言葉は民族間の接触が増えてから広く使われるようになったといわれる。


その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました。

〜知里幸恵〜

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
知里 幸恵(ちり ゆきえ、 [1903年~ 1922]は、 北海道 登別市出身のアイヌ女性)。19年という短い生涯ではあったが、その著書『 アイヌ神謡集』の出版が、絶滅の危機に追い込まれていたアイヌ伝統文化の復権復活へ重大な転機をもたらしたことで知られる。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

北海道の名付け親として知られる松浦武四郎の記念碑


トウレッポン:ウポポイのPRキャラクター
トウレプ(オオバコユリ)の年頃の女の子

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森鴎外と西周:両雄並び立たず?

2022年08月12日 | 午後のティールーム



2022年は森鴎外(1862〜1922年)の生誕160年、没後100年を記念する年となり、多くの行事、出版、報道などが行われている。

ブログ筆者は森鴎外の著作には、戦後の文字に飢えていた頃に惹きつけられ、当時人気だった大部な文学全集などを通して、主要な作品に親しむと共に、鴎外生誕の地、津和野や文京区の記念館などを訪れたりしてきた。

他方、コロナ禍が始まるかなり前から、重く扱い難い文学全集などを整理する傍ら、いつのまにか近年刊行された未読の短編や周辺の資料などを手にとっていた。断捨離どころか、軽くて読みやすい新訳の文庫版などが増え始め、何をしているのか分からなくなってきた。

西周邸に寄寓した林太郎
ここにいたるには、いくつかの動機があった。そのひとつに森鴎外と同じ津和野の出身であり、先輩でもあった西周(1829〜97年、森家の親戚で、藩の典医の家系、血縁はない)の存在があった。西周は鴎外より33歳ほど年上であり、西・森の両家は極めて近い関係にあった。西周は明治日本の啓蒙思想家の一人であり、西洋哲学者でもあった。しかし、(最近の状況はよく分からないが)同じ津和野の出身でありながら、西周の旧居(生家)跡を訪ねる人は少ないようだ。

森林太郎(森鴎外の本名)が上京し、修業時代の一時期、家族から離れ、ひとり西周邸に住み込んでいた時期があったことは知っていた。公務から解放された後、西周と森林太郎の人的関係は実際にはどんなだったのか、知りたくなった。

偶々、筆者は西周が初代校長を務めた獨逸学協会学校の流れを汲む学園で教育・運営の任を負ったことがあった。その折、公務の傍ら、周囲にあった公刊されていた文献のかなりのものは目を通した。しかし、多忙であったため、いくつかあった疑問を探索し、整理・解明する時間はなかった。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
西周は文久2(1862)年、津田真道、榎本武揚らと共にオランダに留学し、法学、哲学、経済学、国際法などを学び、慶応元年(1865)年に帰国し、徳川慶喜の側近となり、明治になってからは明治政府に出仕し、兵部省、文部省、宮内省などの官僚を歴任した。東京学士会院第2代及び第4代会長、獨逸学協会学校の初代校長を務めた。啓蒙思想家、西洋哲学者。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

1872(明治5)年6月、森林太郎は父に伴われ津和野を離れ、東京へ向かった。そして、森家は故郷津和野の家を引き払い、林太郎の母、祖母、次弟と妹共々、上京し、林太郎だけは父が探してくれた獨逸語を学べる「進文学社」(私塾、本郷壱岐坂)に通うに便利な西周宅(神田西小川町)に寄寓することになった。1872年(明治5年)、西周は43歳、林太郎は10歳であった。西邸にいたのはいつまでか正確には分からないが、たまたま同居していた相沢英次郎*1の記憶では、林太郎は明治6年に西家を去ったとあるので、主人の西周との交流は1年程度であったようだ。

林太郎が西邸に住んだ当時、西周は、すでに留学先のオランダから帰国し、兵部大丞として、宮内省に関連し、官僚として多忙な日々を過ごしていたと思われる。その傍ら、家の造作から食生活までヨーロッパでの体験をさまざまに導入していたようだ。西と夫人升子の日常から林太郎を始めとする西邸に寄寓していた住人は、有形無形に多くを学んだことと思われる。西周が『明六雑誌』(1874年3月創刊)で活躍する直前のことである。働き盛りの西周から見れば、10歳そこそこの若者は、対等の話し相手とはならなかったろう。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
*1
ここで大きな情報源となったのが、近刊の宗像和重編に所収の相沢英次郎「西周男と鷗外博士」と題した1章である。西周男とは、西が1897(明治30)年に男爵に任じられていることによる。相沢英次郎(1862~1948年、敬称略)は、宗像編によると、教育者、歌人であり、少年時代に叔母升子が嫁した西周邸に預けられ、森林太郎と起臥を共にした。後に三重県師範学校長などを歴任した人物であった。

相沢英次郎「西周男と鷗外博士」(原典『心の花』1926年6月)宗像和重編『鷗外追想』岩波文庫(2022年)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

林太郎が同郷の親戚としての西周に頼り、東京の西邸に寄寓したのは、西周が43歳頃のことであった。同郷の親戚、年長者などを頼って、書生、家事見習いなどの名目で、住み込んだのは、戦前までは一般に珍しいことではなかった。西周は帰国後、先進国西欧を知る数少ないエリートとして、文字通り働き盛りであった。神田小川町にあった広大な屋敷は、内部は西欧風に設えられていて、生活、とりわけ食生活なども西欧風に変えられていたようだ。相沢がコンデンスミルクやビスケットを味わったのも、西邸であったと記されている。さらに、西は津田真道、加藤弘之、福沢諭吉、神田考平、箕作秋坪などの学者を自邸に招き、料理人を呼んで会食などもしていたようだ(相沢、50〜51ページ)。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
相沢によると、林さん(鷗外博士の当時の呼称)は明治5年に西邸に寄寓し、1歳年下の相沢と同じ室に寝起きしていたようだ。さらに同居していた西の養子の紳六郎(後の西紳六郎男爵、海軍中将)は、林さんの1歳年上という間柄でもあった。相沢は西邸に足掛け5年ほど寄寓していたようだ(宗像、50ページ)。三人ともほぼ10歳近辺の少年であったが、現代の同年代と比較すると、やや長じていたようだ。時には悪戯をして、西男爵に叱られたことも記されている。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

鴎外と西周の関係に大きな影響を与えたのは、よく知られた林太郎がドイツから帰国した後に起きたドイツ人女性との問題だった。エリーゼ・ヴィーゲルトは、1888(明治21)年、林太郎(26歳の時)の帰国と相前後して来日するが、間もなく帰国している。この出来事が一段落した後に林太郎の結婚を急いだ両親に周旋を頼まれた西は、赤松登志子との関係を取り持った*2

その後間もなく1890年に、林太郎は登志子と離婚、それが原因で西の不興を買い、絶縁状態になってしまったと推定されている(中島、18ページ)。離婚の原因、経緯は不明だが、いわば仲人役をした西周の心情はほぼ推測できるような気がする。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
*2 
1889年、林太郎と登志子は結婚、二人は上野花園町(現在の上野池之端)に住んだ。1900年、離婚した登志子が死去。鷗外は翌年40歳で荒木志げと再婚している。
余談だが、ブログ筆者は子供の頃、不忍池周辺に住んだいとこたちとボート遊びなどをした思い出があり、横山大観邸などの記憶を含め、さまざまなことが思い浮かぶ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

森鴎外が評した西周
西周が亡くなったのは、1897(明治30)年、鷗外35歳頃であったと推定される。状況からして、西周と鴎外の関係が冷却していたことは分かるが、当時二人は日本を代表する知識人でもあり、実際にいかなる公私の関係にあったのかは必ずしもはっきりしなかった。しかし、幸い最近刊行された上掲の宗像編著所収の相沢の追憶が、この疑問にかなりの示唆を与えることが分かった。

さらに、新刊の中島國彦『鷗外〜学芸の散歩者』(岩波新書、2022年)に下記の興味深い記述があることを発見した。

西の没後の1909(明治42)年、鷗外47歳の時、在東京津和野小学校同窓会での講演の際、郷土の先人西周の名を挙げて、鴎外は「あの先生は気の利いた人ではない。頗るぼんやりした人でありました。そのぼんやりした椋鳥のやうな所にあの人の偉大な所があった」と述べている(中島、19-20ページ)。

この時点で、西周は没しており、鴎外も同郷の先人に対しては冷静に畏敬の念を表するまでになっていたのだろう。ここで興味深いのは西周を「ぼんやりした椋鳥のやうなところにあの人の偉大な所があった」と評していることにある。

実は、鷗外が西周を評した「椋鳥のやうな」*3という言葉の意味するものがすぐには浮かんでこなかった。椋鳥と「ぼんやりした」という表現がうまくイメージとして取り結ばなかった。

池内紀*3によれば「椋鳥」は江戸時代によく使われた表現で、「田舎者」を意味しているとされる。鴎外は西周をその言葉通りの意味で評したのだろうか。鴎外ほど多彩な公私に渡る広範な活動ではなかったとはいえ、西周が残したさまざまな社会的活動、論説などから推測すると、やや複雑な思いがする。西周もオランダに学び、当時としては日本屈指の西欧通であり、『百学連環』などに展開されているように広い視野の持ち主であったからだ。

ちなみに、鷗外が西周の死去とほぼ同時に執筆を開始した海外雑録のような膨大な記述には『椋鳥通信』の標題が付けられている。現代に引き戻すと、その内容はあたかも海外情報ブログのような印象でもある。この時期、「椋鳥」の語に、鴎外はいかなる思いを込めたのだろうか。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
鴎外は1909年『椋鳥通信』と題した膨大な海外通信を始めた。公務で多忙であった鴎外が、こうした海外雑録通信のようなものを書き出した背景は、同書上巻巻末の池内紀氏の大変興味深い解説に詳しい。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


参考文献
森鴎外『椋鳥通信 上・中・下』(岩波文庫)、2014〜15年
ハンディな文庫版とはいえ、3冊の文庫に凝縮された内容は驚くばかりである。編纂、注釈の任に当たられた池内紀氏の適切な解説なしには、とても読みこなせないが、鷗外が楽しみながら書いたと思われる本書は、歴史年表を傍らに時間をかけて読むと実に興味深い。


宗像和重編『鷗外追想』岩波文庫(2022年)
本書だけでも十分に興味深いが、最近、森鴎外に宛てた書簡が、新たにおよそ400通発見されたと報じられており、いずれ公開されると本書と併せ、鴎外の個人的生活の側面に一段と光が当たるだろう。

中島國彦『鴎外〜学芸の散歩者』(岩波新書、2022年)
森鷗外に関する出版物は汗牛充棟ただならぬものがあるが、本書は今日、森鷗外に関心を抱く人々にとって、ぜひ一読をお勧めしたい新たな評伝である。多くの貴重な情報が凝縮されており、日常、手元におきたい一冊である。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする