時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ラ・トゥールはカメラ・オブスクラを使ったか

2006年10月30日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
  ラ・トゥールとほぼ同時代の画家フェルメールが、カメラ・オブスクラ*を使って作品制作をしていたということは確証はないのだが、かなり流布している。フェルメールの作品には、投影されたイメージをキャンバスに留めるためのピンの跡?(点描?)が多数残っているともいわれている(しかし、美術史家の間でも意見は別れているようだ)。  

    ほぼ同時代の画家であったラ・トゥールは、カメラ・オブスクラを知っていただろうか、あるいはこの装置を使ったことがあるだろうか。これは一寸興味をそそる問いとなる。17世紀初めのヨーロッパ美術界では、かなりの情報が行き交っており、当時の先進地域であったローマやアムステルダムなどの工房についての情報が、ロレーヌのラ・トゥールの工房にも届いていた可能性はかなり高い。   

  ラ・トゥールの優れた研究者の一人 Paulette Choné は、このブログでも記したポンタ・ムッソン Pont-à-Mousson で1626年に出版された書籍**にカメラ・オブスクラの図が掲載されていることを例示している。ラ・トゥールがこの新装置を使用した証拠はないが、少なくともラ・トゥールはそうした装置があることは知っていたのではないかと思われる。   

  しかし、すでに多くの研究者が明らかにしているように、ラ・トゥールの作品、とりわけ夜の世界を描いた作品を見ると、その光源の在処という点で、自然の世界の光源、日光や月光、あるいは外部の松明などとは決定的に異なるものが感じられる。作品に描きこまれた蝋燭や油燭、あるいは画面のどこからか発している神秘的な光が闇の中に人物を映しだし、作品を構成している。フェルメールの作品のように、室外の自然光などが画面の色彩、陰翳を作り出してしているのではない。   

  しかし、この点は必ずしも科学的に解明されたわけではなく、今日ではまったく不明なラ・トゥールの工房の様子などともに、この画家がいかなる制作環境で作品を描いていたかについて、ひとつの謎を提示してきた。   

  ところが、ラ・トゥールの作品の中でもよく知られている「大工聖ヨセフとキリスト」1645年頃)を対象にして、カメラ・オブスクラのような光学的装置が制作に使われたか否かを探索する試みが行われていた。***  

  それによると、光源は作品に描かれた幼いキリストが手にする蝋燭であり、月光といった外部の光源ではないことが明らかにされている。ラ・トゥールのその他の作品についても実験が行われたようで、その結果、いずれも光源は作品中に描かれた蝋燭のような小さな光源で外部の自然光ではないと推定されている。(カメラ・オブスクラのような光学的装置が使われたか否かを超える)フェルメールとラ・トゥールの作品制作の背後にある思想を分ける決定的な違いのひとつでもある。  

  ラ・トゥールの作品をよく知る者にとっては、いまさらなにをと思う試みではあるが、こうした小さなことでも蓄積してゆくことは、この神秘的で、謎の部分がきわめて多い画家の世界に踏み込んで行くには必要なことだろう。伝統的な美術史の視角だけでは、到底解明できない部分である。そこに新しい美術史の可能性も開けているような気がする。

Notes
* 「カメラ・オブスクラ」(あるいは「カメラ・オブスキュラ」)という言葉は、17世紀初め、ドイツの天文学者ヨハンネス・ケプラーが天文学的な観測装置として最初に使ったといわれている。Cameraはラテン語の「部屋」、Obscura は「暗い」を意味するから、いわゆる「暗室」である。真っ暗な部屋を作り、一方の壁に小さな穴を開けると光が反対側の壁に外の光景を逆さまに投影する。光の直進性が生み出す物理的な現象である。この現象とそれを活用した装置はかなり昔から知られており、アリストテレスもカメラ・オブスクラを知っていて日食を見ていたらしい。  
  1490年にはかのレオナルド・ダ・ヴィンチもカメラ・オブスクラについてノートを残している。初期のカメラ・オブスクラの多くは月食を観測するための大きな暗室のようなものであったようだ。16世紀になって凸面レンズ、そして鏡が使用されるようになって、装置を通して外部の像を見ることができるようになった。小学生の工作の時間に作った「針穴写真機」を思い出させるが、今日の光学カメラの原型である。  
  カメラ・オブスクラは絵画作成の補助手段としても使われたようだ。17-18世紀には、フェルメール(1632-1675)、カナレット(1697-1768)、グアルディ(1699-1761)などの画家たちが使ったといわれている。しかし、確証があるわけではなく、多くの場合は状況からの類推によるものらしい(ジョン・H.ハモンド著 川島昭夫訳『カメラ・オブスクラ年代記』
(朝日新聞社、2000年)。

**
Quoted in Choné :Le P. Levrechon. La camera obscula (Recreations mathematicques, Pont-à-Mousson , 1626).

*** David G. Stork "Did Georges de La Tour use optical projections while painting Christ in the carpente's studio?' ca 2005. available on the internet.
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あなたは最低賃金額を知っていますか

2006年10月28日 | 労働の新次元

  混迷して結論のでない格差論争の中で、セフティ・ネットの充実がさまざまに議論されている。ぼろぼろになってしまったセフティ・ネットをどう張り替えるのか。その中で、検討が不足していることのひとつは、最低賃金制度の抜本的改革である。

  このブログ記事でも取り上げたことがあるが、日本では制度の形骸化がはなはだしい。1970年代くらいまでは、最低賃金制度は労使の大きな関心事であった。しかし、今では自分の地域の最低賃金額 (ところで、皆さんはご存じですか)を正確に答えられる経営者も少なくなっている。フィールド調査をしてみると、その存在感の無さに愕然とすることもある。

  最低賃金制度に関する国際比較研究の示すことによれば、「妥当な水準に設定されれば、最低賃金は雇用に顕著なマイナスの影響を与えない」。ただし、若年者を例外的として低い賃率設定をすることは、かなりの国で行われている。彼らの熟練度、労働市場での経験などを考慮すると、その方が望ましいかもしれないという考えである。最近、注目を集めているイギリスでの実態について、これまで見聞したことを記してみよう。

イギリスでは存在感大きい
 形骸化が進んだ日本と比較すると、イギリスやアメリカでは最低賃金の存在感はかなりある。昨年、今年の短いイギリス滞在中に行きつけの書店やスーパーマーケットの店員などに聞いてみると、低水準なことに文句を言う人は多かったが、ほとんど皆知っていた。最低賃金の存在感はかなりある。イギリスでは2006年10月1日から時間当たり5.35ポンド(10.08ドル)へ引き上げられた。

  思い起こすと、ブレア労働党首がデビューした1997年頃は颯爽としていた。それまでは筋骨たくましく、いかにも労働者の代表といった感じの党首や議員が多かったからである。若さにあふれた
オックスフォード出の弁護士という経歴は注目を集めた。そして労働党の変容には驚かされた。それにしても、今のブレア首相はかなり疲れた感じである。

  それはともかく、ブレア労働党政権成立前から、政策の中で大きな柱として打ち出されていたのが全国一律最低賃金制度の導入であった。

全国一律最低賃金制度
  そして、1999年の政権成立とともに、全国一律の最低賃金が導入された。その後ほぼ7年が経過したが、最低賃金が原因で仕事の機会が失われたとは考えられない。イギリスの失業率はEUの中では低位である。

  その背景には、最低賃金委員会 Low Pay Commission の見識とその意向を十分斟酌した政府の賢明な選択があった*。経緯をみると、1999年4月の最初の導入時、22歳以上の労働者について最低賃金は時間あたり3.60ポンドというかなり低い水準に設定された。そして8ヶ月後に3.70ポンドへ少し引き上げられた。この水準は全労働者の平均時間給の36%にすぎなかった。さらに、18-21歳までの労働者については、1999年で3ポンド、2000年10月の時点でも3.20ポンドという低い水準であった。   

  当然、最初はかなり少ない数の労働者しかカバーされなかった。委員会は200万人くらいの労働者の賃金を引き上げると考えたようだが、実際には100万人くらいに影響しただけだった。当然、最低賃金が高すぎて、雇用が減少することもなかった。

    しかし、労働党政府はその後はかなり冒険的になった。今回の最低賃率引き上げは、昨年比で労働者平均賃金の4.4%を上回る6%であった。1999年以来7年間に、最低賃金は49%上昇した。他方平均賃金は32%の上昇だった。当然、平均時間給でみて41%に当たる労働者に影響を及ぼしている。

そろそろ転換期か
    この段階までくると、委員会も最低賃金が全国平均賃金を上回る時期は終わったとしている。そして、雇用に影響を与えるほどの水準に近づいた考えているようだ。経営者側団体は今回の引き上げで対応が厳しくなったと不満を表明した。

    OECDの研究は「ほとんどすべての国において、最低賃金は賃金格差の圧縮をもたらした」と見ている。妥当に設定された最低賃金は雇用にマイナスの影響をもたらすことなく社会政策として寄与したと評価している。

    日本の制度が形骸化している理由はいくつかあるが、最大の原因は政労使などの関係者が大局観を失い、制度を複雑化させてしまったことにある。戦後しばらくはともかく、経営者が日本と中国の人件費を比較して立地を選択する時代に、カリフォルニア州に収まってしまう日本を都道府県別に区分して最低賃金率を決める意味はほとんどない。そこに費やされる行政コスト、結果として効果の正確な判定がしがたい、実態と遊離した統計など、マイナス面はきわめて大きい。

  最低賃金の水準、影響率の議論以前に、制度の抜本的改革、簡素化を図り、国民にとって分かりやすい制度とすることが急務である。その点、イギリスの最低賃金制度導入のプロセスは、学ぶべき点が多かった。
  



*イギリスでは1997年7月最低賃金委員会 Low Pay Commissionが設置された。委員会は1998年5月に報告書提出し、1999年4月から時間賃率3.60ポンドを推薦した。そして、18-20歳については、3.20ポンドの初期段階賃率を設定した。新しい使用者の下で新たな仕事に就き、必要な訓練を受けている21歳以上の労働者は、最大限6ヶ月を限り、この初期賃率が適用されることを推薦した。ブレア政権は原則としてすべての勧告を受け入れた。


Reference
”Danger zone." The Economist 7th-13th 2006.

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イギリスもついに労働者受け入れ制限へ

2006年10月27日 | 移民政策を追って

  EU主要国の中でほとんど唯一、中東欧諸国からの出稼ぎ労働者を受け入れていたイギリスもついに制限措置へ後退を余儀なくされるようだ。

  リード内相は10月24日、来年1月からEUに加盟するルーマニアとブルガリアの出稼ぎ労働者に対し、受け入れ制限を設ける方針を明らかにした。これまで2004年にEU入りしたポーランドなど東欧8カ国からの労働者については原則無制限で受け入れてきた。しかし、政府の予想を大きく上回る流入があったため、この政策転換を迫られた。

  このブログで再三指摘してきたように、グローバル化が進み、情報も瞬時に伝達される世界では、一カ国だけが他と異なった開放政策をとると、たちまちその国に移民労働者が集中する現象が生まれる。しかし、いまや移民に頼らずに経済運営をしていける先進国はまずない。「ある日移民がいなくなったら」、日本の自動車産業はストップしてしまうだろう。移民(受け入れ)政策は、それだけの重みを持つようになっている。

  イギリス内務省によると、制限が設けられるのは技能の低い労働者であり、原則として労働力が不足している食品加工と農業の2分野に限って受け入れ、年間2万人の上限枠も設ける。一方、IT技師など高度な技術力を持つ労働者や学生らは優先的に受け入れる。

  内務省は今回の制限措置は1年後に見直すとしているが、制限対象と成った両国は、他のEU加盟国も受け入れ制限に傾くことを懸念している。アイルランドは24日、イギリスと同じく職業別に就労許可を与える制限を導入する方針を発表した。

   10月に開催された保守党大会で、影の内相デイヴィッド・デイヴィスも述べているように、仮に政権が労働党から保守党へ変わっても、移民受け入れについては管理が強まる方向となり、大きな変化は予想できない。

    イギリスが受け入れ制限へ後退することで、EUの移民受け入れ政策は再び混迷の霧の中へ入り込んだようだ。

Reference
http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk_politics/5398702.stm

「英、労働者受け入れ制限」『朝日新聞』夕刊、2006年10月25日

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いぶり出される煙突掃除人

2006年10月25日 | グローバル化の断面


  雑誌を拾い読みしていて見つけた面白い?記事*をひとつ。

  「煙突掃除人」 chimney sweeps という職業については、イギリスの労働史、そしてなによりもディケンズの小説『オリヴァー・ツイスト』で知って以来、かなり関心を持ってきた。『オリヴァー・ツイスト』には、19世紀ロンドンでの悪党の煙突掃除人ガムフィールドによって酷使されていた子供たちの状況が克明に描写されている。

    暖炉のある古い家で煙突があると、煤がたまるので時々掃除をしなければならない。そこで煙突掃除人という仕事が生まれたのだが、煤が詰まり、狭く危険な煙突内の仕事には、身体の小さな子供たちが使われた。最も過酷な仕事をさせられる児童労働者の象徴であった。当然、死亡率も高かった。

  ところが、ドイツでは黒い帽子をかぶり、ぐるぐると巻いたワイヤーブラッシを肩にかけた煙突掃除人 Schornsteinfeger は幸運を持ってくる人として美化されている。これに対して、域内市場に関するヨーロッパ委員会の指令が、競争から煙突掃除人を保護する古めかしいドイツの法律を問題にしている。

  ドイツのおよそ8000近い地域では、二人以上の掃除人を抱える親方掃除人たちが、ほとんど完全な地域独占をしているとの指摘である。煙突掃除は民間の仕事ではあるが、メンテナンスと検査は強制的であり、価格は地域自治体が定めている。

  そして、掃除人は該当地域外では仕事はできず、家庭側も掃除人が嫌いでも変えることができない仕組みである。仕事をしたくない顧客もいると掃除人の側にも不満がある。

  こういう関係が生まれたのは、ドイツでは煙突掃除および関連するガス・暖房メンテナンスは公共安全の問題とされてきたからである。1年あるいは半年に1回の巡回が義務付けられていて、掃除人は一年中忙しい。

  ヨーロッパでは煙突掃除は遍歴職人の仕事とされてきたが、ドイツでは1937年に当時の内務大臣ハインリッヒ・ヒムラーによって煙突掃除法が改正され、当時は掃除人を地域に束縛し、地域のスパイとして利用するために彼らはドイツ人であることが布告された。

  法律は1969年に改正され、地域的独占はそのままに、職業機会は開放され、理屈の上ではドイツ人でなくとも就業できることになった。しかし、実際には外国人が就くことはほとんどない。4年前にカイザースラウテルンで1人の勇敢なポーランド人がマイスターとしての資格を取得し、今年はイタリア人がラインランドのパラティネートで掃除人となった。しかし、他のドイツ人のマイスターと同様に、自分の地域を割り当てられて仕事をするまでには、空き待ちリスト上で何年か待たねばならないという。

  ヨーロッパ委員会は、工務店や鉛管工のように、ユーザーが自由に掃除人を選べるような競争的市場を要請している。委員会は2003年に従来の仕組みを改めるよう求め、ドイツ政府も法律改正を約したがうまく行かなかった。

  その後も、ブラッセルとの間でやり取りがあったが、ドイツ政府は安全上の理由でこの時代がかったシステムを廃止することを渋っている。フランクフルトの掃除人は炭素化合物による中毒死もフランスやベルギーの十分の一くらいだと主張している。結果はどういうことに落ち着くのだろうか。グローバル化に抗するローカリズムのひとつの表れとしても興味深く、行方を見守りたい。



Reference
‘Chimney sweeps under fire.’ The Economist October 21st 2006.

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完璧な赤:コチニールの秘密

2006年10月24日 | 書棚の片隅から
  日本は翻訳文化が栄えていて、文学などもかなりの数の作品を外国で原著が出版されてから比較的早く、日本語版で読むことができる。これは、読者にとってはきわめて有難い。もちろん、翻訳される作品には偏りもあるし、翻訳書に頼る功罪があることはいうまでもないが、自分の知らない外国語の場合は大歓迎である。

  ふと立ち寄った書店で『完璧な赤』*というタイトルの書籍が棚にあるのに気づいた。半年ほど前に同じようなタイトルの赤色染料の歴史についての英語版を読み終えたばかりだったので、一瞬目を疑った。手にとってみると、やはりその本の翻訳であった。いわゆるきわものの書籍ではなくどちらかというと読者は限られている分野なのだが、どうしてこんなに早く翻訳が出てきたのだろうと思った。

  著者のエイミー・バトラー・グリーンフィールドは、オックスフォードでスペイン帝国史を講じたこともある。家業は代々、繊維の染料を作っており、現在もニューイングランドの紡糸・染物ギルドのメンバーでもある家系に生まれた。この書籍は2000年にPen/Albrand prize for First Non-Fiction を受賞している。

  
このブログでラ・トゥールの赤色の画材に関連して、コチニールの発見、探索のことを記したことがあるが、グリーンフィールドの本書は、まさにこのコチニールの発見とその貿易をめぐる当時のヨーロッパ諸国での争いにスポットライトに当てた著作である。ヘルナン・コルテスによるアズテック市場での発見以来、この完璧な赤を発色するコチニール染料は、スペイン王室、商人、繊維業者、薬種商、海賊などの争奪の対象となった。

  赤色は中世以来高貴な色としてヨーロッパなど各国の王室、繊維業者などの間で争って求められたが、とりわけコチニールは16世紀以来長い間、その原料や原産地が交易上の最大機密として秘匿されたこともあって、謎は謎を生んできた。実際、この美しい赤色顔料・染料の原料は思いもかけないものであり、当時の分析技術をもってしては分からなかったのも当然と思われる。ラピスラズリのように、古い歴史を持ち、顔料の組成が容易に分かるものではない。

  こうしたこともあって、コチニールについてはかなりの研究が生まれたが、グリーンフィールドはこの稀有な染料の発見、交易、争奪の過程に焦点をしぼって興味深いストーリーに仕立て上げている。ラ・トゥールが「赤の画家」であることも、すでにブログで記した。17世紀前半のラ・トゥールやフェルメールの時代には、コチニール赤は、ヨーロッパではかなり広範に浸透していたはずである。今後、作品に使われた画材の研究などが進むと、コチニールと画家の世界をめぐるさらに新たな発見も期待される。「青の世界」ばかりでなく、「赤の世界」もかなり面白くなってきた。



References
Amy Butler Greenfield. A Perfect Red: Empire Espionage and the Quest for the Colour of Desire. Black Swan ed. London:
Transworld, 2005
.

エイミー・B・グリーンフィールド(佐藤桂訳)『完璧な赤』早川書房、2006年
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足並みそろわぬヨーロッパ移民政策

2006年10月23日 | 移民政策を追って


  あの映画「13歳の夏に僕は生まれた」が描いたように、人口が増え続けるアフリカから豊かなヨーロッパを目指す人々の流れが再び増加している。なかでも、スペイン領カナリア諸島を経由して大陸へ入り込もうとする不法移民は依然としてヨーロッパ諸国にとっても大きな問題となっている。

  彼らの旅路はけわしい。大西洋の荒波に5人に1人は海上で死亡したと推定されている。今年に入ってからでも、すでに数千人に達したとみられる。モロッコなどからカナリア諸島へ向けて海上の旅だけでも4日近くを要する。彼らの多くは手こぎボートか船外機程度の小舟で目的地を目指す。航海の手段としても、コンパス程度で無線もない。貨物船の場合は、甲板に500-600人を載せる。食物や水もほどんど所持していない。

移民政策が描けないスペイン
  彼らが最初に目指すスペインでは、社会党の現政権は予想以上にうまくやっているが、移民受け入れ政策がアキレス腱である。毎日のように、カナリア諸島へたどり着くアフリカ系移民の映像がTVで放映されている。多くの対応しがたい問題が生まれる。過去3年間に50万人以上が入国、昨年はおよそ70万人がアムネスティの発動で合法滞在を認められた。移民はスペインではいまや見慣れた光景になっているが、問題は政策がないことだ。

  社会党政権は「労働市場が吸収できるかぎり受け入れる」という考えのようだが、将来についての見通しは不明なままである。昨年は約65万人が入国し、スペインの人口を440万人以上に押し上げた。移民は6年間でスペインの全人口の8.7%に達した。その多くは建設現場や家事労働者として働いている。

  さらに彼らはスペイン国境を越えて、フランス、ドイツ、イギリスなどを目指す。そのため、他のEU諸国とてもスペインの寛容な受け入れ政策を認めがたい。

移民受け入れで乗り切る?
  スペイン自体、移民で潤っている。社会保障費の収入で、年金危機が先延ばしになっている。移民は消費需要を押し上げ、GDPを増加させて昨年は前年比3.7%の伸びである。出生率が低いスペインでは、労働コストを引き下げる効果もある。ある予測は、スペインは2020年までにさらに4百万人の労働者を必要とするとみている。家族まで含めると1千万人近い数である。スペイン人の合計特殊出生率は1.35と低い。活力を維持するには移民に頼らざるを得ない。政府は移民を増やしたい。

移民に厳しくなったフランス
  他方、スペインと国境を接するフランスでは、あの「郊外暴動」以来、移民受け入れへの反対が強まっている。フランスにはアフリカ、マグレブなどから20-40万人の不法滞在者がいると推定されている。ニコラス・サルコジ内相は不法移民に対して強い姿勢をとってきた。彼は不法移民の大量合法化は実施しないと強調している。しかし、強行路線も難しい問題を含んでいる。

  今年夏、フランス政府は子供が在学中の家族については申請によって個別に審査の上、在留を認めるという方針を打ち出した。約3万人が申請し、7千人近くが認められた。今のところ強制送還されたものは少ないようだ。サルコジは移民に厳しい姿勢を打ち出さないと、極右政党の国民戦線のジャン・マリ・ルペンが有利になることを知っている。ルペン党首は2002年の大統領選挙で社会党候補に勝っている。それだけに、サルコジなど主流は2007年に向けて二の舞は繰り返したくない。

  EU拡大時に移民受け入れに開放的政策をとったイギリスも、予想外の大きな流入に腰が引けてきた。EUの統合移民政策はなかなか足並みがそろわない。

References
BBC April 5, 2006
’Spain: Huddled against the masses.’ The Economist. October 14th, 2006.
‘France: Sound and fury.’ The Economist. October 14th 2006.
’Belgium: Right on.’ The Economist. October 14th 2006.

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ベルリンの陰翳:イシャウッド再読(2)

2006年10月20日 | 書棚の片隅から
  クリストファー・イシャウッド(1904–1986) は、1929-33年の間、英語教師としてベルリンに住んだ。この滞在時代を背景に生まれたひとつの作品が『ノリス氏の最後』Mr. Norris changes trains* (1935)である。これも読み始めて、すぐに惹き込まれてしまった。以前に読んだはずなのに、まったく違う印象である。読み手である自分の側に大きな変化があったことを感じる。それがなにかは分からない。

  作品は淡々と1930年代初め、ベルリンに生きる登場人物の日常を描いている。ノリス氏とはイギリスの若い作家であるウイリアム・ブラッドショウがベルリンへ行く途上で出会ったやや滑稽な、それでいて神経質そうなイギリス人アーサー・ノリスのことである。彼はその後、ブラッドショウにそれぞれに奇妙な性癖を持った人物を紹介する。その後、ノリスも大きな一身上の変化でブラッドショウが住んでいる下宿屋に移り住んでくる。この下宿屋を営むのは50歳代のフロイライン・シュレーダー である。

  物語の背景では後から回顧すれば恐ろしい出来事が次々と起きているのだが、それらは所々に背景として顔を出すだけで前面には出てこない。しかし、結果としてノリス氏を初めとする人物の生活は日ごとに大きく変わってゆく。

  彼らが生きていたベルリンは、まばゆい光彩を放ちながらもきわめてグロテスクな都市であった。芸術分野では多くの先端的試みが展開しながらも、頽廃、悪徳も栄えていた。それらが作品の各所にうかがわれる。闇と光芒を併せ持ったワイマールの落日の時であった。

  以前読んだ時には、この小説とほぼ対になる『さらばベルリン』Goodbye to Berlin (1939)の関係も良く分からなかった。というのは、前者の主人公ウイリアム・ブラッドショウ William Bradshow と後者の主人公クリストファー・イシャウッド Christopher Isherwood は作者と同名だからである(Christopher William Bradshaw-Isherwood)。 しかし、作者イシャウッドは意図的にこうした名前を作中人物に付けたのだ。そのために、十分に注意して読まないと、作者イシャウッドと作中の人物を同一視してしまうことになる。だが、作中人物はあくまで仮想の世界の産物なのだ。このことは、作品を読み込んでやっと分かってくる。これまでの読みの浅かったことを痛感させられた。

  イシャウッドがアメリカへ移住した後に、上記二つの作品を『ベルリン物語』 The Berlin storiesという表題で、一冊に収めた著作が出版されるようになった。その新装版に、イシャウッドが短い解説を付していることで、これらの作品が生まれた背景がやっと分かってきた*。 

  1951年の夏、イシャウッドの作品から劇作家ドゥルーテンの力で ミュージカル『キャバレー』のいわば前身である『私はカメラ』 I Am a Camera が作られ、ブロードウエイで上演が始まった。それを契機に、イシャウッドは1952年2月、思い切ってベルリンを再訪することにし、あのテンペルホフ空港へ下り立った。

  ブランデンブルグ門にはソ連統治の赤い旗が掲げられていた時代である。そして、かつての下宿屋を訪ねる。建物は見る影もなく朽ち果てていたが、下宿屋は存在し、あのフロイライン・シュレーダーは70歳代になっていたが、矍鑠としていた。30年代と50年代のベルリンの間には、言葉には言い尽くせない多くのことがあった。しかし、「なにがあっても人生だけは進んでいるのだ」とイシャウッドは記している**

  

* イシャウッドはベルリンに滞在している時、いつの日かそれについて書こうと思って詳細な日記をつけていた。最初のアイディアはバルザック風のメロドラマ的小説で『失われた人たち』The Lostという表題にしようと思ったらしい。このタイトルは、ドイツ語のDie Verlorenen に相当するし、適当だと思っていた。ところがその間で、「ノリス氏」の構想が生まれ、1935年にイギリスで刊行された。その時はMr. Norris Changes Trainsであった。しかし、アメリカの版元William Morrow があいまいで分かりにくいと指摘したので、『ノリス氏の最後』The Last of Mr. Norrisと改題された。ちなみに、この作品は生涯の友人で、一緒に中国へも旅した詩人のオーデンに捧げられている。
  他方、サリー・バウエルズ、ノヴァック家、ベルリン日記など個別に書かれていた作品を、最終的にはすべてを含んだ Goodbye to Berlin(1939) として刊行されたということらしい。そして、1945年の大戦終結とともに、Mr. Norris and Goodbye Berlin を一緒にしたThe Berlin Storiesとして刊行されるようになった。

** Christopher Isherwood. The Berlin Stories. 1954.

http://en.wikipedia.org/wiki/Christopher_Isherwood
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ワイマールの顔:ベルリンの光芒

2006年10月19日 | 書棚の片隅から
    このところ一寸不思議に思うことが続いている。昨年以来、折に触れて感想を記してきたオルハン・パムクのノーベル文学賞受賞を喜んだことはすでに書いた通りだが、C.イシャウッドの『さらばベルリン』 Goodbye to Berlinを読んだ後、まったく偶然目にした雑誌に、イアン・ブルマ Ian Buruma が「ワイマールの顔」*と 題した一文を寄稿していた。

  今では数少なくなった第二次大戦前のベルリンを多少なりと知っている人が、ノスタルジックな思いをこめて回想する1930年頃の「古き良き」ベルリンである。二つの大戦で挟まれたいわゆる戦間期である。  

  イアン・ブルマが取り上げたのは、このブログで取り上げたばかりのイシャウッドに関連する人物、ジョエル・グレイ Joel Grey である。ミュージカル「キャバレー」で退廃的雰囲気の漂う、それでいて妖しい魅力を持つキャバレー Kit Kat ClubのMC役を見事につとめ、アカデミー助演男優賞を手にした。キャバレーといっても、日本でイメージされるものとはかなり異なっていたようだが。それはともかく、グレイは実に巧みに舞台回しの役を演じていた。グレイは1932年生まれであり、忍び寄る大戦前ベルリンのデカダンス、頽廃の空気を多少なりとも継承しているのだろう。  

  折しも、北朝鮮の核実験発表を契機として、にわかに高まった世界的な危機感と、同時に存在するアパシーのような無力感。ゲームのように戦争を考えている人々。幸いにも日本は平和な時を享受し、戦争未体験者が過半数を越えたこの時代、「先の大戦」という言葉が行き交っても、どれだけ実感があるのだろうか。今日のニュースは、北朝鮮金政権のチャウシェスク型の崩壊の可能性を伝えているが、このルーマニアの独裁者の最後を知る人も少ない。  

  あの2度にわたる世界大戦を経験しながらも、人間は本当になにかを学んだのだろうかという思いが強まるばかり。そうした中で、たまたま手にしたイシャウッドの描いたベルリンの生活は、80年近い時空を超えて目前に迫ってきた。

  イシャウッドのもうひとつのベルリン生活を描いた小説Mr Norris changes trains (1935) も惹きつけられるように読んでしまった。その感想は次回に。

*
Ian Buruma. "Weimar Faces". The New York Review of Books, November 2, 2006.
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医療不安はなぜ拡大しているのか

2006年10月17日 | グローバル化の断面

  日本では今は医師も看護師も人手不足だが、10数年すれば、需給が一致したり、余ってくるという厚生労働省関係の予測は、どの程度信頼しうるものだろうか*医師についての予測では供給側で、1)医師数を増加させるとともに、2)医師および医療システムの生産性を向上させるとしている。他方、需要側で1)予防の強化、2)外来需要の適正化、3)入院需要の削減を上げている。

  これらは、基本設定としては誤りではないが、具体的な次元に立ち入ると、数多くの問題がある。そのひとつの例は、このブログでも指摘したように、國際的視野がほとんど欠如している。

  医師や看護師の需給を規定している条件は、供給側が非弾力的で、簡単に増減は期待できない。なかでも医師については、不足地域の国公立大学医学部の定員を多少増やすことを認めたところで、その効果が見えてくるのは早くても10年くらい先のことになる。これが緊急の問題に対する実効ある政策とは、多くの医療関係者は考えていない。何もしないよりはまし程度の受け取り方が多い。医学部定員については最大限規制を緩める努力をすべきではないかと思う。もちろん、医師国家試験は厳正に維持、実行されるべきことはいうまでもない。

  他方、医療や看護への需要はきわめて強く、結果として下方硬直的である。短い期間に横ばいあるいは純減へと向かう可能性は少ない。かなり良く考えられた施策を強力に導入したとしても、やや伸びを抑えることができる程度だろう。高齢化の一層の進行などを前提とすれば、医療・看護・介護への需要はきわめて強いとみるべきだろう。

  今後の医療・看護の労働市場を判断するひとつの重要な材料として、近年のアメリカ経済における病院などのヘルスケア分野の雇用機会拡大がきわめて顕著なことに着目したい。2001年以降、170万人の新たな仕事がヘルスケア分野で創出されてきた。この中には製薬や医療保険の分野も含まれている。

  特に注目すべきは、5年前と比較してヘルスケア以外の民間部門の仕事の数は、ほとんど増えていないことである。例外は住宅関連(94万人)と(病院を除く)公務分野(90万人)だけである。しかし、住宅産業の雇用増加も民間分野の雇用減で相殺されてしまった。結果として、雇用の純増部分はヘルスケア分野が生み出していることになる。高齢化の進む日本では、アメリカ以上に、この分野の需要が拡大することはほぼ間違いない。アメリカの医療・看護分野の方向が良いとは思わないが、変化の基調として留意すべき点である。

  医療・看護サービスは、人間の健康、生命にかかわるだけに市場メカニズムに委ねて、報酬水準などの労働条件などに誘引されて、病院からクリニック開業などへ一方的に流出してしまうのも問題である。地域によっては、病院の医療水準の高さや地域貢献などを基準にして、拠点病院へ助成をすることなども考える必要があろう。病院と診療所の関係にみられるように、どちらかが減れば、他方が増えるという代替関係も発生する。中期的には診療所間での淘汰も進むだろう。
 
  医療・看護・介護の分野は、基本的に人間のサービス供与が欠かせない点で、製造現場のようにロボットで代替するというわけには行かない。人材養成には多くの時間と投資が必要である。起こるべき連鎖反応を十分考え、かなり弾力度を持った政策を準備していないと、変化に対応できない。医師ばかりでなく看護・介護分野などでの劣悪な労働条件改善のための措置も必要である。地域の拠点病院の労働条件の改善は、かなり切迫した課題である。

  現在の日本をみるかぎり、これから国民のヘルス・ニーズにいかなる体制をもって応えようとするのか、ヴィジョンが見えてこない。むしろ、ヴィジョン自体がほとんど描けていないというべきだろう。最近の医師不足をめぐる議論*をみても、しっかりとした構想が提示されていないことが、多くの不安を生んでいることが分かる。

  高齢化の一層の進展、より質の高い医療・看護・介護を求める日本の実態を見る限り、医療費負担の増加などが、早期に顕著な需要抑止効果をもたらすとは思えない。もちろん、医療費の無駄を抑止する政策は必要だが、質の高い医療需要への欲求というポジティブな面にも適切な配慮をすべきだろう。国民が求める医療・看護の質的改善への欲求はきわめて強い。この段階にいたって国民皆保険のPRを聞かされても、空虚な思いがするばかりである。

  市場機構に委ねるばかりでなく、十分検討されたルールに基づく誘導システムの導入が欠かせない分野である。政策間の整合性を高め、実効性ある政策を導入し、単なる需給の数合わせの次元を越えることが求められている。



Reference
"What's Really Propping Up the Economy." Business Week, September 25,2006.

* 10月13-14日にはNHKで「医師不足の実態」について特別番組が放映されたが、構想なき日本の縮図を見る思いがした。

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パムク氏のノーベル文学賞

2006年10月13日 | 書棚の片隅から

  今年のノーベル文学賞は現代トルコの作家オルハン・パムク氏に授与されることになった。この小さなブログでも再三とりあげていただけに、大変うれしい思いがする。パムク氏の作品は西欧世界では広く知られているが、邦訳としては『わたしの名は紅』、『雪』が刊行されている。日本の文学愛好者の間では必ずしも知名度が高くなかっただけに、この作家の紹介に小さな役割を果たしえたことを喜んでいる*

    パムク氏は、このブログでも記したが、昨年トルコ国内でタブー視されている第一次大戦直後のオスマン帝国崩壊時にアルメニア人大量殺害を認める発言などで、イスタンブール市検察から「国家侮辱罪」に問われた。しかし、裁判はトルコのEU加盟への影響を懸念したとみられる政治的判断で取り下げられた。

  トルコでイスラム系として初の単独政権を2002年に樹立したエルドアン首相が率いる公正発展党は、穏健な対外政策を掲げ、EU加盟を最優先課題としてきた。しかし、トルコの「負の歴史」の清算を求めるEU側の要求に刺激された民族主義の高まりなどもあり、トルコ国内でも加盟熱は急速に冷却している。

  キプロス問題も暗礁に乗り上げている課題である。最近トルコを訪れたドイツのメルケル首相はキプロス問題に関し、「加盟交渉を続けるためには解決すべきだ」と強調した。これに対しエルドアン首相は「要求は不公平なものだ」と反発した。メルケル首相は、トルコは全面加盟でなく「特権的パートナーシップ」がふさわしいとしている。

  パムク氏の作品には東西文化の出会いと葛藤、そしてその行方を暗示するものが多い。今回の受賞とあいまってトルコへの関心は、一段と高まるだろう。その行方を見守りたい。

  
  *このブログでは日本で未だ翻訳されていない同氏の作品『白い城』と『イスタンブール』を取り上げている。

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ツタンカーメン王のマスク

2006年10月12日 | 絵のある部屋

http://www.egyptianmuseum.gov.eg/home.html


 エジプト、カイロの国立考古学博物館に所蔵されている有名なツタンカーメン王のマスクに使われている青(ブルー)の顔料について興味ある記事*が掲載されていた。マスクにはかなり多くの着色がなされているが、とりわけ青の成分についての分析である。 いつか、ベルリンのごひいきのひとつ「ネフェルティティ」 Büste der Königin Nofreteteについて書きたいと思っていたこともあって、興味深く読んだ(ネフェルティティについては、後日としたい)。

 ミシェル・パストゥローの『青の歴史』にも、古代エジプト人は銅のケイ酸塩から素晴らしい色合いの青と青緑を作ったことが記されている。当時のエジプト人は、自然の青色顔料としては藍銅鉱、ラピスラズリ、トルコ石を知っていたが、ケイ酸銅からも人工青色顔料を製造する技術も持っていた。さらに磁器化の原理も知っていた(パストゥロー邦訳、20-22)。 

 記事で取り上げられているツタンカーメン王は紀元前14世紀のエジプト王である。父とされるアクエンアテン王は多神教から一神教へのアマルナ改革で知られる。アクエンアテンは新しい青を多用した。「アマルナ・ブルー」といわれ、組成と構造は2002年に宇田応之氏が決定した。

 総重量11キロのマスクを彩る 胸飾りの赤はカーネリアン、薄い青はアマゾナイトという天然鉱物であることが分かっていた。しかし、頭巾に使われていた濃い青とつげひげの灰色ぽい緑は、これまで報告例のない顔料であり、宇田応之氏はこの濃い青の成分解析を行った。

  古代エジプトでは金、銀に次ぐ大切な色だった青の原料のラピスラズリは主としてアフガニスタン産であった。しかし、原石を見ると分かるが、かなり硬い鉱石であり、採掘・輸送などコストがかかり、高価で入手が難しいこともあって、古代エジプト人は代用品として「エジプシャン・ブルー」を合成したらしい。

 アマルナ改革に失敗した父の後をうけたツタンカーメンは王位につくと、父の作った制度を元に戻した。この時、アマルナ・ブルーも廃止し、新しい青を作り出したのではないかと宇田氏は推定している。その理由として、頭巾の青には、エジプシャン・ブルーとアマルナ・ブルーの構成元素すべてが含まれている。そのうえエジプト特有の焼き物の組成も含まれている。宇田氏は「ツタンカーメン・ブルー」と命名したいと述べている。

 最近、相次いで「色」の歴史についての研究書が刊行されているが、こうした地道な研究から新たな発見が生まれることを知ることは楽しい。


References
*
宇田応之「ツタンカーメン合金で薄化粧:王のブルー新たに合成」『朝日新聞』夕刊、2006年10月10日

Michel Pastoureau. Bleu, Histoire d'une couleur. Paris: Le Seuil, 2000(邦訳 松村恵理・松村剛『青の歴史』筑摩書房、2005年)

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ベルリンに光は戻るか

2006年10月10日 | グローバル化の断面

  東京のような人口が多く、活気のある都市からベルリンへ行くと、フリードリッヒ・パッサーゲンのようなショッピング地域でも混雑しているという感じは受けない。未来の都市を思わせるようなポツダム広場のあたりも静かに落ち着いた感じである。博物館島も次第に新たな姿を見せており、完成が楽しみな段階に入っている。統合ドイツの首都としての新たな姿を整えつつある。少なくも行きずりの旅行者にはそう見える。

  しかし、この都市の実態はかなり憂慮すべきものであるらしい。最近のThe Economist *が伝えているところでは、失業率は17%以上、市の抱える負債は630億ユーロ(800億ドル)に達している。少し、立ち入ってみよう。クラウス・ヴォーヴェライト 市長は社会民主党だが、就任以来、公務員の報酬カットなどを実施し、財政建て直しに懸命である。他方、市民の政治への関心はあまり高くない。投票率も58%と低迷し、13.7%は少数党への投票者だった。 政治的にも難しい状況である。

  1990年の東西ベルリン統合後、ベルリンは各種産業のハブとなり、中欧への幹線路の中心となるはずだった。ところが実際にはベルリンは製造業の3分の2近くを失った。競争力がなく他の地域へ移転してしまった工業も多い。製造業に雇用されているのは、人口340万人のうち10万人以下にすぎない。

  統一後、市の資金は枯渇し、官庁街のブランデンブルグ門近辺やフリドッリヒ・シュトラッセなど一部を除くと、貧困の色が濃い。目抜き通りには世界のブランド・有名店が並び、一見繁栄しているかに見えるのだが、実態は裏付ける産業のないショッピングモールのような状態だといわれる。確かに冷戦時代はベルリンは、西側陣営の最先端ファッションを誇示するショッピング・ウインドウであった。

  しかし、統一後も実態はあまり変わりないらしい。競争力のない企業が多く、巨大な官僚機構、福祉依存風土などが支配的といわれる。早急に産業基盤の充実が必要とされており、実際にある程度進行はしている。ソフトウエア、メディア、広告分野などでは雇用は拡大している。しかし、雇用創出が追いつかず貧困は徐々に拡大・浸透している。夜は表通り以外は歩くなと友人から言われたが、危険な所も増えているらしい。

  戦前はベルリンは世界をリードした都市だった。なぜ首都の繁栄が取り戻せないのだろうか。これについては、活性化の源となる企業家精神が不足していて、ベルリン市民の半分近くに、福祉依存で生活するメンタリティが広がっているのが原因といわれる。

  新市長は政治的なプレゼンスの意味もあるが、こうした都市体質の改善にこれからの5年をかけると、意気軒昂らしい。今でも「貧しくとも魅力あるセクシーな」都市だという。

  ベルリンは高いスキルのある人材を引き寄せるのにうまくいっていない。熟練・専門スタッフについても、ドイツ人ど同等条件ではなかなか受け入れられない。語学学校でも2ヶ国語ができるスタッフを維持するのが難しい状況らしい。イギリス人だったイシャウッドが英語教師に出向いたあの1930年代を思い出してしまう。創造的な産業は生まれてはいるが、失業者を吸収するには程遠い。

  しかし、夜の繁華街は歓楽・飲食を中心にかなり賑わっているらしい。1930年代にイシャウッドが描いたように、これはどうもベルリンの特殊性のようだ。ベルリンの闇は今も深い。

References
* 'Berlin: Poor but sexy’ The Economist September 23rd 2006.

熊谷徹『ドイツ病に学べ』新潮社、2006年
本書は、短い旅路の途中で読んだドイツ在住のジャーナリストによるドイツ経済・社会の現状に関するかなり厳しい分析・論評である。

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ベルリンの陰翳:イシャウッド再読(1)

2006年10月08日 | 書棚の片隅から

  以前に見たり読んだりした作品(絵画、書籍、音楽など)が、このごろはかなり異なって見えることがある。この『さらばベルリン』Christopher Isherwood. Goodbye to Berlin (1939) *も、そのひとつである。衰亡の色が日々強まるワイマール共和国の黄昏とナチスの台頭する1930年代初期のベルリンを描いた作品である。イシャウッド (イギリス人だが1946年アメリカに帰化) が自ら過ごしたベルリンでの生活(1929-33)に基づいている。最近、ソフトカバー版が書棚に残っていることに気づき、なつかしくなり読み直してみた。

  実はこの作品を最初に読んだのは、ミュージカル『キャバレー』Cabaret(1972)を見た後だった。ニューヨークへ出張した折(74年か)、友人が連れて行ってくれた。イシャウッドの小説に基づいているということを知り、原作を読んでみようと思い立った。ミュージカルの印象が大変強かったことが残っている。順番は良く覚えていないが、『ウエストサイド・ストリー』、『マイフェア・レディ』、『キャッツ』、『チェス』、『グランド・ホテル』、『オペラ座の怪人』、『ミス・サイゴン』、『レ・ミゼラブル』など立て続けにミュージカルを見た時期があった。

  原作は、1930年代初めベルリンで英語の個人教師として暮らしているひとりのイギリス人の目を通して巧みに描いていた。急速に陰鬱さを増し、刹那的で退廃の色が濃くなってゆくベルリンの様子を生き生きと伝えていると思った。日常の光景を政治的事件を含みながら、淡々とした筆致で描いている。娼婦にとって金払いの良い顧客である日本人まで登場する。いつの間にか読み終わっているという感じである。しかし
、テンポの速いミュージカルの迫力におされていたのだろう。

  その後、このブログでも時々取り上げてきた画家エルンスト・キルヒナー(1880-1938)を含む表現主義の作品などと重ね合わせている間に、かなり焦点が合ってきたように思う。時代が果てしない奈落の底へと向かう中で、生きた人々の心象風景が見えるようになった。

  最初読むと、どこに結論が向かうのか、ほとんど分からない小説である。退廃、堕落し、享楽的で異常な日々を送る人々の群像。ユダヤ人迫害の浸透。ナチスを嫌いながらも、次第にその呪縛にかかってゆく人々。忍び寄る恐怖の影、強力なアジテーターが現れれば、誰にでもついていってしまうような政治的堕落、そして刻々と運命の日へと向かって行く・・・・・・。だが、深く心に残る作品である。一度読み出すと、自分も時の流れに取り込まれたようになる。日々起きる出来事をただ記したような展開だが、実は周到に構成されていることに気づく。

  あの有名な一節もそこにあった:
「私はカメラ。シャッターは開きっぱなし、ひたすら受身で、考えることなく記録する。反対側の家の窓辺でひげをそる男、きもの姿で髪を洗っている女。いつか、これらは現像され、注意深く印刷され、定着されねばならない。」
    I am a camera with its shuter open, quite passive, recording, not thinking. Recording the man shaving at the window opposite and the woman in the kimono washing her hair. Some day, all this will have to be developed, carefully printed, fixed.(Goodbye to Berlin, 1939)

  ミュージカルを見た後で、原作を読んだ当時は、すっかり作家の自伝的小説と思いこんでいた。しかし、それは誤りだった。作家は撮影者としてカメラの後ろにいたのだ。そのことにうかつにも気づかなかった。

  改めて読んでみると歴然とした政治小説であり、破滅へと急速に進んでいる20世紀の都市に生きる人々の姿を写していた。最後の残光のようなものを放ちながらもグロテスクで堕落した都市と人々、カフェ、キャバレー、夜の世界・・・・・。設定は異なるが、
なんとなく、あのオルハン・パムクの「イスタンブール」につながるものを感じさせた。

  今は輝いているベルリンだが、かつては一度破滅を経験した都市である。ヒトラーの時代と終末をリアルに描いた作品は数多いが、奈落の淵に向かうほんのわずかな残光ともいえる時間を描いた小説はそれほど多くないように思う。ベルリンは生をとりもどしたが、この都市の空はなんとなく陰翳を感じさせると書いたことがある。その一部分がかすかに見えた思いがした。

*
Christopher Isherwood. Goodbye to Berlin.London: Vintage Classics.Original 1939.(邦訳も出版されているようだが、未見。)
この小説はMr. Norris Changes Train (1935) という対になるような作品と一緒に、The Berlin Stories と題された緩やかに結ばれたような形で出版されている版が多いが、Mr.Norrisについては、また別の時に触れてみたい。

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現代の万里の長城?

2006年10月07日 | 移民政策を追って

  寄せては返す波のように、「豊かさ」を求めて押し寄せる移民労働者は絶えることがない。それに伴いさまざまな問題が生まれている。しかし、適切な対応策を講じないかぎり、事態は悪化するばかりである。ABCなどのメディアが伝えるところでは、昨年来、アメリカ議会で大きな議論の的であった移民法改正について10月4日、ブッシュ大統領はやっとひとつの具体策へと踏み切った(これまで再三、記事に取り上げたことで新味はまったくないが、ひとつの動きとして記しておこう)。

  メキシコ国境から流入する不法移民対策として、全長約700マイル(約1120キロ)の国境フェンスの建設などを含む国土安全保障関連予算案に署名した。フェンス増強案は下院を2週間ほど前に通過し、その後上院も通過したことを受けての署名である。

  ブッシュ大統領の(珍しくまともな方向と思われる)包括的アプローチは議会で受け入れられる見通しはなく、見切りをつけて部分的な対応に切り替えたとみられる。11月に迫った中間選挙を意識した対応でもある。[ちなみに、包括的アプローチの内容は国境警備の強化、不法移民や彼らに依存する雇用主の取り締まり強化、アメリカにいる不法滞在者に期限を区切って合法就労を認める一時的労働許可制度(ゲストワーカー・プログラム)の3本柱からなっている。]

  成立した関連予算総額は380億ドル、フェンス国境建設など国境警備のための12億ドルを含んでいる。これまでの法律では国境を入国に必要な書類を保持せずに越境する人々は違法だが、国境の下をトンネルで通過することは違法とされなかった。近年発見されただけでも、39本のトンネルを通して越境者や密輸品がアメリカへ送り込まれた。さすがに、この点については上下院ともに満場一致で違法との法案が通過した。

  大統領は不法移民が「公立の学校や病院を利用することで、地元自治体の予算に負担をかけ、一部で犯罪も増加している」と述べ、今回の施策の必要を強調した。さらに、国境の壁を増強するだけでは問題の改善には不十分であるとし、一定の条件を満たす不法移民にゲストワーカー(一時的出稼ぎ労働者)の道を準備する必要があると強調した。この点は、農業、建設など産業界が低賃金労働力を必要とするとの要請に応えるためである。

しかし、世論は不法移民への厳しさを再び強めてきた。新たな流入ばかりでなく、すでにアメリカ国内に居住している家族を含めると1100万人ともいわれる不法滞在者との間でも、さまざまな摩擦が見られるが、解消に向かっての議論は進展していない。政策対応がなされない間に不法滞在者が急増し、それ自体が巨大な政治勢力となってしまった。

  今回の国境の壁を増強する制限的対応は、相対的に自由な国と見られてきたアメリカのイメージに一段の閉鎖性を加えるものであり、EUなどの動きとも根底でつながるものがある。アナクロニズムの「万里の長城」との批判もある。グローバル化の世紀といわれながらも、世界にはさまざまな分断化の動きが目立つ。世界各地に拡大しはじめた民族主義の動きとともに、行方を見守りたい。

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EU砦の中のスイス; 強まる移民制限

2006年10月05日 | 移民政策を追って

  フランス、イギリスなどEUの中心国が移民制限を強めている中で、加盟国ではないスイスも移民・難民受け入れの制限を強化する方向を選択した。9月24日の国民投票の結果、およそ68%が制限を強化する移民法改正を支持した。

  EUはシェンゲン協定などで、協定に参加した諸国間の自由な労働力移動を認めている。しかし、EU諸国は他の非EU地域に対して移民労働者に対して制限的な壁を設定している。いわばEU砦という地域共同体の特徴が残っている。非EU地域に対して障壁を設定するばかりでなく、EU地域の内部でもこのブログでも観察しているように、移民労働者の受け入れには濃淡がある。

  スイスのようにEUに加盟していないで、独立した路線を歩む国もある。國際労働力移動の実態はきわめて複雑であり、変化も激しい。EUが他地域に障壁を築くばかりでなく、EU砦の内部にもしたたかな城主がいて、なかなか統一は難しい。EUとしての
統一された移民労働者政策も確立されていない。

  スイスでは申請から48時間以内に難民などの認定を受ける公式証明を提出できないと、国外退去を命じられる。しかし、難民・庇護申請者の4分の3は、身元を追及されることを回避しようと、過去を確認できる書類を一切保持していないという。最近は審査も厳しくなり庇護申請者も2002年の20,000人から昨年は10,000人に減少している。

  スイスでは、EU加盟国国民は労働市場で働くことができるが、その他の国の国民は、技術者など国内に代替できる労働者がいない場合を除いては受け入れられない。さらに、従来にまして国民としての統合への条件を厳しくしている。

  ブログでも紹介したように、スイスは國際競争力評価でも世界第一位を確保し、こうした外国人労働者受け入れ制限の強化も、成長の障害にならないと見ているようだ。スイスは小国である利点を生かして、これまでも国内における外国人労働者の管理を厳しく維持してきた。シンガポールと同様に外国人労働者のコントロールを巧みに行っている例として注目されてきた。

  スイスを支えてきた伝統の時計産業の激しい盛衰を、スウオッチ革命などで乗り越え、したたかに強靭さを維持してきた。知的所有権管理、充実した教育や福祉制度なども産業基盤を支えている。高度な技能を持つ専門技術者の養成・確保などと併せて、移民受け入れ政策がしっかりリンクされている。移民労働者問題のウオッチャーとして、今後も目を離せない国のひとつである。

  
Reference
"Tilting at windmills." The Economist September 30th 2006.

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