時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

画家が見た17世紀のヨーロッパ階層社会(1); ジャック・カロの世界

2013年03月30日 | ジャック・カロの世界

ジャック・カロの肖像
Lucas Vorsterman, after sir Anthony van Dyck,
Portrait of Jacques Callot

 

 さまざまなメディアが発達した現代では、世界の貧富の格差、実態などについては、努力次第でかなりのことまで知ることができる。統計のみならず、実態調査を映像で確認することも可能だ。 

 他方、ラ・トゥールやフェルメールが生きた17世紀、ヨーロッパの人々の生活実態、格差はいったいどんな状況であったのだろうか。そして、どのようにイメージされていたのだろうか。写真やTV、インターネットなどがなかった時代でもあり、旅行するのも容易ではなく、同時代の人々がその貧富や階層化の実態を知り、概略を理解することは困難をきわめた。現代人の観点からすれば、今日まで継承されているさまざまな記録遺産(公文書を含むさまざまな文書、絵画、衣食住にかかわる遺産など)の類から、当時を想像するしかない。タイム・マシンがないかぎり、時空を超えて、17世紀のヨーロッパへ飛ぶことはできないからだ。

 この情報伝達のメディアとして、当時から大きな役割を果たしていたのは、画家が精密に描いた作品であった。いわば現代の記録写真に相当する。とりわけ、印刷という技術が使用できる場合には、一枚の作品を多数印刷して、流布させるという方法が大きな影響力を持ちうる。

 17世紀になると、版画、とりわけ銅版画の技術が大きく進歩した。もちろん、一枚の油彩画が見る人に与える影響力という点では、版画は迫力において劣るかもしれない。しかし、一定の情報を多くの人々に伝えるという点では、版画は格別の力を持っている。実際、管理人がとりわけ好んで見てきたジャック・カロの作品は彼の生涯を通して、ヨーロッパ中で評判になり、人気があった。17世紀イタリアおよびフランスの著名な美術評論家フロレンティン・フィリッポ・バルディヌッチとアンドレ・フェリビアンの二人が、カロの画家としての力量を高く評価もしていた。

ラ・トゥールと同時代・同郷
 このブログにもたびたび登場させているジャック・カロJacques Callot(1592-1635)という版画家について、再び考えたい。日本ではあまり知られていないが、欧米諸国では近年再び関心が高まっている。あのジョルジュ・ド・ラ・トゥールと同じロレーヌ出身、生年も一年違い(ラ・トゥールは1年後)である。発見された史料によると、二人が出会った可能性はかなり高い。ラ・トゥールの生地ヴィック・シュル・セイユとナンシーは目と鼻の先の距離である。カロはナンシーとフィレンツェに長らく住んだ。ラ・トゥール、カロ、共にこの時代を知るには欠かすことのできない画家だ。

 カロは、ラ・トゥールが夢見たが、行けなかったかもしれないイタリアに強く憧れ、ナンシーを離れ、ローマやフィレンツェで画業生活も送った。その後、故郷ナンシーへ戻った。バロックの1600年代、ナンシーはエッチングの中心地であった。ジャック・ベランジュ、ジャック・カロ、アブラアム・ボスなどがよく知られている。

 カロの生涯は、43年という決して長いものではなかったが、その間実に1400枚近い銅版画を精力的に制作した。レンブラントやゴヤなどの巨匠も、大きな影響を受けた。カロはヨーロッパの各地を旅し、選んだ題材もきわめて幅広く、宮廷生活、祝祭劇、パレード、そして当時のヨーロッパをかき乱した悲惨な戦争の実態、軍隊や戦闘の状況、さらには社会の底辺に生きるさまざまな貧困者たちの姿など、驚くほど多方面にわたった。描かれた対象の中には、道化師やさまざまな奇怪な装いの人物?も登場する。

 17世紀、ヨーロッパ社会の成員の3分の2近くが農民であった。領主たちや宮廷に出入りする貴族たちと対極に位置していたさまざまな貧民層の姿は、カロに優雅さと憐憫を同時に持たせたのかもしれない。しかし、カロが若いころから父親のように貴族の道を選ばなかったことは、社会の底辺に生きる人々への同情、愛があったように思われる。シリーズ『戦争の悲惨』も、時代のあらゆる場面を描いて残したいというこの画家の思いが感じられる。画家の力をもってしても、いかんともしがたい悲惨、残虐な現実。その実態を克明に描いて、世の中に知らせたいという考えが働いていたのかもしれない。現代社会の最大の病弊のひとつである階級の断絶、限界化 marginalization は、すでにこの時代に歴然と進行していた。その一端はアウトサイダー化した人々の存在という意味ですでにブログに記したこともある。

二つの階級

 ジャック・カロ『二人の女性のプロフィール』
Deux femmes de profil, Caprice, 1617
Etching 57 x 77cm
Saint Louis Art Museum

 

才能溢れた画家
 カロの銅版画家としての優れた技量は、銅版画史上に大きな革新と遺産を残し、ほとんどそのままに今日まで継承されてきている。現代の版画は素材も色彩もさまざまで、油彩、水彩などの技法にひけをとらない。しかし、カロの時代は濃淡のある黒色が中心であった。カロの作品の規模も大小、多岐にわたるが、『ブレダの占領』 The Siege of Breda などは高さも1m以上ある大きな作品である。しかし、克明に彫り込まれ、細部は拡大鏡が必要なほどだ。もしかすると、同時代のイタリア人天文学者ガリレオ・ガリレイが制作したレンズのことを知っていたのかもしれない。

 近年、カロの作品への関心は世界的に高まっている。ラ・トゥールなどと違って、生涯の記録がかなり残っており、これまで不明であった部分もかなり判明してきた。カロの残した膨大な作品群を通して、17世紀ヨーロッパの新たなイメージを作り上げることが可能になってきている。今回は、当時の社会階層を思い浮かべることができる一連の作品を取り上げた最新の企画展『プリンセスと貧民たち』 Princes & Paupers に展示された作品を中心に、17世紀ヨーロッパへの旅を試みてみたい。

  以前にも多少記したが、今回はこのたぐい稀な銅版画家の生い立ちについて、今日判明している最新の資料にも依拠して、その輪郭を追ってみよう。

貴族になりたくなかったカロ
 ナンシーでカロの生まれた家は、ロレーヌ公シャルルIII世の時代に祖父が貴族に列せられ、父は宮廷式部官(紋章官) court herald の職に就いていた。親たちは当然カロを自分たちの地位と生活を最上のものと考え、息子のカロにもその道を強いた。

 ナンシーは祝典、祭儀の盛んな都市であり、カロは父親とともに、1606年ロレーヌ公の息子アンリII世とマルゲリータ・ゴンザーガの結婚式、その2年後のシャルルIII世の盛大な葬儀も見ていたに違いない。こうした途上で、宮廷画家クロード・アンリエに出会い、息子のイズラエルとは生涯の友となった。イズラエルは後年ナンシーでカロの作品の発行者となる。

 他方、カロは頑迷な父親との妥協として、1607年ナンシーの金細工・彫刻師のクロック Demenge Crocqの工房へ4年年期の徒弟入りする。クロックはロレーヌ公の装飾、貨幣のデザインなどを行っていた。そして1608-11年のある年、念願のローマへと旅発った。 

 17世紀最初の10年はローマは芸術の都であり、古代、ルネサンス美術を学ぶ所だった。銅版画技術のエングレーヴィングは当初北方、
とりわけアントワープが印刷業の中心として繁栄していた。続いて、技術の流れはイタリア・ローマへと向かった。エッチング技術は17世紀初め、イタリアで開花した。

 こうした中で、カロは銅版画親方のフィリップ・トマソンの工房へ入った。その後、テンペスタ Antonia Tempesta の工房へ移った。フィレンツェで最新の技法を修得したテンペスタはこの若い絵師に、大きな影響を与えたようだ。テンペスタはバロック・ローマとアントワープの架け橋のような役割を果たしていた。ローマで最初の銅版画師 peinter-graveur といわれるまでになったテンペスタは手広くエッチングの可能性を拡大し、斬新な作品を送り出した。生涯で何千といわれる作品を制作したテンペスタは、ローマにしっかりと根付いた印刷工房を運営していた。

 テンペスタはイズラエル・アンリエとクロード・ドゥルエというふたりの優れた画家を雇っていた。カロはこのテンペスタ工房でエッチングの技法を修得したようだ。その後、1611年、カロはテンペスタと共に働くため、フィレンツェへ移った。メディチ家の保護の下、文化の花が開き、驚くべき数の美術家たちがヨーロッパ中から集まっていた。

  そして、カロの時代も始まる。(続く)

 

 長く書き過ぎました。そろそろ終わりにしなくては(笑)。



Princes and Paupers: The Art of Jacques Callot
The Museum of Fine Arts, Houston
January 31-May 5, 2013

 いうまでもなく、この企画展タイトルは、アメリカが生んだ大作家マーク・トウェインの著名な作品The Prince and the Pauper 『プリンスと乞食』(1881)を思い起こさせる。 

 

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春を告げるエニシダの花

2013年03月21日 | 午後のティールーム

 

 例年より寒いのではないかと思った冬だったが、春の女神が急に足どりを速めたようだ。桜の開花が例年よりかなり繰り上がっている。

 春を告げる花は桜に限ったわけではない。桜はもちろん、だんとつで美しいが、あのエニシダも好みの花のひとつだ。マメ科エニシダ属(Cytisus)に分類されているが、200種近くになるようだ。小さな花が多数開花する。花の色は黄色が多いが、白色、赤、ピンクなどの交配種もあるようだ。世界的な気候変動で、季節感が狂った感じだが、開花期は春から初夏というべきだろうか。

 イギリス人はことのほか、この花を好むようだ、管理人がイギリス滞在中に隣人からガーデニングの基本を教わった折も、しばしば登場した。イギリスでは庭木や公園用樹木としてよく見かける。イギリス人はしばしば broom(ほうき)と呼んでいたが、実際に箒の材料でもある。あの魔女が空を飛ぶ箒も、この枝で作る?らしい。ちなみに花言葉は「みだしなみ」「謙遜」とのこと。

 エニシダは春になると、黄色の小さな花が多数開花する。日本の花屋などで売られているのは、ヒメエニシダと呼ばれる、小さな低木であることが多いようだ。開花の期間は桜と比較してもかなり長く、庭木としても楽しめる。かなりの風にも耐えるのだが、散り際は鮮やかであっという間に散ってしまう。その散り際は桜のように見事だ。

 この花がリチャードIII世につながるプランタジネット朝と関連があることは、以前に記したが、ゆかりの地アンジェ(フランス北西部の都市、ヘンリーII世時代、「アンジュー帝国」と呼ばれた拠点)は、これまで2度ほど訪れたことがある。一度はパリからTGVで、2度目は同じパリからドライヴを楽しんだ。独特の形の塔を持った城が印象的だ。アンジェについては、記すことが多いので、別の機会にしたい。

 

イギリス史上、悪名高い、しかし謎の多いリチャードIII世については、シェークスピアを始め、関連する出版物はあまりに多い。この王のことを楽しみながら、手軽に?知るについては、ジョセフィン・テイ女史の『時の娘』が、歴史ミステリーとして知られてきた。いつか読んでみたいと思っていたが、すでに邦訳されていたことを知った。ご存知の方は多いと思われるが、メモ代わりに記しておく。
ジョセフィン・テイ(小泉喜美子訳)『時の娘』ハヤカワ文庫、1977年
The Daughter Of Time by Josephine Tey (6 Aug 2009)

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王義之の力

2013年03月10日 | 午後のティールーム

  

行穣帖 原跡 王羲之筆 (部分)
唐時代、7-8世紀模
プリンストン大学付属美術館


  うっかり予定表に書き込んでおくことを忘れていた。東京国立博物館の『書聖 王義之』特別展(2013年3月3日終了)である。いつもならば、開幕早々楽しみにに出かけていたはずだった。これまで何度かあった『王羲之展』は、1度では到底鑑賞しきれずに、2度、3度と繰り返し出かけたことも珍しくない。しかし、今年はその歯車が狂っていた。予定に入れることすら忘れていた。いつものような楽しむ気持ちがなんとなく失せていた。どこかで尖閣諸島問題などが影響していたのかもしれない。

 2月が近づくと、大陸や台湾の友人たちから送られてくる例年の春節の挨拶状も、お定まりの中華世界特有の赤や金色の多い華やかなものではあったが、付け加えられている手書きの部分には、両国間に突如として勃発した紛争への複雑な思いが感じられた。別に、日本を批判している文言が含まれているわけではない。ただ、なんとなく、この話題に触れることを避けているような感じも受けた。管理人はかなり直裁なコメントを付したのだが、いつもと違った雰囲気であった。

 彼らは中国では数少ない親日家、知日家である。腹蔵なくお互いに疑問とする問題を聞くことが出来る貴重な友人たちだ。一緒に長い旅をしたこともある。ほとんどが日本への留学経験があり、時には日本人以上に日本のことを知っていた。そして、管理人はそうした交流を通して、中国は日本人以上に「信頼」が大切な社会であることに気づいていた。人と人との間に真の信頼が生まれないかぎり、なにごとも円滑には進まない社会なのだ。しかし、ひとたび、信頼関係が生まれれば、こちらが驚くほど楽々とすべてがはかどった。この関係を築き上げるには、長い、長い年月が必要だ。一朝一夕にはとても無理である。今回、この関係をいたく損傷したのが、日中いづれであるかについては、すでに多くの議論がある。読者それぞれに考えねばならない。

 少し振り返ってみると、なんとなく気がかりなこともあった。中国側には数年前から緩んできた体制を締め直そうとも思える動きが、各所で進んでいたことに思い当たった。教育の分野にかぎっても、とりわけ、大学では共産党の指導体制が、学内でも急速に強化されているように感じた。この問題は友人・知人たちが折に触れて話していたことでもあった。日本に関連する研究テーマ申請を、学内で却下された友人もいた。学内で別の部門へ配置換えになった友人もいた。

 大学はいずれの国でも、政治的プロテスト、騒乱の源となったことが多い。そのためか、新体制への移行を見込んで、あらかじめ準備を進めていたのかもしれない。日中で共同研究をする場合にも、共通テーマが決めにくくなった。それまでは日本の物心両面の援助が、研究推進の大きな力となっていたこともあった。しかし、もう日本の協力、とりわけ資金的協力は必要としないとまでいわれたこともあった。

 現在進行中の「尖閣諸島問題」に象徴される日中両国間に生まれた対立・緊張は、どちらに責任があるかは、簡単には論じ得ない。しかし、中国側指導者にとって、この問題は国民の貧富の格差拡大、指導者の汚職を始めとする国内の難題などを、国民の目からそらす材料として格好なものとなったことは、かなり確かなようだ。中国の国内問題を見ていると、現在の両国の対立が早期に緩和、解消することは想像しが
たくなっている。中国政府はことあるごとに、この問題を外交上の武器とするだろう。管理人が生きている間に、事態が大きく改善することはないとあきらめている。ここに書いている余裕は筆者にはもうないが、事態の根源はあまりに深く、複雑になっている。

 かくして、さまざまなことがあり、『書聖 王羲之』展のことを、ほとんど忘れていた。気がついて閉幕間際に出かけたところ、予想外の混雑である。日中国交正常化40周年、東京国立博物館140周年の記念特別展と銘打たれているから、その看板に惹かれてこられた方もいただろう。しかし、筆者には看板がどこか空しく感じられた。

 落ち着いて、鑑賞する環境では到底ない。あまりの混雑ぶりに、作品に接すること自体、かなりの努力を要する。絵画と違って、書の展示は掛け軸などにされた作品を別にすると、ほとんど、ガラスの展示台の中に作品が収められている。仕方なく、出展作品の中で、特に見たいものだけを選び出し、日本に所蔵されている作品などは一部を除き、あきらめた。

 前述のような環境でも、王羲之への関心が高いことに改めて驚くとともに、ある意味で安堵の思いがあった。政治面でいかに激しい対立が存在しても、国民が冷静に問題を切り離し、純粋に芸術作品として鑑賞したいという意識は、きわめて大事なことと思った。文化の持つ力を強化することは、衰退傾向にある日本が、世界で一定の尊敬を確保しながら、今後を生きる道として欠かせない。多くの悔恨の思いを背景にした展示ではあったが、作品を見る人々の顔には、常軌を逸する人混みに疲れながらも、この書聖の作品に接しえた喜びの色が感じられた。わずかな救いであった。


 

 
 

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