時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

幸せとはなにか(2)

2006年12月31日 | グローバル化の断面

  前回に引き続いて、もう少し「幸せの計り方」について書いてみたい:

  この時期に送られてくるカードの中で、昨年に続き、今年も印象に残った一枚は、カナダに住む友人夫妻と家族の消息であった。夫妻は現役を退き、世俗の意味では引退の過程に入っているが、地域のNPOその他で活発な活動を続けている。

  長女はアフリカのボツワナで物資の輸送システムの充実のためにすでに3年働いてきた。次男はあの2005年のアジア太平洋の大津波の1ヶ月後から、ずっとバンダ・アチェで復興事業にに従事した後、レバノンで災害復旧に働いてる。そして、3男はアフリカのHIV減少のためにアフリカで1年の3分の1を過ごしている。

    両親は子供がそろいもそろって発展途上国のために、奉仕活動のような仕事をするようになるとは思ってもいなかったというが、むしろ子供たちがそうした人生を選んだことを誇りに思っているようだ。

  父親は今は歩行に困難な身体でありながら、地域の庭園の仕事に生きがいを見出し、つつじやしゃくなげの栽培、品種改良では専門家として知られるほどになっている。母親は病院の看護部長、教育部長の仕事を辞めて、91歳になった自分の母親の世話と介護に週3回片道40分の距離を通っている。それでも庭園整備を手伝い、今年はチューリップなど300株を植えたという。

  感心するのは、家族の一人一人が独立心を持ち、自分の仕事に大きな誇りを持っていることである。長いつき合いだが、愚痴めいたことを聞いたことがない。まだ学生の頃からモントリオールを訪ねると、ホテルに泊まるのはつまらないからと、2室しかないアパートに泊めてくれた。現代の日本人の多くが感じているような不安の影もなく、積極的に人生を送ってきた。
 
  最近は誰もやりたがらない仕事も、需給が逼迫すれば見直され、光が当たることがあるように、市場メカニズム(経済)と幸福(感)の関係を見直す動きもあるが*、人間の幸不幸を定める要因は複雑であり、そう簡単には見いだせない。「幸せ」の計り方は相変わらず難しい。

  新年が良い年でありますように



*    
イギリスの歴史家トーマス・カーライル(Thomas Carlyle 1795-1881)が、経済学は「楽しい科学ではない」(not  a 'gay' science)と評したことから、しばしば「陰鬱な学問」と受け取られることもあるが、カーライルの真意は、経済学者が経済学を幸福という概念に結びつけすぎたことにあるようだ。19世紀半ばの経済学者は「最大多数の最大幸福」の実現を説いたジェレミー・ベンサム(Jeremy Benthan)に代表されるように、しばしば幸福、効用を計算できるものとした。人間をあたかも苦痛と快楽の差し引きとしての心理・物理的な機械のように考えたところがあった。

Reference
*
"Economics discover its feelings." The Economist December 23rd 2006.

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幸せとはなにか(1)

2006年12月29日 | グローバル化の断面

    例年のことだが、年の暮れになると一年間の出来事などについて、多少の感慨にふける時間がある。この数年、そのひとつの契機は、ある雑誌の巻頭記事が材料となっている。この雑誌は、一昨年、昨年と続けて「貧しさについて」というテーマを掲げていたが、今年は「幸せ(そしてそれをいかに計るか)」*という記事であった。

  ふだんはこうした哲学めいたことを考えることはあまりないのだが、年末にふと見かけた光景に衝撃を受けて、考えてしまった。

  数日前、養護ホームに住居を移した知人を見舞いに出かけた。といっても、この知人は今まで住んでいた住居を処分して便宜のよい施設に移住しただけで、看護・介護の必要はまったくない。将来を考えて、マンション住まいのつもりで移ったらしい。他方、この施設は、完全看護・介護を掲げて高級ホテル並みの設備とサービスを売りものにしており、入居者に高齢者が多い。入居費もきわめて高く、私など逆立ちしても入れないし、実は(仮にそうした状況に恵まれても)絶対入りたくないと思っている。

  この施設では見舞いなどの訪問者は受付で所定の手続きをすれば、問題なく入ることができる。しかし、高齢者が多いということで、風邪などの予防のために、手洗いとうがいを要請される。他方、入館者は原則、付き添いや許可がないかぎり外へ出られない仕組みである。日常生活で必要なものは、すべて館内で調達できることになっている。スタッフも多く、隣接して診療所まで設置され、諸事万端整っている。

  受付から連絡してもらい、豪華なロビーで待っている間、片隅のソファーに入館者と分かる老人が座っているのに気づいた。不安そうな表情で肩にかけた小さな鞄を両手で抱え込むようにしている。きっと銀行通帳など貴重品が入っているのだろう。今の日本では、これ以上安全な場所はそうないだろうと思われる環境にもかかわらず、不安に満ちた面持ちで深い寂寥感が漂っている。

  物質的には世界有数の経済水準を達成した日本だが、国民の不安は高まるばかりである。巻頭の雑誌記事は内容が濃密で、ここに要約することはできないが、ひとつの含意は経済学に幸せの実現をあまり強く結びつけること自体、無理な注文ということらしい。

  所得や資産など社会的格差が広がるほど不安は増し、なにも心配のないような億万長者も、胸の内は澄み切って幸せ一杯というわけではないようだ。しばしば社会階層が上になるほど、問題も増える。ブログで取り上げた『天使の堕ちる時』でも、中流下層の主人公の方が上層の主人公よりも幸せ度は大きいのではないか。経済格差の多くは相対的なものであり、他人との比較で発生・拡大する。先進国ほど格差についての意識も高まる。幸いをもたらすか、不幸にするかに、市場やその成長は深く関わってもいるという。この意味で経済がまったく関係ないわけではない。

  しかし、一般に世の中では自分のしていることに没頭できる人は大きな充実感を得て、悩み少なく幸せで充たされるようだ。雑念に悩まされず、没入できることをもっている人が幸せを享受できるらしい。一年もここまでくると、煩悩の多い人間の一人としては、除夜の鐘に期待するしかないか。

      
*
"Happiness (and how to measure it)" . The Economist December 23rd 2006.   


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佳節愉快

2006年12月26日 | グローバル化の断面

  この数年、クリスマスカードの数がめっきり減った。一時期、机の上に山積みになったカードに、一枚ずつ署名と短い挨拶を記していたことがあった。年中行事で負担ではあったが、楽しみでもあった。しかし、いつのまにか年末の仕事に追われたりして、発送するカード数が減っていた。送られてくるカードも同様に減っていた。電子メールの発達も影響している。しかし、メールで受け取るクリスマスや年始の挨拶はどうも味気ない。

  こうした変化の中でも、必ずカードを送ってくれる友人たちがいる。家族の消息を知らせるノートが付いていることが多い。交通通信の手段が格段に進歩したからといって、遠隔地の友人・知人とそう簡単に会えるものでもない。中には、何十年と会っていない友人もいる。

  日野原重明先生が、クリスマスカードについてのエッセイを新聞に寄せられていた。最近のカードの減少と併せて、カードに印刷された文言についての興味深い観察が記されていた。かつてのように「メリー・クリスマス」Merry Christmas というフレーズが少なくなり、Season's Greetings というような宗教色がない表現が多くなったという変化についてである。グローバル化が進み、世界にはキリスト教以外の宗教を信じる人々も多いことに気づいたからであろうという大変鋭いご指摘である。

  これまであまり深く考えることなく、カードを送っていたことを反省する。サインをしたり、短い挨拶を書く折に、ふとそのことが頭をかすめたこともあったが、1年1回の近況報告と思って送っていた。日本のクリスマスが宗教色が薄い商業的行事となっていることも、影響しただろう。

  クリスマスの挨拶ばかりではない。新年の挨拶も、うっかり日本の習慣で年賀状を中国や台湾の友人に送ってしまう。そして先方からは春節の時にカードが送られてきて、喜びと同時に軽いカルチャーショックを受ける。

  面白いことに、このごろは海外と関係のある中国や台湾の会社や弁護士事務所からは、「新年快楽(樂) 順利成功」、Season's Grettings for someone so special というような挨拶が記されたカードがこの時期に届く。「聖誕恭賀」というような文字はない。小さなことだが世界の変化が、カード一枚の文言にも微妙に反映していることに驚かされる。

  

 

  

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Season's Grettings

2006年12月24日 | 雑記帳の欄外

   SEASON'S
GREETINGS
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英語圏でのラ・トゥール(1)

2006年12月23日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚


  ジョルジュ・ド・ラ・トゥールを対象にとりあげた文献は、実はかなり多い。作品や画家の生涯に謎が多いという背景もあって、小説その他に取り上げられたものまで含めると、膨大な数になる。その多くは、日本ではほとんど知られていないし、図書館なども所蔵していない。ラ・トゥールの知名度がいまひとつなのはこの点にも関連している。フランス語文献がかなり多いが、英語、イタリア語、スペイン語、ドイツ語、ロシア語などの文献もある。日本語では、田中英道氏の傑出した名著、そして記念すべき国立西洋美術館での特別展カタログがあることはこのブログでも記した通りである。

    西洋美術史の世界では、ラ・トゥールの名は時に18世紀のパステル画、肖像画家として知られる Maurice Quentin de la Tour と取り違えられたりしたこともあった。作品自体の帰属が混乱したこともあった。イギリスで特にこの誤解が起きたようだ。

  20世紀に入って、いくつかの契機を経て、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの名は次第にヨーロッパに浸透し、「有名な画家」 "paintre fameux" として急速に作品も知られるようになる。

  ラ・トゥールについての英語圏での紹介や研究は遅れがちではあったが、作品のフランス以外への拡散などもあって次第に進展した。今回、紹介するファーネス S.M.M.Furness の著作もそのひとつである。序文に記されているように、ポール・ジャモの姪ベルタン・ムーローが企図し、作業を進めていたジャモの遺稿の英語版の内容を引き継いでもいる。1946年という第二次大戦直後に刊行されたものだが、当時のラ・トゥール研究の水準を知ることができる。今から60年も前の出版であり、収録されている図版もモノクロだが、実にしっかりとした考証に接することができる。

  すでに本書の段階で、現在知られているこの画家の作品はほとんどは出揃っているが、あまり他の文献には出てこない作品についての記述もある。たとえば、オックスフォードのアシュモリアン美術館が所蔵する『錬金術師』 L'Alchemiste (Oxford、Ashmolean Museum) という作品も、この時期にはラ・トゥールの手になるものではないかとの議論が行われていた。これもカラバッジョの影響を受けたと考えられる作品である。その後、残念ながら、ラ・トゥールの作品ではないとの鑑定がなされて今は話題になることは少ない。しかし、17世紀前半のロレーヌ公の宮殿にはまだ錬金術師が二人雇われていた。ラ・トゥールの作品ではないとしても、さまざまな想像を呼び起こし、かなたの空間への旅に誘ってくれる。

Contents
Preface
Chapter
I  Rediscovery of Georges de La Tour and his works
  Notes and appendices
II Life and Career
  Notes and appendices
III  Style
  Notes
IV  The pictures
  i  Authenticated
  ii  Attributed and Related
V  George La Tour's method of illumination
  Notes

Bibliography

*
S.M.M.Furness. Georges de La Tour of Lorraine: 1593-1652. London: Routledge & Kegan Paul. 1949. pp.175 & 20 plates.

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現代版『ジャングル』:アメリカ不法移民取り締まり

2006年12月21日 | 移民政策を追って

  中間選挙後ほとんど動きのなかったアメリカの移民政策だが、最近少し変化があった。イラク問題で大きく足下が揺らいでいるブッシュ政権だが、国内問題でもポイントを回復しないと急速にレームダック化してしまう。

IDの窃盗容疑?
  メディアの報じるところでは、12月13日、連邦6州で食肉加工企業スイフト社の本社や工場で国土安全保障省の指示によるとみられる捜査が行われ、移民労働者1200人近くが逮捕されたとのこと。捜査は連邦機関のICE(Immigration and Customs Enforcement:入国関税執行部)が指揮して行った模様。容疑は不法移民によるアメリカ市民の社会保障番号、さまざまなIDカードの窃盗など、善良な市民の個人プライバシーと経済的権利の侵害にかかわるものとされている。

  とりわけ標的とされたのは、世界第2位の食肉加工企業であるスイフト社であり、本社のあるコロラド州グリーレイなど6事業所が捜査対象となった。もっとも直接の嫌疑は不法移民で、同社ではない。同社の社長CEOは「スイフトは合法でない労働者を雇用しようと考えたことはないし、合法でない労働者であることを知っての上での雇用もしていない」と述べている。もし、労働者が合法でないことを知っての上での雇用であれば、使用者罰則の対象となるため、当然の発言ではある。

組織的な背景はあるのか
  微妙な問題がある。現在の段階では、逮捕された不法移民が自らあるいはブローカーなどを介在して、不法に滞在に必要なID、証明書類などを入手した容疑となっている。しかし、「企業側が組織的に法律に違反し、不法移民を受け入れるか、彼らに仕事の機会を認めるならば、犯罪であり、捜査対象となる」と国土安全保障省側は述べている。

  そして、偽造あるいは盗まれたID書類などが不法取引されると、テロリストが航空機に搭乗する際に使用されるなどの問題が生まれるとしている。ここにもあの9.11が深く影を落としている。

  スイフト社は労働者から提示されたIDが真正な本人のものであるか否かをチェックするパイロット・システムを使っているが、万全のものではないとしている。他方、ICE側はIDの盗難は全米で急速に拡大している犯罪だとして、不法移民の動きがそれを加速しているという。

現代版『ジャングル』
  以前に狂牛病問題との関連で、アプトン・シンクレアの小説『ジャングル』 (1906年)を取り上げたことがあった。当時から食肉加工業 slaughterhouse は、ギャングなどの犯罪の巣窟とされ、複雑怪奇な事態がはびこる産業とされてきた。近年は工場のオートメーション化などで、外面は近代化したかに見えるが、国内労働者はあまり働きたがらず、移民労働者などに依存してきた。いわばアメリカの「3K産業」となっていた。今回の捜査がいかなる方向へ展開するかはまだ分からないが、現代の「ジャングル」に再びアメリカの注目が集まっている。


Reference
'Immigration raid linked to ID theft, Chertoff says.' USA Today. 12/13/2006

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イギリス人が故国を去る時

2006年12月18日 | 移民の情景


生活の質 Quality of Life の国別スコア(Economist Intelligence Unit)

 クリスマス休暇を前に、イギリスからオーストラリアへ戻る友人B夫妻が東京経由で帰国するというので、久しぶりに歓談の機会を持った。B氏はオーストラリア国籍だが、イギリス国籍も保有している。奥さんは生粋のオーストリア人(オージーAussie )である。B氏は、もともとイギリス生まれで北東部の有名大学で教鞭をとっていた。30歳代の終わりにオーストラリアの大学へ職を求め、活動の場を移した。当時はサッチャー政権成立の直前で、イギリス経済は停滞の色が濃かった。
  
  イギリスで勤めていた大学は、オックスブリッジに次ぐ立派な大学だったが、訪れるといつもどんよりと雲が立ち込めた天気だった。B氏が選んだ「新天地」は、オーストラリアでも「サンシャイン・シティ」の名で知られる晴天日数の大変多い場所。確かに天候はメンタルにも影響することを実感する。明るい日差しの中では生活態度が前向きになる。

  イギリスはともすれば移民を受け入れる国と思われているが、現実に人口の出入りがどうなっているかは、あまり明らかにされてこなかった。「移民」というと、概して仕事を求めてイギリスに働きに来る外国人を思い浮かべ、イギリス国民の仕事を奪う存在と考えられてきた。イギリス人が海外へ移民するという視点や発想はほとんどなかった。驚いたことに19世紀以来、この観点からの調査は実施されたことがないとのことである。

  最近、あるイギリスの研究機関*が公表した内容によると、人口の出入りはほとんど同じくらいのようだ。昨年のデータでは、20万人近いイギリス人が帰国する意思なくイギリスを出国し、550万人が国外に居住しているという。そして、5800万人が自分の先祖はイギリスから来たとしている。これは驚くことにインド、中国に次ぐ順番である。彼らの多くは日光の多い地へ引退の場を求める老人ではなく、3分の2は労働者である。

  行く先として彼らの選んだ上位10カ国の中で、6カ国は英語を話す国であり、その他もすべてヨーロッパの国である。オーストラリア、スペイン、アメリカが最も行きたい国となっている。

  イギリス人に海外流出を決意させるのは、より良い仕事の機会と住居が最も大きな理由だが、イギリスの高い生活費と住宅も上げられている。イギリスに持ち家があればそれを売却して、海外でもっと良い家を買いたいというのが動機となっている。別にイギリスが嫌いというのではないが、海外の好条件に引かれるという理由が多い。実際、イギリスの2003年から2005年にかけて可処分所得はほとんど増えていないし、生活の質も決してよくない。The Economist Intelligence Unit による生活の質の順位づけを見ると、アイルランド、オーストラリア、スペイン、アメリカ、カナダ、ニュージーランド、フランスとなっていて、イギリスはフランス以下にランクされている。

  こうして海外へ流出しようと考えるイギリス人は予想外に多いが、彼らを受け入れる側の条件は年々厳しくなっている。概して熟練・技術水準の高い人材を受け入れるというが、実際にどんな職種が求められているのかはあまり分からない。建築家、エンジニア、医者は人気があるようだが、状況は透明ではない。

    友人B氏の話を聞いても、イギリスへは高齢のため養護ホームで暮らしている母親の見舞いに時々戻るが、帰国永住するつもりはないという。母国との精神的つながりは残しながらも、生活環境の差違には抗しがたいらしい。こうしてまた1人の定住移民が誕生している。

*
Institute for Public Policy Research (IPPR)

Reference
"Emigration: Over there" The Economist. December 16th 2006.

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変なブログ(4)

2006年12月17日 | 雑記帳の欄外

  ブログを手探りで始めてから間もなく2年近くとなるが、当初想像していなかった現象に出会うことになった。

  日常生活の一寸した合間などに思い浮かべたことを、メモのように書いているだけのことなのだが、いくつか例外もある。いつの間にか、かなり書き込んでしまっていた17世紀の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールのことである。多少マニアックなことは自覚しながらも、自分のどこかに沈殿している記憶があることに気づいた。書き始めてみると、あまりに多くのことが記憶されていたことに自分でも驚く。これまでの人生の過程で、ただランダムに取り込んだだけの断片的記憶が次々と浮かんでくる。思いつくままに書き出しているのだが、まだほんの入り口しか書いていないようで、かなり残っているような感じはする。しかし、自分の脳の「在庫管理」はまったくできていない。どんな材料が在庫の棚に置かれているのかさっぱり分からない。脳の仕組みには改めて驚く。

  不思議なことに、時々思いもかけないことで、ある記憶の断片と別の断片がつながることがある。まるで、新たな回線が記憶細胞の間に張られたような印象である。あの9.11の衝撃は、ウイリアム・スタイロンの『ソフィーの選択』に結びついていた。そして、そのつながりは、最近のスタイロンへの哀悼とともに、若い頃に読んだ作家の別の作品の記憶を呼び起こした。

  昨年、イギリスの書店でなんとなく取り上げて読んでみた『白い城』や『イスタンブール』の著者オルハン・パムクが、ノーベル文学賞受賞者となった。その後、かなりの人々から作品についての問い合わせがあったりした。単なる読者の一人であり、トルコ文学の専門家でもないので、これには面食らった。意外に日本では読まれていなかったらしい。

  こうした経験を通しておぼろげに見えてきたのは、書籍という媒体の果たす役割である。「書籍離れ」がいわれるようになって久しいが、読書を通して得た記憶は脳細胞への残存率が高いような気がする。読んだことはかなり覚えているのだ。他方、映像やネット上で得た知識は、その時の衝撃はかなりあるのだが、比較的残っていない。ほとんどその場かぎりで忘れてしまっているようだが、脳内構造がどうなっているのか、その仕組みは自分には分からない。

 

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「天使が堕ちるとき」(T.シュヴァリエ)

2006年12月14日 | 書棚の片隅から

Girton College, Cambridge



  トレイシー・シュヴァリエの作品については、フェルメールの作品を題材とした真珠の耳飾りの少女』、パリ・クリュニュー修道院のタペストリーの作成にかかわる物語貴婦人と一角獣を読んで以来、注目してきた。特にこの二冊は画家や美術品がテーマに取り上げられていることもあって、大変興味深く読んだ。寡作な作家なのだが、手堅い時代や社会の考証に支えられていて、安心して読める。
  
  たまたま、書店で『天使が堕ちるとき』(邦訳)*を目にした。実は、この原著 Falling Angeles (2001)は、『真珠の首飾りの少女』を読んだ後、この作家の他の作品を調べたときに、書店で少し立ち読みしているので知っていた。その時はなんとなく食指が動かず、購入しないでいた。しかし、偶然に書店で邦訳を目にして読んでみたい気持ちになった。先の二冊が期待を裏切らなかったことが強い支えとなった。

  短い旅の徒然に実際に読み始めてみて、この小説の奇妙な舞台装置にいささか驚いた。前二作からはずっと時代が下がって、1901年1月、ヴィクトリア女王の葬儀の朝、ロンドンのある墓地(ハイゲート墓地を想定)で、中流の上の裕福な家庭コールマン家と中流の下のウオーターハウス家の家族が出会うところから始まる。そして、その後の展開の多くがこの墓地を舞台として進行する。墓地というあまり気持ちのいい設定ではないのだが、巧みなストーリー展開で、読者を飽かせることなく引き込んでしまうのはさすがである。

  特に、興味をかき立てられたのは、イギリス社会の「階級」class という得体の知れない、複雑な対象を巧みに描いている点である。作品の時代背景はヴィクトリア女王崩御から1910年という、今から100年ほど前のロンドンである。しかし、さまざまな点で、現代につながっている。小説ではあるが、強く時代の潮流を意識しており、歴史的事実を踏まえている。この点は、小説にもかかわらず「謝辞」という形で、考証作業や資料提供者への感謝が記されていることにも示されている。歴史小説の視点が入り込んでいる。

  ストーリーは、表題が暗示するように一種の悲劇である。古い形式が支配したヴィクトリア朝から、より自由で民主的なエドワード朝へ移行してゆく過渡期に起きたさまざまな軋轢、衝突、戸惑いなどが描かれている。終幕には予想もしない奈落が待ち受けていた。しかし、来るべき新たな時代への期待や細々と光の見える展開を思わせる要素も含まれ、憂鬱な思いでページを閉じることにはなっていない。

  特に興味を引かれたのは、コールマン家の若い主婦キティーが、サフラージ suffrage と呼ばれた過激な婦人参政権運動に関わり、のめりこんで行く過程である。以前にイギリスにおける女性の権利拡大の歴史的経緯を多少調べたことがあったので、興味深く読み通した。外見にはメードや料理人まで雇うことができる恵まれた中流上層の家庭の主婦が、急速にサフラージへとのめりこんで行く原因を、この作家は何に求めているのだろうか。

  キティーの娘モードが、次第に成長して行く過程で、当時はほとんど進路が閉ざされていたケンブリッジ大学への進学を目指す部分で、思い出すことがあった。当時、ケンブリッジはほとんどのコレッジが女性の入学を拒み、わずかに1869年に創設された女性の全寮制コレッジ、ガートン・コレッジ Girton College だけが女性に開かれていた。モードが望むとすれば、ここしかなかった。たまたま、このコレッジの裏手に1年ほど住んだことがあって、毎日ガートン・コレッジの前を通っていた。ディナーに招いてもらう経験もした。
  
  かくして、この女性教育の先駆となったコレッジには、いろいろと興味を惹かれた。ケンブリッジの町の中心からは、遠く隔離されたような場所に置かれたコレッジに、当時の女性に対する大学や社会の考えを思い知らされた。それとともに、強い因習や差別の障壁を破壊してきた先駆者たちの挫折と克服の大きな力を実感した。今では、女子学生のコレッジも増え、ガートンも男子学生を受け入れている。

*
トレイシー・シュヴァリエ(松井光代訳)『天使が堕ちるとき』(文芸社、2006年)。原著:Tracy Chevalier. Falling Angeles. Harper Collins Publishers, 2001.

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オルハン・パムク氏とEU加盟問題

2006年12月13日 | 書棚の片隅から


    このブログでも再三取り上げてきたトルコの作家オルハン・パムク氏が、TVの取材に応じて、ノーベル文学賞受賞と重ねて、東西文明の今後について語っていた。

  一時は国外に活動の場を移していたようだが、今はイスタンブールに住んで作家活動を続けている。作家の母国トルコにとって、最大の課題がEU加盟であることはいうまでもない。1年ほど前はEU、トルコ双方に祝賀ムードが満ちていたのだが、その後状況は一変し、加盟はほとんど無期延期の状況となってしまった。暗礁に乗り上げた直接的原因はキプロス問題だが、それ以上に、EUで最初のイスラム国家となるトルコへの警戒感が強まってきたことがあげられる。

  TVのインタビューでパムク氏は、一時は国家侮辱罪にあたるとして告訴された原因となったアルメニア人問題についての質問には直接答えず、作家として丁寧に自分の住む地域の暮らしを描くことが人生の真の意味であるとひどく慎重であった。同氏の発言が微妙な段階にいたったEU加盟問題へ影響することを考えているためと思われる。
   
  パムク氏は、9.11以降論議を呼んでいるイスラム文明対西欧文明という対立関係は信じていないという。文明の衝突は確かに各所で起きているが、全面衝突ではない。歴史を見ると、異なる要素が融合することで文化が生まれてきたと強調する。
 
  ストックホルムでの記念講演では、世界の中心はイスタンブールに移行していると述べ、トルコが文明史上重要な鍵を握る存在となっていることを強調する。パムク氏は、自ら針で井戸を掘るように築き上げた概念上の世界が、いかに重要なものであるかを述べている。しかしその内容は、同氏の作品世界を追っていないと分かりにくいかもしれない。
  
  パムク氏はさらに、現在世界に起きている問題は、世界史上人類が長く抱えてきた問題であり、西欧社会は過剰なプライド、根拠のない傲慢さで、トルコを始めとする非西欧社会に彼らの基準を押し付けてきたと述べる。作家は、他方で現代トルコの持つ強いナショナリズムと強い民族主義への苛立ちも感じているようだ。

  これまでこの作家の主要作品を読んできた者のひとりとして見ると、パムク氏の発言はかなり抑制したといえる内容であった。過激な発言もあるのではないかと思っていたが、ノーベル文学賞受賞という重みがブレーキをかけているのだろうか。すっかり冷めてしまったEUとトルコの関係がいかなるものとなるか、両者の狭間にあって、この作家の今後に注目を続けたい。

* BS1 『きょうの世界』「オルハン・パムク氏が語る東西融合」、2006年12月12日。
"The ever lengthening road." The Economist December 9th 2006.

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世界で最も美しい本

2006年12月12日 | 書棚の片隅から

Tafel 1: JANUAR 

  たまたま目にしたTV番組(再放送)*で、フランス、シャンティ城コンテ美術館が所蔵する『ベリー公のいとも華麗なる時梼書』に心をひかれる。この世界に著名な装飾写本の実物は、まだ見たことがない。シャンティへ行く機会はあったのだが、見ることができなかった。しかし、写本が生まれた経緯や内容は、かなり前から少しばかり知っていた。美術に詳しいドイツ人の友人が、ある年のクリスマスに復刻版**をプレゼントしてくれたので、ずっと長い間仕事場で近くに
置き、折に触れて眺めていたからである。このたびTVの美しい映像に刺激され、できれば実物を見てみたいと思った。

  この本の所有者であったベリー公ジャンは、フランス国王ジャン2世の息子で1340年に生まれ、
宝石と絵画を好み、芸術の保護者であった。14世紀以降、多くの王侯貴族が美術作品の制作や収集に積極的にかかわったが、ベリー公は財政的にも豊かで、とりわけ熱心なコレクターであった。

  当時のフランスは百年戦争で人心が荒廃していたが、ベリー公はパリの金細工師の工房にいた職人ランブール兄弟にこの写本を特注した。ベリー公は審美眼も際立って高かったと思われるが、高率な租税収入に支えられて財政豊かで、金に糸目をつけず注文したものと思われる。

  この写本には多くの美しい青色(ラピスラズリ)や赤色(コチニール)や茶(象牙を焼いたもの)など、当時でも高価な画材が惜しげもなく使われている。復刻版で見ても、目を洗われるような美しさである。北方芸術独特の風景や風俗描写が、美しくかつ繊細に描かれている。おそらく職人としても大変恵まれた条件の下で制作ができたのだろう。

  時祷書とは、世俗のキリスト教信者の個人的な礼拝のために用いる祈祷書のことで、修道士や司祭たちによって正式の儀式に加えられていった祈祷の言葉を起源とし、短縮された聖母への祈祷、詩篇、などを含んでいる。 14世紀から16世紀にかけてフランドルや北フランスを中心に王侯貴族によって豪華な時祷書がつくられた。

  俗塵にまみれた現代人にとって、時々目や心の洗濯も必要だとつくづく思う。時空を超えて、中世の人々の世界にひと時浸ることができるのは大きな安らぎとなる。

  
*
『いとも豪華なる時祷書 Tres Riches Heures du Duc de Berry』  (シャンティイ、コンデ美術館)
『古城に眠る世界一美しい本』世界博物館紀行、2006年12月11日

**
Stundenbuch des Herzogs von Berry. Parkland Verlag. Stuttgart.

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戦火の下のラピスラズリ:アフガニスタン

2006年12月09日 | 絵のある部屋

    長らく戦火が絶えないアフガニスタンが、豊富な鉱物資源を埋蔵していることはあまり知られていない。実は、この国は天然ガス、石油、石炭、銅、クロム、タルク、硫黄、金、鉛、亜鉛、鉄鉱石、岩塩、宝石・貴石(ラピスラズリ)などの地下資源がきわめて豊富である。このブログでも話題とした高価な青色顔料のラピスラズリ Lapis Lazuli も良質な鉱床があることが、古代からよく知られている(上図、タジキスタン、パキスタンに近い所に鉱床が多い)。

  ラピスラズリの鉱床が発見されて、世界各地へと伝播して行くプロセスは、それ自体ひとつのストーリーが書けそうな多くの歴史を含んでいる。この紺青色(ウルトラマリン)の美しさは多くの人々を魅了し、さまざまなドラマを生んできた。「ラピスラズリが来た道」は今日まで続いている。

  ラピスラズリは宝飾品や工芸品だけではなく、絵画の顔料として洋の東西を問わず最も高貴な青の顔料として珍重されてきた。ラピスラズリの透明な紺青色の美しさは、言葉に尽くし難いものだ。しかし、今日では人工顔料が生産されるようになり、絵画材料としてはほとんど使われていない。ロンドンの絵画材料店では今でも取り扱っているようだ。ラピスラズリの美しさは比類がなく、価格の点で人工の合成材料と競争できれば、顔料に使う画家もいるかもしれない。

    ラピスラズリは鉱石が原材料ということもあって、経年による退色がなく、美しさが維持される。この点は、同じテーマで描かれたラ・トゥールの作品でも、ラピスラズリが使われているか否かで、美しさがいかに異なるかが実感できる。
  
  ラピスラズリに限らず、アフガニスタンの復興のためには、この国の鉱物資源の開発に大きな期待がかけられている。

  こうした天然資源の鉱山は全国で200近くに達するといわれているが、未だ地方軍閥の保有になっているものもある。しかし、鉱山は長引く戦乱で荒廃をきわめ、未だつるはし程度の採掘道具、坑道も木材などでかろうじて維持されている。

  アフガニスタンの今後の復興において、鉱物資源は大いに期待されている。たとえば、銅山の開発だけでも2000人の鉱山労働者の仕事、45,000-60,000人分の補助労働の仕事を創り出す。

  しかし、開発には膨大な投資が必要であり、新規採掘が開始されるのも、6-10年後ともいわれている。現在トン当たり7000ドル近い銅価は5年前は1300ドルだった。アフガニスタンの鉱山開発はギャンブルに近い。銅価格が下降する可能性はきわめて少ない。中国、インドなどの急速な経済発展などもあって、希少な資源である鉱物価格の上昇は避けがたいようだ。ラピスラズリの美しさも、あまり見られなくなるのだろうか。


"Copper bottomed?" the Economist November 25th 2006.

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海外送金と経済発展

2006年12月06日 | グローバル化の断面

  グラフは移民による本国送金の受け入れ額(2006年時点、10億ドル)を示しており、右側□内の数値(予測)は、2005年GDPに占める外貨送金の比率である。原資料 World Bank 

    このブログのグローバル・ウオッチの対象である移民政策問題の焦点は、海外で働く自国民による母国への送金額である。それが母国の発展のために有効に使われているか否かの評価が海外出稼ぎの成否を判定するポイントである。最新の本国送金統計が公表されたので、少し検討してみよう。

  World Bankによると、世界の移民からの本国送金は、2006年には2680億ドルに到達した。この額は、2000年の2倍に相当する。開発途上国出身の移民たちが本国へ送金する額が大部分を占める。その総計額は6年前の850億ドルと比較して1990億ドルと大きく伸びている。

  外貨送金の受取額ランキングでみると、メキシコが第一位を占めている。ほとんどアメリカで働くメキシコ人からの送金である。250億ドル近くに達しており、GDP(2005年時点)に占める比率では3.3%になる。その額はインド、中国が受け取る外貨送金額より大きい。

  しかし、メキシコを例にとると、それが母国発展に効率的に結びついているかという観点から見ると、第4位にランクされるフィリピンと同様に、非生産的消費などに飲み込まれてしまい、生産的な投資の分野で十分有効に活用されているようには見えない。もちろん、一部は町工場や小商店など雇用を創出するような用途に投資もされていると思われるが、送金額の大きさと比較していかにも効率が悪い。いつになっても海外出稼ぎが減少に向う形をとるにいたっていない。

  フィリピンの場合は、海外からの外貨送金がすでにGDPの15.2%にまでなっている。しかし、フィリピンからの移民の流れは絶えない。そればかりか、海外出稼ぎは常態となってしまい、国内に安定的な雇用の機会が生まれがたくなってしまった。フィリピンやメキシコのような風土では、良い仕事は国内にないという感覚がかなり浸透している。

  本来、自国の経済発展に活用されるべき海外出稼ぎの苦労の結果が、直接的な家族の生活改善などには役立つとしても、国としての発展に結びつかない問題は、従来からも指摘されてはきたが、再検討されるべき大きな課題である。


Reference
"Migrants' Remittances." The Economist November 2006. 
 

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ラ・トゥールとフェルメール

2006年12月05日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

  美術好きの友人とのある会話:「ラ・トゥールとフェルメールとどちらが好きか。」

  実は、両者ともに私は大変好きな画家である。活動の舞台は異なっていたとはいえ、二人ともほぼ同時代に活動し、画家としてそれぞれに大きな成功を収めたといってよい。いずれも、当時のヨーロッパ画壇の風をしっかりと受け止め、その最前線を走っていた。 それにもかかわらず、その後長い間忘れられてもいたし、現存する作品数も同じくらいで大変少ない。

  しかし、どちらか1人を選べと迫られるならば、私は躊躇なくラ・トゥールを選ぶ。その理由はいくつかあるが、最大の理由は、昨年の東京でのラ・トゥール展カタログ「緒言」に記された、ジャック・テュイリエの次の言葉に尽きる:
 
  「(だがしかし、)内容のないラ・トゥールの絵はひとつとしてない。 この同じ17世紀に、フェルメール(長いあいだ忘れ去られていたもうひとりの画家。19世紀に再発見され、今では世界で最も人気のある作家となった)は、人物たちをそれぞれ単独で描くことを好んだ。名高い、アムステルダムの美術館の《牛乳を注ぐ女》やルーヴルの《レースを編む女》はその例である。しかし、そこには日常のありふれた活動やたわいのない着想しか見出すことはできない。フェルメールの作品は、何よりもまず比類なき光の絵画なのである。だが、ラ・トゥールにおいては、ひとりの老人の質素な肖像に人生のすべてが含まれ得るのだ。」

  この言葉は、東京展の契機となった作品「聖トマス」を取り上げるためとはいえ、フェルメール、そしてファンにはかなり厳しい評である。しかし、この点こそがラ・トゥールに惹きつけられる本質なのだ。

  フェルメールの作品を眺めていて、そこに描かれた人物の日常生活の広がりを想像することは十分可能である。17世紀デルフトの平穏でありながらも、時に小さな波風も立つ市民生活の断片をつなぎ合わせる作業はそれなりに楽しい。しかし、そこで終わる。

  そして、テュイリエが記すように、フェルメールの世界は決定的に「光の世界」である。しかし、ラ・トゥールの世界には、フェルメールのような自然な、太陽の光はほとんど感じられない。人々を瞠目させてきた「女占い師」や「いかさま師」のような「昼」の作品においても、光はフェルメールのように窓の外から入ってこない。光源らしきものは、なにも描かれていない。

  ラ・トゥールがカラヴァッジョの影響を受けたことは想像に難くないが、カラヴァッジョのような徹底したリアリズムが作品に貫徹しているわけでもない。画家が最低限描こうと目指したものしか描かれていない。屋外なのか、屋内なのかを類推する手がかりすら描かれていないことが多い。しかし、描こうとしたものはこれまでと思うほど徹底して描かれている。

  ラ・トゥールの作品は、その多くが眺めて鑑賞する対象というよりは、背後につながる深い精神世界へ誘う入り口となっている。


  ~フェルメールに厳しすぎたかな。いつか名誉回復の時を~



ジャック・テュイリエ「緒言」『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展ー光と闇の世界』国立西洋美術館、2005年

コメント (3)
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メキシコから見たアメリカ(2)

2006年12月04日 | 移民政策を追って

    メキシコの経済や社会の状況が改善してきたとはいえ、問題も多い。とりわけ、毎年50万人を越える若者がより良い機会を求めて、自国に背を向けアメリカへと流出していることである。そして、その多くは帰国してこない。今日の世界で人材はいずれの国にとっても、国の将来を定める最重要な資源である。
  
  NAFTA(北米自由貿易協定)は当初大きな期待が寄せられたが、今では楽観できない。NAFTAはその成立までは大きな注目を集めて議論を読んできたが、現状はひとつの自由貿易協定にすぎない。この点はEUとは大きく異なる。EUの場合は多くの制度や規制を強力に加盟国に導入してきた。必然的に加盟国は多くの国内改革を実施してきた。しかし、NAFTAの場合は、協定制定後、ほとんど制度的改革を果たしていない。

  さらに、中央アメリカもアメリカと自由貿易協定を締結しており、ペルーとコロンビアも近く同様な協定を結ぶだろう。そして、中国とインドは、メキシコが期待していた海外からの投資を吸い込んでいる。メキシコの製造業の平均賃金はアメリカの10分の1くらいだが、中国と比較すると3倍くらいである。

  メキシコがこれらの国々と伍して、競争して行くには現在より高度な製造業分野へとシフトする必要がある。しかし、リスクを侵してまで越境する労働者と比較して、国は志が低い。長年にわたる専制的な体制はリスクをとることを避けている。そして、メキシコシティを境にして南部は、アメリカへの不信感が根強く、発展への動機づけが著しく不足している。イタリアのように、メキシコも南北問題を国内に抱えている。

  メキシコの発展の足を引っ張っている最も大きな原因は、部分的な改革では部分的な成果しか残しえないということだ。特に、所得分配がうまくいっていないため、グローバル化のメリットを実感していない。過去20年間の変化の恩恵を感じている人と感じていない人の二つに分離される。

  経済的安定、NAFTAと民主主義は、メキシコがなんとか達成した3つの大きな成果である。しかし、これらはよりよい公共政策への出発点である。眠ってしまうことへの言い訳であるべきではない。政府はあるべき制度改革を計画、実施に移し、南部の後進性を払拭するよう努力すべきだろう。イタリアなどの例が示すように、その道がけわしいことはいうまでもない。

    雇用のフォーマル部門の拡大などを通して、社会のシステム化が進めば、税制基盤の拡大、生産性の上昇、経済発展という未来が見えてくるだろう。

Refernece
"Time to wake up." The Economist. November 18th 2006.

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