時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

歴史の軸を遡る(2):国境が生まれた頃

2021年02月19日 | ロレーヌ探訪



前回記した「ヨーロッパの操縦室」と言われたロタリンギアの地も17世紀に入ると、かなり変わってきた。神聖ローマ帝国とフランス王国との間に挟まれたように、小さな国のようなロレーヌ公国 Duchy of Lorraine が生まれた。Lorraine(ロレーヌ)の語が公文書で使用され始めるのは 15世紀前後のことである。

ヴェルダン条約の締結
AD843年、フランク王ルイ1世(敬虔王)の死後、息子であるロタール、ルートヴィッヒ(ルイ)、シャルルの3人がヴェルダンに会して、残されたフランク王国を三分して支配することを定めた。歴史上、ヴェルダン条約として知られる。イタリア、ドイツ、フランスの3国が形成される出発点といえる。しかし、それまでの間、この地はしばしば激動の渦に巻き込まれた。例えば1562年には、かつてはロレーヌの領土であったメッス、トゥール、ヴェルダン司教領をフランス王アンリ2世が占領するなどさまざまな変化が起きている。

ロレーヌの名で知られる地域は、現在のフランスの北東部、「聖なるペンタゴン(六角形)」の一角にあたる。1766年フランスへ統合されるまで、ロレーヌ公国 Duchey of Lorraine として、多くの波乱、激動を経験した地である。

ロレーヌ公国といっても、現代の我々が思い浮かべるような境界線(国境)によって明瞭に他国と隔てられ、あらかじめ定められた地点からのみ入出国が許され、国家による出入国管理が行われる現代の国境事情とはきわめて異なる様相を呈していた。国や国家という観念自体が未成熟であった。

この点を17世紀初め、1600年頃のロレーヌの地を示した図で見てみよう。


Source: Tuillier, Georges de La Tour, Flamarion, 1993 p.6

一見して明らかだが、あたかもロレーヌという海に幾つかの司教領が島のように散在するようなイメージである。こうした司教領などの領邦都市や町はしばしば高い城壁で堅固に囲まれた城郭都市であった。

説明:
地図: 1600年頃のロレーヌ
薄黄色:ロレーヌ公国(Duchy of Lorraine公領)
薄緑色:メッス司教領
紫色:トゥール司教領
オレンジ色:ヴェルダン司教領

この時代、17世紀フランス画壇の巨匠とされる画家ラ・トゥールが生まれたVic=sul=Seille(通称Vic) はメッス司教区の飛び地であった。画家がその後貴族の娘と結婚し、移住を希望したリュネヴィル Lunevilleはロレーヌ公国にあり、ロレーヌ公の夏の居城が置かれていた。そのため、ラ・トゥールはロレーヌ公にヴィック(メッス司教区)から妻ネールの生地であるリュネヴィルに移住を希望する請願書を提出している。

当時、ロレーヌ公国の首都は近くのナンシーであったが、リュネヴィルにはロレーヌ公の夏の居城があった。




17世紀のロレーヌは、30年戦争の舞台となるなど、多くの波乱、激動を経験した地域であった。それにもかかわらず、この時代の美術界を代表する画家たちも生まれ、後世に残る大家も生まれ、シモン・ヴーエ(1590-1649)、ジャック・カロ(1592-1635)、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652)などのように、画業の修行・遍歴をした後には主としてロレーヌで活動した。しかし、ニコラ・プッサン(1594-1665)、クロード・ロラン(ジュレ:1600-1682)などは、ロレーヌの生まれでありながら、イタリアへ赴き、その後ロレーヌに戻ることはなく、イタリアで画家としての活動を続けた。興味深いことは、こうしたフランスではほとんど活動しなかったプッサンやロランなども、フランスでは自国の美術界の巨匠に数えている。

前回取り上げた歴史旅行家のSimon Winderは、17世紀ロレーヌ生まれの画家についても記しているが、別の機会に紹介することにしたい。

参考:
リュネヴィルの城郭図




ナンシーの城郭図 旧市街と新市街の対象に注意!


〜〜〜〜〜〜〜〜
N.B.
ナンシーの誕生は、11世紀の ロレーヌ公 ゲラルト1世が建てた封建時代の城に遡る。その後彼の子孫によって ロレーヌ公国の首都になった。
1218年、ロレーヌ公テオバルト1世に支配された。神聖ローマ皇帝 フリードリヒ2世]によって町は放火され、徹底的に破壊された。その後再建され、新しい城によって拡張、防衛されるようになった。
1477年、ナンシー郊外で ブルゴーニュ戦争 最後の戦いである ナンシーの戦い が起こり、 シャルル突進公が敗北死した。
17世紀 フランス国王は宰相リシュリューの考えもあって、ロレーヌの領有を強く目指すようになった。 30年戦争により神聖ローマ皇帝の権威が低下する中、リシュリュー枢機卿は 1641年 にロレーヌの占領を強行した。 1648年 の ヴェストファーレン条約 でフランスはロレーヌの返却を余儀なくされたが、ロレーヌの東にある アルザス においていくつかの地点を獲得した。
1670年にフランスは再びロレーヌに侵略してロレーヌ公 シャルル4世を追放した。
18世紀、ロレーヌ公の地位にあった ポーランド王 スタニスワフ1世(スタニスラス)のもとで、街の景観が整えられた。現在も、広場の名前としてスタニスラスの名が残されている。スタニスラスが1766年に死去すると、ロレーヌ公国は フランス王国に併合されたが、ナンシーはそのまま州都になった。



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歴史の軸を遡る:「ヨーロッパの操縦席」の淵源

2021年02月13日 | ロレーヌ探訪

Simon Winder, LOTHARINGIA, Picador: London, 2019, cover

新型コロナウイルスがもたらした危機と混迷の世界を離れて、しばらく歴史の軸を遡ってみる。手がかりとしたのは、友人の紹介で知った上掲の一冊である。ヨーロッパの歴史と個人的な旅の経験を組み合わせたユニークな構成である。

ちなみに、本書はEdward Stanford Travel Writing Award 2020 を受賞している。

前回の記事(「世界の仕組みを理解する」)で提示した近代の始点となる17世紀ヨーロッパは、美術の世界では画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥール、レンブラント、プッサン、フェルメールなどが生まれ、活動した時代であった。それぞれ活動の地点は異なっていたが、このブログの中心テーマであるラ・トゥールについてみると、画家が生きたロレーヌといわれる地域は、17世紀当時フランスと神聖ローマ帝国に挟まれ、かなり複雑な政治地理的状況に置かれていた。その淵源を求めてさらに遡ってみる。

ロタリンギアが生まれるまで
非常に遠い昔、そして長い間、ヨーロッパに現在のフランスとドイツを含んだロタリンギアという今ではあまり知られなくなった地域があった。現在はフランス領であるロレーヌはその一部であった。ロタリンギアは、現在のヨーロッパでみると、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランス東部、ドイツ西部、スイスなどいくつかの国からなっていた。この地域の一部は「バーガンディ」Burgundy (ブルゴーニュ)の名でも知られていた。

AD843年、シャルルマーニュ大帝の曽孫3人がヴェルダンに集まった。大帝の死後に残された広大な領地をめぐり、誰がそれを継承するか激しい争いが続いていた。ようやく決着がついたのは、領地を3つに分け、それぞれに統治するという解決だった。簡単に言えば、その後のフランス、ドイツに分割し、残されたのは両者の間にあるロタリンギアという第三の地域だった。その後のヨーロッパの歴史は、概して言えばこの大きな領地分配とその後の統治のあり方でそれぞれの運命が微妙に定まったといえるほどだった。



「ヨーロッパの操縦室」
とりわけ、この第三の地域は、現在のフランス東部、ソーヌ川流域を中心とする地方にほぼ相当し、9世紀に一時王国となったが、10~17世紀には公国、革命前にはフランス国内の一部であった。かつての支配者であったシャルルマーニュ Charlemagneの子孫に敬意を表して「ロタールの地」’Land of Lothar’として知られ、「ロタリンギア」LOTHARINGIA (ドイツ語でLothringen, フランス語でLorraine)と呼ばれていた。現代史では時に「ヨーロッパの操縦室」’cockpit of Europe’とも言われる重要な地域である。しかし、その背景を知る人は意外に少ない。

本書は著者サイモン・ウインダーの3部作 GERMANIA, DANUBIAに続く著作である。ゲルマニア GERMANIA, ダニュービア DANUBIAは実在しないが、ロタリンギア LOTHARINGIAは実在した地域である。著者が各地をめぐり蓄積した個人的な見聞資料を歴史の中に埋め込んだ本書はあまり例がなく、極めて興味深い。東西から虎視眈々と領地を狙う勢力に対抗した ロタリンギアの人々 Lotharingians は、究極的にはオランダ、ドイツ、ベルギー、フランス、ルクセンブルグ、そしてスイス人になっていった。数世紀にわたり、ロタリンギアはヨーロッパ屈指の美術家、発明家、 思想家などを生み出すとともに、多くの貧しく救いのない人たちの征服者に対抗してきたともいわれる。

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シャルルマーニュ(フランク王国カロリング朝の王。768年即位、800年ローマ皇帝から(西)ローマ皇帝の冠を受けた。カール大帝、チャールズ大帝(742~814年)

シャルルマーニュが支配した広大な領地は、West Francia (後のフランスの中心部分)、East Francia (神聖ローマ帝国の中心部分)、そしてMiddle Francia (中部フランシア)という地域に分かれていた。この中部フランシアは、最初はロタール I世に割り当てられ、後にロタールII世の支配下に置かれた。その後、中部フランシアは単なる地理的な名称となった。この地域は複雑な歴史があり、近代的な国家の概念で定義することはできなかったこともあって、しばしばロタリンギアの名で呼ばれてきた。このMiddle Franciaにはアーヘン Aachen (シャールマニュの居住地)や パヴィア Paviaなどの都市があったが、地理的にも、政治的にも重きをなさなかった。

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今日のフランスとドイツという顕著な国民性の差異がある両国が、厳しい分断、対決と協調を経験してきた歴史適時事情、多数の国の密接しての存在、地域共同体としてのEUの成立と今後など、多くのテーマを考える鍵がロタリンギアの誕生と歴史の中に秘められている。

ロタリンギアは、国際的な紛争、戦争が極めて激しかったことでも知られていた。問題山積で大変厄介な操縦室となっていた。時代は異なるが、ロンドン、パリ、ベルリン、マドリッド、ウイーンなどの都市は、相互に抗争する勢力の中核であったが、興味深いことに別の時期においては、さまざまに連帯、協力する関係が生まれていた。例えば、ルイXIV世、ナポレオンあるいはウイルヘルムII世、ヒトラーなど専制君主や独裁者でも、完全にこの地域を支配することはできなかった。

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N.B.
上記の「ロタリンギア」「ロートリンゲン」「ロレーヌ」と呼ばれるようになった領邦は、1766年まで存続した。

ロタリンギア分裂後、帰属を巡って抗争が起き、 10世紀に高(上)ロレーヌと低(下)ロレーヌの南北2公国に二分され、後者がやがて ブラバント公に帰属したため、前者が 11世紀以降は単にロレーヌと呼ばれるようになった。

13世紀前半まで 神聖ローマ帝国 の勢力下にあったが、13世紀後半より フランス王 の勢力が浸透し、 三十年戦争の際には事実上 フランス が占領していた。

その後も ロレーヌは17世紀末までフランスの支配下にあり、 ロレーヌ公国の公位は名目上にすぎなかったが、 1697年のレイスウェイク条約 で再び神聖ローマ帝国に帰属が戻り、 1736年まで ロートリンゲン公国 として 神聖ローマ帝国 の 領邦国家となっていた。

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EUの母体となったロタリンギア
ロタリンギアは多数言語、多数エスニックな地域でもあった。その形成、持続、そして消滅は、今日のEUの形成にもつながるものと考えられる。EUの最初のメンバー、ベルギー、ルクセンブルグ、ドイツ、フランス、オランダ、そしてイタリア(部分)は、元来ロタリンギアを構成した地域だった。

「ヨーロッパの操縦室」と言われたロタリンギア地域は、その後多くの変遷を経て今日に至っている。BREXITという大きな出来事も進行中であり、問題が解決したわけではない。EUの今後も波乱含みで予断を許さない。ロタリンギアというかつての「ヨーロッパの操縦室」の役割は、今はブラッセルのEU、そしてフランス、ドイツが担っている形だが、しばらく目を離せない。



追記:
この記事をアップしようと思っていた時(2月13日午後11時8分頃)、突如大きな地震があった。震源は福島沖でM7.3というかなり大きな規模であった。原発関連が現時点では大きなダメージを受けていないとのニュースにはやや安堵したが、建物など災害にあわれた方々には、心からお見舞い申し上げたい。図らずもこのブログの初めの頃に書いた寺田寅彦の随筆を思い出した。今回は2011年の東北大震災の余震とのこと。災害はコロナ禍の下でも待ってくれず、容赦なくやってくる。「日本の操縦室」は大丈夫だろうか。

参考追記:
本書と類似した試みとしては、先行して刊行されている。この作品も大変興味深い。
Graham Robb, The Discovery of Framce.Picador, London, 2007



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30年戦争の中のロレーヌ(3)

2011年10月11日 | ロレーヌ探訪

 

甲冑姿のロレーヌ公シャルルIV世 
銅版画との対比が興味深い

Portrait de Charles IV
Nancy, Musée Lorrain



 

  17世紀、30年戦争当時のテーマをブログで、何度か取り上げているのは、単なる懐古趣味ではない。明示してはいないが、長くブログにおつきあいいただいている皆様には、漠然としてではあるが少しずつ伝わっていると思う(笑)筆者のある思考のネットが背景にある。

 30年戦争が世界史最初の「国際戦争」ともいわれ、ヨーロッパのほとんどの国がさまざまに関わり、人口比にすれば第二次大戦を上回るかもしれないといわれる多数の犠牲者を生んだ悲劇の舞台を、できるかぎり客観的に知りたいという思いが根底にある。30年戦争は、近年新たな関心も呼び起こし、優れた研究者も現れている。事態はかなり複雑で、新たな史観、史実の解釈も生まれている。

 現在も展開しているアフガニスタン・イラク戦争は、およそ8年近くを費やしたヴェトナム戦争同様に泥沼化し 、21世紀の「10年戦争」 とまで言われている。最大の当事者であるアメリカはいったい何年、戦争に関わってきただろうか。戦争の原因はそれぞれに異なるとはいえ、人類はいつになってもお互いに殺し合うという愚行を改めることがない。そこではしばしば「正義」Justice という怪しげな言葉が掲げられることが多い。

 

再び17世紀へと時空を飛ぶ

 

ロレーヌをめぐるフランスの野望

  ロレーヌ公シャルルⅣ世は、フランスがメッス、トゥール、ヴェルダンの3司教区を保護領として手中にし、それらを足がかりとしてさらに公国への影響力を拡大・発揮することを嫌っていた。これらの保護領は、フランスから見れば公国へ影響力を発揮するいわば布石となっていた。トゥール、ヴェルダンの2つについては、すでにフランスの実質支配が成立していた。

 メッスは伝統的にフランスが支配力を発揮しようとするための拠点になっていた。シャルルは、なんとかしてメッスでのフランスの政治的影響力を弱め、中立化させようと考えたようだ。シャルルについては、リシュリュー嫌いの偏狭な君主という見方も強いが、自分なりに父祖伝来の地ロレーヌを守りたいという意気込みもあった。しばしば血気にはやり、傍目にも策謀と分かる考えで動いてしまうような人物だった。それでも、歴史に名を残した偉大な父祖たちの築いたロレーヌを守りたいと思いは強く流れていたようだ。勝ち目がない戦いと思っても、シャルルを君主と仰ぐロレーヌの人たちも少なくなかった。

 


17世紀30年戦争当時のアルザス、ロレーヌおよびフランシュ・コンテ(フランス東部の昔の州)。シャンパーニュはロレーヌの西側、パラチネート(プファルツ)は東北部に位置。南東部はスイス。


 

 16302月、シャルルの要請で2700人の神聖ローマ帝国軍がメッスを占領した。メッス司教区の飛び地領ヴィックとモイェンヴィックは、フランスからヴォージェ山脈を経由してアルザスへ向かう主要経路の拠点になっていた。この当時、別の外交危機に対応を迫られていた宰相リシュリューは、このシャルルの動きを過大評価してしまい、全面的に帝国軍がフランスへ進入してくる先駆けかもしれないと考えたようだ。そして、対抗手段として、シャンパーニュ(ロレーヌの西部)へ大軍を派遣した。

 ちなみにリシュリューの戦略は、時にこうした過剰な対応や、誤った判断もあったが、全体としてきわめて巧みであった(この点についても、近年リシュリューが関わった戦争について、新しい史実の発見などもあり、大変興味深い。戦略家としてのリシュリューの面白さについては、触れる時があるかもしれない)。
 

 実際には、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナンドは戦線を拡大する意図はなかった。しかし、皇帝の周辺には、この機会を利用しようと思っていた人物もいた。フランス自体、しばしば内乱に揺れ動く、確固とした国家基盤ができていない時代であり、その隙に便乗しようとする者も多かった。

 たとえば、資産家パトロンのオリヴァーレ
はシャルルに資金援助し、ガストンにフランスへ侵攻させようとした。フランスがオランダを支援することを抑止するという意味を含んだこの対応は、実現すると、フランスには大きな問題だった。

 ガストンはアルザス、バーゼル、さらにヴュルテンベルグの支配下にあったモンペルガールなどへまで出かけ、兵隊を集めることに奔走していた。この時代、君主や領主に直属する兵士は少なく、主として傭兵であり、そのための資金力がものを言った。傭兵は戦時に金で雇われる。概して、支給される報酬と戦果をあげた時の報奨への期待で集まってきた。
1632年5月までに彼は2,500人の騎兵を集めた。他方、シャルルは15,000人を集めた。


 しかし、その集めた傭兵たちの統一のとれない実態を見て、策謀に走り、実戦経験に浅いシャルルは、自分には軍隊も十分管理できないことを悟った。さらに、そうした兵力が集結していること自体が、リシュリューの怒りを買い、フランスがシャンパーニュにいる軍隊をロレーヌに進入させるのではないかと恐れた。

 それでも、シャルルは
163110月にライン川を越えた。しかし、彼の軍隊は風邪にかかる者が多く、下パラティネート(現在のプファルツ)をスエーデン軍が占領することすら防げなかった。一ヶ月もしないうちにかろうじて生き残り、統制もなくなった7000人近い傭兵たちは、ライン川を渡り逃走に追い込まれた。

 

 ロレーヌからシャルルが離れている時を狙って、フランス軍は謀反したガストンへの軍事的対応を理由に、ロレーヌに侵攻した。12月末、帝国側軍隊はヴィックとモイエンヴィックで降伏した。フランス軍をなんとか追い払おうとした試みは、16325月、フランス軍の再度の侵攻を招いた。そして、620日にはリヴェルダンの講和で敗戦を認め、なんとか事態を治めざるをえなかった。 

 結局、シャルルの軍隊はロレーヌのいたる所で敗退、降伏し、フランスは3つの司教区と飛び地領などを確保し、戦略上重要なアルザスへの道を確固たるものとした。(迅速な連絡手段がない時代であり)、まったく悪いタイミングで、3日後にガストンはわずか5,000の軍でフランスへ進入した。彼はラングドックの知事の協力をかろうじてとりつけたが、ユグノーは痛いレッスンを受け、ガストンを支持して挙兵することはできなかった。ガストンは逃走したが、彼に協力した知事は処刑され、ガストンたちは163410月王とリシュリューに忠誠を誓わされる羽目になった。

ガストンとシャルルの晩年
 しかし、ガストンの反フランスの策謀はこれで収まらず、繰り返し同じような陰謀を繰り返した。一時はリシュリュー枢機卿暗殺まで画策、失敗している。しかし、1643年にルイ13世が死去すると、フランスの陸軍大将、1646年にはアランソン公になった。だが、フロンドの乱に際し、マザラン枢機卿といさかいを起こし、1652年にブロワに蟄居させられ、そこで生涯を終えた。ブロワ城はかつて母后マリー・ド・メディシスが、息子ルイ13世によって一時幽閉された場所でもあった。

 他方、ロレーヌ公シャルルはロレーヌ人としての独立心を強く抱いていたが、軍事戦略は拙劣であり、周辺にも適切な判断ができる軍事顧問もいなかった。結果として拙劣な行動に終始し、ロレーヌ公の地位を弟ニコラ・フランソワに譲り、亡命することになる。その後もさまざまな形で、反フランスの策動を図ったが、いずれも敗退した。1661年にいちおう復位するが、1670年には公国はフランスの占領するところとなる。シャルルは結局ネーデルラント継承戦争に神聖ローマ帝国軍の一員として参戦、軍務の間に死去した。

屈辱の時 
 
1634年11月8日、リュネヴィル市民のひとりひとりが、ルイ13世への忠誠誓約書に署名した。この時すでに、メッスにはフランスの高等法院、ナンシーとリュネヴィルにはフランス王室の総督が配置されていた。

 
小国ながら大国何者ぞという自立心が強く、誇り高かったロレーヌ人にとって、このフランス王への忠誠誓約は屈辱そのものであった。住民の中には、ロレーヌ公への忠誠を抱き、署名を拒否し、国外逃亡した者もいた。英明で武運に恵まれ、外交に巧みであった歴代ロレーヌ公と比較すると、凡庸で経験に乏しく、策謀に走りがちな君主であったが、公国の住民にとってはわれらが君主だった。 

 市の名士たちに連なって、画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールも表向きは迷いも見せることなく率先署名していた。しかし、画家の内心もロレーヌとフランスの間で揺れていたことだろう。その後の画家の生き方からその動きをうかがうことができる。

 

 

 

 

 

Q; さて、この短いフレーズの意味することは? お分かりの方は立派なロレーヌ・マニア(笑)かもしれません。

 

 

 

 

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30年戦争の中のロレーヌ(2)

2011年10月05日 | ロレーヌ探訪

 

没落の道をたどるロレーヌ:世界を見誤った君主たち

 

Charles IV, duc de Lorraine et de Bar.
Gravure, Paris, Bibliothèque nationale.
©Collection Boger-Violler

ロレーヌ公国シャルルIV世



 

 さまざまな危機をなんとか乗り切って17世紀にたどりついたロレーヌ公国だが、1622年にアンリ2世が死去すると、その後を強引に継承した甥のシャルル4世の時代に、公国の命運を定める大きな危機がやってきた。

策謀家シャルルのイメージ

 ロレーヌを版図に収めていた神聖ローマ帝国皇帝マキシミリアンの妻エリザベス・レナーテは、ロレーヌ公シャルルの叔母であった。フランス宗教戦争の間、この一族は戦闘的なカトリック連合を主導してきた。ロレーヌ公の座についたシャルルIV(1604-1675)は、1620年代に繰り返し、この連合に入ることを試みたが受け入れられなかった。

 若い頃から策謀家の噂が絶えなかったシャルルは、きっとフランスと問題を起こすだろうと拒絶されてきた。シャルルは人間としては快活な人物であったようだが、生来策略が好きで政治外交上の資質に欠けていた。ちなみに、写真がなかった時代であり、シャルルのイメージを想像するのは、いまに残る銅版画などに頼るしかない。シャルルの肖像版画はかなり残っているのだが、容貌魁偉なものから普通の貴族風のものまであり、いずれが実在した人物に近いか、判断が難しい。ここでは出所その他から比較的穏当なものを選んでみた(上掲図)。

 
シャルルが策略家であるとの噂はどうもその通りだった。まもなく状況が決定的に自壊する時が来る。その原因を作りだしたのは、やはりロレーヌのシャルルだった。公位についたシャルルは、反フランス(なかでも反リシュリュー)の考えを明らかに掲げるようになった。あのロレーヌの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの画家人生に決定的な転機が訪れたのも、この時からだった。

 
他方、こうした状況で、皇帝マキシミリアンがシャルルとの連携を強めたのは、ほとんど統制がとれなくなっていた神聖ローマ帝国の実態に半ば自暴自棄になっていたためだったとみられている。

醸し出された不穏な空気

  シャルルがハプスブルグ側に加担したことで、ロレーヌはフランスとハプスブルグの2
大勢力間で、一触即発の場に化した。フランスにとって、策謀家シャルルの動きは、新たな戦争の火付け役になる危険性が感じられた。シャルルのフランスへの反発は、多分に王に代わってフランスを支配する宰相リシュリューに向けられていた。国王ルイ13世に代わり、強大な権力を発揮した宰相リシュリューを嫌う貴族や宮廷人も多かった。

 
実際、ナンシーにあるシャルルの宮殿は、反リシュリューの考えを抱く亡命者などの巣窟になっていた。その中には、あのシェヴルーズ夫人も後年(1937年)、パリから亡命、ここへ逃げ込んだ。

王座を狙う男たち

 
この反リシュリューのグループは、その後ルイ13世の王弟ガストン・ド・オルレアンGaston Jean Baptiste de France (1608-1660)が加わることで、大きな政治の台風の目となる。ガストンは、フランス王アンリ4世と王妃マリー・ド・メディシスの3男として生まれた。兄に後のルイ13世、姉にスペイン王フェリペ4世妃エリザベート、サヴォイア公妃クリスティーヌ、妹にイングランド王チャールズ1世妃アンリエットがいる。



Gaston d'orleans (image) painter unknown
painter in 18th century? 

 
  
リシュリューとそりの合わないガストンの存在は、スペイン王の着目するところになる。正統な王弟である以上、ユグノーの謀反者などと結ぶよりも、力になると考えたのだ。16316月、ガストンの母后マリー・ド・メディシスがブラッセルへ亡命するに及んで、ガストンも加わる。そして、主たる首謀者が1641年に敗北するまで、ガストンの存在は注目を集め続けた。

 
背景にはさまざまなことがあったが、ガストンはフランスにおいて、王権の奪取を含めて、もっと大きな権力を発揮することを求めていた。兄のルイ13世は1618年まで嫡子がなかった。ガストンは自分の結婚に反対する兄に反発していた。これはフランスの王座への潜在的な後継者になることを拒もうとする謀ごとだった。1632年1月ガストンは秘密裏にナンシーで、シャルル4世の妹マルゲリット・ヴォーダモンと結婚した。

 シャルルとガストンの組み合わせは最悪だった。双方がルイ13世とリシュリューに対決する考えであり、共に前後の見境いなく突っ走ってししまうタイプだったようだ。到底、老獪で百戦錬磨の宰相リシュリューの相手ではなかった。さて、ロレーヌはどこへ行く?(続く)。

  

 

 ★国家の命運が指導者の力量に大きく依存しているのは、今になっても変わらないようです。大国アメリカと中国の間にあって、衰退の色濃い日本。大陸と地続きだったらどうなっていたでしょう。

 

Reference 

Peter H. Wilson. Europe's Tragedy:A New History of the Thirty Years War. London:Penguin Books, 2010, 995pp.

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30年戦争の中のロレーヌ(1)

2011年10月02日 | ロレーヌ探訪

 

 ピーター・ウィルソンの30年戦争史である『ヨーロッパの悲劇』を読んで、最大の収穫は、この時代のヨーロッパ世界についての理解が格段に深まったことだ。30年戦争は、その後のヨーロッパ史を理解する上でも欠かせない重みを持っている。今年、ドイツの『シュピーゲル』DER SPIEGEL誌が歴史特集に取り上げていることからもうかがわれるように、近年新たな関心が生まれている。とりわけ、主戦場のひとつとなったドイツの歴史を理解するには避けて通れない重みを持っている。ちなみに、この特集はやや通俗的ではあるが、近年の研究成果も取り入れ、要領よく整理されており、この複雑な戦争のスコープを確保するために大変便利だ。ウイルソンなどの字数の多い大著の整理の上でも手頃な手引きとしてお勧めものである。かくして、ウイルソンの労作のような作品を読むことで、あたかも話題のタイムマシーンで、歴史の大転換を展望できる。


 世界の歴史を顧みて、戦争のなかった世紀はあったろうか。人類はいたるところで絶え間なく争いを繰り返してきた。とりわけ、
17世紀はヨーロッパに限っても、年表を戦争が埋め尽くすほど各地で戦争、内乱、暴動が起きていた。このブログに記しているロレーヌでの惨禍も、30年戦争の全体的広がりの中では、ほとんど局地戦といってよい状況だった。日本人の間では、ロレーヌ公国の存在自体ほとんど知られていない。

歴代ロレーヌ公の努力
 
17世紀のロレーヌ公国は、30
年戦争の主要な戦場ではないが、ハプスブルグ・神聖ローマ帝国とフランスの間にあって、見逃せない重みをもっていた。とりわけ戦略上、フランスがアルザス方面へ軍隊を派遣するに際しても、ロレーヌは大変重要な位置を占めてきた。現代ヨーロッパには小国でありながら、大国の狭間を縫うように巧みに独立と発言力を維持している国が多いが、当時のロレーヌ公国も外交力という点では歴代公爵が優れた力量を持っていたといえる。文字通り、ロレーヌの命運は彼ら公爵の時代を読む力にかかっていた。
下掲のボグダンの作品は、この点に焦点を当てている。




 
 
 この時代のロレーヌ公国は、所領という意味ではハプスブルグ家、神聖ローマ帝国の一部(公爵領)だった。しかし、地政学上はフランス王国にきわめて近い特色を持った地域であり、法制度や社会、文化もフランスの影響を強く受けていた。

 フランス王室はパリの防備のため、ロレーヌを東の緩衝地帯として政治外交上きわめて重要視していた。あの策略に長けた宰相リシュリューは、いずれロレーヌを完全にフランスに統合することを企てていた。こうしたなか、ロレーヌの人々は、小国ながらもロレーヌ公国として文化的にも大きな影響を受けているフランスと自らを区分し、微妙な自立性を維持してきた。この小国が生まれた9世紀頃から17世紀初め、シャルル3世の頃までは歴代ロレーヌ公は、内政・外交に力を注ぎ、小国の独立性を維持してきた。

 ロレーヌ公国の歴代君主は自らが置かれた微妙な地政学的位置を巧みに利用し、フランスの王室や政治にもさまざまに関与していた。そのための主たる戦略的政策は、各国につながる政略的婚姻策であった。この時代、ロレーヌに限らず、ヨーロッパ各国の王室や貴族の家系に生まれた娘たちは、自分たちの意思とは関わりなく、しばしば外交政策上の駒のように動かされた。当然、嫁いだ先の相手との相性、文化との違いなどが、さまざまな問題を引き起こした。

 フランス王ルイ13世の王妃となったアンヌ・ドートリッシュ(スペイン王フェリペ3世の王女)の一生あるいはシュヴルーズ公爵夫人などの奔放な行動などは、かなりこうした人間性を無視した婚姻政策への反発の一端ともみられる。その一端は、デュマの『3銃士』などに生き生きと描かれている。彼女たちが繰り広げた不倫、浮気ともみられる恋愛関係、そしてさまざまな謀略は、パートナーであった王や貴族たちのそれに匹敵するものであり、読み込むほどに深入りしてしまう面白さがある。しかし、一般の歴史書で、この複雑な関係を読み取ることはきわめて難しい。文学や絵画などの支援が必要になる(続く)。

 

 

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画家を生んだパン屋の仕事場

2010年03月14日 | ロレーヌ探訪

18世紀フランスのパン屋、仕事場光景:Une boulangerie au XVIIIe siècle

  前回に続きパン屋の話題を。17世紀ロレーヌの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、ヴィック=シュル=セイユの町で、パン屋の息子として生まれた。彼が家業を継ぐことなく、なぜ画家への道を選んだかについては、謎のままに残されてきた。その後の史料調査で判明したかぎりでは、両親を含めて彼の家系には画家や彫刻家などの芸術家は見出されていない。その並外れた画才がいかなる環境で芽生え、育てられたかについては、ほとんど不明なままである。遺伝的関連?という点からみても、母親シビル・メリアンの家系に、貴族がいたかもしれないといった程度の情報しかない。しかし、貴族が画業の才を保証するものではないことは、貴族にはなったが画家としては、父親ジョルジュのようにはとてもなれなかった息子エティエンヌの例をみても明らかだ。

 ジョルジュが家業である父親ジャンのパン屋を選ばず、画業を選択する背景を探索する過程で、当時のパン屋の仕事の実態、社会的位置などについて関心を抱くようになった。その一端は、このブログにも記している。

 17世紀のパン屋の実態を推定することは、画家の制作実態を推定する以上に難しい。しかし、18世紀末頃からその様子は断片的ではあるが、かなり推測ができるようになってきた。たとえば、パリ市内のパン屋などについては、かなりの程度輪郭が描けるような史料が発掘されてきた。

 20世紀になっても、パリなどの大都市でもパン屋の仕事は17世紀と基本的にはあまり変わっていなかった。小ぎれいなパン屋の店頭の裏側には、過酷で厳しい仕事の世界が展開していた。あのジョルジュ・サンドも「暗い牢獄」と表現するしか適切な言葉がなかったようだ。18世紀末パリ市内のパン屋の光景をざっとイメージしてみよう

 徒弟制度が柱になっていたパン屋では、多くの仕事を親方の指示、監督の下で、徒弟や職人が担っていた。イメージと異なり、パン屋の仕事のほとんどは夜間の作業だ。それも暗い蝋燭の灯火の下の厳しい仕事だった。蝋燭はかなり高価でもあり、親方や親方の女房はしばしば蝋燭を最小限に節約していた。

 残る記録のいくつかによると、たとえば、18世紀半ば、パリ市内のあるパン屋に雇われていた職人は、夜も遅い11時30分に仕事を始めていた。別の親方のところでは真夜中、それも翌日になって仕事が始まっていた。またあるパン屋で働いていた遍歴職人の場合、夜の8時から翌朝7時まで休みなしに働いていた。疲れきった職人たちは、自室の寝床へ戻る元気もなく、しばしば仕事場で寝ていた。朝の7時に仕事を終えた職人は時に窯の上で眠った。

 パン職人の仕事は、窯に火をつけるため薪を組み上げ、くべることから始まる。それと合わせて、必要な水の桶などを運び入れ、150キロ近い粉の袋を運搬する。そして一度に100キロ以上の粉に水、塩などを加えながらこね桶の中でこねあげる。暗く、粉が飛び散り、湿っぽい空気の漂う部屋で、親方に叱られながら、粘着力のあるパン生地を扱う大変な力仕事だった。ふつうは手でこねたようだが、時には足で踏んでもいたらしい。そのつらさにパン屋の小僧がうめき声をあげながらこねることから、パン職人は時に、le geindre(うめく人) とまでいわれた。

 本来休息の時である夜が、パン職人にとっては、強制労働のような過酷な仕事の時間だった。18世紀初め、「休息の時である夜がわれわれには拷問の時」と嘆いた職人がいたが、遍歴職人にとっては「夜の奴隷制」とも言われるきつい労働だった。精神的、肉体的にも苛酷な仕事で、その圧迫と束縛感は19世紀までほとんど変わることなく続いた。

 仕事場の空気は粉塵と湿気でいつも重く淀んでいた。徒弟や職人たちは粗末な衣服、しなしば粉袋で作った衣服で働いていた。窯の火の熱さに加えて、きつい仕事で汗まみれになり、汗がパン生地に飛び散った。冬場の窯へ装填する前は凍える寒さだった。仕事はきつく、環境は劣悪そのものだった。昼間見る職人たちは、痩せて不健康な青白い顔で、粉まみれの案山子のような姿だった。過労で50歳で真夜中に仕事場で死亡したパン屋の親方もいたほどだ。部屋には小麦粉やさまざまな材料、水、塩などを入れた桶、作業台、パンづくりの道具などがいたるところに散乱していた。仕事場は窓のない小さな部屋で、天井は低く直立しては歩けないほどだった。パン生地をこねるのがやっとのほどの狭苦しい空間だった。これが1730年頃のパリ、サンマルタン通りのパン屋の仕事場の光景だった。

 ヴィックのような町では、仕事の厳しさはパリのパン屋ほどではなかったかもしれない。しかし、仕事を取り巻く環境に大きな違いはなかっただろう。パン作りは決して楽な仕事ではなかった。ジョルジュは家業のパン屋を手伝いながら、窯の前でなにを考えていたのだろうか。

 今日では機械化などによってパン屋の環境は顕著に改善はされているが、それでもかなりの仕事場は粉まみれのままだ。多くの仕事場は店の裏側か、地下室にあり、あまり人の目に触れない。もっとも、通りに面する店頭は、こぎれいに飾られている。透明さと劇場効果を持たせるため仕事場の一部が見えるようにしている店もある。

 大きな店では原材料をこねたり、パン種の発酵、成型、加工などの過程はかなり機械化はされてはいるが、商品の多様化や高級化に伴い、手仕事部分はかなり残っている。確かにパン生地の切り分け、パン種を加え、発酵させ、形を整える装置、冷房換気装置などは、古い時代とは大きく異なる。しかし、桶、パンを入れる枝編みのかご、カッター、ナイフ、刷毛などは依然として使われている。こね桶と窯なしではパン屋はやっていけない。これらは時代を通してパン屋の象徴的仕事道具として残っている。そして、ひとりの画家の人生を決めたパン窯の火も。

 


George Sand, Questions [politiques et sociales] Paris: Calmann-Levy, 1879 30-34、quoted in * S.Lawrence Kaplan, Good Bread is Back. London: Duke University Press, 2004.Translated from French version by Catherine Porter.

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在りし日をしのんで:ヴィックの城門

2009年03月06日 | ロレーヌ探訪

ヴィック=シュル=セイユ城門の崩れた城壁の「石落とし」



 16世紀末から17世紀にかけて、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生まれ育ったロレーヌ公国の町、ヴィック=シュル=セイユの町。今日訪れると、時が止まったような光景に驚かされる。しかし、ラ・トゥールの時代には、多くの人々が行き交う文化の交流地点のひとつとして、繁栄していた。

 以前に記したことがあるように、この時代のロレーヌ公国自体、きわめて複雑な状況を呈していた。公国の中にも、メッス、トゥール、ヴェルダンという3つの司教区が存在していた。ヴィック=シュル=セイユは、その中でメッス司教区の管轄圏に入り、いわば飛び地のような存在だった。こうした状況を反映して、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが結婚後、生地ヴィック=シュル=セイユを離れ、ロレーヌ公直下のリュネヴィル(妻の実家があった)へ移住するについても、請願状を提出し、租税などの免除を要請している事実からも明らかなように、移住自体も決して容易ではなかった。

 メッスは1552年にフランスの支配するところとなり、メッスにはフランス王(アンリ2世)の総督と守備隊が駐屯していた。メッスの司教はメッスからほど近いヴィック=シュル=セイユに司教館を建てて行政上の首都とし、滞在していたらしい。フランスの干渉が煩わしかったのかもしれない。その後長い年月の間に、城壁や司教館は崩れてしまい、わずかに城門の一部などを残すだけになっていた。

 しかし、幸い盛時の状況を偲ばせる絵画や資料はかなり残っていた。そして、近年この町にジョルジュ・ド・ラ・トゥール美術館が設置されたこともあって、町の考古学的研究成果の再評価なども行われ、わずかに残っていた城門の修復作業が行われた。その完成を記念して、2008年10月12日から2009年2月22日にかけて、「ヴィック=シュル=セイユのメッス司教区城館」という特別展*も開催された。修復後の最新状況は、以前にご紹介したブログ「キッシュの街角」(城跡を訪ねて)に見ることができる。



修復中の城門(2007年)

 ヴィックは、かつては周囲を城壁で囲まれた城砦の町であった。中世から近世にかけて、城砦としての増強・整備は進んだ。そして15世紀から16世紀初めにかけて、一段の充実が見られた。今回修復が行われた城門も一時は、下掲のように四つの塔を備え、偉容を示したものだったらしい。



 15世紀の城門は、残っている資料から3Dで再現すると、このように立派なものであり、前門には跳ね橋、水堀などもあったようだ。今回修復されたのは、わずかに残っていた前門の部分である。

 ヴィック=シュル=セイユに限らず、アルザス・ロレーヌには多数の城砦、要塞が残っている。この時代の城砦の構造、仕組みは色々と興味深い点が多い。いずれ記すことにしたい。


☆フランスの城の構造、建築法などについてはTVドキュメンタリー『中世の城の黄金期』Golden Age of Castles, NHKBS1  2019年6月12日がきわめて興味ふかい。


Le château des évêques de Metz à Vic-sur-Seille
, Jean-Denis Laffite, éditions Serpenoise, 2008, 65 p., ill., cartes



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リュネヴィル刺繍ご存知ですか

2008年10月16日 | ロレーヌ探訪
 

 このブログを訪れてくださる皆さんは、どこかでリュネヴィルの名を目にされているのでは。そう、17世紀ロレーヌの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが、この地の貴族の娘と結婚後、工房を置き、画家としての活動拠点としたと思われる場所です。たまたま見ていた10月16日、NHKTVフランス語講座に、突然リュネヴィル刺繍の場面*が出てきたので驚いてしまった。

 フランスでも必ずしもよく知られていない土地である。リュネヴィル Lunévilleには、「ミニ・ヴェルサイユ」といわれる宮殿(Château de Lunéville)もあり、王や貴族たちが絢爛たる宮廷文化を享受していた時代があった。大変残念なことに、リュネヴィルが位置するロレーヌ地方は、30年戦争などたびたびの戦禍で、貴重な歴史的遺産の多くを失ってきた。ラ・トゥールの作品があまり残っていないのも、そのためである。2003年の冬にも宮殿は大火で大きく損傷し、現在修復工事が行われている。  

 しかし、幸い今日まで継承されているものもある。リュネヴィル窯として知られる美しい陶磁器もそのひとつだ。窯自体は閉鎖されてしまったが、作品はコレクター・アイテムになっている。収集欲がないこともあって、残念ながらひとつも持っていないが、クラシックな美しさがある。

 それとともに、19世紀から続くリュネヴィル刺繍という技法がある。真珠とスパンコールを散りばめた刺繍で、まさに“糸の芸術”といわれる美しさだ。TV番組では、女性の華やかな扇に刺繍する作業が紹介されていた。  

 この技法では枠(メティエ)に布地を張ることによって、両手を自由に使って刺繍することが出来、布の目をまっすぐに保ち、刺繍によるゆがみを防ぐごとができる。枠にはめた綿のチュールにリュネヴィル型と呼ばれる鉤針(le Crochet de Lunéville)で刺繍する。従来の方法よりも正確かつスピーディーに制作ができ、針の通りにくいビーズなどを正確に刺すことが可能になった。  

 大変手間のかかる作業だが、その出来栄えぶりを見ると、驚嘆する美しさだ。かつて宮廷の女性たちの絢爛、華麗な衣装を飾り、圧倒的な人気の的であっただけに、そのまま衰退してしまうのは惜しい技術だ。幸い最近パリなどのオート・クチュールでも、再認識され、注目されだしたようだ。以前に訪れた時は宮殿火災の跡を修復中で、リュネヴィルは停滞の色が濃かった。

 こうしたことで、伝統技術、地場産業が再生することは喜ばしい。どこの国でも同じだが、停滞した地域が活性化するためには、外部から苦労して新技術を持ち込むよりは、その土地に蓄積された技術が内発的に花開くことが確実であり、最も望ましい道だ。  

 この伝統芸術を継承し、後世に伝える試みがなされている。フランスのリュネヴィル刺繍学院(Conservatoire des Broderies de Lunéville)であり、1998年、リュネヴィル宮殿の中に設立された。その後、宮殿が2003年冬の大火災で大きく損傷したため数年間閉鎖されていた。このたび再開され、一年を通して研修生を受け入れている。

 この伝統ある刺繍技術の一端をご覧になりたい方は下記のアドレスをご訪問ください。作業工程のヴィデオも見られます。

リュネヴィル刺繍学院
Conservatoire des Broderies de Luneville


* Anne Hoguet. L'eventailliste (扇職人)、フランスのテレビ番組Mains et Merveilles から部分放映。
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さまざまな春

2007年04月10日 | ロレーヌ探訪

   
   
    ロレーヌ再訪の旅は、期待していた以上に充実感を与えてくれた
。 いつものせわしない旅とは違って、時間の束縛からできるだけ抜け出て、行きたい所、見たいものを優先し、余裕を持たせた旅だったからかもしれない。これまではよく見えなかったことが、かなり見えてきたのは予想外の驚きでもあった。記してみたいことはあまりに多いが、ここで一休みすることにしたい。

  インターネット時代、かなりの情報はネット上で得られるようになったとはいえ、現地、いわばオンサイトで体験するメリットは多い。自分をその場に置き、実物に肌で接している間に、さまざまな連鎖反応が生まれて、新たな可能性に気づいたりする。旅のひとつの目的であった17世紀の画家の世界に、現代の目でできるだけ近づいてみたいと思う願いはそれほど突飛なものではなかった。400年前の世界と現代とは離れすぎていると思われる方もいるかもしれない。しかし、その距離は思いのほか近かった。

  ロレーヌという地域がかつて経験したことを、現在でも経験している国々がある。外国の軍隊の自国への侵入と惨憺たる国土の荒廃など、人類は進歩しているとは考えがたい。その中でさまざまに生きる人々の生き様を推し量ってみたいと思った。

  ロレーヌの野には春の光が射し始めていたが、日本へ戻ったらこちらも春爛漫であった。春は心身に新たな生気を吹き込んでくれる。東京には、「イタリアの春」 PRIMAVELA ITALIANA も来ていた。レオナルド・ダ・ヴィンチ初期の傑作「受胎告知」(ウフィツィ美術館蔵)が、イタリア政府の好意によって国立美術館で展示されている。この「受胎告知」は何度見ても素晴らしいが、一寸距離感がある。さまざまな取り決めをある程度理解していないと、作品の真意は伝わってこない。作品を読み解くための蓄積が見る側に要求されている。しかし、17世紀になると、そうした縛りが次第に解けてくる。別に知識がなくても、作品に無心で対するだけで自然と伝わってくるものがある。現代に通じる人の温かみのようなものが感じられる。「印象派の時代」とも少し違った「人間」がそこにはいた。


Photo Y.Kuwahara

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ロレーヌの春(15)

2007年04月07日 | ロレーヌ探訪

 

Caithness の作品例 Photo Y.Kuwahara

 「クリスタルグラス・ペーパーウエイト」というのものをご存知だろうか。要するに、クリスタル・ガラスで作った文鎮である。ただ、ガラスの文鎮といっても実は色々な種類があって、ガラスの中に美しい模様、花、虫などのデザインを埋め込んだり、ガラス自体を加工して、動物や微妙な文様などの形に成形したものなどきわめて多様なものがある。

 世の中に出回っている作品のほとんどは、大量生産の製品で価格も安い。しかし、数は少ないが絶妙な技能を持った職人の手仕事による、目を見張るような美しい作品がある。こうした作品はコレクターズ・アイテムとして、サザビーなどでオークションの対象にもなり、当然、価格も驚くほど高い。プロのコレクターの世界が出来上がっている。

バカラの拠点
 ナンシーからリュネヴィルへ行く道の少し先に、世界的なガラス装飾品メーカー・バカラ Baccarat の工場とガラス作品の博物館があることを偶然知った。めったにない機会なので、立ち寄ることにした。バカラのブランドは世界中に知られているが、工場、博物館がここにあったことは知らなかった。同社の製品は、装身具や照明、美術品などが多く、ペーパーウエイトは今はわずかしか作られていない。

 いつ頃からこうしたペーパーウエイトが作られるようになったかは、定かではない。1845年頃、フランスではナポレオン戦争の後、低迷していたガラス工房が、お土産用、装飾品などに作ったところ、当時の人々に受け入れられたといわれている。その後、フランス、イギリス、ボヘミア、イタリア、そして後にはアメリカなどでも制作されるようになった。確かに、当時の職人がどのようにして作ったのだろうかと思わせるきわめて美しい作品もある。日本ではなぜかあまり精緻なものは作られていない。

 こうした作品は、初期には大変な人気を博したらしいが、まもなく1860年代には衰退してしまう。それでも、一部の工房が細々と制作していたらしい。

新たなブーム
 その後、時代が変わって1950年代に、フランスのバカラとサン・ルイの工房(今はいずれもエルメスの傘下)が、エリザベス2世の戴冠式とアイゼンハウアー大統領の就任式記念品として作ったのが、再びブームを巻き起こすきっかけになったらしい。アンティーク、現代の作品を含めて投機対象となり、作品によっては、一部のコレクター以外にはとても手が出ない高値がつくようになった。

  ペーパーウエイト(PW)に関心を持つようになったのは、ちょっとしたきっかけであった。1980年代初めの頃、ガラスや銀細工、木工家具など、伝統職人の熟練とその伝承のあり方の調査をした時に、たまたま出会った作品が目に留まり、その製作工程に興味を抱いた。

 その後、縁あってガラス製品の世界的な企業、コーニング社のガラス博物館(PWの大きなコレクションを所蔵している)を見学し、工法についてもかなり詳細な説明を受けることができた。海外に滞在した折などに、いくつかのガラス工房を訪れて、インタビューをし、製作過程を見学させてもらった。Caithness (UK)、Whitefriers (UK、今はCaithness傘下)、 Kosta Boda(Sweden)、Corning Glass (USA) などが記憶に残っている。


 多くの作品は大変高価で、作品を所有することは初めからあきらめていたが、製造工程には大変興味を惹かれた。溶けた高熱のガラスを扱いながら、どうしてあれほど精緻なものが作れるのだろうか。いくつかの工房を見学することで、実は製作技術にもいくつかの方法があることが分かったのだが、いずれにしてもきわめて高度な熟練職人の技が生み出したものである。

高度な技能の維持・伝承
 コレクターの追い求める美しい製品は、加工技術も難しく、単品ないしは限定数の製造になっている。多くはアンティークの部類に入る。そして、サン・ルイやバカラの工房などでは、今日も職人のサインと日付入りの限定版として製造されている。サインや日付はしばしばガラスの製品の中に隠されたように記されているので、贋作は出る可能性は少ない。また、それほど高価でないものでは、作品数とその作品が何番目にあたるかを記した証明書がついているものもある。

 従来、作品の製作工程は、高熱で溶解したガラスの加工のため、職人が作業場の近くに絶えずいること、高度な熟練・技術の保持と外部への流出阻止などの理由で、工房に隣接して住居が設置されていた。しばしば、辺鄙な場所に工房が置かれていた。たとえば、サン・ルイの工房は、ボージュ山脈の山中に置かれている。また、バカラの工房もパリなどの都市に近い便利な場所に位置しているのではない。リュネヴィルの南東30キロほどの丘陵地帯である。併設の博物館は公開しているが、工房は見学できない。写真を撮らないことを条件に少しだけ覗かせてもらった。原料の選別、溶解、保持など、設備は大変近代化していたが、作品の制作は昔ながらの手仕事である。

 

Baccarat のアンティーク作品の例

  10年ほど前に、イギリス北部、キングス・リンの近くのケイスネス Caithness の工房を見に行ったこともあったが、設備は昔ながらであり、町工場のような印象であった。花瓶や水差しなど一般のガラス器製品の製造工程は公開していたが、クリスタル・ペーパーウエイトは、時々しか製作しないという理由で見せてもらえなかった。

  今回のロレーヌ、とりわけナンシーへの旅は、再び眠っていた記憶細胞を少し活性化してくれた。これまであまり関心のなかったエミール・ガレ、ナンシー派のおびただしい数の作品に出会って、ガラス工芸の絶妙、華麗な次元に魅了された。それらに込められた熟練の奥深さ、伝承のあり方などについて改めて考えさせらた。これについては改めて記す機会があるかもしれない。

  ガラス工芸品の製作は、原料を調合し、溶解炉の中に設置された大型の耐火粘土製の坩堝に入れて溶解する。坩堝には高温な材料が真っ赤に溶かされている。あの陶磁器窯やパン竈に燃えている焔の世界がそこにもあった。

 

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ロレーヌの春(14)

2007年04月06日 | ロレーヌ探訪


    ナンシーからリュネヴィルへ向かう途中、左側の丘の谷あいに華麗な教会の尖塔が見えてきた。二本の高い尖塔が、赤茶色の屋根の家々と、背景の緑の丘に映えて際立って美しい。大寺院ともみまがう大きな教会である。ミューズ川に沿った町のほぼ中心に建っている。明らかに、このあたりのランドマークともいえる人目をとらえる素晴らしい光景である。道路からは少し見下ろすような位置にある。

  その美しさに惹かれて予定を変更し、寄り道をすることにした。地図を見ると、サン・ニコラ・ポールSaint-Nicolas-du-Port であった。その地名で思い出した。ここはかつて、ロレーヌの商業活動の中心地であった。しかし、17世紀、30年戦争の間にリュネヴィルと同様に歴史に残る悲惨な経験をした。

略奪の場と化した町
  この美しい町は、1635年4月、ハンガリーとポーランド軍に略奪され、その翌日にはフランス軍が略奪を行った。さらに続いて、神聖ローマ皇帝のワイマール軍が入ってきた。彼らは、もはやなにも略奪する対象がないことを知ると、激昂して町民を殺害し、町に火をつけた。そして同年の11月11日、ロレーヌでは大変に有名であったこの教会堂まで徹底的に破壊してしまった。

  11世紀に建立された大変歴史のある教会であった。ロレーヌばかりかヨーロッパでもその名が知られた著名な巡礼地であった。1429年には、ジャンヌ・ダルクも礼拝に訪れたという。リュネヴィルとナンシーのほぼ中間であり、ラトゥールも幾度となく訪れたことだろう。

  人々の賛美の的であった教会の屋根はその後、長らく破壊されたままになっていた。なんとか修復されたのは、やっと1735年になってからのことだった(1950年になって、ローマ法王からバジリカと認められた。)ナンシーとリュネヴィルを結ぶ道はこの美しい谷間にある町を迂回し、見下ろすように通っており、巡礼者のみならず、この地を旅する者にとっては大きな感動を与えたであろう。その美しさは、際立っていた。ゴシックの高く聳え立つ尖塔が町の目印のように見える。ちなみに1940年にも空爆を受けて破壊され、大きな損傷を受けた。

  幸いなことに、この地に生まれ、その後アメリカに移民し、1980年に亡くなったフリードマン夫人 madame Camille Croue-Friedman が再建のために多額な寄付をしてくれた。中世以来、人々の目をひきつけてきた華麗な85メートルを超える尖塔も復元された。教会内陣やステンドグラスも復元され、目を見張るほど美しくなっていた。

災厄の時期
  17世紀フランス美術史、そしてラトゥールの著名な研究者であるテュイリエは、30年戦争当時のロレーヌ破壊のすさまじさは、今日のレバノンやユーゴスラヴィアが経験している実態と変わりないと述べている。この町にかぎらず、30年戦争当時、ロレーヌを侵略した占領軍の略奪、暴行のすさまじさは言語に尽くせないものだった。侵略した軍は、しばしば司令官からひとつの町や城を略奪の対象として与えられた。

  彼らは略奪、暴虐の限りを尽くした。そして、退去に際してしばしば町や城に火をつけた。新教国のスエーデン軍の行動が最も乱暴で、ヨーロッパ中で恐れられていた。彼らはカトリックの偶像や華麗な教会には反感さえ持っており、破壊になんら罪悪感を抱かなかったようだ(Thuillier, 100) 

  ロレーヌの住民は、外国軍の侵略に大きな恐怖を感じて生活していた。リュネヴィルも例外たりえなかった。リュネヴィルは1638年9月にフランス軍が侵攻し、全市に火をつけた。ロレーヌ公シャルルIV世とリシリューや王との激しい確執もあって、ルイ13世は町に何も残すなと命じたらしい。

悪疫の流行と食料不足
  ロレーヌの不幸・災厄は、戦争ばかりではなかった。この時期、ロレーヌには悪疫が流行した。病原菌は神聖ローマ帝国軍によって持ち込まれたらしい。1630年までにメッス、モイエンヴィック、ヴィックはチフスの一種ではないかと思われる「ハンガリアン」病に苦しんだ。厳しい防疫措置が講じられたが、衛生状態が悪く効果がなかった。

  リュネヴィルは、最初はなんとか感染地にならないですんだが、ロレーヌ公と家族は1630年には同地の城へ避難した。1631年夏が悪疫はしょうけつをきわめた。悪疫は6月に広がり、10月末まで続いた。町は外部との接触を完全に断ち切られ、人気がなくなった。悪疫は1633年に再び蔓延したが、前回ほどではなかった。しかし、ナンシーはひどい状態となった。悪疫の流行は、1636年4月に再び始まった。終息したのは12月だった。病気に感染した者の中で160人は回復したが、80人ほどは死んでしまった。

  加えて、厳しい食料不足が到来した。働き手は極端に不足したが、占領軍は町に依存し、苛政が続いた。農民ばかりか僧侶たちまでが鋤、鍬をとって働いた。収穫は少なく、しばしば実りの前に取られてしまった。食べ物に困り、犬、猫まで食べた。このロレーヌの惨状は、ジャック・カロがリアルに描いている。貧窮のどん底に追い込まれた農民たちの間には、カニヴァリスムまであったといわれる文字通り極限の状態が出現していた。

  幾多の戦争や悪疫という災厄を経験したロレーヌの町や村だが、早春の緑の中に何事もなかったかのように静かに点在していた。



Referenc
Jacques Tuillier(2002) Georges de La Tour. Paris: Flammarion

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ロレーヌの春(13)

2007年04月03日 | ロレーヌ探訪

アールヌーヴォーの宮殿装飾  

  およそ400年前、ジョルジュ・ド・ラトゥールという画家がどんな生涯を送っていたかを、今に残る作品、文書や史跡などの断片から想像することは、ミステリーを読み解くような楽しみがある。しかし、この画家はそのためのヒントをきわめてわずかしか残してくれなかった。今に残る作品は40点余り、それも世界中に散在している。日記や制作記録のようなものも残っていない。

    膨大な記録、スケッチ、デッサンなどを残したレオナルド・ダ・ヴィンチなどと比較すると、まったく異なる状況である。しかも、長い間忘れられていた。 しかし、この画家とその作品は不思議な魅力を持っており、いつの頃からかすっかり取り込まれてしまった。別の仕事もあったとはいえ、今やフランスの片田舎まで出かけるほどの重症(?)である。  

  今回訪れたフランス東北部ロレーヌのリュネヴィルは、ラトゥールがその生涯の最も重要な時期を過ごすため住居と工房を置き、活動していた土地である。しかし、大変残念なことに、この地には画家が活動していたことを示す積極的な手がかりがほとんど残っていない。作品を含めて文書などの記録は、度重なる略奪、戦火などで失われてしまった。しかし、研究が進展するにつれて、周辺からさまざまな事実が明らかになり、画家としての輪郭が少しずつ浮かんできている。それらの成果を踏まえながら、今までとは少し違った意識を抱いて、このロレーヌという土地を訪ねてみた。やはり現地を歩いてみないと分からないなあと思うことがかなりあった。それとともに、旅を通してさまざまに大きな充足感があった。

わずかに残る城壁跡 
  リュネヴィルは、今日残る17世紀前半の町の地図(下図:1638年頃の手書きの地図を基に19世紀に銅版画に作成された)を見てみると、河川を巧みに活用した城壁で囲まれていた。町の記録によると、確認できる最初の城壁は1340年頃に築造された。町を囲む城壁は4隅に塔が造られ、その間を石造りの壁が埋めていた。今日残るのはそのひとつで「ブランシェの塔」La Tour Blanche と呼ばれるもので、ブランシェと呼ばれた人物によって構築されたらしい。わずかに残る保塁を見ると、煉瓦くらいの大きさの雑多な形の石を多数積み重ね、間に土砂を入れて突き固めて作られていた。

 
  保塁の他に今日まで残る古い遺跡としては、「ロレーヌ通り12番地」 12 rue de Lorraine と呼ばれる住宅がある。これは17世紀に建てられた住宅の一部である。珍しく当時の特徴を伝えているといわれるが、木造の階段、かつては3人の歌い手の
姿が彫り込まれていたという3角形の切妻壁と金属の鋲が打たれた扉などが残っている。この地域の他の住宅とあまり大きな差異はなく、他にもありそうである。400年ほど前も、こうした所に住んでいたのかというイメージが生まれてくる。  

ラトゥールが住んでいた場所は 
    さて、ラトゥールとその家族は、リュネヴィルの町のどのあたりに住んでいたのだろうか。これについては、かなり研究が進められ、大体の場所は確認されているようだ。ラトゥールは、ヴィックからリュネヴィルへ移った最初の頃は、妻の両親と住んでいたが、まもなく独立の住居を購入する。その後、画家として成功を収め、人生の後半にはリュネヴィルの大地主になっていた。画家の持っていた工房、放牧地の場所など、準備してあった私のチェック・リストを見た観光案内所の女性が、最初は不思議そうな顔をしていたが、かなり丁寧に答えてくれた。  

  ラトゥールの時代の建物は破壊されてみるべきものは、ほとんど残っていない。今日、リュネヴィルにある建物などは、ほとんどがラトゥールの死後17世紀後半以降のものである。資料などから推定されるところでは、ラトゥールは、工房と邸宅を宮殿に近接した、現在のサン・ジャック教会 L'église Saint-Jacquesに近い町中の一等地に持っていたようだ。ちなみに、現存する教会の建物は、宮殿と並び観光の場所となっているが、ラトゥールの時代より後のものである。

魔女裁判があった時代
  ロレーヌが幾多の激動の時代を経験してきたことは、すでに記したとおりだが、特に1624年ロレーヌ公アンリII 世が死去した後に、悲劇的な時代を迎える。アンリII世 の死後、王位を継ぐ権利のある嫡出子は2人の王女、ニコルとクロードであった。ところが、ライヴァルが現れた。 とりわけ、アンリII世の甥にあたるシャルル(1604-75)は、ロレーヌ公国の命運を悲劇的なものにしてしまった。若いにもかかわらず、謀りごとが大好き、猜疑心が強く、約束、条約なども意に沿わないとすぐに破棄するなど、信義に厚いとはいえなかったようだ。

  フランス王国、神聖ローマ帝国など大国の狭間に生きる小国として、微妙な舵取りが必要なロレーヌ公国だったが、シャルルは反フランス、神聖ローマ帝国側に加担していた。外政、内政ともに、よくもこれだけと思うほど、次々と策謀を繰り出し、その過程で自らもロレーヌ公の地位を数回失った(この時期の変転の有様は、それだけでも実に興味深いが、ここでは省略)。  

  シャルルは在世中、アンリII世に執拗に迫り、娘ニコルを彼に嫁がせることに同意させ、結婚にこぎつける。しかし、その後シャルルはアンリII世の期待にこたえず、ロレーヌの地を謀略が渦巻く場へと変えてしまった。アンリII世の死後、彼はシャルルIV世としてロレーヌ公の地位を獲得する。  

  その後、自分の結婚に反対した者を追及し、復讐をはかった。ほとんどはアンリII世の側近で、シャルルの結婚に反対したものだった。ひとつの例としてアンドレ・ボルデを魔女裁判にかけ、公衆の前で火刑に処した。シャルルIV世は妻ニコルを愛していなかった。そして、自分の政治結婚を解消するためにも魔女裁判を持ち出した。 シャルルVI世はフランス王国に反感を抱いており、ことあるごとに反発した。1633年には、シャルルがルイXIII世の弟ガストン・オルレアン(リシリューとそりが合わない)を支持したことを契機に、フランス軍がロレーヌに侵攻した。  

  その結果、フランスに屈辱的な譲歩を強いられたシャルルIV世は1634年に退位し、弟にロレーヌ公の地位を譲って、リュクセンブルグへ亡命した。しかし、それでも自分はロレーヌ公であると称していたようだ。彼を支持するロレーヌ人もいたらしい。いずれにせよ、ロレーヌの人々の生活は不安に満ちたものとなっていった。

  そして30年戦争では、シャルルは神聖ローマ帝国の側についた。1641年と1644年に短期間、領地を取り戻したガ、1648年のウエストファーリア条約で追放された。フロンドの乱ではスペイン側に加担したが、フランス側とも通じ、結果としてスペインで幽閉された(1654-59年)。その後、1661年、ルイXIV世に大きな譲歩をして、シャルルIV世はロレーヌの地とバール公領を取り戻した。しかし、1670年にシャルルはフランス王によって再び追放された。その後、スペインと神聖ローマ帝国皇帝の同盟をそそのかし、第3回のフランス・オランダ戦争でオランダとの同盟に加担した(1675年、オーストリアの戦役において戦死)。    

  シャルルIV世の時代が、ロレーヌにいかに悲惨な結果をもたらしたか。彼が選んだ策謀に満ちた行動の幾分かは、ロレーヌのことを思ってのことだったかもしれない。しかし、この難しい状況に置かれていた小国の舵をとる君主としての資質に欠けていたことは、ほとんど確かであった。


Reference
Thuillier,Jacques 
(2002) Georges de La Tour. Paris: Flammarion, 320pp

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ロレーヌの春(12)

2007年03月31日 | ロレーヌ探訪
  

  リュネヴィルという町が、訪れてみてなんとなく停滞しているのは、18世紀初めに造営された大宮殿が、2003年の火災による被害修復のために閉鎖されていることが大きな原因であることは前回記した。宮殿も外側からは見ることができ、大庭園も入ることはできるのだが、建物内部へ入ることはできない。宮殿の外壁も営繕が十分行き届かず見栄えがしない。観光客の姿もほとんど見かけない。地域活性化の中心がこの状態では、停滞もいたしかたないだろう。薄暮の時に宮殿の前を通ったが、広大な廃墟のように見えて「荒城の月」を思い出してしまった。  

  レオポルド公の時に建てられ、スタニスラス公の時代に拡大、充実したこの宮殿は、18世紀には栄華をきわめた。ヨーロッパ中の王侯、貴族、文人などが集まり、華やかな外交、社交の場であった。パリやナンシーのような都会の華麗さとは異なる静かな森と田園地帯の中に、忽然と現れる大宮殿、庭園は、彼らにとって別世界であったのだろう。庭園に引き込まれた運河には白鳥が遊んでいた。シャンデリアが輝く華麗な宮殿で繰り広げられた宴会、園遊会、舞踏会など、華やかな日々が記録に残っている。  

  リュネヴィルの宮殿については、フランスでも若い世代の人たちはあまり知らないようだ。日本で発行されているガイドブックなどでも、リュネヴィルに触れたものはほとんどない。ナンシーやストラスブルグまで行く人はいても、リュネヴィルまで足を伸ばす人は少ない。今回のリュネヴィル滞在中も、東洋人らしき人には一人も出会わなかった。  

  宮殿内にある旅行案内所も閑散として人気がない。ナンシーなどでは案内所自体が大変立派で、窓口も多く、順番待ちの行列ができていたのと比較すると、なんとも寂しい。もっとも、案内所の女性は大変親切に説明してくれて、ずいぶん得をした気分になった。  

  現在、火災で大被害を受けた宮殿を修復するための事業が行われているが、その一助の意味もあって、リュネヴィルの宮殿生活が栄華を極めた頃の豪華な写真、資料集が刊行されている。それを見ると、18世紀のレオポルド公に始まる栄耀栄華の時代がいかなるものであったかが詳細に記録されている。この忘れられたような宮廷の修復は、ロレーヌの文化遺産保護の観点からも、きわめて重要な事業であることが分かる。  

  しかし、リュネヴィルで聞いた話では資金難で、今のままではとても計画の10年をかけても、修復は出来ないという。火災が起きる前、宮殿には18世紀の素晴らしい内装と絵画、什器などがあった。しかし、火災でかなりのものを失ってしまったようだ。記録を見ると、詳細な設計図、所蔵していた絵画、家具、陶磁器などの写真は残っているが、それらの一部でも復元するのはかなり大変らしい。戦火や災害に耐えて、折角持ちこたえてきた文化財が失火のために失われてしまったのだ。  

  リュネヴィルを訪れて感じたのは、この地が経験したすさまじい苦難の傷跡である。今回の旅のひとつの目標である17世紀以前の町の状況を伝えるものがきわめて少ない。17世紀前半の戦乱と悪疫流行によって、建物、美術品など、当時を伝えるものがほとんどすべて破壊されてしまった。ラトゥールの時代を偲ぶには、わずかに残る遺跡のたぐいから当時の輪郭を推定するしかない。次回にそのいくつかを記してみたい。


 Jacques Charles-Gaffiot (2003). LUNÉVILLE: Fastes du Versailles lorrain. Paris: Éditions Didier CARPENTIER, pp.267
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ロレーヌの春(11)

2007年03月26日 | ロレーヌ探訪


「プチ・ヴェルサイユ」があるリュネヴィル  

  今回のロレーヌの旅で、リュネヴィルはヴィック=シュル=セイユとともに、時間をかけてみたいと思った場所のひとつだった。ラ・トゥールが画家として生涯の最も重要な時期を過ごした所である。妻であるディアヌ・ネールが生まれ育った土地でもある。  

  彼らがその生涯を過ごした17世紀、ロレーヌの政治地理的状況は、きわめて複雑であった。当時のロレーヌ公国の全域を海にたとえるならば、そこにメッス司教区、トゥール司教区、ヴェルダン司教区という異なった司教が管轄する政治地域が、あたかも島のように複雑に存在していた。ジョルジュが生まれ育ったヴィック=シュル=セイユはメッス司教区の「飛び地領」に、妻となったネ-ルの生まれ育ったリュネヴィルは、ロレーヌ公の政治管轄下にあった。  

  ヴィックとリュネヴィルが実際にどのくらい離れており、いかなる状況にあったのかを、現代の目で見てみたいと思った。驚いたことに両地間の距離は、直線では30キロメートルくらいしかない。大変近いのである。そして、ヴィック、リュネヴィル、ナンシーはいわば三角形の頂点のように、ほぼ等距離に位置している。

  ラトゥールは、結婚後の1620年から没年の1652年まで、パリなどへ一時移動していた時期を除くと、多くの時間をリュネヴィルの工房で過ごしたとみられる



           
 
  リュネヴィルの唯一最大の見所は、18世紀最初にロレーヌ公国のレオポルド公がジャーマイン・ボフランに委嘱し、ヴェルサイユを模して造営した宮殿である。レオポルド公はルイXIV世の大の信奉者であった。実は、リュネヴィルでは、これに先だって1612年頃に、アンリII世による城の構築が行われていたが、その後30年戦争の戦乱によって、跡形もなく破壊されてしまった。従って、今日残る大宮殿はレオポルド公が当初企図し、その後拡大されたものである。 

  宮殿は一見して、プチ・ヴェルサイユと分かる。町の宣伝文句も「ロレーヌのヴェルサイユ」である。レオポルド公は派手好みで、ダンス、ギャンブル、劇、狩猟などが好きだったこともあって、この宮殿は当時のロレーヌ公国貴族層の社交場となった。その後、公国最後の王スタニスラス公も好んで滞在し、宮殿の装飾、庭園の充実を行った。ヴォルテール、モンテスキュー、ヘルヴェチウスなども滞在したらしい。正面の銅像は、ロレーヌ公かと思ったら、ワグラムの闘いで戦死したラサール元帥の像だった。

            

  大変残念なことは、2003年の1月にこの宮殿で火災が発生し、折からの強風にあおられて宮殿が保有してきた貴重な収集品の多くを失ったことである。その後、最低でも10年はかかるといわれる修復作業を行っているが、今回訪れた時点では、これもヴェルサイユを模した教会堂部分がようやく修復が終わったところであった。写真でも分かるように、大火災の傷跡が痛々しく残る宮殿は、その背後に広大な庭園が展開しているが、やや荒れていて往時の華麗さが薄れているのが残念である。


          
            Photo Y.Kuwahara

  ジョルジュが生まれ育ったヴィック=シュル=セイユと比較すると、訪れてみた印象はあまり活気が感じられない。町の中心にある宮殿は壮大なのだが、修復中で人影がないこともひとつの原因のようだ。リュネヴィルの現在の人口は約2万人で、ヴィックよりはかなり大きい。ラ・トゥールの時代は、ヴィックの方が繁栄していたようだ。

  リュネヴィル市としては、10年計画で大火によって焼失、損傷した宮殿の修復工事を行っているが、資金難もあって遅々として進まない。ヴィック=シュル=セイユと同様にラ・トゥールを観光、活性化の目玉のひとつとしているが、頼みの作品や資料なども散逸しており、めぼしいものがない。リュネヴィルは17世紀、30年戦争などの主戦場となったこともあって、荒廃がすさまじかった。そのためもあって、ラ・トゥールの時代を偲ばせる跡がきわめて少ない。いくつかの周辺情報から往時を推察するしかない。この点、美術館を作ったヴィックの方が先を行っている。   

  今日残っている1630年代のリュネヴィルの市街図を見ると、河川と城郭でしっかりと守られた町であった。レオポルド公が造営し、現在に残る大宮殿ほどではないにせよ、かなり立派な宮殿があったものと思われる。今に残る宮殿生活の銅板画などを見ていると、盛時の栄華をしのぶことはできる。すっかり色あせて荒れ果てている宮殿を前に、しばしロレーヌ公国栄華盛衰の歴史をしのんだ。

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ロレーヌの春(10)

2007年03月23日 | ロレーヌ探訪

Photo Y.Kuwahara  

  ナンシーの奥深さと多様さを楽しんでいる時に、ひとつ面白いことに出会った。「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」の名前を校名として使っている立派な
中学・高等学校 Collège et Lycée George de La Tour がこの地に存在することを偶然に知った。週末のため学校自体はお休みであったが、大変立派な校舎だった。子供たちがサッカーの練習をしていた。

  さらに興味深いことに、メッスにも同様にラ・トゥールの名前を校名に使用している中学校があるとのこと。画家の名前がついた街路は、この地方には他にもあるらしい。ラ・トゥールという画家が、今日ではロレーヌの人々の心に深く浸透していることを改めて認識する。

  この学校に在学する生徒、教職員、父兄などの関係者は、郷土が生んだこの世界的な画家が校名である母校をきっと大きな誇りとしているに違いない。校舎の壁にもあのラ・トゥールの不思議な顔の人物像が大きく描かれている。ロレーヌの人々には、どこかで自分たちと血のつながっているなじみのある顔立ちなのだろう。

  教育改革論議が盛んな日本だが、「教育委員会を改革せよ」、「校長の権限を強化せよ」、「週休2日を見直せ」、などの提案はあっても、生徒や教職員、父兄などが揃って学校に自信と誇りを持てるような提案は少ない。教育の本質にかかわる問題は傍らに置かれてしまって、相変わらずの効率重視、形だけの改革論議が多い。この風土からは、ロレーヌにあるような発想は逆立ちしても出てこない。「葛飾北斎中等学区」、「横山大観中等学校」、
「宮沢賢治高等学校」を創るようなものだが、おそらく発想の素地がまったく異なっているのだろう。

  謎の多いラ・トゥールについてはっきりしていることは、17世紀の美術史に燦然と輝くこの画家が、生涯のほとんどの年月をロレーヌで過ごしたということである。今日ではフランスの一部となっているが、当時はフランス王国からは政治的に独立した「ロレーヌ公国」であった。

  同時代に活躍した多くの画家が、ローマやパリでの活動を通して自らの名声を高めたのと比較して、ラ・トゥールは生涯のほとんどを決して恵まれた環境とは言い切れないロレーヌで過ごした。ラ・トゥールがパリの王室画家として一時期を送ったことは確認されているが、若い修業時代には、イタリアあるいはオランダなどで過ごした可能性も否定できない。しかし、この希有な画家にとって、ロレーヌは特別の重みがあった。郷土がいかに戦火や疫病の舞台となろうとも、平穏さが戻るとリュネヴィルへ戻っていた。

  画家が、ヴィックやリュネヴィルで活動を行っていた間でも、ロレーヌの文化的中心地ナンシーやメッスの存在は大きかった。とりわけ、ロレーヌ公の宮殿が置かれたナンシーは、リュネヴィルにも大変近く、文化的にもさまざまな影響力を発揮したと思われる。道路事情などは今日のように整備されたものとは程遠い状態であったが、優れた馬の乗り手であったといわれるラ・トゥールには、ナンシーは遠い場所ではなかった。

  史料の上では十分確認はされていないのだが、もしかすると、彼はナンシーで自らの徒弟としての修業を行ったのかもしれない。リュネヴィルへ移る前にも、ナンシーで仕事をすることを考えた可能性もある。400年前、この画家はどこでなにをしていたのだろうか。歴史の闇の中に埋もれてしまったことだが、思いはさまざまなことに波及する。妄想に近いかもしれない。

  いずれにせよ、目前の現実の前に、ひとりの画家が与える文化的影響、社会的受け取り方の重みを改めて感じる。長い間忘れ去られた画家が20世紀の初めに再発見された後、こうした形で社会的評価がなされていることに驚かされる。芸術が人々の日常の中にしっかりと生きていることを。

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