時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

額縁から作品を解き放つ(6):画材からスキルへ

2022年11月29日 | 絵のある部屋

ラファエロ《キリストの変容》部分

前回までしばしば論及してきたバクサンドールという卓越した美術史家は、15世紀イタリア・ルネサンス期の作品を例に、それが生み出された「社会」との関連で考えることを強調した。ともすれば、作品だけを前に限定された次元で絵画作品の鑑賞、評価を行いがちな現代人にとって、きわめて新鮮に感じられる。少なくもブログ筆者は最初にバクサンドールの著書に接した時に、その内容に大きな感銘を受けた。

Michael Baxandall, Painting & Experience in Fifteenth-Century Italy, (1872), 1988

彼が考える「社会」の概念は、経済、政治などの範囲にとどまらず、宗教、思想、文化などの次元を広くカヴァーしている。ブログ筆者なりに分かりやすく表現すれば、作品を額縁の中だけの次元で判断しないという視点である。

画材よりもスキルの重視へ
このことを裏付けるために、バクサンドールは15世紀イタリア、ルネサンスの舞台へ登場させるプレイヤーを先ず画家とパトロン(「パトロン階級」 Baxandall, 2nd ed., p.38)という最小限に絞り込んだ。そして、両者の間に交わされた契約の内容が、当初の画材の品質、金額などの段階から、描かれるべき人物、風景などの指示に変化してきたことを史料をもって実証しようとした。

15世紀中頃になると、史料として残る画家とパトロンの間の契約に見る限り、作品の評価が画材の質量から画家の持つスキル(技量)の優劣に重点が移っていることが認められている。

職人から自立した画家へ
バクサンダールは、パトロンが画材よりも画家のスキルの優れた点をどのように評価したかが記されている契約例の史料を提示し、自らの主張を論証しようと努めている。もちろん、この時代の全ての史料が同じ方向を示しているとは思えない。しかし、時代の流れは明らかにパトロンの絶対優位(画家が職人であった時代)から、画家のスキルの重視と社会的評価への拡大に向かっていたと思われる。画家間の個性や優劣評価にも関心が高まっていたようだ。この事実は、ブログ筆者なりに言い換えると、画家の社会的自立への移行が起こりつつあったことを示しているとも考えられる。この点はバクサンドールが独自に着目し検討したユニークな論点といえる。

時代の展開と共に、画家たちもパトロン(クライアント)の反応に敏感になるとともに、社会一般の人々が作品を観る場合、どこに関心を寄せたかに注目するようになっていった。

かくして、15世紀中頃にかけて、イタリアでは画家の技量(スキル)を認知し、重視する動きが起きていた。競い合う画家の間のスキルの優劣、画家の間の創造性、表現力などの微妙な違いなどが、暗黙の内にも重視されるようになってきた。

ライヴァル意識の醸成
こうした変化は画家の間にも伝わり、彼らの間に競争を作り出し、しばしばライヴァル意識も生まれたようだ。

良く知られた例を挙げてみよう。15世紀初め頃からフローレンスのパトロンたちは、画家たちを互いに競わせ、大作を制作させるよう仕向けていた。メディチ家のギウリオ枢機卿は、後のクレメントVII世だが、さまざまな手段を駆使して、彼のフランス、ナルボンヌ教区の祭壇画をラファエロとミケランジェロの二人が互いに競い合うことを熟知した上で制作させた。

別の例を挙げてみよう。
16世紀前半、ヴェニス、ローマで競い合った画家たちの中で、セバスティアーノ・デル・ピオンボ(ca1485年 - 1547年)は、ヴェネツィア派だが、ローマで半生を過ごし、ローマ派の堂々とした構図などを受け継いでいる。ヴァザーリによると、ミケランジェロは友人であったピオンボの制作に際し、構図を提供したともいわれる。

ピオンボの大作《ラザロの蘇生》でもっとも目立つのは、ディテールの知識、感情表現に加えて、一時はミケランジェロの制作ともいわれたほどの卓越した画法の発揮にある。

ラファエロの《キリストの変容》も、ほぼ同時期、同じパトロンのために描かれたものである。2作は一緒に展示されたが、優劣の点ではすでにラファエロに評価が定まっていたようだ。確かに、ピオンボの筆力も素晴らしいが、人々の描き方などは混み合い過ぎている感がある。



セバスティアーノ・デル・ピオンボ《ラザロの蘇生》(1517年 - 1519年) , 油彩・カンヴァス
381 x 289 cm
ロンドン、ナショナル・ギャラリー



ラファエル・サンティ《キリストの変容》(1518 - 20年), 油彩・板
405 x 278 cm
ヴァティカン美術館

バクサンダールが主唱する「時代の眼」とは、特定の文化の中で視覚的な形を形成する社会的行為と文化的慣行とされる。これらの経験は、その文化によって形作られ、その文化を代表したものとなる。彼の「時代の眼」の理論構築が美術史家の全面的な支持を受けたわけでもない。異論も提示されている。しかし、ブログ筆者にはその著作に接した当初から、強い印象を残してきた。


続く

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額縁から作品を解き放つ(5):「時代の眼」を試す

2022年11月12日 | 絵のある部屋

サンドロ・ボッティチェリ
Sandro Botticelli (Alessandro di Mariano Filipepi)
フローレンス,1445-1510
《コジモ・デ・メディチのメダルを持つ男の肖像》
1474年、テンペラ・板、 57.5 x 44cm
フローレンス、ウフィツィ美術館


赤い帽子が目立つ豊かな髪を持った若い男がメダルのようなものを両手で持って、こちらに向けて見せているようだ。若者の表情はなんとなく硬い。背景には取り立てて特徴があるとは思えない山と野原のような光景が広がっている。作品の主題は何だろう。一体どんな意味があるのだろうか。制作したのは15世紀後半、イタリア、フローレンスで活動したサンドロ・ボッティチェリという大変著名な画家である。ウフィツィが所蔵する《春:プリマヴェーラ》ca.1482という華やかな寓意画を思い浮かべる方もあるかもしれない。

この作品を見て、画家の描こうとしたものが何であるかを推理できるのは、イタリア・ルネサンス期の美術に大変詳しい方だろう。21世紀の世界に生きる現代人にとっては、作品を一見しただけでは、ほとんど無理なことではないか。

前回も記した美術史家のマイケル・バクサンドールは現代人は「15世紀イタリアのビジネスマンにはなれない」という卓抜な表現で、この問題を論じている。

しかし、現代人も然るべき努力をすれば、500年を超える時空の隔たりを縮小できるレンズを手にすることはできるかもしれないと述べている。

「時代の眼」を求めて
ここで、そのレンズになるかもしれない小さな探索の試みをしてみよう。実は上掲の作品は、画家ボッティチェリの有名な寓意画とされている。

時は、15世紀後半のフローレンス、ロレンツォ・デ・メディチの黄金時代に遡る。イタリア・ルネサンスの洗練され、平穏だが高揚した時期の作品である。

鍵は、この時代、貴族の間では貨幣(古銭、メダルなどの収集・研究)を行う「ニュマズマティックス」(Numismatics) という知的な楽しみが流行していた。

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* N.B.
Numismatics 貨幣(古銭、メダルなどの収集・研究)は、ルネサンス期の貴族などの間に流行した。皇帝の肖像が刻印された貨幣の全てを所有することは、所有者のギリシャ・ローマの古代についての洗練と愛を示すとされた。
メダルは政治的価値を付与され、外交官や訪れる賓客などに贈られた。制作は特別の技量を持った職工に発注され、画家もしばしばデザインや描画を行った。とりわけ、ピサネロの工房で鋳造されたメダルは、その創造性とデザインによって他に比肩し難いものとされた。

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若者が手にしている大きなメダルは表面の摩耗などから、画家が実際に存在したものを写したと考えられる。刻印されている肖像はフィレンツェの ルネサンス期における メディチ家最盛時の当主ロレンツォ・デ・メディチと考えられる。
このメダルは、実際に1465年から1469年にかけて鋳造されたもので、フィレンツェのバルジェッロ美術館に本物が所蔵されている。メダルには「 MAGNUS COSMVS MEDICES PPP(国父)」の文字が刻まれている。
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ボッティチェリは、フィリッポ・リッピの工房で1460年代に修業をし、1466年にアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房を共同で運営することになる。メディチ家の人々の肖像画を数多く描いたことは、彼がこのフローレンスの盟主の家に頻繁に出入りしていたことを示すと考えられる。
ボッティチェリはその後、1482年にはローマへ出向き、システィン教会堂の装飾のチーフ・デザイナーを務めた。フローレンスへ戻った後、ロレンツォ・デ・メディチ御贔屓の画家としてフレスコ画、祭壇画、聖人画を描いた。

フローレンスでは、1492年にはロレンツォの死とサヴォーナローラの峻烈な市政改革とその失策による1498年の焚刑があった。

ボッティチェリの晩年は、サヴォナローラの宗教的影響を強く受け、硬質的で神経質な表現へと作風が一変。人気が急落、ついには画業をやめるまでになった。最晩年は孤独のうちに65歳で死去した。

この作品でモデルとなっている若い男性については、名前が知られていない。さまざまな推測がなされてきたが、今日まで不明なままである。若者の表情は、硬く憂いのあるような容貌に描かれているが、これは当時の流行であったともいわれている。

背景に描かれている風景は、山と川からなる特徴のない平凡なもので、おそらく工房の助手、徒弟に描かせたものだろう。

画材から画家のスキル(技量)重視へ
この作品が制作された15世紀後半においては、パトロン(クライアント)と画家の関係にも変化が生まれていた。それまでの顔料・絵具(金、ウルトラマリンなど)、額縁枠などへの関心から、画家のスキル(技量)、画家の間の優劣へと重点が移行してきた。それと共に、パトロンに従属していた職人のような地位にあった画家たちの間に、自らのスキル・技量に立脚した画家としての自立の動き、画家間の優劣の意識が芽生えてくる。

見る目のある顧客が、絵画に充てる資金を顔料の金から画家の絵筆(スキル)へと振り返る方法は色々あった。注文した絵の人物の背景に、緊迫ではなく風景を指定することもその一例だった」(Baxandall, p.16)

スキルを気前よく買う顧客となるには、もうひとつ確実と思われる方法があり、それは15世紀中頃にはすでに定着していた。つまりどのような手仕事においても、それぞれの工房内で親方と助手が費やす手間の価値について、相対的にかなり大きな格差があったことである」(Baxandall, p.17)

例えば、フラ・アンジェリコの工房では、親方のアンジェリコと3人の助手の間には、年間の報酬に次のような差異があった:
フラ・アンジェリコ 200フローリン
ヴェノツォ・ゴッゾリ  84フローリン
ジョヴァンニ・デラ・ケーチャ 12フローリン
ジャコモ・ダ・ポーリ  12フローリン

工房が後にオルヴィエトに移った後では、この格差は維持されてきたが、ジョヴァンニ・デラ・ケーチャだけは、月収が1から2フローリンに倍増された。この大きな格差は親方が見たスキルの基準によるものであった。(Baxandall, p.20)

こうした史料からも推定できるように、上掲のような作品においても、アンジェリコなどの親方は、構図など重要な部分は自ら絵筆を振るったが、背景などについては、指示だけして助手に任せたと思われる。

この一点の作品の意味を推し測るだけでも、現代人は数世紀の時空を遡り、多大な努力をしなければならない。恐らく15世紀フローレンスの同時代の人々は、比較的容易に作品の含意、そして画家のスキルの優劣などを感じ取ったことだろう。

バクサンドールのいう「時代の眼」に匹敵するレンズを獲得するためには、現代人は多大な努力をしなければならないことが分かる。

ブログ筆者は「コンテンポラリーの視点」という概念で、かなりバクサンドールと近似した考えを抱いてきたが、専門の相違もあって同一の概念ではない。人生に残された時間が許せば、それらの点にも言及してみたい。


Reference
Michael Baxandall, PAINTING & EXPERIENCE IN FIFTEENTH-CENTURY ITALY, Oxford University Press, second edition, (1972) 1988

続く




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額縁から作品を解き放つ(4):「画家」が「職人」であった時代

2022年11月01日 | 絵のある部屋


サンドロ・ボッティチェリ《東方3博士の礼拝》1475, テンペラ・板、111 x 134cm, フローレンス、ウフィツイ美術館 (元来、サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂内にあるラーマ家の祭壇画であった)。


この絵画作品はかなり有名なので、ご存じの方もおられよう。しかし、作品の依頼者、主題、大きさ、色彩、スタイル、描かれている人々などを決めたのは誰かとなると、かなり難しいはずだ。イタリア美術史専門の友人でも直ぐには答えられないだろう。

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北方への旅に出る直前、読み終えていた一冊の本がある。ヤマザキ・マリさんの最近著『リ・アルティジャーニ:ルネサンス画家職人伝』(新潮社、2022年)である。卓抜なマンガの描写力で15世紀ルネサンスの画家群像が描かれている。この時代、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロなどで知られる巨匠が活躍した画期的な時代であった。しかし、当時の画家たちは「画家」という認識がなく、あくまでも「職人(アルティジャーニ、Gli Artigiani)であると自他共に考えていたという。
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大変興味深く読了したが、読者としては率直に分かりにくい点もあった。この時代の画家たちがなぜ「職人」であり「画家」ではなかったのか、そして次の時代には彼らがいかにして「画家」へと自立していったのか、という論理が画家群像の影に隠れて読み取り難いという印象を抱いた。今回はその点を少し記してみたい。

商業的な絵画市場、私的なコレクターなどが生まれるまでの時期には、教会や公的な場所の祭壇画や装飾のためには、パトロン(クライアント)が画家や彫刻家に制作を依頼し、画材などを含め制作費用を支払った。彼らの存在なしには画家は存立が難しかった。イタリアの場合、パトロンは金融、商業、毛織物業などで蓄財した富裕な商人、製造業者が多かった。彼らは同職組合を結成し、互いに勢力を競い合った。フィレンツェの場合、メディチ家の庇護、支援を確保するために、パトロン間の競争も激しかった。他方、画家、彫刻家などは職人層に含まれ、彼らからの仕事を得ることで存立していた。

メディチ家の特別な地位
上掲のポッティチェリの作品を例に、パトロンと画家の関係を考えてみたい。ボッティチェリはメディチ家と親しかったパトロンの銀行家ガスパーレ・ザノビ・デル・ラーマの依頼でメディチ家の繁栄を願い、この祭壇画を描いた。フィレンツェの門閥貴族であったメディチ家は15世紀に全盛を迎えていた。商業、金融などで勃興し、ルネサンスの学問、芸術の保護者であった。パトロンたちはメディチ家の繁栄と庇護の下で、自らの事業などを展開していた。メディチ家の存在は、他の地域とは一線を画す特別な存在であった。パトロンとメディチ家の繁栄は、表裏一体の関係にあったといえる。

ポッティチェリは人気のある画家ではあったが、自らの芸術的発想で自由に画面に絵筆を振るえた訳ではなかった。主題から描きこまれる人物まで、パトロンの要求する条件でがんじがらめになっていた。この点は本ブログでも取り上げてきた17世紀以降の画家たちの制作環境とはかなり異なっている。彼らにとってもパトロンの存在は重要ではあったが、自らの創造性、技量の発揮によって、芸術家としての独立性を確立していた。

15世紀イタリアの場合、パトロンの求めた諸条件は画家との間の契約書、文書などに記載されている。今日まで多くの史料が残されており、確認できるものもある。この点を補充する具体的事実を知るには邦語文献では下掲の研究が充実している。

松本典昭『パトロンたちのルネサンス:フィレンツェ美術の舞台裏』日本放送出版協会、2007年

さて、この作品ではテーマの《東方3博士の礼拝》の下に、描かれた対象はさまざまな条件が盛り込まれている。背景左端の壊れた古代遺跡は異教の終焉を象徴し、右端の孔雀はキリスト教会の勝利を象徴する。

描かれている人物の幾人かは、誰であるか判明している。3博士と従者には、メディチ家のコジモ(完成時故人、最初の賢人の姿)と息子ピエロ(故人、中央赤色衣装)、ロレンツォとジュリアーノ兄弟、ラーマや画家自身、さらにポリツィアーノ、プルチ、アルギュロプロスなどロレンツォを取り巻く文化人などを描き込ませている。画面左側に赤い帽子を被った若者はアンジェロ・ポリツィアーノという有名な詩人である。彼は左側の貴人に礼拝を促している。描かれている人物の多くは、メディチ家に関連する重要な政治的・文化的なグループに所属したと想定されている。ちなみにこの祭壇画が完成した翌年の1476年、ラーマは詐欺罪で有罪判決を受け失墜した(松本 171ページ)。




上掲図部分

15世紀イタリアでは依頼者であるパトロンは画面のどこか目立たないような所に傍観者などの形で顔、姿を描かせることは珍しいことではなかった。時には妻や子供など家族も描きこませた。この作品ではパトロンのラーマは右側後方に観る人の方に顔をむけて描かれている。彼の前に青い衣装で描かれているのは、ロレンツォだろう。画面右側、黄色の衣装の人物は、画家ボッティチェリの自画像とみられる。


上掲図部分

これらの諸点から見ても、パトロンが画家に要求した条件は数多く、画家の裁量を厳しく支配していた。画家はその制約の中で、自らの技量を誇示するしかなかった。職人といわれる所以である。それでもポッティチェリは、その天賦の才を発揮している。

親方が運営する工房が依頼者であるパトロンから注文を受けると、職人が分業で作品を仕上げていく。その中で特異な能力や技能を保持する者が、新たなアイディアに基づく作品や技法を展開し、それまでの芸術の歴史を大きく変革していった。ルネサンスと言われる時代であった。

画家の自立に向かって
パトロンの関心は、時代とともに顔料、絵の具など画材の質、量から、作品の質そしてその制作に当たる画家の技能の評価へと重点が移行していった。パトロンの立場は依然として強かったが、その過程で画家は次第に自らの主張を強め、芸術家としての独立した立場を獲得して行く。ブログ筆者は、このアーティストとしての自立の過程を重視したい。

15世紀イタリアでは、絵画や彫刻などアートを鑑賞する側の人々は何を基準として作品、そして画家のスキルの優劣を判断したのか。この点が次の課題となる。


続く


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