時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

老いた漁師の見た夢は

2019年06月19日 | 書棚の片隅から

先日、話題として取り上げたーネスト・ヘミングウエイ(1899〜1961) の作品『老人と海』Old Man and the Sea に代表される短編が、なんと英文法の学習書として大人気となっていることを知った。生来かなりの本好きであるから、ヘミングウエイ の作品も大方手にとっており、以前に記した依頼のあった若い世代に勧めることができるリストの一冊に入れることはほとんど決まっていた。

しかし、かなり個人的関心からの選択であり、ヘミングウエイ だったら他の作品を選ぶ人もあるかなと感じてもいた。ましてや、書店で「受験学習書」の棚にはこの数十年まともに対したことはなかった。しかし、ブログ開設以来、不思議なことにここで取り上げたトピックスが、日ならずしてメディアその他に取り上げられることが、かなりの回数に上った。なんとも不思議なことでもあるのだが、タイムマシンのもたらしたものと思っている。

前回、記した通り、『老人と海』は作家の死後刊行された『海流の中の島々』Islands in the Streamとの関連で、脳裏のどこからか連鎖的に浮上してきた。『老人と海』との関連を探りたいとの思いが、長らく筆者のどこかに潜んでいたらしい。『海流の中の島々』は作者の死後に刊行された唯一の作品だが、『老人と海』のいわば背景のごとき印象を与え、ブログ筆者には見ようによっては『老人と海』がそこから抽出されたような思いもする。

『老人と海』(1952刊行)は、ヘミングウエイ の生涯で最後の作品であり、1953年ノーベル文学賞を授与された。ピュリツアー賞(文学部門)など、多くの受賞対象にもなった。

ストーリーは中編とでもいうべき適度な長さであり、簡潔で分かりやすい。キューバの海辺の地で老境に差し掛かりつつある漁師サンティアゴは、84日間も漁に出ても、獲物に恵まれなかった。漁師仲間が’salao’ と呼ぶ、救い難いどん底の状態にあった。老漁師にはさらに不利な条件がつきまとっていた。小舟 skiff で漁に出ても、他の漁師のように若い見習い徒弟の同行は親の反対で許されず、老人はひとりで大海原に出ていた。しかし、少年は誠実に老人の小屋に食事を運び、老人と好きな野球の話をするのが楽しみだった。彼らが話題にしたのは決まって偉大なプレーヤー、ジョー・ディマジオだった。老人と少年、二人の間は不思議な尊敬と愛情で結ばれていた。ディマジオが出てくることが、20世紀の後半を経験した筆者には、なんとも懐かしい思いがする。

不漁の日が続いた日、老人はキューバの北に流れるガルフ・ストリームへと乗り出すことに決意する。そして、しばらくして、巨大なカジキ marlin の当たりがあり、2日2晩に渡る漁師と魚の壮絶な戦いが始まる。

かくするうちに、老人は、死闘の相手となったカジキへ不思議な尊敬のような念を抱くようになる。死力を尽くしての戦いで3日目、老人は銛で獲物を仕留めることに勝利した。

しかし、老人の帰途には思わぬことが待ち受けていた。巨大な青サメの群れが獲物を待ち受けていた。老人はこの戦いで、唯一の武器である銛を失ってしまう。そして、魂を失ったようになり、身体も傷つき、今や骨だけになった18ft(5.5m)もの巨大なカジキの残骸を船側に結んだまま、ようやく帰港し、自らの小屋で深い眠りにつく。

老人のことを心配した忠実な少年は、いつものように新聞とコーヒーを運んできた。そして老人が眠っていることに安堵する。そして目覚めた時、二人はもう一度漁をしようと約束する。老人が再び眠りについた時、彼は若い時の夢を見ていた。アフリカの浜辺に寝そべるライオンの夢だった。

ヘミングウエイ は行動する作家だった。高校卒業後、「カンザスシティ・スター」の見習い記者となるが、退職。翌年には第一次世界大戦「赤十字」の一員として人民戦線側で北イタリアのフォッサルタ戦線に赴き、重傷を負う。

『 [日はまた昇る』(1926年)、『 [武器よさらば]』(1929年)、『 誰がために鐘は鳴る』(1940年)などの作品に、若き頃の精力的で活動的な姿が重なる。

ノーベル賞受賞後、同年に二度の航空機事故に遭う。二度とも奇跡的に生還したが、重傷を負い授賞式には出られなかった。それ以後、肉体的な頑強さや、行動的な面を取り戻すことはなかった。

 ヘミングウエイ の短編を英文法の学習素材としたことは、素晴らしいと思う。かつて仕事の必要もあって、スペイン語の入門手ほどきをキューバ系アメリカ人から受けたことがあった。幸い半世紀近くを経た今でも、この作品に出てくるスペイン語程度はほぼ消化できている。ブログ筆者はこの話題の学習書を目にしてはいないが、単なる文法の学習ではなく、簡潔な文体に秘められた深い意味を汲み取って欲しいと思う。削り落とされた文体の行間に深い意味が込められている。ヘミングウエイ の真髄は、この簡潔な文体で描かれた味わい深い描写と含意にある。残念ながら、筆者はライオンの夢を見ることはないが、時々深く青いカリブの海を思い浮かべることはある。

 

 

*「英文法 ヘミングウエイで味わう」『朝日新聞』夕刊6月17日

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時空を超えて:今我々はどこにいるのか

2019年06月10日 | 午後のティールーム

 


まだブログとホームページの違いもよくわからなかった頃、大学の講義や演習とは直接関係ないが、長らく関心を持っていたテーマ、トピックスをメモがわりに記しておきたいと思い、若い学生諸君の力も借りて、HPを設計し、たどたどしく書き始めたのがこのブログ?の始まりだった。若い世代との話題拡大も一つの目的であった。

「危機の時代」を振り返る
インターネットの最大のメリットは、大学講義のようにテーマを制約されて話す必要もなく、かなり自由に論点、トピックスを移動できることが最大の魅力だった。ブログ・タイトルを「時空を超えて」としたのは、筆者の仕事としてきた「現代経済研究」(とりわけ労働問題)と、多忙なままに整理できなかった「17世紀ヨーロッパ研究」(とりわけ美術・文学)、そして17世紀から今日まで何度か浮上した「危機の世紀」のトピックスを、「タイムマシン」のように行きつ戻りつしながら、脳中に眠っている記憶を明示化し、時には多少の議論の材料としたいと思った。何れにせよ、試行錯誤だった。

筆者のその思いは多少満たされた。ブログで筆者の意図を知ったかなり多くの方々から、それまであまり語られなかった興味ある側面を知ることができた、あるいは一人の筆者が書いているのかとの話まであった。トピックスが縦横に変わることがそうした印象を持たれたのだろう。しかし、それこそがブログ筆者の意図したことでもあった。変化の激しい時代を生きる上でも、狭い話題に束縛されることなく、大きく広い世界を視野に入れておきたいと思った。アクセスしてくださる方には、右往左往するトピックスに当惑されたことだろう。

今日につながった17世紀絵画
ブログで取り上げてきたひとつのテーマ、17世紀の画家ラ・トゥールについては、記事を読まれた読者の方が、はるばるフランス、ロレーヌの地から感想を寄せてくださったこともあった。「時間」TIMEと「空間」SPACEという概念に基づいて組み立てたブログの仕組みが
働いてくれた。作品を見ただけでは全く分からなかった画家の生活、時代背景を知ることが出来て、カラヴァッジョを含め17世紀絵画が非常に興味ふかいものになったと感想を述べられた方もあった。17世紀ヨーロッパ市民社会の先進地域のオランダ絵画を見ているだけでは「危機の世紀」と言われたこの時代のヨーロッパを正しく理解することはできない。

2016年には、NHKで俳優モーガン・フリーマンによる「モーガン・フリーマン 時空を超えて」という宇宙を主題とする番組がEテレで放映され、世の中では「時空を超えて」とは宇宙のテーマと思われた向きもあったようだ。しかし、TIME AND SPACE というテーマは歴史、文学その他の領域でも大きな意味を持つ枠組みとなる。

「時空」を構成する概念
時間の概念の導入とともに、その推移に伴い空間は壊れ、それを支える様式・フォルムも壊される。歴史の次元では技術変化に伴い、時間軸上で時間は「速度」を増し、「過去」から「現在」の要素が急速に増加する。時間、空間の次元で「方向」DIRECTION、「フォルム」 FORMは、技術変化に大きく依存、影響を受ける。美術、文学、音楽などが知的活動を促進する。技術変化は時代によりその速度は異なるが、産業革命以降、電気、電信、電話、鉄道、自動車、航空機など次々と起動力を導入した。結果として、社会の伝統的な階層、ヒエラルキーも破壊される。それとともに、世界も次々と新たな展開を見せる。産業革命に関わるトピックスが、頻繁に現れるのは、こうした背景を意図してのことである。


「時間」と「空間」という抽象的概念から成る枠組みは、さらに過去、現在、未来、速度、フォルム、距離などの概念の導入で充実する。そして、画家、音楽家、芸術家などの次元に入れば、「時空を超えて」、「当時」(contemporary)と「現在(」contemmporary)を比較することも可能となる。17世紀に生まれ、活動したが、20世紀初頭まで美術史上忘却されていたラ・トゥールという画家の現代的評価が実現することになる。電灯の発明・普及で、蝋燭の光しかなかった17世紀の光と闇の世界は大きく変わり、その境界は、漠としたものになった。「光」(あるいは昼)と「闇」(夜)という二分された世界は、過去のものとなった。

今やこの世界から闇は奪い去られた。現代人はラ・トゥールが生きた17世紀の闇を知ることがない。そこは魑魅魍魎が徘徊し、魔女たちが支配する恐ろしい世界だった。しかし、現代は夜も電灯が煌々と輝いている。このことは、作品を観る者の環境、心象風景も変えてしまった。ラ・トゥールの作品に描かれた蝋燭一本の光に立ち戻ることはない。そして、いまや作品の裏側まで見通しうる人は少なくなった。時空を超える以外に、画家が思い描いた真のイメージを理解することは出来なくなった。

 


モーガン・フリーマンの番組の原題は”Through the Wormhole”となっている。ワームホールとは、天文学でブラック・ホールとホワイト・ホールの仮説的な連絡路(1593)を意味する。




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「楽園」は期待し難い「仕事の世界」の近未来

2019年06月04日 | 特別トピックス

 

世界的な仕事の機会創出ブーム

The great jobs boom. The Economist May 25th-31st 2019, cover 

ここに雑然と描かれた職業は、製造業からITなど最先端ワーカーまで、あらゆる分野の仕事が含まれている。今日、世界で生まれている職種は、実に多種多様で機械で容易に代替できるわけではない。職業は一定方向で淘汰、創生されているわけでもない。人間の頭脳や手足が欠かせない職業は、ディジタル時代といえども数知れない。 


元号とは遠い現実
「令和」という新元号は、語感も含意も穏やかで、概して好感をもって受け取られたようだ。しかし、現実が元号を反映する形で展開する保証はどこにもない。あくまでそうあって欲しいという願望が込められたにとどまる。

これまでの記事でも記したように、世界には新たな冷戦の動きが展開しつつある。熱い戦争が勃発する可能性もないとはいえない。戦争とまでは言わずとも、今日の世界はかつてない激変と混迷が満ちている。連日のようにこれまで考えたこともないようなことが起きている。なにが起こるか分からない濃霧の立ち込めたような社会になっている。一世代前には、想像すらしなかった出来事が突如として起こる。

予想外の「仕事の増加」
そのひとつの側面は「仕事の世界」(労働市場)だ。米中対立で株価は低迷し、これまでだったら大不況の到来を思わせかねない環境の中で、先進国の雇用は多くの予想に反して「タナボタ」bonanza とも言われる活況を呈している。資本主義の衰亡が声高に叫ばれる中で、一体これは何を意味するのだろうか。

確かにアメリカ、日本、さらにBREXITで大混乱のイギリスを含め、EUの主要国では、労働市場の逼迫度を示す失業率(15−64歳層)は記録的な低さを示している。OECD加盟国の3分の2近くがかつてなく低い失業率を享受している。他方、イタリア、スペイン、ギリシャなどの失業率は依然として高い。アフリカ、アジア、中南米などの諸国に目を転じると、良い雇用機会は少なく、他国への出稼ぎが依然として大きな比重を占めている。フィリピンのように、長年にわたり看護師、船員など多くの自国労働者を海外に出稼ぎに送り出しながら、多数のIT技術者を中国などから受け入れざるを得ない国もある。

活発な雇用が支えるトランプ政権
アメリカでも雇用は全般に好調だ。トランプ大統領が、「アメリカ・ファースト」という極端な保守主義を掲げ、今日までなんとか続いているのも、国内の不安を強力な力で押さえ込んでいることによる部分が多分にある。自国民の隠れた自尊心をくすぐるような主張なら、多くの国民は受け入れてしまうのだろうか。
トランプ大統領がこうした自国優先主義を掲げていられる背景の一つは、マスコミでもあまり指摘されていないが、推定するに雇用不安が起きていないことにあるといえるだろう。かつてのように、失業が政治論争や社会不安の種になっていないのだ。実際、最近のアメリカの失業率は約3.6%、この半世紀で最低水準だ。しかし、中国などにITなど先端分野でも、技術的に追い越されるなど、息切れ状態が目立つ。保守的政策の反動が顕在化する日も近いことが予想されている。

かつてないほどの大幅な関税引き上げ、移民・難民に対する物理的壁の建設など、政策の適否は別として一般大衆が分かりやすい対応で、不満を押さえ込んでいる。現実には鉄やコンクリートの国境壁で、不法移民の流れを抑え込める訳ではないのだが、実態を知らない人は信じ込んでしまう。関税障壁を高めれば、アメリカの巨大な国内市場を目指してきた海外の輸出拠点も壁の内側へ移転せざるを得なくなる。輸出先の市場を守ることが必要になるため、「防衛的投資」*2ともいわれる。

混乱・混迷の中の雇用増
政治的対立、混乱は世界の至る所で発生しているが、幸い「仕事の世界」は予想を裏切るほど活気を呈している。OECD加盟国の多くで、画期的ともいえる雇用の増加が起きている。日本は、オリンピック関連需要などによって雇用創出が拡大し、労働力不足が急速に進み、確たる構想がないままに外国人の受け入れを始めてしまった。さすがに世論の反対で取り下げたが、一時は原発処理の分野にまで、外国人労働者を受け入れる予定だった。

日本人が選択しなくなった低熟練労働分野に外国人労働者を充当しようとしているが、現実は劣悪な労働を彼らに押しつけることで新たな下層労働を作り出している。

遠い魅力ある国の創出
 他方、AI社会の到来を目前にして、世界の主流へ対応できる高度な労働者は思ったほど増えていない。この分野ではアメリカが圧倒的な地位を占めている。AI社会への対応も手遅れで、こちらも高度な技能を持つ人材の不足が著しい。高等教育の立ち遅れで、他の先進国と比較して、AI社会に向けての人材が不足している。しかし、ここには優れた外国人は期待するほど来てくれない。大学、研究機関、企業など受け入れ環境がそうした人たちを誘引できるほどの魅力を持っていない。

技術変化=雇用減ではない
1980 年代には「ME (マイクロエレクトロニクス)革命」といわれた時代があった。労働力の質量の双方に関わる議論があったが、日本についてみると、そうした急速な技術進歩で労働力の数や質が大きく変化するようなことにはならなかった

現在進行しつつあるディジタル革命、第四次産業革命などの名で呼ばれている大きな変化でも、当時と類似した議論も行われている。ただ、今回の場合は省力化効果がきわめて広範に渡ることが予想され、自分の仕事自体が消滅してしまう可能性は極めて高い。しかし、ディジタル化が進んでもかなりの間は、新技術の進展を推進する人材は、一層必要とされるだろう。他方、複雑化する社会にはかなり高度な技術を持っても代替できない、心のこもった人間の手足や頭脳で対応することが求められる仕事は一定限度残る。看護・介護などの仕事は、ロボットが一部は代替しうるとしてもおのずと限度がある。

全体の労働力については、この高度な専門的熟練と低次の熟練の双方向へ分極化する傾向が予想しうるが、その展開の速度は人間の予測力を超え、容易にはコントロールできない。恐らく最も大きな影響を受けるのは、現在「中間的技能」分野ともいうべき、広範な技能を包含する労働者の層である。職場も製造業の工場からサービス業までありとあらゆる職種に及び、多様な形態をとって機械、ITによる代替が進むだろう。仕事の盛衰の実態は、格段に激しい様相を呈するだろう。今日あった仕事が明日はないという状況は、見慣れた光景になってゆくだろう。次の世代の直面する「仕事の世界」は、「楽園」とは程遠く、絶え間ない仕事の盛衰が支配するだろう。激動する世界を見通す「知の力」を身につけることはたやすいことではない。スマホを捨てる必要はないが、その「小さな世界」から離れ、近未来に何が起こりそうか、熟考すべき問題はきわめて多く多様だ。多くの職業は、チェスや囲碁・将棋の高段者が、スーパーコンピューターに支えられたロボットに敗北するように、瞬時に機械に代替・淘汰されるわけではない。仕事の生成・淘汰のプロセスはきわめて複雑で、かなりの時間も要する。AIの時代が多くの人々に、認識されるまでには長い時間が必要だ。

ブログ記事文頭に掲げたテーマ・カヴァーは、ヒエロニムスの《地上の楽園》(下掲、詳細はクリック)の現代版のように見えるが、現実は厳しい世界だ。と言っても、AI技術などの新技術が、人間の仕事を奪い、蹂躙するような《地獄図》とも思えない。「仕事の未来」は、未だ濃霧に包まれている部分が多い。いかなる仕事が将来を主導するか、不分明だ。「就活」は人生において大事な活動だが、それに失敗したとしても、挽回の機会は次々と現れる。重要なことは常に時代の赴く方向を考え、人生で何度か現れるチャンスを逃さないことだろう。

ヒエロニムス《地上の楽園》

 

* The great jobs boom. The Economist May 25th-31st 2019

*2 日本労働協会編『海外投資と雇用』1984年

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