さじかげんだと思うわけッ!

日々思うことあれこれ。
風のようにそよそよと。
雲のようにのんびりと。

四十六

2007-05-02 23:54:03 | 『おなら小説家』
燃圓が描いたモロチンの伝記小説『屁の如く』第1回目は、静かな反響を呼んだ。
いいにしろ悪いにしろ、評価の分かれる作家の伝記は、やはり評価の分かれる伝記となった。
対象についてはもちろん、重度の燃圓読者ならば、すぐに気が付くような文章の違いが特に大きかったのである。
桂木金五郎氏に至っては、大丈夫かと心配して電話をしてくるほどであった。
これに衝撃を受けたのは、誰あろう当の小奈良燃圓本人であった。
まさか、恵美に読んでもらわずに発表した作品が、これほどまでの違和感を持って捉えられたことは、衝撃的であった。
いかに、自分が恵美と恵美の感性に頼って作品を発表してきたかがわかったのである。
高校時代、同人仲間から「時代の奇跡」とまでいわれた草田男の文章は、今ではすっかり恵美の文章となっていた。
確かに、この文章は紛う方なき燃圓のものである。しかし、感性は恵美のものであった。
これではあたかも、代筆のようではないか。
小説家こそ天職と思い込んでいた草田男には、これは耐え難い事実であった。
とはいえ、連載を始めてしまったのだから、途中で打ちきりというわけにもいかない。
昔は、桂木氏にも認められるほどの感性を、恵美と同等の感性を有していたはずなのだから、それを取り戻すしかない。その機会は、恵美がいない今でしかできないことである。
草田男の、自分の感性復活を、この自身の一大小説上で行う羽目になってしまった。
自分の愚かさに、草田男は笑うしかなかった。
しかし、やらねばならない。
小説など、いくらでも書き直すことができる。
しかし、消え失せた感性を取り戻す機会は、今しかない。

四十五

2007-04-26 22:21:20 | 『おなら小説家』
そのころ、恵美は趣味であった刺繍が思わぬ反響を呼んでいた。
知り合いのすすめで、日本刺繍連合協会の品評会に出品したところ、協会特別賞というえらい賞をもらったのである。
その技術を買われ、今度欧州で開かれる国際大刺繍品評会に日本の代表として出場してくれないかと頼まれたのである。
一度は辞退したものの、度重なる願いにとうとう恵美も折れた。
ことを草田男に相談した。
草田男がだめだというはずもなかったが、草田男は仕事が詰まっているために同行することはできなかった。
恵美が欧州に赴く十日ほどの間、草田男は一人で黙黙と仕事をこなさなければならなかった。

草田男もいい大人である。
泣く泣く分かれるということはなかったが、一抹の不安があることは確かだった。
何せ、作家・小奈良燃圓にとって最良の読者が一時的とはいえ、いなくなるのである。
しかも、その十日の間に燃圓の会心の作となるであろう、モロチンを主人公にした伝記小説の、初めての締め切りを迎えるのである。
出かける前には呼んではもらったが、恵美の満足を得るには至っていなかった。
燃圓の作品が文芸雑誌『髭』に載るのは、まだ一ヶ月も先の話であった。

四十四

2007-04-10 22:19:28 | 『おなら小説家』
諸角鎮務は、有力ではあったが、決して有名な作家ではなかった。
技量には優れていたが、その消極的な性格が災いした。
才能で世に出ることはできても、人柄のために出世することはできなかったのである。
惜しまれつつも、38歳の若さで死去した。首をつっての自殺したという。遺書もなく、書きかけの原稿が残されていたので、発作的なものではないかといわれているが、真の原因は定かではない。
落ち着きのある流麗華麗といえる文体が特徴で、熱狂的愛好者も少なくない。そんな愛子者たちには「モロチン」と呼ばれ愛されている。
代表作は、芍田川賞候補に挙げられた『妻の屁はバラのかほり』や平安時代の宮廷生活を描いた『へはとこしえにくさし』。
諸角の作品の中で、特に題名に「屁」がつくものは「モロチンの屁」連作といわれ、高校の国語教諭ぐらいなら知る程度の知名度はあった。
草田男は大学生の頃、その作品を読み、脱帽した。この人物こそが当代一流の作家ではないかと思うほどの技量を持ち合わせた人物であった。
いつしかその存在は世間で忘れられ、草田男も仕事の波に飲み込まれ、忘れきっていた。
それをふと思い出したのは、草田男が行っている高校での同好会評論活動で、ある生徒が諸角の作品を取り上げたときであった。

技量はあっても、作品に鮮烈さがなく、大衆的というよりは深い思想性を有した芸術的な作品が多かった。
その芸術性の高さゆえ、彼の作品は読まれなくなったともいえるのである。
草田男は、この埋もれた稀代の天才作家を今一度世に出したいと考えていた。
彼の生涯を調べ尽くして、論文にまとめて発表するという手も考えられたが、小奈良燃圓こと草田男は、生粋の小説家であった。
伝記という形でしか、失われた天才の輝きを生かす文章は書けないだろうと考えていた。
創作の形を取った真実を表現した文章を書くしかない、という結論に至った。
その準備のために、彼は動き始めた。

四十三

2007-04-07 21:21:06 | 『おなら小説家』
恵美は草田男の予定の管理をしながら、刺繍の趣味を深めていった。
趣味はあくまでも趣味であり、草田男の業務の邪魔になるようなことはなかった。
しかし、いつの頃からか、仕立ての良い恵美の刺繍に注目が集まり、専門誌などから取材を受けることが多くなった。
恵美は、仕事に差し支えがない程度に、その取材をこなしていった。
なかなか趣味に時間が割けなくなったのは、草田男が活動の幅を広げたことと無関係ではない。
恵美は大して気にとめる様子もなかったが、草田男はそうもいかなかった。
ただでさえ、恵美に迷惑をかけているのだから、せめて趣味の時間ぐらいは確保してあげたかった。
わたしは別にいいのよ、と恵美はいったが、草田男の気が済まなかった。
草田男は、次回作の資料集めのためにしばらく図書館通いをするといって、家を数時間空けることにした。
その時間は恵美は家にいればよいといって、趣味の時間を確保することにしたのだった。
その場しのぎの時間とはいっても、それで彼女の気が晴れるならと考えていた。
卓越した美的感覚は趣味の刺繍でも発揮され、同時に、小説家・小奈良燃圓の妻としても、世間から注目を集める存在となっていた。

一方、草田男も新境地の開拓ばかりに力を入れていたわけではない。
それまでの小説家業にも、なお力を入れて挑まなければならない。
彼の今までの仕事に対する評価は決して低いものではないが、それで満足するような草田男ではなかった。
図書館通いをしていくうちに、草田男は非常に魅力的なある人物を見出した。
その人物とは、諸角鎮務(もろずみ・しずむ)という、ほんの20年前に没した名もなき小説家であった。
その諸角某の評伝を書くことにした。

しかし、その刺繍と評伝が、度重なる未曾有の危機に繋がることを、草田男はまだ気づいてはいなかった。

四十二

2007-04-02 23:41:26 | 『おなら小説家』
大日本経世済民新聞…通称・日世民新聞は、現会長の尻出一太郎(しりだし・いちたろう)が一代で築いた一大新聞社である。
今の社長業務は、息子の尻出功が引き継いでいる。
草田男と功とは直接の面接はないが、功は草田男の大学の後輩に当たる。
そして、功は草田男を、畏れ多い存在として崇めていた。
大学時代から経済の神に見入られた存在として、構内では有名であり、そして、彼に言い寄ってきた”ハイエナ”たちの一人が、功の父である一太郎であった。
草田男は、その尻出家の大世民新聞の文化面に、短評論を書くことを承諾した。…もちろん、考えがあってのことである。
情報媒体への進出の足がかりとしての、短評論であった。

テレビには相変わらず出るつもりはなかったが、作家以外の活動として評論や随筆は取り組むつもりであった。
書くことは、山のようにあった。経済のこと、歴史のこと、読んできた本のこと、文化のことなどなど。考え込むことはないほど、ねたはたくさんあった。
しばらくして、草田男の見識の広さに目をつけた出版各社が、小説外の文章の依頼をしてくるようになった。
彼の書く推理小説はテレビや映画にもなっていたし、女性にも人気があった。それというのも恵美のおかげであるのだが、女性週刊誌からも執筆の依頼が来たので、草田男はいささか困惑気味であった。

草田男の人気は、妻・恵美なくしてないわけであるが、草田男の情報媒体への露出が多くなるにつれて、その恵美が今、注目を集めていた。
最近はめっきり見られなくなった、「内助の功」というものが、今日再び耳目を集めているのだった。

四十一

2007-03-24 23:13:20 | 『おなら小説家』
立起はその後、次々と作品を発表していった。
三ヶ月の間に週刊誌に短編を三本、さらに文藝月刊誌に長編の連載をはじめた。
立起の作品は、若い世代に大変な人気があった。
会話主体の文章に、軽妙平易な心理描写。それでも余すところなく登場人物の心情を読者に伝える技術は、天性の物であろう。
テーマは重厚で、普通なら若い人が手を出そうはずもないのだが、その文体のためにすらすらっと読めてしまう。読ませる文体なのである。
やや遅筆の草田男と違い、立起は筆が速い。
草田男が1本書く間に、立起は3本書く。
安定して作品を発表するのも、立起の人気を保持する一つの理由であった。
大学在学中にもかかわらず、精力的に作品を発表し続ける立起であった。

草田男は、推理小説と歴史小説と二つの分野で成果を残しつつ、邁進していた。
「ひげの探偵・球磨」シリーズは相変わらず好調であるし、歴史小説でもひげに一生をかけた幕末の理美容師に焦点を当てた長編「髭侍」(しじ)も、大変に好評であった。

しかし、ここのところ、草田男は考えていることがあった。
もし、立起を何とか引き留めようとするならば、実は何とか情報媒体をうまく使うことができないだろうかと。
近年、燃圓の周囲も落ち着きを取り戻し、世間の彼の作品に対する正しい評価も与えられるようになった。
また、彼自身も、おのが作品を沈着な目で見ることができるようにもなった。
と同時に、彼の”暗い”過去に着目し、経済や経営についての短評論の執筆依頼も舞い込むようになってきていた。
もし…極めて上昇志向が強く、野心旺盛な立起と対抗するときが来るとしたら…。
そのときのために、情報発信の確保は重要になってくるのではないか…。
彼が主に活躍している文芸雑誌や新聞小説だけでは、足りないのではないか…。
少しづつでも、情報媒体への接触を試みていかねばなるまいと、考えていたのである。

四十

2007-03-14 23:29:30 | 『おなら小説家』
桂木氏はこの年の春に体調を崩し、伊豆・修善寺で療養生活をしていた。
修善寺に移り住んでから体調は回復しつつあるが、今更帝都に戻る気はないらしかった。
別荘の露台に出て、椅子に揺られながら読書浸りの生活である。
あるいは、死後に発売されることが予定されている桂木金五郎全集についての書き物をする日々だという。
桂木金五郎は、それほどの時代を代表する推理作家なのである。

金五郎氏は諸手を挙げて歓迎してくれた。
この保養地に引きこもって以降、立ち寄ってくれる友人も多くはなく、寂しさに耐えかねていた時期でもあった。
桂木氏と少し近況などを語り合い、世間話をしてひとしきり笑いあった後、草田男は本題を切り出した。
ずばり、最近話題の斧小根という男の作品を、どうお思いですかと。
金五郎氏は、しばらく黙ってじっと草田男の目を見ていた。
草田男も、目を反らさないようにじっと見つめている。
ややあって、金五郎氏は興味深そうに、そんなに気になる存在かね。彼は、といった。
草田男は、まぁ…と言ったきりであった。
何か、因縁がありそうだが…と金五郎氏は、草田男の心根をのぞくような目つきで言った。
草田男は、まぁ、そうですな…と言ったきりであった。
まぁまだ伸びるのだろうが、才能は完成されつつある。と評した。
ふむ…と草田男は唸った。
しかし、と金五郎氏はいった。どうも、文章というわけではないが、全体的に独りよがりではある。独りよがりは、非常に直しにくい癖でもある。なぜなら、話を聞いてもいつの間にか聞いていないことにしてしまうからな。やっかいな癖を抱え込んだやつだな。『山月記』の李徴のように、虎になる男だ。とも評した。
草田男は、その言葉を聞いて拳をにぎった。
虎になる…それだけは、何としても阻止しなければならない。それが、自分の役目であると確信した。

三十九

2007-03-06 23:42:06 | 『おなら小説家』
どうでしたかと、恵美は尋ねた。
草田男は言葉に困っていた。
表向きの装飾技術はかなりの進化を遂げていた。きっと、それなりの努力を要しただろう。試行錯誤を重ね、多くの本を読んだのだろう。
自分の志向する分野の作品ばかりでは、これほどの深みのある文章は書けなかったであろう。
創作だけでなく、記録物や劇脚本も数多く読んだことであろう。
しかし、彼の視点はつねに外見的なものに向いていた。なかなか奥深くにあることを見抜けないでいた。
つまり、彼の周りにはそれを教えてくれる人がいなかったということでもある。
彼の文学の探検は、常に相棒のいない孤独なものであった。
草田男は、彼の作品には読者がいない、といって温牛乳をあおった。

立起の芍田川賞受賞を受けて、報道機関は一斉に彼を取り上げた。
中でも彼が高校時代に謎の作家、小奈良燃圓に教えを請うていたことが明らかになると、その騒動は燃圓にも飛び火した。
しかし、作家・燃圓は立起のすべての力を認めていたわけではなかったので、立起に関する声明は出さずにいた。
立起もまた、燃圓に対して口を出さなかった。
報道各社は、なぜ師弟に当たるこの二人が無関心を装うのか、推理を重ねたが当の本人たちが正解を明かさぬのだから、当たっているのかそうでないのかはわからなかった。

そんな中、草田男は近々、桂木金五郎氏と会う約束を取り付けた。
日本推理小説界の重鎮である桂木氏に、いろいろと尋ねたいことがあった。
まず、立起の作品の評価について。
なぜ、芍田川賞の候補に選ばれるほどの作品と作家が、自分の耳に入ってこなかったのか。
聞きたいことは、たくさんあった。

三十八

2007-03-03 00:01:20 | 『おなら小説家』
草田男は、その報せを二人の人間から、ほぼ同時に聞いた。
一人は編集者の楠本海彦、もう一人は同好会顧問で高校教師の須飼仙利であった。
二人とも立起と燃圓の縁を知っているので、まず第一に報せてくれたらしい。
立起が卒業してから二年と半年。
大学三年の斧小根立起は、入学以後も地道に小説を書き続け大学の同人雑誌に寄稿を続けていた。
その後、大学二年の時に地方の新聞社が主催する文学賞で最優秀賞を受け、新聞上で連載された。それが、九州の新聞だったために知るところではなかったらしい。
その新聞小説に目をつけた大阪の出版社から作品の依頼を受け書き上げた作品が、芍田川賞を受けたという。
その作品は社会派推理小説で『Mustache』という題名だった。
「Mustache」とはつまり、日本語でくちひげのこと…つまり、燃圓との深い因縁を知る人が見れば、この作品がどれほどの意味を持つのか、わかるだろう。
もし、芍田川賞を狙い撃つつもりで作品を書いたと言うことであれば、立起はよほどの実力者に成長していると言うことになる。
草田男は、作品を読んでみたかと二人に尋ねた。
二人ともすでに通読したというが、高校の頃よりも二回りは成長しているといっていた。
情景描写の技術に優れ、あたかも紙芝居を見ているかのような作品だったともいっていた。
草田男は、取り急ぎその作品が載っている雑誌を購入し、精読した。

草田男は仕事もせずに読みふけり、終わったのは夜中の三時を過ぎた辺りであった。
確かに、素晴らしい出来であった。
主人公は薄田武秋(すすきだ・たけあき)という警察官で、時代設定は明治初期。廃藩置県間もない時代であった。架空の樋下県を舞台に、県知事殺人事件を解決していくというものであった。
読み終わって、草田男はふぅと息をついた。
恵美も付き合って起きていて、読み終わったのを見計らうと温めた牛乳を盆に乗せてやってきた。

三十七

2007-02-23 23:50:14 | 『おなら小説家』
旅行から戻った草田男は、推理小説にとどまらず、引き続き歴史小説も発表していた。
じょじょに調子を取り戻し、それぞれの分野で評価を受けていた。
また、「ひげの探偵・球磨熊太郎」の一連の作品は相変わらず人気で、「球磨」連作はとうとう映像化許可の依頼が来るまでになった。
テレビでの映像化は草田男の意向によって却下されたが、映画化は許可され、来年の年末に公開されることが決まった。
まさしく、「ひげの探偵」連作は、燃圓の代表作となったのである。
草田男が指導に赴いている高校では、これを記念してささやかな祝いの席を用意していくれた。
燃圓の存在が世に認知されるほど、世間は燃圓の素顔を知りたがったが、やはり世に出る気にはなれず、未だに謎多き作家だった。
そういった謎に満ちたところや、特異な経歴もあって、小奈良燃圓は時の人になりつつあった。
しかし、それはあくまでも外界でのことであって、当の夫妻にとっては変わらぬ毎日であった。
変わらぬながらも、充実した日々であった。
時は、流れた。

二年後。
上映された「ひげの探偵・球磨熊太郎 殺意のひげ」はなかなかの好評を博し、次回作が決定した。
同時に、テレビでの制作依頼も以前にも増して多くなった。
結局、押し切られる形で許可を下ろし、「球磨」連作も本格的に情報露出がはじまった。

その頃、東京ではある文学賞の受賞の報せに、大騒ぎとなっていた。
芍田川賞といえば、泣く子も黙る日本では最高位の文学新人賞である。
その賞を受けたということは、将来を約束されたとまではいわないが、嘱望された存在であった。
それが、まだ年若き大学生の青年が受けたと言えば、話題になるのも道理であった。
その男の名は、「斧小根立起」。
つい1年前まで草田男にもっとも期待され、しかももっとも失望された男であった。