キツツキのドラミング

思い付くまま, 気が付くまま・・

”三人寄れば文殊の智慧”というけれど・・・

2015-04-25 14:53:25 | Weblog

 

『ハトヤマと粗相の会』ではなく『さとやま・草莽の会』を元総理の村山富市、ルーピー・Hatoyama、藤井裕久、山崎拓、村上正邦、矢野絢也が呼び掛け人で結成したそうだ。この顔触れでは錚々たるとは形容し難い。政界から葬送される手合いが相応しい。結成の目的は『反安倍』で一致している。村山談話の村山は「平成7年談話が出てから今日まで歴史問題で日韓、日中関係でガタガタすることはなかった。村山談話を継承すると首相は言っているが全て継承する訳ではないとはぐらかしている」「『植民地支配』と『侵略』などの言葉を使うことに疑義を持っており、日本は世界から孤立しかねない」と安倍を牽制。ハトポッポも尻馬に乗って「村山談話の神髄部分(植民地支配と侵略)を継承しなければいけない」などと歴史に残る無能な両元首相、村山は眉毛を棚引かせながら一席ぶったようだ。24日の会合には鈴木宗男(新党大地代表だが公民権停止中)がクリミアを訪問したルーピーを称えた。今や一人歩きしている『村山談話』の成り立ちを河野洋平が朝日新聞平成21.7.29朝刊で「村山、河野、武村正義(さきがけ代表)の3者が手を握り、戦後50年の村山首相談話を作った」 当時総務庁長官、江藤隆美は「8.15の閣議に突然首相談話が出て来て仰天した」また運輸相、平沼赳夫は「事前の相談は全くなく、唐突に出た。社会党出身とは言え、何でこんなのを出すのかなと思った」また野坂浩賢官房長官は「閣議では全会一致だった。異議を申し立てる閣僚がいれば、内閣の方針に合わないことで即刻、罷免するつもりだった」と鼻息が荒かった。自民党は細川8党連立で政権の座を追われ野党になり下がり、細川内閣が倒れ、新生党の羽田内閣になったが社会党が連立を離脱、さきがけは閣外協力で距離を置いたので少数与党の羽田内閣は予算管理内閣になって辞職した。野党に甘んじていた自民党は竹下、野中、さきがけの武村が暗躍して自社さ連立政権を画策、社会党を首班とし村山委員長を首相に担ぎ上げて村山内閣が発足した。社会党委員長、総理、村山富市。自民党総裁、外相、河野洋平。新党さきがけ代表、蔵相、武村正義。この3人が作成したのが『村山談話』だ。文殊様ではない、この3人が雁首並べ、無い智慧を絞って、低姿勢を貫き『植民地支配、侵略、お詫び、痛切な反省、深い反省』などの文句を羅列した。とても内外の英知を結集した代物ではない。”鰯の頭も信心から”の類だ。写真は亀(自民党)の上に舞い降りたアオサギ(村山)。


共産党がご愛用する河野洋平、古賀誠

2015-04-11 17:07:15 | Weblog

共産党推薦の知事候補が河野洋平や古賀誠の安部政権批判の講演や談話を引用して街頭演説していた。この自民党OBはすっかり共産党と同じレベルだから利用されている。洋平は名古屋で講演「安倍政権は保守政治というより右翼政治だ」。直ぐにも戦争をするようなデマゴギーを飛ばす。朝日の尻馬に乗ったニューヨーク・タイムズ特派員は『右翼』ではなく『ultra right(極右)』だと報じている。共産党ご愛用の洋平が会長を務める日本国際貿易促進協会の関係者約65名を引き連れて12~17日の日程で訪中、北京で中国共産党政治局常務委員と会談をするようだ。沖縄県知事翁長も12~14日同行する。両者揃って、揉み手で尻尾を振りながら、現安倍政権は右翼で、反中国だと御注進する。翁長は米軍普天間飛行場の辺野古への移転を断固反対して、政府と戦っている、沖縄から米軍基地を無くすよう奮戦努力中だと中間報告して、ご機嫌をお伺いする。昔、河野洋平等親中派はロッキード事件を切っ掛けに自民党を離党していた連中6名が「自民党は既に歴史的役割を終えた」とタンカを切って、1976年『新自由クラブ』を創った。一時17名当選したが内紛で分裂、ジリ貧となって4名になったこともある。自民党が過半数を割った1983年、新自由クラブの8名が欲しい自民党は同クラブと連立政権を組んだ。その第2次中曽根内閣に田川誠一が自治相で入閣、同改造内閣では山口敏夫が労働相、河野洋平は科学技術庁長官に納まった。小判鮫商法が功を奏した。そして自民党に復党、1986年新自由クラブを解党。出たり入ったりしてフラフラしていた洋平が自民党に復党後、宮沢喜一政権が官房長官に起用して”慰安婦問題の一時逃れを画策”。この姑息な『河野談話』を出させたのが、災いの始まりだ。現在も韓国大統領朴に利用され反日の論拠になっている。これだけ反党行為をした男を総裁にしたり、衆院議長に祭り上げたのが、人を見る目のない自民党幹部、特に宮沢喜一がボンクラだった証左だ。その洋平、議員を引退した現在も『元衆院議長の肩書き』を利用、反党、反政府の言動を繰返し、親中、媚中の反日行動が止まない。同様な行動を古賀誠も続けている。一部政党、テレビ、新聞のデマに踊らされた年寄りが、真顔で「安倍さんは戦争したがっている」と受け売りをする。NHKラジオ深夜便でも映画監督松井久子が「戦争する国になるような気がする」などと、それとなく煽るようなヨタを飛ばすと聞き手は相槌を打つ。軍隊ではなく自衛隊で交戦権のない国がどうすれば戦争出来るのか、是非ご教示願いたいものである。洋平、翁長の凸凹コンビ、反日、反安倍を語り、媚中のオベンチャラを垂れてご機嫌伺いする。こんな手合いは国賊と呼ぶ以外に適当な単語があるだろうか。写真はアオサギ、コサギ。洋平と翁長の図。


親玉に見識ないので・・・

2015-04-06 11:00:13 | Weblog

日本は先進国の中では女性議員が少ないと言われている。その少数の中でも次々問題を起こす女性議員が絶えない。政治家ではなく性事家の呼称が相応しいのもいる。数年前民主党が小沢ガールズ結成だと、有象無象から一寸ご面相のいいのや、タレントで名前が売れているのを選んで公認したのが始まりだ。採用する親玉小沢に分別する能力が欠落していたので玉石混淆、石コロの方が多かった。このしくじりを学ばず、小沢の轍を踏んだのが橋下チルドレンだろう。即席、思い付きの泥縄だから当然の帰結だった。小沢ガールズでは不倫をしてベッドの上でぶってブッテのマゾの姫野由美子、予算委員会で質問したのは噴飯物だった。また衆院内閣委員会の採決の際、与野党が揉み合いになり、民主党の応援に来て自分で前方にダイブして怪我をした。これを近くにいた自民党の甘利明議員に突き飛ばされたからだと責任を擦り付け、謝罪を求めた三宅雪子。本人が「自分で転んだ」と国会内のエレベーターの中で同僚議員に発言したのを、乗り合わせていた自民党の馳浩議員、共産党の宮本岳志議員に聞かれて、その嘘がバレタ。現在は2人とも落選して消えた。最近では自民党の農水政務官中川郁子議員が7歳下の門博文議員と不倫路上チュウを撮られ、ラブホテルにしけこんだのを週刊誌に暴かれて予算委員会で言い訳させられる羽目に陥った。現在は浪速のエリカ様と呼ばれている維新の会の上西小百合がテレビで恰好の餌食になっている。地方区で落ち、比例近畿ブロック復活のゾンビ議員だ。これが3月12日ウイルス性胃腸炎の診断書を提出、13日、重要な予算案の採決が行われる衆院本会議をサボッタ。その下痢と嘔吐の病人?小百合が12日夜、自民党の赤枝恒雄衆議院議員(赤枝六本木診療所産婦人科院長で医師だから診断書を書いた可能性あり)と共に、六本木の居酒屋、ショーパブなど3軒を梯子したのがバレタ。翌日13日は新幹線で大阪に帰っていた。その後秘書の兄が経営する飲食店で2人は食事をした。14.15日は公設秘書家城大心と京丹後市、宮津市に旅行、与謝野町長や町議7人と小料理屋で宴会したようだ。この公設秘書は離婚して現在独身、前科があり、取材スタッフに向かい、チンピラ顔負けの巻き舌、ダミ声で「ええかげんにせいや お前」「人の車あてたらどうすんや こらっ」「お前 わしの車に当ってるんじゃ こらっ」凄んで見せた。大阪維新の会の橋下が小百合から事情聴取、本会議を欠席した事実と日頃の言動に問題が多いと除籍処分にした。小百合は「橋下は優柔不断」だと切って捨てる生意気な態度だった。尚議員辞職をして出直せと説得したが拒否、今後初心に帰って無所属で頑張るそうな。そりゃそうだろう辞めれば、議員特権はなくなるし、議員歳費、文書通信交通滞在費もなくなると年間約3120万円の収入がパーになる。これじゃ浪人の身となるのは真っ平御免だろう。維新の会も除籍処分にした。維新の会の比例で当選したのであるから失職するのが当然だと思うが現行法では本人が辞職しなければ党として何も出来ないようだ。一方自民党も負けてはいない、参院外交防衛委員会の片山さつき委員長が理事懇談会に遅刻し、審議が中止となった。2月から3度も遅刻した。委員会で涙を流して謝罪したそうだ。己に不利になると、奥の手の”女の涙”で誤魔化す手段。どっこい共産党も負けてはいないと賑わしているのが『アイドル』『キラークイーン』と呼ばれる吉良佳子参院議員だ。駅のホームなどで公然とキスを交わしていた現場を週刊新潮で写真入りで報じられた。ただこの相手は交際中の共産党員の松島氏で後日結婚したそうだ。今や春、花咲き、小鳥は囀り、近所の猫はさかりがついて騒がしい。こなた女性議員も与野党問わず、負けず劣らず、昼夜お盛んなこと、”意馬心猿”。枕草子は 春はあけぼの やうやう白くなりゆく 山ぎはすこしあかりて むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる


公園に『象の墓』?

2015-04-01 09:11:35 | Weblog

昨日は若い母親の無知蒙昧さには驚かされた。横浜市桜木町の高台に野毛山公園がある。気温が上昇して桜も満開になったので広場は家族連れの花見客で一杯だった。ここが公園で高い場所だが近くの一番高い所に『佐久間象山碑』と記した木の案内板あり、その奥に佐久間象山顕彰碑がある。これを見た小学生の娘が若い母親に何かと尋ねた。さすがだ、間髪を入れず答えた「『象の碑』と書いてあるから『象のお墓』でしょう」これを聞いて我が耳を疑った。まァ驚いたね。確かに道路を挟んで野毛山動物園がある。昭和26年(1951)の開園から『はま子』という象を飼育していたが平成15年(2003)59歳で死亡するまで53年間象がいた。昭和32年から16歳若いマリコが加わって2頭になったが同62年にマリコが先に死んでしまった。その記憶があったので『象の墓』が思い付いたのだろうか。その後孫娘を連れた祖父が、佐久間象山は長野県の出身で横浜港を勧めたと説明していた。この顕彰碑は昭和29年(1954)ペリー来朝100年を記念して建てられた。碑の題は『横浜開港の先覚者佐久間象山の碑』 碑文は”安政元年1854年米国の使節ペリーが来朝のおり 松代藩軍議役として横浜村にいた佐久間象山先生は 当時の新思想家であり また熱心な開国論者であった 先生は日本が 世界の先進国から とり残されることを憂え 幕府の要路に対してしばしば欧米諸国との通商交易の必要なことを献策した またその開港場として横浜が最適地であることを強く主張し 幕府の決意を促して国際港都横浜の今日の発展の緒を作った 不幸にして先生はその後京都に遊説中攘夷派刺客の兇刃のために木屋町三条で客死した 元治元年1864年7月11日のことであった 本年はたまたま開国100年の記念すべき年に当るので われわれ有志相はかり その功績をたたえるために ここに顕彰の碑を建て 永く後世に伝えることとした 昭和29年10月1日 佐久間象山顕彰会” とある。これからは歴史に疎い手合いが増えるから、無知な親が子供に説明するだろう。坂本龍馬の碑の前でこれは龍と馬のお墓だよ」無知ほど怖いものはない。写真は碑の一部、下は花見の広場から桜の向こうにランドマークタワーが見える。