キツツキのドラミング

思い付くまま, 気が付くまま・・

「写真の題名」について

2010-09-13 08:55:49 | Weblog
昭和26年4月号「アサヒカメラ」に「写真の題名」について浦松佐美太郎氏が5千字程の見解を述べられている。浦松氏と言っても判らない人が殆どだろうから一寸紹介すると英国で学んだ登山家で文芸、社会、写真、登山論などこの頃50歳程で評論家として活躍していた。「アサヒカメラ」はカラーは口絵一枚で東大教授のニューヨークのスナップ一枚だけグラビアはライフカメラマンの朝鮮戦争前線仁川上陸作戦などの特集9カット、吉田茂などを掲載、記事面はわら半紙で頁数140頁、160円だった。以下氏の意見である。「一枚の写真は、それ自身完成された作品として題名も何も付けずに、そのまま第三者の鑑賞に供されても、それでいいはずである。それでもなお第三者に、深く強い感動を与える力を持ってこそ、芸術の作品と言い得るであろう。もし本当に写真の作品が優れたものであるならば、その写真から、どんな感動を受け、その作品をどう解釈するかは、それを鑑賞する人の勝手である。写真の作品も、ここまで行ったら面白かろうにと思われる。しかし、これは理想論であって、現実の問題としては、写真の作品に題名があった方が、それを鑑賞する第三者に、その作品の理解と鑑賞とを容易にし、結果として、その作品が第三者に訴える効果を、さらに強くしていることは事実である」こう述べた後静物、人物、風景、スナップ写真についてプロ、入選一位などの作品を例に挙げ説明されている。結びに「要するに写真の題名は、作品で言い足りないことを、言葉で補って、それによって鑑賞の効果を上げるものなのである。その点、小説の題名とは、大きく違うし、絵画の題名とも違う所がある。最も優れた題名は、それだけで解説などを読まずして、作品を十分に鑑賞させ得るものだということになろう。だから、題名は文学的に凝ったりするよりも鑑賞の効果ということを、一にも二にも、頭に置いて、そこから考え出すのが一番いいのであって、言葉としては、少しも詩的である必要はなく、簡潔で、だれにも理解され得るものの方が優れているということにもなろう」このころ大竹省二氏は30歳でプロとして活躍中であったが題名について指摘されている。これに掲載されているコンテストの入選写真の題名は気取らず素直のが多い、そして59年後の現在の同誌のコンテスト写真の題名も素直な表現が多く当時と変わっていない。アチコチで開かれる素人の「写真展」を覗いて見ると写真より題名に時間と労力を使って凝り過ぎたり、大仰な表現、意味不明、写真と乖離したりとチンドン屋的題名が多くなるのはどうしてだろうか。尤も駆け出しの女プロが写真の題名の付け方なる本を出している。猫も杓子も一億総カメラマン、ウーマン時代だから、写真の腕はどうも駄目だ、ここは一つ題名でカバーしようと本屋に走る。もともと語彙がないからトンチカンな使い方をしても当人はご満悦。カメラ業界はこの世の春か。写真は彼岸花と稲刈り寸前の稲さァ題名は如何に・・