片雲の風に誘われて

自転車で行ったところ、ことなどを思いつくままに写真と文で綴る。

7/19 古文書講読講座

2022-08-20 18:39:50 | 古文書

 7月にあったモンタロウのピアノ発表会。

ピアノを始めて1年近くなる。

発表会に出てみるか?と聞かれた時、バアバ、ジイジが観に来るならやってもいいと応えたらしい。

11秒程度の「トンボのメガネ」。

途中止まりかけたが平然とこなした。

主催者が業者に撮らせた写真とヴィデオが届いた。

 

    今日は月1回の古文書講読講座。

現在の教材は「富士川渡船改正一件」。

韮山代官所の江川太郎左衛門が管轄の吉原宿の困窮を訴えたものだ。

江川家は代々太郎左衛門を名乗る。

中世以来続く名家だ。

困窮の原因は富士川の渡である。

江戸時代大井川は橋も船も禁止されていたが、富士川は渡船が許されていた。

西の蒲原宿から下ってくる荷物は吉原宿で引継ぐが、馬積みの荷物が時として馬を船に載せられず、荷駄だけで川を越えることがある。

その場合、吉原宿側で宿より2里西にある富士川端まで馬で迎えにゆかねばならない。

この時代、公儀の荷物については各宿が次の宿まで無償で継立てする義務を負っていた。

しかし、上の場合、本来義務でない蒲原宿の分を負担させられることになる。

これではかなわないからと奉行所に嘆願した。

まだ結果まで読み進んでいないです

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11/1 志太の杜見学会

2018-11-02 11:51:17 | 古文書

島田市敬満神社


  金谷宿大学の古文書メンバーの一級建築士が企画した見学会に参加した。
この地域に存在する建築的に特色ある神社仏閣を見学しようという目的である。
建築物にはそれほどの興味はなかったが、この地域にどんな神社や寺があるかには魅かれた。
それと老人には「きょうよう(今日用)ときょういく(今日行く)」が大切であると心しているからである。


神(みわ)神社の手水舎

  上の写真、手水舎の軒下中央に「猪の目懸魚」、左右に「三花懸魚」が見られる。
この懸魚は水に縁のある魚をモチーフに火伏のまじないだと教えられた。
また、仏教が日本に伝えられ、寺院建築が持ち込まれるまでの日本では、神は山や木に宿っているとされ、建物はごく簡単なものしかなかった。
今でも沖縄の御嶽と言われる祈りの場所には大きな構造物はなく石などで示されているらしい。
その他、屋根を支える「斗栱(ときょう)」は釘などを使わず、緩めにはめ込まれただけで制振構造として優れている。

神社の屋根には、基本的に瓦を使わない。
屋根は「茅葺(かやぶき)」、「檜皮葺(ひわだぶき)」、「杮葺(こけらぶき)」など多くのことを教えらえた。
杮葺の杮はカキの木の柿とは本来違う文字だそうだ。
カキの右は本来市場の「市」、これの上は鍋蓋、こけらの「杮」は鍋蓋ではなく縦一本だという。
いまのプリンターでは区別されていない。


神神社の三輪鳥居。

  鳥居が三つ繋がった珍しい鳥居を神(みわ)神社でみた。
奈良の三輪神社が元だそうだ。


静居寺の八角経蔵内の輪蔵。

  マニ車のように一周回すと内部の一切経を全部読んだことになるといわれる。
このような輪蔵は県内では珍しいそうだ。


飽波神社の鉄筋性の動物オブジェ。

  七五三の参拝が多いのかカバ、キリン、チンパンジー、などの動物オブジェが沢山置かれている。
それもかなりリアルに作られている。





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4/28 掛川松ヶ岡旧山﨑家住宅見学

2018-04-28 16:14:00 | 古文書
約百六十年前に建築された旧山﨑家住宅母屋。


  先日きのさんが見えた時に誘われた古文書仲間の見学会で掛川に出かけた。
江戸末期まで掛川藩の御用商人(御用達)だった山﨑家の住宅を見学。
明治11年、明治天皇が泊まられたそうだ。
その後その部屋は家人でさえ立ち入り禁止とされていたという。
名誉なのか迷惑なのか。
敷地建物は山﨑家より市が買い取ったそうだが、管理維持の費用がないためボランティアの草取りやガイドで何とか月1回の公開をしているそうだ。
掛川市は市文化財に指定しているとのことだが、素人目に見ても文化財として乏しい市の予算の中から金を掛ける優先順位はそれほど高くないように見えた。
土蔵の土壁は崩れ、後年の増築部分の屋根などは瓦もずれ雨漏りもありそうな様を呈してる。


庭のバラもこの陽気に誘われて大分開いてきた。
もう1週間ほどで満開になりそうだ。
モンタロウたちが来る頃には見頃になるだろう。


腰掛が完成した。

  妻が文太郎の世話から帰ってきた。
一昨日保育園から帰されたが、その後元気になりご機嫌だったそうだ。
金曜の夜はまた八ヶ岳の家に向かった。

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1/26 古文書解読Gで現地見学会

2017-01-26 21:24:39 | 古文書

島田市堀本古文書館

  金谷宿大学の古文書グループで、最近まで講読していた大井川筋に関する文書に出てくる当時の河川管理、洪水防止対策に関する勉強で見学会が実施された。
午前中訪ねたのが堀本古文書館。
初倉地区の旧上河原村の元庄屋さんが開設している個人博物館だ。
明治16年に、江戸時代から続いた造り酒屋の屋敷を移築した古民家。
この地区は、大井川の川筋が400年前それまでの焼津方面に流れていたのが大きく牧之原側に遷移した時にその結果多くの村が流されて消滅した地区だ。
それ以降、村を再建するために、田畑の再開墾や川筋管理に多くの労力をつぎ込まざるを得なかった村々だった。
そんな苦労を記録する多くの古文書が堀本家に残されている。
江戸末までの年度ごとの年貢納入額を記録した文書もあり、堀本氏がそれを年度ごとのグラフに並べてみると、年貢額が一定期間ごとの谷がある。
これを大井川の洪水記録と照らし合わせると洪水被害で収穫できなくなって納入が困難になったことが判るという。
現在88歳の氏はこれまでも島田市市史編纂などにもかかわってきたが、彼のところに所蔵されている文書類や資料が散逸するのを恐れている。
また研究結果も纏め切れていないという。
周りの人を巻き込んで何とか継続をしたいと強く願っている。
彼の知識欲、研究熱心さにはとても歳を感じさせるものはない。

  昼食後は、解読した文書に記されていた河川管理の諸設備の実物を見学に向かった。
多くは、丸太や玉石、竹や粗朶を利用して流れを調整するものだ。
これらは川筋の各村々に出役が課せられ、資材代が支給されていた。
しかし、幕末の物価高騰でそれまでの金額ではとても賄えなくなって、値上げを嘆願する文書だった。


家山の聖牛(ひじりうし)のレプリカ。

  大井川筋で採用されていた設備は、急流で悩まされた富士川を抱える甲斐の武田家で考案されたものが多いようだ。
上流には今でも同様なものが現役であるらしいとの情報で更に大井川を上った。
しかし、予想した辺りで見つけることが出来んかった。


途中で大井川鉄道のSL と並走するようになった。


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