片雲の風に誘われて

自転車で行ったところ、ことなどを思いつくままに写真と文で綴る。

10/29 春画展とキューバ大使館

2015-11-01 22:48:19 | 2015 サマール島慰霊の旅

春画展の開かれている永青文庫。

折角東京に泊まったので帰る前に、以前から思っていた、春画展の観覧とキューバへのツーリストカード取得を実行することにした。
まず目白台の永青文庫へ行く。
熊本藩の元藩主細川家の屋敷跡にある。
細川家の執事たちの事務所として明治になって造られた建物でその後細川家の所有する文化財などを展示している。
日本では春画が初めて大っぴらに展示された展示会だ。
数年前、大英博物館で展示会が行われ好評だったことから企画されたと聞く。
展示物は、大英博物館所蔵品を初め、内外の美術館個人から借りたものだ。
週日で朝の開館直後なので空いているかと思ったが、展示室は混んでいて、絵に近づくのが困難なほどだ。
全て観るのに2時間近くかかった。
描かれている題材が限られているので、構図もほぼ限られたものばかりで、展示の方法にも相当苦労している。
版画や手書き、白黒や彩色画、大名家所蔵品や庶民の愉しみ用のものなど。
参観者の多くは中年以上だが若いカップルや女性も多かった。

細川屋敷の一部が新江戸川公園になっている。
隣には元久留米藩黒田家の屋敷跡が椿山荘となっている。
他にもかつては大名屋敷だったところがマンションになっている。

下まで降りてもまだ11時だったので、麻布のキューバ大使館の昼前の申し込みが可能だと思い、タクシーを停めた。
少し道が混んでいたが、昼の30分前に着いた。
しかし、混んでいて受け付けてはくれなかった。
タクシー代を3千円も奮発したのが無駄になった。
午後1時からの受け付けになる。
浜松町辺りまで20分以上歩いて昼食を取る。
食後戻って、前で待つ。
午後の最初に手続してくれた。
料金は2千百円。
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10/26 タクロバン→マニラ、10/27 マニラ、10/28 マニラ→東京

2015-11-01 21:45:52 | 2015 サマール島慰霊の旅

2013年の台風による大波で20メートル以上高いところに打ち上げられた船の船首がモニュメントになっている。


タクロバンのシティーホール横の公園にあるマリア観音、日本人の建立したもの。

訪比の主目的を果たしてマニラに戻った。
26日午後のフライトまでの時間、タクロバン市内を散策した。
タクロバンはレイテ湾に飛び出した半島部分にある。
この半島部の外周を一周するのは2時間ほどで出来る。
官庁街の一角に女性刑務所らしきものがあって、中から大きな音楽が流れていた。
フィリピンでは刑務所における囚人によるマスダンスが有名で観光客に見せているところもあると聞いた。
この刑務所でも更生手段の一つとして取り入れられているのかも知れない。


マニラへの途中で見かけた、富士山型のマヨン火山。

早めに空港へ向かったが、マニラ行きのフライトはまた1時間以上の遅れとなった。
マニラ空港第3ターミナルのアライバル出口でタクシー乗り場に行くと、クーポンタクシー(行き先別定額制)の客引きが同じ制服を着て競っている。
ホテル名を示し、幾らかと聞くと、170と答えたように聞こえた。
その客引きに付いて乗り場まで行くと、伝票にサインさせられた。
その後、その伝票に1,750ペソと書いている。
約束が違うというと、この金額だと主張する。
ガイドブックには250程度と記されている。
桁が違うとキャンセルするために、伝票を引きちぎった。
その時、伝票やペンが飛んだので、周りを運転手などに囲まれて少し険悪な雰囲気になった。
大声で怒鳴りつけて、その場を後にした。
出発フロアーの外に、メータータクシーの列があったのでそちらに並んだ。
列は長かったが20分ほどで乗れた。
料金は170だった。
先のタクシーの十分の一だ。
「地球の歩き方」の説明が不十分だ。


マニラ市内を二分しているパッシグ川に飛び込んで、ストリートチルドレンが遊んでいる。


チャイナタウンの中華料理屋で見かけた、ペットボトル内で育てられたシャコ。


羽田へのANAは時間通り搭乗できたが、離発着が大変混雑していて、機内で1時間以上待たされた。
機材は最新鋭のボーイング787だった。
シートのリクライニングは、背を倒すことではなくシート部を前にスライドさせることでリクライニングに似た状態にする。


窓のシェードもボードの上げ下げではなく、ガラスにダイヤルボタンでスモークを掛けていく方式だ。


羽田には遅れて夜9時過ぎに着いた。
スマートフォンの機内モードを解除すると娘からメールが来ていた。
車で空港まで迎えに来てくれていると。
旦那が新車を買ったばかりなので、乗りたくて来てくれたようだ。
自宅まで帰るつもりでいたが、泊まってもよいと言ってくれたのでお世話になることにした。

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10/25 71年目の命日

2015-10-30 20:40:58 | 2015 サマール島慰霊の旅

砂浜に線香を立てる。


朝ガイドが迎えに来た時に、良いニュースがあると喜んでいる。
日曜の朝なので、現地の教会のミサに参加したところ、日本人が日本海軍の慰霊碑を立ててある浜があることを聞いてきた。
線香を立てるならその浜がいいだろうと勧める。
その浜は、宿のあるレイテ湾側から半島を横切って太平洋に出たデューンパウ・ビーチ(Dunepaw beach)という。
松林ならぬココナッツ林の中の細いを進むと沖合をサンゴ礁に囲まれた砂浜に出た。
少しリゾートビーチに整備されていて、数棟のニッパヤシやアンペラで囲まれた海の家がある。
浅瀬では数人の子供が水遊びをしている。
慰霊碑は砂浜と芝地の境に建てられている。
日本海軍連合艦隊第二水雷戦隊駆逐艦岸波の慰霊碑だった。
1991年に建てられたものだった。


岸波の慰霊碑。

岸波は確かに10月18日から26日までのレイテ沖海戦に参加しているが沈没はしていない。
海戦後はマニラまで戻り、12月4日、東シナ海側のパラワン島近くでアメリカ潜水艦により撃沈させられている。
碑には日本・アメリカ・フィリピン3国の戦争犠牲者の霊を慰めると刻まれている。
しかし、なぜこの地に慰霊碑が建てられたのかは記されていない。
建立した人の名前が刻んであるので、機会があれば叔父が確認するといっている。


砂に線香を立て、近くに咲いていた浜昼顔の花を添え手を合わせた。

昭和19年生まれの叔父は父親に会っていない。
生まれたことを知らせ、父親が命名した。
71年ぶりに初めて対面した気分になっただろう。

日本海軍の大方が消滅したレイテ沖海戦は、大本営が本土防衛の最後の手段として発令した捷号作戦第一号の一部である。
フィリピンが捷一号、台湾南西諸島が捷二号とされた。
その激しい戦いや敗北については大岡昇平の「レイテ戦記」など多くの書物に記されている。
陸上だけでも8万余の陸軍兵士がなくなっている。

祖父の座乗した重巡洋艦「筑摩」は戦艦「大和」・「武蔵」などとともに栗田司令長官指揮する第二艦隊に属していた。
身体を壊し、陸上勤務だった祖父は、いよいよ軍人も艦船も足りなくなってきた海軍で、ある意味死に場所を求めての出陣だったらしい。
筑摩は開戦時最新鋭の巡洋艦だったという。
19年1月に艦長として乗り込んだ。
その後マリアナ沖海戦などにも参戦した。
25日は朝7時ごろ艦砲による戦闘が始まり、艦載機の攻撃も受けた。

9時近くに魚雷攻撃を受け、艦尾に損傷、舵が利かなくなり、速度も落ちて更なる艦載機の攻撃にさらされる。
応戦するも最後は演習用の砲弾まで使用したという。
午後4時ごろ艦中央部に命中弾を受け航行不能となり、左舷に傾斜し始めた。
総員退艦が発令される。
その後、駆逐艦「野分」によって撃沈処分されたらしい。
退艦した生存者120名ほどが野分に救助されたが、その後野分も撃沈された。
筑摩、野分の生存者は三日間海上を漂ってアメリカ軍に救助された1名のみだそうだ。
筑摩の標準人員は9百名ほどだという。
祖父は艦とともに沈んだ。
時に47歳。






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10/24 グイアン到着

2015-10-25 17:04:20 | 2015 サマール島慰霊の旅

船上から花を手向ける。


 22日午後、家にいた娘に駅まで送ってもらった。
yahooで調べると、田町までは、静岡ー渋谷間をバスにすると3百円安くなる。
時刻表では到着時間も同じだ。
バスは残念ながら事故渋滞に会い、1時間の遅れだった。

 娘の旦那は仕事の食事会ということで、娘と二人で彼女の手料理を味わった。
娘の本格的な食事は初めてだろう。

 羽田空港までは品川から京急で行った。
初めてだったが、浜松町からモノレールに乗った方が速そうだ。
来月の上海行きが深夜で、横浜から京急を考えているので試みた。

 マニラでのトランジットは2時間待ちのはずが、2時間以上遅れた。
タクロバン到着時はもう暗くなっていた。
タクシーでホテルに到着し、部屋に荷物を置いて食事に出た。
ホテルでもバーベキュー様の食事は取れそうだったが、もっとあっさりしたものにしたかった。
薄暗い街にあるレストランはどこも肉料理主体のようだ。
ショッピングモールのフードコートはもう終業の8時を過ぎて入れない。
窮した挙げ句フィリピンで多いジョリビーでホットドッグになった。


タクロバンの宿から。

 翌朝、依頼してあったガイドと車で10時に出発。
サマール島先端のグイアンまでは4時間程だと言うので少し寄り道をする。


マッカーサーランディングポイントの像。

 I shall retern.の言葉通り再上陸した記念公園が町外れにある。
71年前の10月20日、日本陸軍の主力がまだ残っているレイテ島に、桶狭間の信長のように少人数で先陣を切って上陸して来たそうだ。


レイテ島とサマール島を繋ぐ橋。日本が建設した。

 小さな漁村のグイアンには4時過ぎに着いた。
船で海上に出るのは、日中は暑くて大変だということで、そのまま船を探しにゆく。
最先端の教会前でたむろしている漁師が受けた。


エンジン、アウトリガー付きの漁船。

 レイテ湾側なので波も風も穏やかだった。
先端に続く小さな島を回って、サマール海側の太平洋に出た。
太平洋といっても、珊瑚礁の内側だ。
外側には波が打ち寄せ、白波が立っている。
とてもこの小さなボートで乗り出すことは出来ないだろう。


船上から花を手向ける叔父。

 この海が昔戦場だったのが信じられないほどの長閑さだ。  

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