片雲の風に誘われて

自転車で行ったところ、ことなどを思いつくままに写真と文で綴る。

7/4 サンティアゴ巡礼纏め3

2013-07-04 19:37:08 | エル・カミーノ・デ・サンティアゴ2013

稲が青々と育っている。

 ここのところ色々あって、ブログから遠ざかってしまっていた。
纏めが途中のままだ。

 サンティアゴの遺骸が’発見’された9世紀から10世紀前半までは、ガリシアなどのスペイン内だけの巡礼者だったが、半ばからはピレネー以北に拡大し始めた。
11世紀末から13世紀に頂点に達する。
その数は年間20万人とも50万人とも言われている。
イェルサレムを目指した東方十字軍に対して、西方十字軍として、レコンキスタ運動への参加でもあった。
15世紀にレコンキスタが達成されると、巡礼は『信仰の旅』から『遊行』としての観光的色彩を強めた。
しかし、宗教改革期の16世紀にはプロテスタント諸国が聖人崇拝や巡礼を禁止したため巡礼者数は大幅に減少した。
16世紀のイギリスとの戦争で、イギリス海軍の略奪を恐れて、サンティアゴの遺骸を隠した。
その結果、隠匿場所を失念するという失態もあった。
そして停滞は続き、19世紀に底を打つ。
1879年、遺骸がサンティアゴ教会主祭壇の下から「再発見」された。
20世紀に入り、スペインは政治的に混乱する。
20世紀中頃、フランコ体制下で政治・社会的統合の手段として巡礼が振興されるようになった。
しかし、フランコ体制への反発もあって、70年代までは低調なままであった。
80年代に入って、スペインの民主化が進行し、再び活性化し始めた。
それでも、1991年には1万人にも満たなかった。
それが毎年のように増加して、2012年には20万人に達しようとするまでになった。
これは、歩きで最低百キロ以上、自転車なら2百キロ以上の巡礼者の数で、サンティアゴだけへの観光客は含まない。
日本の四国遍路も20世紀末にはブームになり歩き遍路が増加したが、最近は減少傾向であるのとは違いがある。

巡礼を終えた後、バルセロナ、マドリッドへ回ってみて、巡礼路のある北部が如何に開発が遅れているかが再認識された。
途中にパンプローナ、ブルゴス、レオンと大きな都会もあるが、その他は千人以下、多くは百人程度の村が続く。
これらの村には、バールや小さな商店があるが、これも巡礼者がなければ維持できないだろう。
しかし、ここ20年の右肩上がりの増加傾向は今後も続くだろうと予想される。
日本人は8百人ほどで頭を打っているが、韓国人の伸びは大きく、2012年ですでに日本の3倍を超えている。
こんな所にも、日本の衰退、韓国の伸長状況が現れている。



 巡礼を終えて、バルセロナ、マドリッドでそれぞれ1週間を過ごしたので、巡礼の感激が薄れてしまったように感じるが、スペインへの関心はさらに強くなった様に思う。
日本ではとかく欧米からの情報が多く、十字軍にしてもさも正しいことが行われたように教えられている。
しかし、現実はスペインにおいても、イスラムが支配していた時代は農業も手工業も発展して、ユダヤ人のネットワークで流通も盛んになり、庶民の生活は豊かで安定していた。
それが、野蛮なヨーロッパ人が攻め込んできて、それらの仕組みを破壊した。
支配者となったヨーロッパ人は、農業についての知識もやる気もなかったため、優良な農地は放置され、牧畜しかできなかった。
その土地で養える人数が限られていたので、食えなくなった余剰者は海外へ出て、新天地を求めざるを得なくなった。
それが、スペインの海外領土獲得の元になった。
歴史に『もし』は禁物だが、イスラムがそのまま、スペインで栄え続けたらヨーロッパ文明も違ったものになっただろう。
アジアやアフリカ、南北アメリカもスペインの植民地にならずに、どんな文明を築くことになっただろうか。

 スペイン人は、フランスなどとは違って、明るい顔をしている。
街角で地図や、町の標識などを見ていると、どこへ行くのか、何か困っているかと直ぐに尋ねてくれる。
また、店やレストランで英語が通じにくくても苛ついたりせずに対応してくれる。
これがフランスでは露骨にいやな顔をされる。
駅の窓口で後ろに並んでいる人がいる場合は後回しにされる。
 スペインはまたゆっくり旅をしてみたい国になった。
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6/27 Santiago巡礼纏め 2

2013-06-28 00:32:20 | エル・カミーノ・デ・サンティアゴ2013

岩根囶和『物語スペインの歴史』、堀田善衛『スペイン断章』、野々山真輝穂『スペイン内戦』
手持ちの中から参考にした。

イベリア半島には紀元数世紀前からフェニキア人、ケルト人が住み着いていた。
原住民の激しい抵抗を退けて、ローマが支配を確立したのが紀元前3世紀。
ローマは半島の至る処に橋や水道橋、半円形劇場など公共施設を整備した。
ラテン語と土着言語が影響し合って、現在のスペイン語の基礎ができた。
5世紀、いわゆる民族の大移動、ゲルマン民族の伸長で西ローマ帝国が滅びる。
イベリア半島で、その機に他のゲルマン諸族を抑えて支配権を握ったのがガリシアに定着していた西ゴート族だ。
しかし、8世紀になると支配体制が乱れて、民は困窮する。
困窮した民は新天地を求めてイスラムの支配下で繁栄している北アフリカに渡った。
この民の窮状を見かねた北アフリカのイスラム総督が、西ゴートの桎梏から救おうと出兵した。
イベリア半島の住民は解放軍としてこのイスラムを歓迎した。
出兵わずか2年でピレネーまで達した。
イスラムの支配は、寛容で穏やかなもので、これまで圧政に苦しんでいた民衆からは歓迎された。
イスラムへの改宗を迫ることもなく、ユダヤ教徒もキリスト教徒も同じ神を敬うものとして信仰の自由は保証されていた。
ただし、ベルベル人のような偶像崇拝の信者には改宗を迫った。
 西ゴート族の元でほとんど無生産状態にあった荒れ地を開墾して、灌漑水路を開いたり、アラブから新しい作物を導入したりして、豊かな農業生産が実現された。
しかし、11世紀にイスラム帝国が乱れ始めると、スペインのウマイヤ朝も崩れ、それまでコルドバを中心に繋がっていた各都市が独立して小国をなすようになった。
この機に乗じて、北からキリスト教君主が国土回復のために侵攻してきた。
イスラムの支配から辛うじて逃れていた北部のアストゥリアス王国が次第にその版図をを広げレオン王国へと発展する。
この時代にガリシアでサンティアゴの骨と称される遺物が発見される。
イスラムとの戦闘で苦戦しているときに、サンティアゴが現れて、戦を勝利に導いたなどの伝説が生まれる。
それで、「モーロ殺し」と呼ばれて、レコンキスタ戦争の象徴のようにされる。
1492年最後まで残ったイスラムのグラナダが陥落して、レコンキスタは完了した
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6/26 Santiago巡礼纏め1

2013-06-27 01:54:39 | エル・カミーノ・デ・サンティアゴ2013

巡礼手帳(クレデンシャル)、巡礼証明書(コンポステラ)、ホタテ貝。


クレデンシャルには巡礼の途中で立ち寄る、宿やバールでスタンプを押す。
これが証明になる。



 サンティアゴ巡礼について少し纏めてみよう。

 サンティアゴとはキリストの12使徒の中で最初に殉教したとされる聖ヤコブ、英語ではセント・ジェイムス、フランス語ではサン・ジャック、スペイン語でサン・ティアゴのことである。
彼はパレスチナで殉教し、その遺骸は弟子たちが船に乗せ海に流した。
その遺骸がスペイン西部ガリシアの海岸に流れ着いた。
そして、埋葬されたのがサンティアゴである。
サンティアゴ・デ・コンポステーラの名前の由来についてはいくつかの説がある。
海岸に漂着した後行方が知れなくなっていた遺骸が、813年、ある羊飼いが星の光に導かれて、野原の端にあった洞窟の中でそれを発見した。
そこからカンポ(野原)とステーラ(星)を合わせてコンポステーラと名付けた。
もう一つは墓廟(コンポシトーム)からという。
キリスト教の聖地は他に、イェルサレム、ローマがある。
これにサンティアゴを加えて、三大聖地といわれている。

 ヨーロッパで巡礼が行われるようになったのは10・11世紀、それまでイスラムに押さえられていた聖地を奪還しようと十字軍が始まった頃のことだ。
十字軍と前後して、多くの巡礼者がイェルサレムやサンティアゴを目指した。
巡礼はキリスト教だけでなく、イスラム教徒や仏教徒の間でも行われている。
聖人の苦難の長旅を追体験したり、安楽な日常を離れ苦労をすることで、汚れた身を清めることができる。
解脱し、再生を期待する。
中には、善根宿や施療院などそのホスピタリティーを当てにして、巡礼路に入り込む食い潰しもいただろう。
サンティアゴへの巡礼路はヨーロッパ各地から始まっている。
フランス以東、以北の地からの巡礼路はピレネーの北側のサン・ジャン・ピエ・ド・ポーとピレネーを越えた、プエンテ・ラ・レイナにあつまる。
それが現在の「フランス人の道」だ。
この道が今の代表的な「エル(the)・カミーノ(way)・デ(of)・サンティアゴ」になっている。


スペイン国内からも何本かの道が繋がっている。
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6/20・21 帰国 Madrid - Seoul/Incheon - Shizuoka

2013-06-24 21:51:34 | エル・カミーノ・デ・サンティアゴ2013

マドリッドのデパート婦人服売り場。
日本とは色彩感覚が違う。


 朝、7時過ぎにホテルを出た。
久し振りに背負うリュックはずっしりと重い。
買い込んだ土産で、実際に5キロ以上重くなっているだろう。
地下鉄を乗り継いで空港まで行かねばならない。
通勤時間で込んでいる車内でのリュックを心配したが、ほとんど込んでいない。
座席に座ることができた。
ターミナル1までは1時間弱、8時半頃着いた。
マドリッドの空港にはターミナル1から4まである。
他のターミナルは分からないが、ターミナル1は今時の空港としてはショッピングゾーンが少ない。
10時50分までの時間のつぶしように苦労した。
チェックゾーンで、日本人夫妻に親しげに話し掛けられた。
お互い服装で、巡礼帰りだと直ぐに知れた。
4月中旬に、ピレネーのこちら側、ロンセスバージェスを出発して、5月末にサンティアゴ着、その後、レンタカーでスペイン内を観光しての帰りだそうだ。
彼らも値段と羽田発があるのでコリアンエアーを選んだ。
しかし、ソウルでの乗り継ぎがインチョンではなくキンポなので、一度入国して移動しなければならない。
チケット購入時には気が付かなかったそうだ。
後ほど、ゲート待合でまた会えるだろうと思っていたが、待合は韓国人乗客がいっぱいで見付けることができなかった。




 機内の席は、最後列から2番目で、運の良いことに、最後列はリクライニングが完全に倒れないせいか3列シートに客がいない。
離陸前にそこを確保した。
離陸の後、食事を済ませてから、肘掛けを起こして、横になってしばらく眠ることができた。
妻に交代して、妻も楽に過ごすことができた。
そこで寝てしまったために、残りの10時間は映画を観て過ごすことになった。
5本も続けたので最後には目の奥がじんじんと痛んだ。
ソウルには12時間後の、スペイン時間22時30分、韓国時間5時30分に到着。
静岡行きが出るのは、13時20分、8時間近くある。
どうやって過ごすか悩まされた。
リラックスできるイスの並んでいる所を行きに見付けてあるので、朝食を済ませた後そこに行ってみるといっぱいだ。
仕方ないので、近くの長イスで横になって2時間ほど眠ることができた。
その後は、ショップを覗いたりで何とかつぶした。
コリアンエアを使えば静岡空港から世界のほとんどの所へ行くことができるが、行く先によって乗り継ぎ時間が長過ぎる。
5時間が限界だろう。

 ソウルから静岡は2時間、あっという間の3時過ぎに着いた。
機内は客が10パーセント程度のがらがらだった。
イミグレも荷物も直ぐに済んで、梅雨空の駐車場の車に乗った。
家に着くと、ランの喜び様は大変だった。
普段は飛び付くことはほとんどないが、前足を上げて、顔を近付けてくる。
こんなに喜ばれると嬉しくなる。
荷物を置いて、直ぐに、小雨の中散歩に連れて出る。



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6/19 Segovia

2013-06-20 13:10:44 | エル・カミーノ・デ・サンティアゴ2013

セゴヴィアの街でよく見掛けた花、少し甘い香りがする。


 今日は、マドリッドから90キロ程離れたセゴヴィア観光だ。
昨日、帰りに妻が言い出したので、インフォメーションで行き方を確認した。前日の女性窓口は不在だった。

 バスターミナルが西側のプリンシペ・ピオに変わる。
今まで足を踏み込んだことのない地区だ。
地下鉄からの案内も途中で消えてしまい、分かりにくかった。
昨日のプラサ・エリピカは地下鉄の駅に直結していたが、ここは一度駅から外に出なければならない。
セゴヴィアまで1.5時間掛かった。
料金は往復で15ユーロ。
バスの中にはやはり10人程の中国人観光客がいた。
前夜が寝不足なので粗方寝ていた。
街は標高千メートル近くの高地にある。
ローマ時代からの街で、その時代に作られた水道橋が世界遺産に指定されている。
この千メートル近くの橋が観光の目玉だ。

 バスが着いた時は、気温13度しかない。
雨の予報だったので、雨用のジャケットを持ってきたので直ぐに着こんだ。
ここのインフォメーションには日本語の観光ガイド付き地図があった。
トレドより観光客が少ないのによく準備してくれている。


水道橋。

 最初に、バスターミナルから3百メートル程の水道橋に向かった。
フランスのプロヴァンスでも見たことがあるが、ここのはアーチのある部分が途中で折れ曲がっている。
石を積んだだけで、現在までその姿を完全に残している。
橋で日本人夫婦に声を掛けられた。
2週間のスペイン旅行だと言う。
カメラのシャッターを押し合った。


ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・アスンシオン・イ・サン・フルトス大聖堂。
長い名前だ。

 古い街並みを歩いて、中心部にある大聖堂に入った。
トレドに比べると質素に見える。
観光客の数が少ないせいか街は土産物屋もバールも少ない。
その為か、静かな落ち着いた感じがする。
しかし、スペインの小学生や中学生の団体が幾つか来ていて、それとぶつかるとやかましい。 

アルカサル、現在は軍隊資料館。

 続いて、白雪姫のお城のモデルになったと言われているアルカサルの城を見学。
ここもローマ時代の要塞の跡地に11世紀頃から作られた城だ。
中世のカスティージャ国王の居城だった。
近代は砲術学校として使われていたのでお城としての華麗さは少ない。
しかし、高台の端の崖の上に建っているので眺めはいい。


城からの眺め。

 その後、昼食を取ろうと幾つかのバールやレストランを覗いたが気に入る所が見付からない。
パスタやがあったので入った。
余り期待はしていなかったが、味は良かった。
ワインで少し暖まった。


街は城壁で囲まれている。

 食後は街の路地の雰囲気を味わいながら、と言いたい所だが、寒さに震えながら歩いた。
水道橋のアーチの下を、その始まりまで行ってみた。
橋脚の石が長く雨に打たれた部分では削られている。
 
 バスターミナルに戻ったのは4時前、6時間ばかりこの街で過ごした。
マドリッドに戻り、少しデパートを歩いたが、荷物をこれ以上増やす気にはなれなかった。明日は、7時前頃にホテルを出て空港へ向かう。
地下鉄を乗り継いで行かなければならない。


マドリッドの銀座通り、グラン・ヴィア通りの入口。
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