稲が青々と育っている。
ここのところ色々あって、ブログから遠ざかってしまっていた。
纏めが途中のままだ。
サンティアゴの遺骸が’発見’された9世紀から10世紀前半までは、ガリシアなどのスペイン内だけの巡礼者だったが、半ばからはピレネー以北に拡大し始めた。
11世紀末から13世紀に頂点に達する。
その数は年間20万人とも50万人とも言われている。
イェルサレムを目指した東方十字軍に対して、西方十字軍として、レコンキスタ運動への参加でもあった。
15世紀にレコンキスタが達成されると、巡礼は『信仰の旅』から『遊行』としての観光的色彩を強めた。
しかし、宗教改革期の16世紀にはプロテスタント諸国が聖人崇拝や巡礼を禁止したため巡礼者数は大幅に減少した。
16世紀のイギリスとの戦争で、イギリス海軍の略奪を恐れて、サンティアゴの遺骸を隠した。
その結果、隠匿場所を失念するという失態もあった。
そして停滞は続き、19世紀に底を打つ。
1879年、遺骸がサンティアゴ教会主祭壇の下から「再発見」された。
20世紀に入り、スペインは政治的に混乱する。
20世紀中頃、フランコ体制下で政治・社会的統合の手段として巡礼が振興されるようになった。
しかし、フランコ体制への反発もあって、70年代までは低調なままであった。
80年代に入って、スペインの民主化が進行し、再び活性化し始めた。
それでも、1991年には1万人にも満たなかった。
それが毎年のように増加して、2012年には20万人に達しようとするまでになった。
これは、歩きで最低百キロ以上、自転車なら2百キロ以上の巡礼者の数で、サンティアゴだけへの観光客は含まない。
日本の四国遍路も20世紀末にはブームになり歩き遍路が増加したが、最近は減少傾向であるのとは違いがある。
巡礼を終えた後、バルセロナ、マドリッドへ回ってみて、巡礼路のある北部が如何に開発が遅れているかが再認識された。
途中にパンプローナ、ブルゴス、レオンと大きな都会もあるが、その他は千人以下、多くは百人程度の村が続く。
これらの村には、バールや小さな商店があるが、これも巡礼者がなければ維持できないだろう。
しかし、ここ20年の右肩上がりの増加傾向は今後も続くだろうと予想される。
日本人は8百人ほどで頭を打っているが、韓国人の伸びは大きく、2012年ですでに日本の3倍を超えている。
こんな所にも、日本の衰退、韓国の伸長状況が現れている。
巡礼を終えて、バルセロナ、マドリッドでそれぞれ1週間を過ごしたので、巡礼の感激が薄れてしまったように感じるが、スペインへの関心はさらに強くなった様に思う。
日本ではとかく欧米からの情報が多く、十字軍にしてもさも正しいことが行われたように教えられている。
しかし、現実はスペインにおいても、イスラムが支配していた時代は農業も手工業も発展して、ユダヤ人のネットワークで流通も盛んになり、庶民の生活は豊かで安定していた。
それが、野蛮なヨーロッパ人が攻め込んできて、それらの仕組みを破壊した。
支配者となったヨーロッパ人は、農業についての知識もやる気もなかったため、優良な農地は放置され、牧畜しかできなかった。
その土地で養える人数が限られていたので、食えなくなった余剰者は海外へ出て、新天地を求めざるを得なくなった。
それが、スペインの海外領土獲得の元になった。
歴史に『もし』は禁物だが、イスラムがそのまま、スペインで栄え続けたらヨーロッパ文明も違ったものになっただろう。
アジアやアフリカ、南北アメリカもスペインの植民地にならずに、どんな文明を築くことになっただろうか。
スペイン人は、フランスなどとは違って、明るい顔をしている。
街角で地図や、町の標識などを見ていると、どこへ行くのか、何か困っているかと直ぐに尋ねてくれる。
また、店やレストランで英語が通じにくくても苛ついたりせずに対応してくれる。
これがフランスでは露骨にいやな顔をされる。
駅の窓口で後ろに並んでいる人がいる場合は後回しにされる。
スペインはまたゆっくり旅をしてみたい国になった。