渡部さんのバングラデシュ通信で私の訪問が取り上げられた。(4/14朝日新聞静岡版)
私のバングラデシュ行きの目的が、ブログを読んだだけではよく解らないと、石垣島で言われた。
そこで、その目的とそれに関連するチッタゴン問題について書いてみる。
以前、上に挙げた朝日新聞の「バングラデシュ通信」で、ちぇれめいえProjectのことを知った。
投稿者の渡部さんは静岡文化芸術大学の学生で、世界放浪旅行中に、子供の頃暮らしていたバングラデシュを訪れた。
その時、チッタゴン地区(CHT)のランガマティにあるモノゴール学校のことを知った。
このモノゴール学校は、40年前、バングラデシュ独立戦争にかかわる民族紛争で親を失った子供たちの救済機関として設立された。
最初は、仏教会が孤児を寺で保護していた。
しかし、孤児たちが大量に発生したので、寄宿舎付きの学校に発展した。
現在は千人ほどの小中学生(1年から10年生まで)が学んでいる。
学んでいるのはチッタゴン地区の先住民族である、ジュマと総称で呼ばれる人々の子供たちだ。
このジュマ(Jumma 焼畑をする人)はモンゴロイド系の民族で、現在は13の民族があるという。
大部分が仏教徒だ。
その人口は100万人から150万人と言われている。
その中で人口が一番多いのがチャクマ族でランガマティはチャクマ族の中心地だ。
人々が暮らしている村は、広大なチッタゴン大地に分散しているため、村に学校のないところが多い。
そこで、孤児だけでなく、学校のない村からの子供たちも寄宿している。
現在はいくつかの国際的NPOや個人のの支援を受けている。
その中で、ちぇれめいえProjectは約30人の孤児または片親で学資に困窮している子供を支援している。
この子供たちに毎月の授業料と寮費を支援する里親を日本で募集した。
その里親の1人になったわけである。
渡部さんは、現地でほかに困窮家庭の自立支援なども手掛け、もう1年以上滞在している。
子供たちは、お金の問題だけでなく、家庭の労働力としても期待されているので、それで就学困難になる子供もいる。
チッタゴン問題とは、バングラデシュ独立に際して起きた紛争が直近の原因だが、古くは16世紀ムガール帝国がモンゴロイド系少数民族が暮らすこの地位域へ伸張していたころまで遡る。
17世紀に英国が統治権を奪って、その植民地の一部に組み入れた。
インド植民地が終了し、インド、パキスタンに分かれて独立した。
その際、ヒンディー教徒主体のインドに対して、パキスタンはイスラム教徒の国として独立した。
この時、仏教徒の多いチッタゴン地区の人々はインドに留まるか、ビルマに入るか、別の独立国を建てるか模索したがかなわなかった。
パキスタンに組み込まれた。
西パキスタン中心で行われるパキスタンの国政に対しての不満がベンガル人主体の東パキスタンに高まり、独立戦争が起こる。
この時はインドの介入でバングラデシュは独立できた。
チッタゴン地区の人々はこの時も、必ずしもバングラデシュ独立派ではなかった。
イスラムの国にいる異教徒の少数民族となった。
チッタゴン地区の人口はバングラデシュの1%だが、その生活圏面積は10%ある。
バングラデシュ政府は平野部の困窮したベンガル人の入植を強力に進めた。
しかし、今も大きな悲劇は、英国からの独立直後この地区にカプタイダムが造られたことだ。
チャクマ族が暮らしていたカルナフリ川流域の肥沃な土地がこのダムによって奪われた。
満足な補償も得られずに多くの人が移住を余儀なくされた。
このような歴史もあり、バングラデシュ政府に抵抗する勢力との内戦状態になった。
この内戦の混乱で多くの孤児が生まれた。
個の孤児の救済がスタートとなった。
92年に休戦宣言がなされ、97年には和平協定が結ばれた。
しかし、いまだに地区は軍が支配し、和平協定で約束された多くが実施されていないそうだ。
そんな訳でいまだに少数民族地区の一部が入境制限がされている。
私が訪ねようとしたランガマティも入境許可が必要な地域だ。
結局この許可が取れなかった。
現在でも政府が進める大型開発事業で先住民の立退きが強制されている。
その空いた地域にベンガル人が入植する、それに軍が肩入れする状況は続いている。
つい最近も仏教寺院が焼き討ちにあったり、仏教徒の村が襲われる事件が頻発している。