白洲正子文学逍遥記
「十一面観音巡礼」編
登美の小河-009
中宮寺周辺-04
法隆寺
ゴールデン・ウイークも漸く終わって、西南諸島は入梅の季節に入りかかりました。辺りの湿度が少し上がってきた感じです。これからは憂鬱気味の毎日が続きます。それに引き換え北国北海道などは、浮き浮きする様な花の季節。春の花が一斉に咲き乱れ、観光シーズンの開幕です。それでも国後、択捉の傍の根室辺りは、5月でも零度になることも。ストーブが離せません。日本の国土は南北に延々と細長い。
近鉄大阪線付近からまた南に下がり、中宮寺の横の「法隆寺」にまで戻ってきた。筆者としてはホッとした感じである。見に覚えのないところは些か不安である。修学旅行の定番メニューである「法隆寺」。余りにも季節のころは人ごみで、ゆっくり観光どころではない。お寺は冬に限るというのが常識であるが。
名にしおう斑鳩を代表する大寺院・法隆寺。 全ての文化財は紹介しきれないし、このブログは「十一面観音巡礼」であるからして、本旨に沿ったところでお参りするのが筋である。それにしても奈良はお寺のメッカ。一つ一つがそれぞれに由緒伝来があり、短時間に回りきれる代物ではない。本来ならば京都か奈良の郊外に移り住んで、電車と徒歩で何年も掛けて参来するのが本当かもしれない。近くには由緒ある大学などの教育機関も沢山ある。
金銅 中門 五重塔
配置図
大講堂
ここで法隆寺の来歴を簡単に書いてみる
推古9年(601)に聖徳太子は斑鳩宮を造営された。現在の法隆寺の「夢殿」がその造営地である。 ここにはかの有名な<救世観音菩薩>が安置されている。
夢殿
斑鳩宮の次に葦垣宮(現在の成福寺を跡地とする)、岡本宮(現在の法起寺)を造営した。そして斑鳩宮の東西に斑鳩尼寺(中宮寺)と斑鳩僧寺(法隆寺)が造営された。その後斑鳩僧寺は天智9年(670)に雷火で消失した。そして白鳳から天平に掛けて再建されたのが、現在の法隆寺である。
先般紹介した「中宮寺」の寺暦は、この寺が斑鳩、葦垣、岡本のの中間に在ったので中宮寺と呼ばれた。正式名は「法興寺」である。 飛鳥の飛鳥寺も法興寺である。
<法興寺>と<法隆寺>の名称は聖徳太子の理想とした、<仏法興隆>に因んでいる。
「ちょっと 一服」
話の喫茶店
二上山
聖徳太子の「陵」(みさぎ)は斑鳩から西南に望む二上山(ふたかみやま)の西の麓の現在の太子町に造営された。二上山は大和の地の陽の落ちる神山として信仰され、このことからこれが飛鳥王朝の葬送の地となった。太子の陵の近くには信任篤かった「小野妹子の墓」も造営されている。また、二上山の東麓は旭の昇る場所というところから、ここに「当麻寺」が造営された。
二上山
法隆寺にまつわる観音像 -001
法隆寺の境内内の諸寺の祀られている観音像をこれから順次ご紹介する。
1-<百済観音>・・ 大宝蔵院・百済観音堂
2-<救世観音>・・ 夢殿
3-<如意輪観音>・ 聖霊院
4-<夢違観音>・・・ 東院絵殿
5-<九面観音>・・・ 大宝蔵院
6-その他・・如意輪観音、日光・月光菩薩(もともと観音像)
などが祀られている。
百済観音
木造・彩色/飛鳥時代 209.4cm
飛鳥時代の代表的な仏像製作形式である「止利様式」とは違う。江戸時代までは「虚空蔵菩薩」として祀られていた。明治時代に発見された宝冠に観音の標識である化佛が彫られていたことから、本来の像種があきらかになった。
宝冠
百済伝来の観音とされたのが名称の由来である。確かに斑鳩の隣の古代の大阪府河内一帯は百済からの帰化人が住まっていたことは間違いのない事実である。百済滅亡の際に日本にもたらされたのであろうか。
「菩薩立像」・止利様式 寺伝 法輪寺・虚空蔵菩薩
仏像の容姿が対称形ではなく、面立ちの口元も<アルカイック・スマイル>ではない。
全体に優美な曲線を感じる仏像で、止利様式とはあきらかに違う
水瓶の口をつまむ指、天衣の先も伸びやかで美しい。
光背
光背の支柱はカヤの木で,竹様造りされている。中国南朝のルーツの説あり。 五角形の台座は中国に例のないめずらしいもの。この百済観音は樟材であり朝鮮半島には自生していない。実際には日本で造られたものとみられる。仏師は帰化人であろうか。依然伝来不明の仏像である。
次回も「法隆寺の観世音」を参拝したい。
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