白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

白洲正子文学逍遥記-003

2013-06-21 | 日本の伝統芸術

 

       「白洲正子文学逍遥記

          能面・仏像・日本人形・・etc

                                    -003

 

 

   

 

 

 今年も昨年に引き続いて台風が多い年になりそうです。アベック台風が東シナ海に揃って発生し、一つは既に先島諸島から沖縄、奄美方面に向かっております。 先日、やっとのことで昨年の大雨、高潮の被害で破損した、裏を流れる谷川の土手の壁面の応急修理が終わったばかり。先島では現在、80mm/h の大雨との事。今年はどうなるんでしょうか。

島の中の幹線道路の壁面の護岸は雨が降ると崩れる。やっと修理すると隣が崩れる。賽の河原状態。断崖の中腹を縫うように走るたった一本の県道。 ここをやられると船しか交通の便が有りません。当然ながら迂回路の林道は惨憺たる状態。毎年イタチゴッコの状態が続いております。自然が赤土の流失で破壊されているのでしょう。海の状態も悪くなる。 これは恐らく日本全国の共通的な事なのかも知れませんね。

 

 

 

 

 さて、先回は女人高野・室生寺の「十一面観音菩薩立像」について書いてみた。現在までそれなりの仏像を観て来たが、その中でも際立って回数の多いの観音様である。今回はもう少し視点を近づけて観てもようと思う。

 

 

                        

 

観音の頭上の10体の佛顔が見えるが、渡岸寺のそれとは違っている。額中央に化佛がなく、全て頭上に挿されている。 この形がオーソドックスな形態である。

 

 

 しかし、渡岸寺のそれは耳の横の牙出面、頭の真後ろの大爆笑面というように、大胆で意表を付く様な造りになっている。十一面観音の白眉と言われるのが容易にも理解できる。美術的な面では最高レベルの仏像であることは論を待たない。

 

               

 

                   大爆笑面    

 

 

次に「胸飾」であるが、精緻な金属の装飾の金細工を付けられている。それには下の方に素晴らしい法輪が付いている。渡岸寺のそれは彫出になっている。また耳たぶの大きなイヤリング(耳とう)。 これも珍しい。長い垂髪が肩まで覆うように掛かっている。また、肩に掛かる長い「冠そう」も見られる。彫刻技法や、大胆なデフォルメ・・・彫刻技法からいえば渡岸寺の方が各段に上である。何れも平安時代の作であり、且つ、密教寺院を背景に持つ仏像である。

 

 

 

渡岸寺は異国情緒が感じられる気がしてならない。筆者もこの観音様の傍で5年ほど暮らしていたので、何となく身体でその雰囲気が解かるのである。どちらかと言えば渡岸寺の造りは檀像佛に似ている。それ故緻密な彫像に見えるのであろう。

また、佛眼も室生寺のそれは開眼して、如何にも生娘のすっきりとした感じを表しているのに比べ、渡岸寺のそれは瞑想の眼でもある。静かな感じを観たものに与えるであろう。

 

            

 

脚部から足までの薄物の襞が、翻波式の技法で彫出されており、この点は双方も同じである。面白いことに室生寺佛は「かや(木+非の形)」材である。これは白檀の代用に使われる、檀像佛の用材であるが、渡岸寺は檀像佛様にも拘らず檜である。薄物の衣文が身体にピッタリと纏わり付く様は、妙に艶かしく感じられる。

                               室生寺

 

持物の「水びょう」について、意外な発見をした。良く見ていただきたい。ビンの筒のを上下で切断して、手の指の間に差し込み、後で接着剤で取りつけている。 膠を使ったのか木の乾燥で切断面が顕になってしまった。 下の竹釘は後補であろうか。考えてみれば一木造りはかなり難しいであろう。

                     渡岸寺

 

指の形も良く観ると違っている。作者の個性が良く出ている。彫刻の場合は手の造りはなかなか難しい。作者の技術レベルが直ぐ分かる。如何であろうか。

全体的な比較をすると二体の仏像に、差が一見有るようには観えるが、全体像を一目で見ると完成度には差は感じられない。 どうしてであろうか。 これが仏師の真の技量なのであろうか。

                       路傍の石仏

 

仏像は天平佛が最高で、江戸時代は最低>なぞという言葉を書面で見ることがあるが、筆者はそうは思わない。何時の時代でも素晴らしいものは素晴らしいのである。天平時代にも愚作は沢山有ろう。江戸時代でも秀作は間違いなく存在する。

仏像は美術作品では確かにあるが、他のそれと決定的に違うのは、観る者の信仰心から来る「」、「心の眼」で観れるかということではないか。表面的には朽ちた木っ端に見えても、心に強烈に訴えかけてくる仏像が存在する。

 

                      初唐時代・龍興寺址菩薩像

* 朝田 純一<古寺・古佛本>から掲載 

観光寺院の観音像ももあれば、草木に埋もれた廃寺のような観音堂の観音像も現に存在する。路傍にポツンと立っている石造りの観音もある。どこに素晴らしい観音像が居られるかは、観る者次第である。そして、縁がなければ幾ら探してもお目に掛からない。

さて、次回は室生寺の金堂のその他の仏像を観てみようと思う。

 

                              

 

                         答礼

 

 答礼人形の探索も「もう一つの日米現代史」・<人形大使>を唯一の手がかりに、数十回目となったが、アメリカでの不注意による人形の取り違えが災いして、困難を極めている。調べている筆者も錯綜状態になっている。でも、答礼人形の初々しい顔と姿を観るに付け、途中でやめるわけにはいかない。

如何した事か、関連のHPで閉じてしまったものも多い。 時代がそうさせるのか、色々事情が有るのではあろうが、悲しむべきことである。(まさか、著作権の侵害などという小賢しい事と関係ないとは思うが・・???)

現在の極東国家の悲しむべき係争状態を、草の根運動で解決する術・・・この答礼人形に似た手法を取るのも一方法なのである。以前にも申し上げた! 新しいギューリック牧師や渋沢 栄一がまた現れないであろうか。

 

                            Miss 富山

                        

 Miss 富山

 作者 滝沢 光龍斎

 所在地 ケンタッキー州 (J・B)・スピード博物館

 人形、道具の紋 八重桜    お道具少々と日傘あり。

この答礼人形は取り違えがないとされています。その面では幸運でしたが、1937年にオハイオ川の氾濫で長い間行方不明とされ、50年後に偶然に見つかったものだそうです。たまたま隣の州のインディアナ州インディアナポリス博物館の学芸員の指摘で、その事実が発見されたのでした。因みにインディアナにはMiss 島根が日本から贈られていたのです。幸運発見でした。

 

        朝日新聞掲載のMiss 富山

          着物の八重桜の紋章

 

その後、有志たちの計らいで日本に里帰りし、破損して大変な状態になっていた、市松人形を修復し送り返されたということです。ただ、残念な事に鮮明な資料が乏しいのです。

それではここで、

過去にこのブログで掲載した市松人形の中で瀧澤光龍斎の作のものをご披露しましょう。

 

              徳川正子氏所蔵

 

* 尾張徳川家20代義知夫人の徳川正子が愛蔵した市松人形です。正子は、松平容保の6男 松平恆雄(1877~1949)の次女にあたり、アメリカ大使であった父とともに、昭和2年(1927) ワシントンのナショナル・ギャラリーで行われた答礼人形の公式歓迎会に参加し、人形贈呈の大役を果たしました

   

   Miss 福島

   

                       女の子

                       

 

        Miss 兵庫

        

 

次回はMiss 島根をご紹介しましょう。

 

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