越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

映画評『フローズン・リバー』

2009年12月03日 | 映画
「貧困」と「民族」を越えるマザーの絆
コートニー・ハント監督『フローズン・リバー』
越川芳明
 
 舞台は、米国ニューヨーク州にある国境の小さな町。

 そこからセントローレンス川沿いを北東方面に百キロほど行くとカナダの首都モントリオールがある。

 冒頭の初冬の寒々しい風景が象徴的だ。

 空はどんよりと灰色の雲に覆われ、まっすぐ延びた一本道を古ぼけたトラックが去って行く。

 すると、道路脇に「ようこそ、マシーナへ」という案内板が見えてくる。次に一面が雪に覆われた風景の中にわびしくトレーラーハウスが現われる。

 この映画の隠れたテーマは、そうしたトレーラーハウスに象徴される大国アメリカの「貧困問題」である。

 日本では、トレーラーハウスと言えば、レジャー用の高級設備であり、高価なイメージがあるが、アメリカでは地上に固定して、住宅として使われる。安いもので、六千ドル(約五十五万円)もあれば、購入可能だ。

 この映画では、レイという名の中年女性(演技派のメリッサ・レオが演じる)が古いトレーラーハウスの住民だ。

 胸や足に花や鳥の刺青をいれた映像から、彼女が労働者階級であることが分かる。

 彼女のトレーラーハウスは、厳冬で外の水道管が凍結し水が出なくなったり、寒さ凌ぎにブランケットを窓に張らねばならなかったりする。

 新しいトレーラーハウスのために千五百ドルの前金を払いながら、残りの四千五百ドルをギャンブル狂の夫に持ち逃げされて、業者に支払いを迫られる。
 
 彼女には五歳と十五歳になる二人の息子がいるが、大型安売り店のパートタイマーの賃金ではとうてい養えない。

 物質主義のこの国では、ポップコーンの食事で済ませざるを得ない貧困家庭とはいえ、子供の楽しみとしてテレビだけは欠かせないようだ。
 
 その立派な液晶テレビもレンタル代が滞り、業者に回収されそうになる。

 思いあまった上の息子は、詐欺まがいの電話をかけて生活費を稼ぐ。ごく善良な若者を「貧困」が「犯罪」に追い込む、そうした負の連鎖を目のあたりにする思いだ。

 もう一人の主人公は、これまたトレーラーハウスの住民で、ライラという名の先住民の女性だ。

 彼女は、夫を交通事故で亡くし、一人息子を夫の母に奪われてマシーナの近くのモホーク族の保留地で一人で暮らしている。

 レイの車を勝手に乗りまわすだけでなく、返そうとしないので、怒りに駆られたレイによって銃で、ドアに穴を開けられる。

 そのせいで、外の冷気が部屋の中に入り込み、凍え死にそうだと告白する。

 二〇〇〇年の米国の国税調査によれば、マシーナの近くの「アクウェサスネ」と呼ばれるこの保留地には、約六百七十戸、二千七百人が暮らしており、「貧困ライン」を下回る家庭が約二割存在する。

 ちなみに、ニューヨーク州の貧困ライン(一人家庭)は、年収百六十万円だ。ライラもそんな一人と言えるだろう。
 
 国境地帯のこのインディアン保留地は、セントローレンス川を挟んで米国とカナダの両国にまたがり、モホーク族の者は国境線を自由に移動する権利を与えられている。
 
 ライラは、部族のギャンブル場で仕事をもらうが、視力が極端に悪く、金の計算を間違えてクビになる。

 そこで、冬に凍結するセントローレンス川を車で渡って、向こう岸のカナダ側から不法移民をアメリカに密入国させるの仕事にかかわる。

 映画は、貧困白人(プアーホワイト)のレイと、プアーインディアンのライラの友情を描く。

 二人はひょんなことで保留地のギャンブル場の駐車場で出会い、民族的な偏見によって互いに不信を募らせながら、最終的にはこれ以上はないほど信頼を寄せ合うようになる。
 
 二人の関係を進展させるのが犯罪である点がミソだ。

 レイが運転手として、ライラの密入国ビジネスを手伝うということで、二人の関係が始まるが、彼女たちはそうした汚れた金で決して私服を肥やすわけではない。

 むしろ、そんなあぶく銭は氷が溶けるように、あっという間に生活費に化けてしまう。

 ライラの場合は、金を義母の家に密かに置いて、それを養育費に当ててもらうだけだ。

 レイの場合は、テレビのレンタル代と新しいトレーラーハウスの残金に化ける。

 一見些細に見えるが重要なエピソードに触れておこう。カナダ側の密入国のアジトで、密入国を希望するパキスタン人の男女を見て、白人のレイが短絡的に彼らを自爆テロと結びつけたり、爆弾が入っていると思い込んで厳冬の雪道に彼らのボストンバッグを棄てたりするシーンがある。

 これは、イスラム教徒=テロリストという安易な図式を垂れ流してきた米国マスメディアに体する風刺に他ならない。

 ジャーナリストとしての冷徹な視線と、社会の底辺の置かれた人々に対するローアングルの温かい視線とを兼ね備えた女性監督による、これは実に見応えのあるエンターテインメント映画だ。

(『すばる』2010年1月号372-73頁)

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