「偽装」の日系人、アメリカ社会を笑う
宇沢美子『ハシムラ東郷 イエローフェイスのアメリカ異人伝』(東京大学出版)を読む
越川芳明
日系人ハシムラ東郷は、二〇世紀の初めに米国の新聞や雑誌のコラムの書き手として登場した。彼の書いたコラムは、ユーモア文学の大家マーク・トエィンにも絶賛されるほど人気を博した。
どこかおかしい日本人英語に、ばか丁寧な言い回し。中国人や日本人など黄禍論が盛んだったときは、「私たち日本人にも有色人排斥のお手伝いをさせてください」などと、トンでもないギャグをかましていた。
自虐的なユーモアで自らを笑い者にしながら、同時に黒人や日系人らの少数民族の人たちを無能扱いする米国社会の人種差別を笑う仕掛けだったのだ。
一人称で語るハシムラ東郷には、自分の顔かたちの描写がなかった。そのため、文章に添えられたイラストが米国の多様な価値観を反映していた。コラムやジャポニズムの人気を受けて、ハシムラ東郷を扱ったハリウッド映画が作られる一方、カリフォルニアでの排日運動を反映したような、差別意識のつよいゴリラまがいのハシムラ東郷のイラストも登場した。
ところが、ハシムラ東郷とは、実は白人作家ウォラス・アーウィンによって生みだされた「偽装(イエローフェイス)」の日本人だった。ハシムラ東郷は、学僕(住み込みの家事手伝いによって学費を稼ぐ苦学生)という“設定”であり、その仕事は日系社会からも蔑視されていた。
白人作家アーウィンは、そうした最下層の有色人の道化の仮面をかぶることで、自らへの批判を逃れ、社会風刺を繰り出すことができたのである。
とりわけ、『グッド・ハウスキーピング』という中流女性向けの雑誌では、学僕という女性的役柄を活かし(男でありながら女の仕事をするという意味で、ジェンダー・クロッシングをして)米国家庭の奥深くに入り込む。そして、掃除機の使い方すら知らないなど、その無能さを笑われる一方で、笑うママたちの親バカぶりや人種偏見、マニュアル通りの子育てなどを笑い返す。
米国は「白人キリスト教文明」の国という自民族のアイデンティティを確立するために、黒人やアジア人などが自分たちより劣った有色人種というステレオタイプ(紋切り型)を作り出してきた。そして、学問としては極めて怪しい優生学によって人種差別を正当化しようとした。
一方、ハシムラ東郷は白人に憧れる、日系人たちの同化論すらも揶揄した。そのように社会的弱者すらも笑いのめしていることが「政治的な正しさ」という考えが浸透した今日、ハシムラ東郷を論じることを難しくしている、と宇沢は述べるが、その点こそがアーウィンの文章が文学として後の世まで生き残れなかった理由ではないのだろうか。つまり、作者の立ち位置が高すぎたのではないだろうか。
結局、二十世紀前半に人気を誇ったハシムラ東郷のコラムは、米国における日本人のステレオタイプの形成を助長して終わった。ハシムラ東郷の名も秘めた意図も忘れ去られ、劣った日本人というイメージが残ってしまった。
宇沢が十年も費やし、忘れられた「偽装の日本人」を追いかけた本書は、米国のマイノリティを題材にした非常にユニークで示唆に富む「文化研究」である。それはまた、わたしたち日本人が在日外国人に対して持つステレオタイプを考える上でも大いに参考になる試みと言えよう。
(『琉球新報』2008年11月16日付の原稿に若干手を加えました)
宇沢美子『ハシムラ東郷 イエローフェイスのアメリカ異人伝』(東京大学出版)を読む
越川芳明
日系人ハシムラ東郷は、二〇世紀の初めに米国の新聞や雑誌のコラムの書き手として登場した。彼の書いたコラムは、ユーモア文学の大家マーク・トエィンにも絶賛されるほど人気を博した。
どこかおかしい日本人英語に、ばか丁寧な言い回し。中国人や日本人など黄禍論が盛んだったときは、「私たち日本人にも有色人排斥のお手伝いをさせてください」などと、トンでもないギャグをかましていた。
自虐的なユーモアで自らを笑い者にしながら、同時に黒人や日系人らの少数民族の人たちを無能扱いする米国社会の人種差別を笑う仕掛けだったのだ。
一人称で語るハシムラ東郷には、自分の顔かたちの描写がなかった。そのため、文章に添えられたイラストが米国の多様な価値観を反映していた。コラムやジャポニズムの人気を受けて、ハシムラ東郷を扱ったハリウッド映画が作られる一方、カリフォルニアでの排日運動を反映したような、差別意識のつよいゴリラまがいのハシムラ東郷のイラストも登場した。
ところが、ハシムラ東郷とは、実は白人作家ウォラス・アーウィンによって生みだされた「偽装(イエローフェイス)」の日本人だった。ハシムラ東郷は、学僕(住み込みの家事手伝いによって学費を稼ぐ苦学生)という“設定”であり、その仕事は日系社会からも蔑視されていた。
白人作家アーウィンは、そうした最下層の有色人の道化の仮面をかぶることで、自らへの批判を逃れ、社会風刺を繰り出すことができたのである。
とりわけ、『グッド・ハウスキーピング』という中流女性向けの雑誌では、学僕という女性的役柄を活かし(男でありながら女の仕事をするという意味で、ジェンダー・クロッシングをして)米国家庭の奥深くに入り込む。そして、掃除機の使い方すら知らないなど、その無能さを笑われる一方で、笑うママたちの親バカぶりや人種偏見、マニュアル通りの子育てなどを笑い返す。
米国は「白人キリスト教文明」の国という自民族のアイデンティティを確立するために、黒人やアジア人などが自分たちより劣った有色人種というステレオタイプ(紋切り型)を作り出してきた。そして、学問としては極めて怪しい優生学によって人種差別を正当化しようとした。
一方、ハシムラ東郷は白人に憧れる、日系人たちの同化論すらも揶揄した。そのように社会的弱者すらも笑いのめしていることが「政治的な正しさ」という考えが浸透した今日、ハシムラ東郷を論じることを難しくしている、と宇沢は述べるが、その点こそがアーウィンの文章が文学として後の世まで生き残れなかった理由ではないのだろうか。つまり、作者の立ち位置が高すぎたのではないだろうか。
結局、二十世紀前半に人気を誇ったハシムラ東郷のコラムは、米国における日本人のステレオタイプの形成を助長して終わった。ハシムラ東郷の名も秘めた意図も忘れ去られ、劣った日本人というイメージが残ってしまった。
宇沢が十年も費やし、忘れられた「偽装の日本人」を追いかけた本書は、米国のマイノリティを題材にした非常にユニークで示唆に富む「文化研究」である。それはまた、わたしたち日本人が在日外国人に対して持つステレオタイプを考える上でも大いに参考になる試みと言えよう。
(『琉球新報』2008年11月16日付の原稿に若干手を加えました)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます