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書評 ジョナサン・リテル『慈しみの女神たち』

2011年06月27日 | 書評
東部戦線の「地獄絵」を描く 
ジョナサン・リテル『慈しみの女神たち』
越川芳明  

 第二次世界大戦のユダヤ人の大量虐殺を扱った文学の中でも、本書は質量ともに別格だ。

 主人公はドイツ親衛隊の将校で法学博士のマクシミリアン・アウエ。

 ポケットにフロベールの小説をしのばせるような思索派の文学青年だ。

 ナチスの東方への遠征に参加し、最初はユダヤ人の虐殺にかかわらないが、運命の成り行きで、かかわらざるを得なくなる。

 アウエは語り手でもあり、導入部で「殺す者は、殺される者と同じように人間なのであり、それこそが恐るべきことなのだ」と、述べる。

 彼はもともと戦場で悪夢と嘔吐に悩まされ神経衰弱に陥るほどに繊細な感覚の持ち主だったが、最後には唯一無二の親友だったトーマスを殺めるような「殺人鬼」になり果てる。

 この種の物語では、目を被いたくなるような惨殺シーンがあればあるほど、物語にリアリティがあると見なされやすい。

 本書でも、ウクライナへの侵攻から始まり、スターニングラードでの決戦を経て、敗戦によるベルリンへの撤退に至るまで、血と糞尿と死臭の漂う「地獄絵」の連続だ。

 しかし、著者は虐殺の被害者としてのユダヤ人像を大げさに打ちだすことで、イスラエルやユダヤ人に利するだけの立場は取らない。

 ナチスがウクライナの民族主義者たちに執行を肩代わりさせる報復の公開処刑や、ロシアの戦線の戦争孤児たちが組織する戦闘集団による乱暴狼藉など、暴力は至るところに見られ、ユダヤ人以外にも、その土地の女性や子ども、動物や家畜までが犠牲になる。

 ナチスもロシア・ボルシェヴィキも等しく野蛮である。

 語り手は言う。「近代の大量虐殺は大衆にたいし、大衆によって、大衆のために課せられる一連の過程である」

 戦争や虐殺ではなく、主人公の個人的な体験にまつわるフィクションの部分では、同性愛や近親相姦、父の不在、母殺しなど、ギリシャ神話に想を得た人間的なテーマが絡みあう。

 さらにコーカサス山岳地帯の多民族の諸言語の研究者で、頭蓋人類学のいかさまを説くフォン博士の登場なども相まって、知的な読み物としても大いに楽しめる。

『時事通信』2011年6月19日(日)
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