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映画評 クリスティアン・ペッツォルト監督『水を抱く女』

2021年05月10日 | 映画

よみがえる「水の精」の神話  
クリスティアン・ペッツォルト監督『水を抱く女』
越川芳明

 ひと組の男女が朝のカフェ・レストランのテラス席にいる。男が別れ話を持ちだしているらしく、女のほうは別れたくない様子だ。そのうち、女が仕事に向かわねばならない時間がきてしまう。

 女の名前はウンディーネといい、レストランに隣接している博物館でガイドとして働いている。巨大な都市模型を前にして、ベルリンの都市開発の歴史や思想などを解説するのだ。静かにゆっくりと話す姿から彼女の知的な人間性が浮かびあがる。

 三十分ほどのガイドの仕事を終えて、カフェに戻ってみると、すでに男の姿はない。その男の名はヨハネスといい、後でわかるが、富裕層に属し、プール付きの大邸宅に住み、女癖も悪い。

 ウンディーネは、後を追ってきたもう一人の男にお茶に誘われる。彼の名前はクリストフといい、潜水作業員をしている素朴な男だ。地方のダム貯水池で、水中のタービンなど機械の修理や点検などをしているらしい。

 ここまで話すと、通俗的な「恋愛の三角関係」をテーマにしている映画に思われるかもしれないが、同監督の『東ベルリンから来た女』(二〇一二年)でもそうであったように、そうしたテーマは表層でしかない。ベルリンの壁の崩壊後の世界から、それ以前の過去(東ドイツの現実)に光を当ててステレオタイプな解釈から救い出したように、監督は二十一世紀のベルリンを舞台に古代の「水の精」の神話をよみがえらせる。

 だが、すでに二百年以上も前に、ドイツロマン派のフリードリヒ・フケーが中世の騎士道物語形式を用いて、その神話の復活を試みている。ゲーテによって絶賛されたという、『ウンディーネ』(一八一一年)という小説は今も世界中で読み継がれ、一つの神話モデルに定着している。その影響は他ジャンルにも波及し、幻想小説の鬼才E ・T・ A・ホフマンや、ロシアの作曲家チャイコフスキーによってオペラに仕立てられたりしている。

 それでは、どうしていま監督はこの神話をよみがえらせようとするのだろうか。近代科学の発達した時代において、私たちは古代の人々が身のまわりの世界に見ていた「目に見えない力」(例えば、精霊)を看過しやすい。目に見えない存在を迷信や俗信とみなして、人間の知性を過信しがちだ。だが、人間の知性がカヴァーできる領域は限られている。科学によって宇宙のすべてが解明できるわけではない。

 フケーの小説の「水の精」ウンディーネは、恋人の騎士にこのように説明する。
「四大の精霊のなかには、ほとんどあなたがた人間と同じ外見をしていながら、あなたがたの前にはめったに姿を現さない精霊がいます。炎のなかで戯れ輝くのは、妖異な火竜のサラマンダーです。地中奥深くには、痩せこけた狡賢(ずるがしこ)い地霊グノームが潜んでいます。森のなかを飛びまわって番をする森の精は、風の世界の住人です。海や湖、川や渓流には水の精という広く知られた種族がいます」(フケー『水の精(ウンディーネ)』光文社古典新訳文庫、88-89)

 映画のなかのウンディーネは、自分が「水の精」であることを告白したりしないが、水にまつわるエピソードは、数多く出てくる。まず、潜水作業員クリストフと初めて遭ったとき、レストランの入口ホールにある大きな水槽が倒壊して、下にいる二人が水浸しになる。この出来事が縁になり、二人は付き合い始める。

 また、クリストフが仕事で潜るダムの貯水池の中には、ウンディーネの仲間(もう一人の「水の精」)とも思える巨大なまずが棲んでいる。クリストフは、何度かその堂々とした池の主の姿を目撃する。

 さらに、ガイドをしているウンディーネの口から、ベルリンという都市の考古学的な知見がもたらされる。ベルリンという名称は、スラブ語で「沼」や「沼の乾いた場所」を意味するのだ、と。映画には登場しないが、シュプレー川がベルリンの市街地を流れている。もしウンディーネの仕事場が国立博物館だとすると、それはこの川沿いにある。

 ウンディーネが都市開発の歴史の専門家であるという設定は、注目に値する。今は無機物のコンクリートの道路と建物に覆われていたとしても、シュプレー川を中心にしたベルリンの土地は、古代人や中世人にはどのように使われていたのか。機能主義的な都市開発が行なわれたベルリンの地勢図を「アースダイバー」(中沢新一)してみれば、古代や中世との繋がりが見えてくるはずだからだ。その意味で、面白いのはウンディーネが専門外の建物の説明をしなければならないシーンが出てくることだ。それは、つい最近オープンしたばかりの「フンボルト・フォーラム」と呼ばれる複合文化施設である。シュプレー川に面した一角にあり、もともとは中世に造られ、歴代の君主によって改造や増築を繰り返され、第二次大戦で消失したベルリン王宮を復元したものである。人は絶えず「過去」を再利用(リサイクル)しているのである。

 英文学者の鈴木雅之は、ある論文の中で、神秘主義者のスヴェーデンボリを援用して次のように述べている。すなわち、霊界とは霊と天使が住む世界であり、自然界とは人間が住む世界である。霊界は自然界に先立って創造され、自然界のすべては何らかの仕方で霊界と「照応(コレスポンド)」する。霊界と自然界の照応関係は、いわゆる論理的思考による「因果関係」ではなく、何か非直線的な「縁」のようなもので結ばれた関係である・・・。(鈴木雅之「見えざる世界の証明」吉川朗子・川津雅江編著『トランスアトランティック・エコロジー』彩流社、2019年)

 このようなスヴェーデンボリの「照応理論」を考慮に入れると、この映画はペッツォルト監督が現代の女性に「水の精」との「照応」を見いだし、作りあげた物語であると言えるかもしれない。今後は「地の精」と「風の精」をモチーフにした作品が予定されており、合わせて「精霊三部作」になるそうだ。

初出は『すばる』2021年4月号

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