東電の復旧作業の関係者、作業の応援に駆けつけて頂いた方々に感謝を込めて
サバイバルゲームと言ってもゲームの話ではありません。実際今回の台風による停電では熱中症による犠牲者が出ており、その危険は今も続いています。この記事は当家の人間と猫たちの、生死をかけた苦難との闘いの記録です。
東京湾の奥に位置する当地が台風の上陸地点と記録されたのは初めてだと思います。調べてみると、1958年の狩野川台風や2002年の21号が東京湾岸に上陸している。その被害は大きかったものの、記憶にないのは自分が直接の被災者にはならなかったからだろうか。しかし今回当地で観測された最大瞬間風速57.5m/sは、島部を除く関東での観測史上ダントツの1位だった。そして未経験の恐怖と被災。これまで台風通過地の沖縄をはじめ震災や水害に遭われた人たちの苦難を慮ってきたけれど、被災することの理不尽さや無力感を、初めてこの身をもって味わうことになったのです。
テレビで15号の位置や特徴、進路については繰り返し放映されていた。その予告通り、8日の夜半を過ぎた頃に急に風雨が強くなった。これまでは事前警告ほどのことはなく「こんなもんか」で終わっていたけど、その夜はどこまでも風雨が強くなる。 ゴーッという地響きを伴った暴風やピューッと風を切る音、窓に叩きつける雨音がそれまで聞いたことがないほど大きくなって、さすがに不安と胸騒ぎに駆られその晩は寝ずにテレビを観ていた。しかし朝の5時過ぎに停電、情報は途絶える。外が白んできたのはそれから間もなくのことだった。
ニャー
少し寝たのだろうか。妙に寝苦しいのと階下で妻がせわしく動く音で目が覚めた。時刻は8時過ぎ。風はまだ強かったがだいぶ弱まり、雨は止んで薄日が差していた。家の中外を点検していた妻が言った。「家は大丈夫みたいだけど周りが凄いことになってるわよ。」 庭を覗くとブドウ棚が倒壊、鉢類が叩きつけられたようにひっくり返り、毎年30個くらい収穫していたプルーンの木が倒れ、3mほど伸びていた皇帝ダリアの支柱から上の部分がぽっきりと折れていた。何より、庭と前の道路が木の葉や折れ枝で埋め尽くされて路面が見えない。大きな折れ枝が車に当たって傷をつけ、お隣さんでは屋根の一部が落ちていた。ここまでの惨状を過去に見たことがあっただろうか。しかし当家の周辺がまだましな方だと、後で知ることになるのでした。
それまでの経験から、直ぐに復旧するだろうと思っていた停電はまだ続いていた。その頃はまだ、朝ドラなどテレビの録画ができないことを気にしていた。わが家では梅雨が明けて以来リビングの冷房を切らしたことがなかったので、朝のひとときが妙に息苦しく感じた。9時に庭の温度計をチェックすると32℃。気温上昇がかなり早い。それもそのはず暴風雨の前夜はかなり高温の熱帯夜だった。そのときリビング室温は30℃。息苦しいのも無理はなかった。
注)この記事の温度記述は気象庁などに残る測定値とは違っています。特に9日は何故か大きく違っている。過去にも度々紹介したように、当家の庭の温度計は公の値より低くなるのが常でした。なので当記事では気温や風についても独自の測定や判断に基づいて記しています。
ちび太
その日と翌日は妻が店で自分は非番。妻は早めに、いつもの裏道ではなく大回りして店に向かった。その後も気温は上がり続け、高湿度が加わって家の中はとんでもない状況になってきた。10時頃には既に強烈な日差しが注ぎ、温かい南風が吹いていた。相変わらずの停電で情報がない。ガラ携を駆使して情報を得ようとしたがその携帯も電池が切れてしまった。家には何故か電話が2台あり、ひとつはアナログなので停電中でも繋がっている。その電話で妻や店のスタッフに連絡し、情報を得ようと試みた。昼前には風が途絶えて木の葉ひとつ揺れない無風状態となった。強風を常とする当地でこのような無風状態は大変珍しい。外の気温は35℃を超え、家の中では本格的な地獄が始まっていました。
一方、妻からの第一報はとんでもない店の惨状だった。長さ15m2段の鉄製用土販売棚が倒れ、フェンスを潰して駐車場に飛び出した。観葉室も温室も施錠してあった南側の窓やドアがすっ飛んで破損、日除け用の鉄パイプ矢倉も倒壊、大きなヤシの木2本も倒れ、電線ケーブルが下に落ちて危険状態。店中踏み場がないほど鉢物と植物が散乱。壊れた窓やドアから暴風が吹き込み、観葉室も温室もほぼ同じ状況だという。まったく手がつけられない状況に妻もスタッフも茫然自失していたようだ。ただ、付近一帯と違ってSCの中は停電していなかった。が、こっちがいくら頼んでも情報を得る気力すらなかったようだ。
リン
経験的に、室内温度が30℃を超えると猫たちがぐったりしてくる。昼時の室内温度は既に31℃まで上がっていた。情報が何もなく、することが山ほどあっても動く気もせずひたすら暑さに耐えるだけ。ご近所も同じなのだろう、家前の道路もそのままだ。袋小路で交通量の少ないことも幸いした。後でわかったことだが、停電と高気温は盛んに報道されていても、無風状態のことに触れたニュースはない。実際、風さえあればまだ少しは救われたと思うが、とにかく空気が肌に纏わりついて息苦しい。ウチワで仰ぐ手も既に疲労困憊だった。
午後の2時頃には庭の温度計が41℃まで上昇していた。9月なのに今夏2度目の40℃台だ。リビング室温は34℃。そして無風。よりにもよって、停電の最中に今季最悪の猛暑に見舞われてしまったのだ。後で気象庁の記録を見るとこの日の最高気温は33℃弱となっている。何故これだけの差が出たのかわからないが、市の中心部と郊外で何かが違ったとしか言いようがない。東電の対応電話はまったく繋がらず、その他の電話番号にも片っ端から電話したが一切出ず。店に電話して連絡がついても何もわからない。どうやら情報がかなり混乱しているようだった。ひとつ、行方不明だったレオが昼前に現れた。スタッフを見ると安堵したようにくっついてきたという。外に出ないように閉じ込めたつもりが、ドアが壊れて出てしまった。怖い思いでどこかに隠れていたに違いない。
ツインズ (手前がキー、奥にクウ)
その頃になって水風呂に挑戦してみた。海にもプールにも20年以上入ってないので不安もあったがそれどころじゃない。シャワーではなく桶に水を張って、そーっと足から沈んでいった。首まで漬かると、生き返ったような気持ちよさだった。が、風呂からでると20分くらいで元に戻ってしまう。その日は結局、翌朝近くまで15回以上は水風呂に入ったと思います。今回は停電だけでなく断水した地域も多く、携帯の繋がらない地域も多かったことは後で知った。当家や店はまだましな方だったのです。
猫たちは完全に死んだようになっていた。冷房嫌いのキーとクウはある程度慣れていたかもしれないが、それでも我慢の限界を超えていたのだろう。最早普通の動きは困難の様相だった。少しでも涼を求めてみな廊下のフローリングの上に伸びていた。自分は水風呂に入れたが彼らはできない。少し冷んやり感じる風呂場を開放しても怖がって入らない。霧吹きでの冷却を試みたけど、逆に猫たちを脅す結果になってしまった。風さえあれば・・、彼らに言葉があれば一様にそう言ったに違いない。
冷蔵庫の氷は昼前になくなり、アイスクリームは液体になり、夕方には冷蔵庫内の冷たさが完全に消失していた。妻は店の閉店時刻を過ぎてもなかなか帰って来なかった。ひどい渋滞で身動きがとれない中、どこを回っても閉店か棚が空で何も調達できなかったと言う。それでも電池式の常備灯を3つ買ってきた。家には懐中電灯が2つ。それにテンとみうの仏壇用に買ったローソクがある。携帯ラジオもあったが肝心の電池がない。結局ライトは使えたがラジオは諦めた。子供の時以来経験したことのない非常灯による一夜が始まった。自分がそのとき期待していたこと、それは車です。車には冷房もあれば画面の大きなテレビもある。妻が帰宅した21時頃、交代するように車に入ってようやく一息ついたのでした。
シロキ
その日は最低が29℃という強烈な熱帯夜になった。室内温度は31℃。猫たちの限界超えが続く。夜になると猫たちは出窓などの網戸にへばりついて思い思いに過ごした。しかし相変わらずの無風状態。自分は水風呂や車の中で一息ついた。夜も更けると妻から苦情が。うるさいから何処かへ移動してくれと。ご近所さんがみな窓を開けている。近くの野原に移動して休んでいると、わが家の向いの家の裏側のお宅は少し高台になっていて、灯りの点いているのが見えた。街から通りに出る歩行者用信号は消えているが、その先の信号は作動していた。ああ、天国と地獄の分かれ道なんて紙一重なんだなとつくづく思った。ニュースステーションや23時からの報道で、当地域は明日までに停電が復旧すると伝えていた。もう少しの辛抱だ。そう思えるのが何よりの救いだった。
その夜は徹夜を覚悟した。ベットに横になっても熱気が纏わりついてくる。空気の同じ分子が同じ皮膚に長く触れていると、火傷したときのように肌がひりひりと痛くなる。たまらずに何度も寝返りを打ちながら、心の中でお前ちょっと大袈裟だよと自分自身を嘲笑した。妻はやるべきことをやって夜にはしっかりと爆睡しているのに、いやホント、情けない。何もしないで不満ばかりの自分を卑下しながら、眠りについたのは3時を過ぎた頃でした。
チキン (疲れを知らない子猫)
(後編に続く)
※わが家では今は通常の生活に戻っていますが、県内にはまだまだ停電が続いている地域も、断水や携帯の繋がらない地域もあります。一刻も早い全面復旧と被災者皆様の無事を、心より祈っております。