ハグハグの日々 Ⅳ  ~ 南日本海人、ライダー変身

ご訪問有難うございます。南日本海人、夏山裕のブログです。家族を愛し、人生に感謝して、日々をハグしながら送っています。

南日本海人、世界の広がりを想像して

2008年07月28日 | 日々(ふつうに)
 インターネットの普及で、世界は狭くなったような錯覚がある。確かに、パソコンのサイトを開けば、地球の反対側の普通の市民の書いたブログを読めるし、グーグルアースを使えば、仮想で地球の好きな場所の地形や写真を見ることができる。
 しかし、実際は違う。考えればわかるが、本当の世界のスケールというものはそんな大きさではない。例えば隣国中国。オリンピック開催に沸き返る一三億の人口を擁する大国であるが、まずその一三億だけでも想像を超えている。日本の一〇倍の人間がいるのである。国土は二五倍である。生活、経済の格差もその激しさはすさまじいであろう。
 いや、その前に日本の国土と人口だけでも想像すると恐ろしい。私が田舎暮らしであるから余計そう感じるのかもしれないが、一億三千万人の毎日の暮らしを想像できるだろうか? たぶん普通の人間にとって、一〇〇人と一〇〇〇人、あるいは一万人の違いは理解できても、一万と一〇万の違い、一万と一億の違いは、あまりピンと来ないはずである。
 そういえばそのへんのスケールを認識する例がある。お金に置き換えた、一万円と、一億円の違いである。一万円は「一円札」というものがあったとしたら、それを床から積み上げると、やく一メートルぐらい。ところが一億円とは、その高さが一万メートル、つまり一〇キロにもなるということだ。想像を絶する数である。だから、地方都市に住む何万人の人々の生活はなんとなく想像できても、東京一千万、日本一億の生活の個々の把握はしがたいのである。
 おお、そうか、だから都会の生活は虚構性を帯びているんだ。圧倒的な人の数の中に埋没した生活を送るには、他者を虚構として捕らえるしかない。つまり、歩いている一人ひとりを人間と認めて挨拶するわけには行かないということだろう。都会の人は他のたくさんの人間全体を一つの風景として捉えているに違いない。
 大都会の員数(浅田次郎風の言い方)は、必要というものを大幅に通り越していると私は感じる。そんなにたくさんで限られた地域に住んで何のメリットがあるというんだろう?
 話が脱線した。時代はグローバルというが、人間の感覚というものは実際はそんなようなものである。いくら世界をまたに駆けて飛び回っているビジネスマンでも政治家でも、個人の生活というのは「世界」に比べるとシンプルとしか言いようがない。
 巨大なスケールのビジネスや政治、メディアというのは、ある意味でゲームである。ゲームというのは虚構である。虚構とはすなわちお祭りであり偽ものである。
 虚構の中には現実の人生はなく、真実というものは覆い隠されているような気がする。人が生きるということ、それは全く世界の広がりとは無関係に、個々に私たちの前に提起された問題であり、贈り物でもある。私はそう思う。
 この目の前の贈り物でもあり、問題でもある「これ」。これをどうするかということがやはり一番の重要用件である。
 さて、静かに地に足をつけて…。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。