パネルディスカッションの補足が長くなりました (´Д`)
6月の初めに障がい者団体でパネルディスカッションを行ないました。
障がい当事者やその親御さんがそれぞれの体験や悩みを語りました。
ワタクシメも「パネラー」をしましたが、語りつくせなかったモヤモヤをココに書いてきました。
ブログには「ワタクシメの今・日々のすったもんだ」をつづっていますが、
過去があるから「今に至る」わけですから、ココの読者の方にも多少は知っていただきたいと思ったのです。
大勢の方に読んでいただき、反響もあり嬉しかったです。
ありがとうございました ♥
これからも折に触れ昔のことも書きますが、「パネルディスカッションのエピローグ」を持って、ひとまず≪おわり≫といたします 🙇
テーマは「老々介護+障がい者」
●母の病気
母はだいぶ前から手に持った物を落としたり足元がふらついたり・・・様子がへんでしたが、もともとそそっかしい性格なので、あまり心配していませんでした。
半年に一度MRIを撮っても何も出なかったので、「年のせい」にしていました。
15年くらい前に脳神経の病気で進行性、下肢からだんだんマヒして、言語障害とともに咀嚼もできなくなる等など告知されました。
その時、父の方がパニック状態になり、周囲は二重三重につらかったです。
当時まだ母方の祖母は健在で、父に病人と老人の世話がのしかかりました。
さすがにそれは無理ですから、祖母は施設に入ってもらいました。そこに追い打ちをかけて、弟の嫁が切迫早産しそうで入院。
第二子が生まれるまで第一子・4才を我が家で預かったりしました。
私もヘルパーの時間を延ばし頑張りましたが、環境の変化が目まぐるしくて、苦しい時期でした。
それでも母が車いすで移動できる間は、年に一度は妹と弟の家族、ヘルパーさんも頼んで総勢10人位で旅行もしました。
母は病状が進んでも精神的には昔のままで、父に内緒で私に「美容師さんを呼んでくれ」とか「女子会をやろう」とかリクエストしてきました。
しまいには父が根負けして、母のしもべとなって動くようになり、おかしかったです。
●母がほぼ寝たきりになってから、
6年前に母は自力で尿が出なくなり、尿管をつけるため入院したので、ついでに胃ろうの手術もしました。
その後は午前中は毎日ヘルパーさんが来て、身の回りのことをしたり、リビングまで連れてきて筆談でおしゃべりとか、調子がいいと散歩して過ごしました。
その時間帯、私がそばにいると母のテンションが上がるから、なるべくそばにいてほしいとヘルパーさんに頼まれ、私は午前中だけ付き合いました。
午後は訪問リハビリや訪問ドクター・ナース、週二回は入浴。父は休む暇がありません。
入れ代わり立ち代わり訪問者がいる生活はストレスでした。
でも「慣れる」しかなく・・・その生活に慣れ、楽しめるようになってから、だいぶ楽になりました。
訪問介護のスタッフは女性が多いので、父にとってはある意味「ハーレム状態」 (笑)
皆さんによくしていただきました。
それなりに穏やかに暮らしていたある日、母の容態が急変。
一命を取り留めたものの人工呼吸器をつけることになり、そんな最中、私は利き手を骨折して、波乱の生活を送ることになりました。
あの何週間は生きた心地がしなかったけれど、母がことあるごとに「何事も経験よ」と言っていたので、私もそう思って乗り越えました。
●不幸中の幸い
母の病気は手の施しようがないのですが、「難病」と認定され医療費などの補助を受けられ、経済面では助かっています。
また家の近所の病院にも入ることができ、父は毎日見舞いに行くことができます。
※「病院」に関しては、あくまで推測ですが老老介護+障害者という家庭への配慮で、そこに入れたのかもしれません。
母が人工呼吸器を付けたら、なぜか尿か出るようになりました。弟と「お母さんの体についている管の数が+-0だね」と笑ったことがあります。
発病してから母はうれしい時しか涙を流さないので、家族もどんなことも「不幸中の幸い」ととらえることにしています。
●自分の今後
我が家にはまだまだ「案件」がありまして、悩みは尽きません。
ワタクシメは50代後半になり「障がい者の65才問題」を控えています。
このことは長ーくなるから今回は省きますが、その焦りは当事者しかわからない、家族も全然わかっていないので、一人で空回りしている状況です。
不安はたくさんありますが、これまでの経験を糧にして、社会とつなかることで「解決策」がみつけていこうと思っています。
周りにも「老々介護+障がい者」という家庭が多くなりました。
「社会保障」の在り方が抜本的に見直す時代になったと感じています。
↓ 写真のカエルは最上一平センパイがくれた「嫌がらせ蛙」です 🐸
魔除けかな~?
6月の初めに障がい者団体でパネルディスカッションを行ないました。
障がい当事者やその親御さんがそれぞれの体験や悩みを語りました。
ワタクシメも「パネラー」をしましたが、語りつくせなかったモヤモヤをココに書いてきました。
ブログには「ワタクシメの今・日々のすったもんだ」をつづっていますが、
過去があるから「今に至る」わけですから、ココの読者の方にも多少は知っていただきたいと思ったのです。
大勢の方に読んでいただき、反響もあり嬉しかったです。
ありがとうございました ♥
これからも折に触れ昔のことも書きますが、「パネルディスカッションのエピローグ」を持って、ひとまず≪おわり≫といたします 🙇
テーマは「老々介護+障がい者」
●母の病気
母はだいぶ前から手に持った物を落としたり足元がふらついたり・・・様子がへんでしたが、もともとそそっかしい性格なので、あまり心配していませんでした。
半年に一度MRIを撮っても何も出なかったので、「年のせい」にしていました。
15年くらい前に脳神経の病気で進行性、下肢からだんだんマヒして、言語障害とともに咀嚼もできなくなる等など告知されました。
その時、父の方がパニック状態になり、周囲は二重三重につらかったです。
当時まだ母方の祖母は健在で、父に病人と老人の世話がのしかかりました。
さすがにそれは無理ですから、祖母は施設に入ってもらいました。そこに追い打ちをかけて、弟の嫁が切迫早産しそうで入院。
第二子が生まれるまで第一子・4才を我が家で預かったりしました。
私もヘルパーの時間を延ばし頑張りましたが、環境の変化が目まぐるしくて、苦しい時期でした。
それでも母が車いすで移動できる間は、年に一度は妹と弟の家族、ヘルパーさんも頼んで総勢10人位で旅行もしました。
母は病状が進んでも精神的には昔のままで、父に内緒で私に「美容師さんを呼んでくれ」とか「女子会をやろう」とかリクエストしてきました。
しまいには父が根負けして、母のしもべとなって動くようになり、おかしかったです。
●母がほぼ寝たきりになってから、
6年前に母は自力で尿が出なくなり、尿管をつけるため入院したので、ついでに胃ろうの手術もしました。
その後は午前中は毎日ヘルパーさんが来て、身の回りのことをしたり、リビングまで連れてきて筆談でおしゃべりとか、調子がいいと散歩して過ごしました。
その時間帯、私がそばにいると母のテンションが上がるから、なるべくそばにいてほしいとヘルパーさんに頼まれ、私は午前中だけ付き合いました。
午後は訪問リハビリや訪問ドクター・ナース、週二回は入浴。父は休む暇がありません。
入れ代わり立ち代わり訪問者がいる生活はストレスでした。
でも「慣れる」しかなく・・・その生活に慣れ、楽しめるようになってから、だいぶ楽になりました。
訪問介護のスタッフは女性が多いので、父にとってはある意味「ハーレム状態」 (笑)
皆さんによくしていただきました。
それなりに穏やかに暮らしていたある日、母の容態が急変。
一命を取り留めたものの人工呼吸器をつけることになり、そんな最中、私は利き手を骨折して、波乱の生活を送ることになりました。
あの何週間は生きた心地がしなかったけれど、母がことあるごとに「何事も経験よ」と言っていたので、私もそう思って乗り越えました。
●不幸中の幸い
母の病気は手の施しようがないのですが、「難病」と認定され医療費などの補助を受けられ、経済面では助かっています。
また家の近所の病院にも入ることができ、父は毎日見舞いに行くことができます。
※「病院」に関しては、あくまで推測ですが老老介護+障害者という家庭への配慮で、そこに入れたのかもしれません。
母が人工呼吸器を付けたら、なぜか尿か出るようになりました。弟と「お母さんの体についている管の数が+-0だね」と笑ったことがあります。
発病してから母はうれしい時しか涙を流さないので、家族もどんなことも「不幸中の幸い」ととらえることにしています。
●自分の今後
我が家にはまだまだ「案件」がありまして、悩みは尽きません。
ワタクシメは50代後半になり「障がい者の65才問題」を控えています。
このことは長ーくなるから今回は省きますが、その焦りは当事者しかわからない、家族も全然わかっていないので、一人で空回りしている状況です。
不安はたくさんありますが、これまでの経験を糧にして、社会とつなかることで「解決策」がみつけていこうと思っています。
周りにも「老々介護+障がい者」という家庭が多くなりました。
「社会保障」の在り方が抜本的に見直す時代になったと感じています。
↓ 写真のカエルは最上一平センパイがくれた「嫌がらせ蛙」です 🐸
魔除けかな~?
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