Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

一澤帆布で思ったこと

2007年07月31日 | 
 お店がその相続をめぐり本家と元祖に分かれ、「オーセンティシティ」を主張しあって対立するというのはよく聞く話である。同じ店名なのによく見ると、ロゴが少し違うとか、文字のデザインが違うとか、まぎらわしいものもある。そんな話を聞くと、「またか」と思ったり、不謹慎ではあるが、「面白さ」をも感じてしまうものだ。だいたいこうした話題は、問題になる店が有名であればあるほど、朝8時あたりから始まる民放の番組に真っ先にとりあげられるものだ。
 さて、その仲たがいした店のお話である。京都の有名なカバン屋「一澤帆布」は、八坂神社から東大路通を北に5分も歩けば着く有名な店である。私がこの店を最初に訪れたのは、今から数年前だったが、特売でもないのに店屋の前には行列ができるほどで、やっと店屋に入れたと思いきや、品物をゆっくり見るのもたいへんな混雑だった。ひじょうにシンプルなデザインなのだが、生地は帆布であるためしっかりしており、値段はそれなりにするものの「一生もの」のカバンといった感があった。どこかが壊れれば、もちろん修理してもらうことも可能である。その店が跡目をめぐって分裂したのは、2,3年前のことだ。この話を知ったのはお恥ずかしながら、朝のバラエティー番組だった。自分がいったことのある店屋がテレビに出ることなどほとんどなかったので(老舗に行くことはまずない)、興味深く拝見した。
 今回、京都にいったとき、かみさんにおみやげでも買おうと久しぶりにこのカバン屋に向かった。たいてい八坂神社あたりから北に向かってバス道路を小走りに歩く女性の二人連れの目的地は、このカバン屋なのである。今回もそれらしき二人連れを発見したが、案の定、行き先は同じだった。さて、今回購入した旅行ガイドで店屋の名前と場所を確認すると「一澤信三郎帆布」になっている。なるほど、店屋は分裂、その後、以前の店はなくなってしまったんだと思いこみ、新しいお店に入る。相当に混雑するらしく、入り口には整然と待てるように、列のラインが決められている。また店屋の入り口には、一人が買えるカバン数が記されている。手作りであるために一人がたくさん購入すると、品物がなくなるということだろう。以前のお店に比べればデザインも新しいし、店もモダンである。私はぐるりと店内を見て、何も買わずに出た。なんだか新しすぎて、突然の変化についていけなかったのである。 
 店屋を出ると猛暑が襲う。こんなところまで歩いてこなければよかったかな、と思って道路の向かい側をなにげなく眺めると、そこには昔からある「一澤帆布」が存在しているではないか?おかしな話である。なぜ、旅行ガイドの地図と説明文からこの老舗だったはずの店が完全に抹消されているのか?私は向かい側にわたって古い趣のその店に入る。店屋の雰囲気は何も変わっていない。多少、新しい製品やデザインは増えているが、昔と同じものもたくさん並んでいる。そしてなんとなく安堵する。
 私はこの二つの店の品物がどうか、あるいは職人がどちらかの店に行ったか、という問題には興味がない。それよりも観光ガイドの記述そのものに疑念を持つ。この二つの店屋の関係がどうであれ、私は両者を併記すべきだと考える。観光ガイドがあらゆる店との関係において中立だとは思わない。しかし、昔を知る人々は古くからある店に訪れた「過去」を思い、そんな記憶に浸る。店はものを買う場所だけではない。まして京都は、二回、三回と繰り返し訪れる観光客も多いところだろう。そんな人々の心を考えた観光ガイドはあるだろうか。物欲を駆り立てるだけのガイドブックはもういらない。


生徒公約

2007年07月30日 | 那覇、沖縄
 今日は参議院選挙である。猛暑の中、近くの小学校まで歩いて投票に出かける。子どもが少し離れた小学校に通っていることから、近所の小学校には選挙の時くらいしか行く機会がない。前回は衆議院選挙か県知事選挙のどちらかで訪れた記憶がある。
 さて小学校の門を入るなり、柱に妙な文字の書かれた板がかけられている。緑の文字で書かれた文章は「ここではボール投げはしません」。最初に見たとき少し違和感を感じた。だいたい学校では「してはいけません」と表示されるのが普通であり、「しません」と書かれていることは少ない。だいたい門を入って最初に目につく文字がこれなのだから、驚いたのである。
 この「しません」という主体は誰なのだろうか?一般的に考えて、ボール投げをするのは「生徒」である。とするとこの文字は小学生自身が書いたのだろうか?それにしては、あまりに美しく書けている。どう見てもこれは先生が書いたものだ。ということは、生徒の意思を表示したように見える文章を教師が書いたことになる。生徒の意思であるはずの文章を他人が書くことは許されることなのだろうか?
 これから選挙にいって候補者の名前を書こうという直前であるためか、こういう文章を見ると敏感に反応してしまう。まるで生徒の公約のようである。この門をくぐる生徒は、「ここではボール投げをしません」と公約し、校舎の中に入っていく。あるいは校門を入ると、マントラのようにこの文字を三回唱えるのかもしれない。しかしこの公約は自分で作ったものでないとすれば、それはそれでおかしいのである。
 候補者のマニフェストは、自分自身で書いたものなのか?それとも政策ブレインが「こんな感じでいいんじゃないですか」と文責したものなのか?もし自分で作っていないのであれば、それではまるで今見た小学校の「ここではボール投げをしません」と同じじゃないか。わからなくなってきたぞ。どうすればいいんだ・・・。


冬の「そなた」

2007年07月29日 | 家・わたくしごと
 数日前、車の中でなぜか「冬ソナ」の話になった。なんだかずっと前に流行した韓流ドラマのような気がする。たまにBOOK OFFにいくとCDコーナーにもDVDコーナーにも「冬ソナ」はたくさん出回っているし、完全にそのブームは終焉した感がある。わが家でも数年前は結構、この話で盛り上がっていたが、今ではチェ・ジュウのポスターが寝室に寂しく張ってあるくらいで、CDを部屋で聞くこともなくなった。
 車に同乗していた小学校の息子も「冬ソナ」の話に加わった。さんざん家で聞かされているわけだから、子どもにとっても他人ごとではない。そんなとき、何かのきっかけで「ソナタ」の話になった。
 私 「ソナタって知ってる?」
 息子「もちろん知ってるよ」
 私 「何、何?」
 息子「冬のあなた、って言う意味だよ。だって「そなた」は「あなた」っていう意味でしょう?」
 子どもは自信満々である。さて困った。確かに「そなた」は日本語の二人称の人称代名詞であり、目下の相手をやや丁寧に指す言葉である。小学校高学年ともなれば、そんな難しい日本語を知っているのかと関心する一方、冬のソナタを、冬の「そなた」と何年もの間、信じ続けていたと思うと少々複雑である。
 わが子は芸術大学の教員を親にもつとはいえ、これまで西洋芸術音楽は学校で学ぶだけで、家では全く習っていない。というより、家に電子ピアノがあるが、自分からスイッチを入れて弾くことはまずない。どちらかといえば、置いてあるガムランの方を気が向くとたたいている。私が小学校5年のとき、「ソナタ」といえば、音楽形式のことしか思い浮かばなかっただろう。「ソナタ」はカタカナの単語であって、ひらがなではなかった。しかし彼にとって「そなた」は「ひらがな」であって「カタカナ」ではない。
 息子は間違えていない。西洋音楽の専門用語なんて、知る人ぞ知るものであって、日本語の「そなた」は「あなた」を意味すると答えて当然である。私は息子を笑えなかった。なぜなら正常なのは彼の方なのだから。

那覇で見つけた「古都」

2007年07月28日 | 那覇、沖縄
 日曜日の朝、息子が「そうだ、お父さんに話したいことがあるんだよ。」と真面目な顔で話しかけてきた。困った相談だったらどうしようと思いながらも話を聞くことにする。すると息子は言うのである。「バスの道路にスナック古都っていう店があったよ。古都って京都のことなんだよね。お父さんのブログに書いてあったでしょう?」と自分の大発見を自慢ありげに語るのである。「那覇の京都だよね。」なんていわれてしまうと、それが彼なりのウィットにとんだジョークであったにしろ、なんだか私は自分のブログを通して、とんでもないことを教えてしまったような気がしてしまう。
 古都=京都という図式は当たらないが、少なくても京都は古都にカテゴライズされることは無論間違いない。つまりあのスナックは「古い都」を意図して店名をつけたのだろう。あるいはスナックのママの名前が、たまたま「古川美也子」とかで、店名を「古都」にしたのかもしれない。そんなくだらない想像をしているうちにスナック「古都」はどんな店なのか知りたくなって、すぐにバイクで那覇の「古都」見学へ向かったのだった。
 30度をとうに超えているだろう暑い日の昼下がり、私は家から5分くらいのところにその「古都」を発見したのである。日曜日の昼なのだから、当然のごとく「古都」の門(シャッター)はしっかりと閉められている。ちょっとつかれた建物と色あせた雰囲気がまるで古都を彷彿とさせる。「いい感じで古都してはるなあ・・・」なんて思いながらカメラのシャッターを押した。古都なのになぜ宣伝用の縦幕の酒が日本酒ではなくて、泡盛「瑞泉」なのが多少気にはなったが。
 ところで店の内装はどんなになっているのだろうか?きっと「わび」と「さび」の世界で溢れ、ママは祇園のクラブのママみたいに高級な和服で身を包んで、帰り際には「おーきに。またおいでやす。」なんて言ってくれるのだろうか?暑さでボーっとなりながら、閉まった店の前にたたずんでスナック「古都」を空想する・・・。


保存された街並みに思うこと

2007年07月27日 | 
 京都の八坂神社周辺には古い街並みが残っている。人通りの多い四条通からほんの100メートルくらい歩けば、その喧騒が嘘のような静けさの広がる街並みが突然現れる。そこだけがまるで時代の止まった空間であるかのようだ。初めに「残っている」と書いたが、「残している」といった方が正確だろう。かつての風情を維持・継承していくために、行政が援助しているのである。言い換えれば、この街並みはある意味で「作られた街」ということになる。観光ガイドには必ずといっていいほど掲載される写真の風景がまさにこの街並みだ。ついでに舞妓さんが和風の傘をもって歩いていたりなんかすれば、もう「京都」そのものである。
 でも、なぜ「京都」そのものが、古い道並み、舞妓、ついでに柳の木なのかといえば、そういう「まなざし」が観光化の中で作り上げられていったものであるからだ。写真、ガイド、メディア・・・そうした中で京都を表象する「まなざし」が誕生したのである。なんだか観光人類学の教科書のような文章になってしまった。
 しかしそんな理論的なことは脇に置いておこう。今回、この「京都」に学生達を案内したとき、あまり写真をとらない学生達が、このときばかりは互いに記念写真をとりあっていた。そして彼女たちの背後には古い京都の街並みがあった。私はただそんな学生たちの光景を見ていただけで風景に関心はないのか、といえばそんなことは全くない。それが「作られた」、「保存された」場所であったからといっても、やはり私はこの場所が好きだ。ここにはちゃんと人が住んでいる。生きた街だ。映画のセットではない。
 そんなことを考えながら、今日、那覇の金城石畳にぶらりとでかけた。石畳が続いて、伝統的な沖縄家屋の匂いのする場所は、今の沖縄のどこを探したってあるわけはない。正直、沖縄に住んでいれば極めて非日常的な空間である。ちょっと先で観光客が楽しそうに写真をとっている。そして彼らの背景もまた古い(古く見える)沖縄風の家屋である。
 そう、これが「観光」である。私は彼らと感動を共有できる。それは金城石畳を見る感動ではなく、作られた「観光のまなざし」で「風景」を目の前にしたときの感動である。

京都で買ったおみやげ

2007年07月26日 | 
 私はおみやげをほとんど買わない。買うことがあっても、大抵は漬物やお菓子で、帰宅して食べると跡形もなく消えてしまう「おみやげ」である。京都には年何回か訪れるし、今年も8月に京都で仕事があるため、あまり真剣におみやげ屋を覗かなかった。しかし今回は私好みの最高のおみやげを発見してしまったのである。
 宇治の平等院鳳凰堂は他の寺院と違ってなかなか商売上手であり、観覧を終えると必ずショップを通過するような構造になっている。以前、雲中供養菩薩像の写真集を購入したことがあったが、それ以外を真剣に見ることもなかった。今回は学生たちと一緒であるために、ぼんやりショップの中を歩きながら、土産モノを眺める。絵葉書、キーホルダー、携帯ストラップ、栞、置物、本・・・どれもお土産の定番である。ただこのショップオリジナルのグッズが多いことに驚く。そんなことを思いながら、ふと目にとまったのはトランプである。ショップオリジナル「全雲中供養菩薩像トランプ」900円。なんとあの菩薩像がすべてトランプになっている!
 よく考えてみると雲中供養菩薩像の数は52体なのだ。なんとトランプのカード52枚とピッタリではないか。まるでトランプの絵柄になるために存在している菩薩像のようである。しかもトランプの絵柄は、マントラの模様のようだ。すごい、すごすぎる。しかもさらに驚くことにジョーカーが「鳳凰」なのである。そんなこと許されるのだろうか?これを見つけた瞬間、私はおもわずこのトランプを手にとって颯爽とレジに向かって元気よくレジのおばさんに「これ下さい」と言ってしまった。まるで子どものお買い物である。
 ちなみに、私はその後、学生たちにこのトランプを買った自慢話(これって自慢話なんでしょうかね)をしたのであるが、学生の一人が「先生、実は私も気に入って買っちゃんたんです。」とニコニコして話すのである。この学生は将来有望か?


京都国立博物館で見た祇園祭――祇園祭にて(6)

2007年07月25日 | 
 山鉾巡業の翌日、京都国立博物館に行く。正直、あまり交通の便のいい場所にあるとは思えない。三十三間堂が隣になければ観光客が立ち寄るとはとても思えなそうな博物館である。建物は由緒正しき洋風建築なのだろうが、個人的な感想としては、常設展だけを見る限り、少々物足りない感じがする。というよりも、だいたい京都には神社・仏閣がありすぎて、よほどの特別展でもない限り、博物館で仏像を見てもそのリアリティが感じられないのかもしれない。やはり限られた時間内で京都をめぐるのであれば、博物館よりは、一つでも多くの観光名所をまわってしまうのだろう。だからかどうかはわからないが、私が行った時間は入館者も少なく、そのおかげで展示品を一つ一つ眺めるのには都合がよかった。
 私の目的は、江戸の作品である洛中洛外図屏風と祇園祭礼図屏風を見ることだった。ちょうど祇園祭の期間中、この博物館が所蔵する二枚の屏風絵が展示されていることを知ったからである。現代の祇園祭は今回の見学やそれまでの体験から知ることはできたが、江戸時代の祇園祭がどんなものだったのか、自分の目で見ておきたかったのである。もちろん文書などに書かれたものは多いだろうし、また研究もあると思うがそこまでのめりこんでいるわけではなく、とりあえず目で見える範囲で理解しておきたかった。
 洛中洛外図屏風と祇園祭礼図屏風は、雲の上から除いたような構図で京都の街全体が描かれており、書かれた場所によっては実に詳細である。どちらの屏風絵も祇園祭の山鉾巡業の様子が描かれており、山鉾の形は前日見たものと何一つかわらない。ただ違うのは見物人の数と、実にのどかな市中を巡業している様子だ。もちろんこれは絵画であり、観客人の存在にいたるまでのリアリティを追求しているわけではないだろうが、全くのデタラメともいいきれない。そんな光景を見ながら勝手な想像をする。その頃の京洛は、今の京都のように騒音で溢れることもなく、表通りは高層建築物で縁取りされることもなく、祇園囃子は他の音に打ち消されたり、遮蔽されることもなく、街のあちこちに響きわたっていたのではないだろうか?祇園祭は見るだけのものでなく、囃子である「コンチキチン」の音の調べを感じる祭礼だったのかもしれない。だから表通りを埋め尽くすほどに見物人はいないのだ、なんて解釈は成り立たないだろうか?ただ、少なくても祇園祭は、今以上に聴覚に訴える儀礼であったのではないかと考えるのである。


夜の寺町通りで――祇園祭にて(5)

2007年07月24日 | 
 「いやあ、このあたりには飲み屋はないですね」なんて言いながら、八坂神社から四条通りを西に歩き、新京極、寺町通りをホセ夫妻と歩いた。すでに歩きながらコンビニで買ったビールを飲んでいたことから、アルコール禁断症状に陥ることなく、のんびりと話をしながら店の閉まった寺町通りを北に向かう。すると、なんだか不思議な場所に出た。木製の長いすがたくさん並べられ、飲み物が用意されている。とはいえ準備している人はいるが、誰かが椅子に座っているわけではない。つまり何かを待っているのである。
 「何でしょうね?」と話しをしながらそこを通過しようとすると、なんと前方から馬に乗った人々の行列が来るではないか。こんな夜にいったい何が起きたのだ?とにかく驚きながらもその行列を迎える。馬に乗って鎧を着た数人の人々を先頭に、神主の格好をして歩く多くの人々、そしてその後ろには神の使いである「お稚児さん」が馬に乗ってやって来たのである。今朝、長刀鉾の上で小さく見えたお稚児さん。まるで江戸時代にタイムトリップしてきたような行列が、ほとんど人通りのないシャッターのしまった寺町通り商店街を行列しているのだ。馬の蹄の音と、神主が歩きながらたたく太鼓の音が商店街に不思議なリズムを刻む。
 私たちが遭遇した場所は、この行列の休憩場所だったらしい。人々は思い思いに椅子に座り、お茶をもらって突然、普通の談笑を始めたことから、あっという間に現代に引き戻される。しかしその一角に歴史と時間が止まった空間が存在する。「お稚児さん」と彼を乗せた馬がたたずむ空間。馬に乗った人々が下りて休憩する中、「お稚児さん」だけはほとんど動かず、馬の上に座っているだけだ。彼は神の使いでいる間、地面には降りることも、足をつくことも許されない。
 この光景に出会う前、ホセ夫妻と川端康成の『古都』の話をしていた。小説の中の双子の姉妹、千重子と苗子は、祇園祭という特別な空間の中で、神の力によって20年の歳月を経て再会したわけで、祇園祭の空間には、何かを引き合わせる不思議な力があるのではないかといった他愛もない話である。しかしそんな話の直後に、この「お稚児さん」に遭遇してしまうと、なんだか突然のこの出会いが、ただの偶然とは思えなくなってくる。沖縄から祇園祭を見るためにやってきた私への「不思議な力」からのプレゼントだったのだろうか。もしそうであれば、寺町通りまで30分近くも気に入った飲み屋が見つからなかったことも、祇園祭にやってきた神の仕業か?


神輿渡御――祇園祭にて(4)

2007年07月23日 | 
 八坂神社の石段下はものすごい人だかりだった。夕方からはじまる八坂神社の神輿渡御の儀礼を見学する人たちである。この日の午前中に行われた山鉾巡業とはまた違ったピリピリした雰囲気だ。祇園囃子の中、ゆっくりと行列する山鉾と、「ワッショイ、ワッショイ」の神輿では見る側の緊張感や気持ちもだいぶ違う。
 夕方6時過ぎに三基の神輿が揃うとき、祇園祭の緊張感はピークに達する。白い衣装に身を包んだ担ぎ手たちは、屈強な男性達ばかりだ。トランス状態に入る直前のような異様な雰囲気が会場全体を包んでいる。数百人の担ぎ手が祈願を行う儀礼の数十秒の沈黙が、それまでの喧騒を一瞬忘れさせる。そして儀礼が終わるや否や再び訪れる爆発的な音の嵐。こちらまでその音世界に引き込まれそうだ。
 祇園囃子はたくさんの鉦の金属音であるコンチキチンが、その特徴であるが、神輿にはこうした囃子はない。しかし八坂神社の神輿からは、担ぎ手の掛け声や怒号とともにさまざまな金属音が発せられる。一基に数百はつりさげられている大小の鈴、そして担ぎ棒につけられた小型のシンバルが、神輿を上下するたびに激しく鳴り響く。
 儀礼空間における金属の音は神聖な音だ。バリと京都では、その儀礼の方法も内容も違うが、金属の音の力だけは共通している。この音は、この儀礼の間にやってくる目には見えない超自然的存在に捧げられるだけでなく、その空間を共有する人間である私たちにも幸せをもたらしてくれるものだから。


抹茶パフェ――祇園祭でちょっとブレイク

2007年07月22日 | 
 山鉾巡業と八坂神社の神輿渡御の儀礼の間に時間があるので、学生たちとともに宇治の平等院鳳凰堂に出かける。電車に乗ってちょっと気分転換。平等院にはさまざまな楽器を手に持つ雲中供養菩薩像が多数ある。せっかく音楽学を学ぶ学生たちだし、これを見に行こうと宇治を訪れることにしたのだった。しかし目的は別にあったのである。
 宇治といえば、お茶と金時。実のところ、私の中の今回の目的は宇治で食べる「抹茶パフェ」である。甘いもの好きな私にとって抹茶パフェを食べずに京都から帰るなんて考えられないことだ。といってもいいオジサンが一人でお店に入って、「抹茶パフェ」を食べるのには多少なりとも勇気がいる。今回こそは一人で食べるぞ!と気負って京都に行ったのだが、すでに前日、老舗の喫茶店の名物、ゼリーポンチを一人で食べただけでめげてしまった。やはり周りのカップル、オネンサンの集団が気になるのである。ゼリーポンチを食するのに熱中している私が、ちょっと顔もあげると、見合いの話で盛り上がるオネエサンたちが一瞬で目をそらす。自意識過剰でしょ?といわれればそうなのだが、ゼリーポンチなんて食べてなければそんな風に感じるはずがない。そこで学生をつれてパフェを食べにいくことにしたわけである。学生の分の出費は痛いが、気持ちよくパフェを食べるという快感こそが重要なのであり背に腹はかえられない。
 さてさてパフェであるが、夏限定の抹茶づくしミニパフェを頼んでしまう。とにかく何から何まで抹茶づくしである。抹茶ゼリー、抹茶ムース、抹茶アイス、抹茶団子、抹茶ビスケット・・・の緑色攻撃。それにしてもなんで日本人は抹茶に弱いのだろうか。パフェなんて洋食の高カロリーデザートであるはずなのに、それに抹茶を使って擬似「和風」を作り出してしまうから不思議だ。チョコパフェと抹茶パフェを比べると、なぜか抹茶パフェの方が体に優しいデザートのように見えてしまう。よくよく考えてみればそんなことは絶対にない。ちなみに現在、沖縄でも期間限定で「抹茶チョコちんすこう」なるものが売られていたりする。ちなみに沖縄に茶畑はあるんだろうか?
 ところで宇治で食べた抹茶パフェであるが、「それはそれは、おいしゅうございました」。