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もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

保存された街並みに思うこと

2007年07月27日 | 
 京都の八坂神社周辺には古い街並みが残っている。人通りの多い四条通からほんの100メートルくらい歩けば、その喧騒が嘘のような静けさの広がる街並みが突然現れる。そこだけがまるで時代の止まった空間であるかのようだ。初めに「残っている」と書いたが、「残している」といった方が正確だろう。かつての風情を維持・継承していくために、行政が援助しているのである。言い換えれば、この街並みはある意味で「作られた街」ということになる。観光ガイドには必ずといっていいほど掲載される写真の風景がまさにこの街並みだ。ついでに舞妓さんが和風の傘をもって歩いていたりなんかすれば、もう「京都」そのものである。
 でも、なぜ「京都」そのものが、古い道並み、舞妓、ついでに柳の木なのかといえば、そういう「まなざし」が観光化の中で作り上げられていったものであるからだ。写真、ガイド、メディア・・・そうした中で京都を表象する「まなざし」が誕生したのである。なんだか観光人類学の教科書のような文章になってしまった。
 しかしそんな理論的なことは脇に置いておこう。今回、この「京都」に学生達を案内したとき、あまり写真をとらない学生達が、このときばかりは互いに記念写真をとりあっていた。そして彼女たちの背後には古い京都の街並みがあった。私はただそんな学生たちの光景を見ていただけで風景に関心はないのか、といえばそんなことは全くない。それが「作られた」、「保存された」場所であったからといっても、やはり私はこの場所が好きだ。ここにはちゃんと人が住んでいる。生きた街だ。映画のセットではない。
 そんなことを考えながら、今日、那覇の金城石畳にぶらりとでかけた。石畳が続いて、伝統的な沖縄家屋の匂いのする場所は、今の沖縄のどこを探したってあるわけはない。正直、沖縄に住んでいれば極めて非日常的な空間である。ちょっと先で観光客が楽しそうに写真をとっている。そして彼らの背景もまた古い(古く見える)沖縄風の家屋である。
 そう、これが「観光」である。私は彼らと感動を共有できる。それは金城石畳を見る感動ではなく、作られた「観光のまなざし」で「風景」を目の前にしたときの感動である。

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