Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

『古都』を読む

2007年07月15日 | 
 明日から何人かの学生とともに祇園祭を見に京都へ行く。16日が宵山、そして17日が山鉾巡業である。京都行きのウォーミングアップのために、川端康成『古都』を読む。最初に読んだのは中三の京都・奈良への修学旅行に行く前で、それから4,5回は読んでいるので筋は完璧に知り尽くしているが、読むたびに新しい発見がある。この小説は古都「京都」をテーマにしながらも、戦後の現代化しつつある京都を描いているところが好きである。斜陽産業となりつつある伝統産業、消え行く市電、化繊の織物の流布・・・その中に古都「京都」の四季が移り行く。
 中学生の頃から、この小説で描かれる「幻」が好きだった。主人公、千重子の双子の妹苗子の「きれいな幻には、いやになるときが、おへんやろ。」というセリフが、心を打つ。幻は「幻」であるゆえに美しい。それを現実に体験してしまうとき、その究極は「幻滅」である。淡雪、しぐれ、みぞれの何が降っているか雨戸を開けて見てみようとする姉を苗子は「やめとおきやす。寒うどすし、幻滅どすわ。」と姉の動作を制止する。夢は現実のできごとではない。しかしこの小説で語られる「幻」は、現実であるがゆえの「幻」、しかしその現実に決して直面することはない。だから私たちはそれを自由に想像することができ、一生、心の中でその幻を見続けることのできるもの。
 ただ、もう一つの「幻」が存在する。あまりにも「現実離れ」にした体験をした時の美しい光景、それもまた「幻」のようだ。数年前の3月、時間の合間を縫って夕刻に出かけた京都北山の神護寺の境内で経験した。誰もいない広い境内に粉雪が舞い始めた。静寂の空間の中、その雪が降りしきる音、地面に触れて融解する音が聞こえた。その水墨画のような光景はあまりにも美しかった。体験したはずの現実、しかしあれは本当に「現実」の出来事だったのだろうか・・・。『古都』のおかげで私はもうすっかり京の世界に入り込んでしまっている。
 ちなみに、観光ガイドブック「るるぶ」の『楽楽 京都』も買ったことを付け加えておこう。学生に知られずに、どこで抹茶パフェを食べようかと頭を悩ましているもう一人の私がここにはいる。