



皆さま お久しぶりでございます。すでにIDすら忘れて探すのがたいへんでした。友人の村松健さんのニューアルバムが3月1日に発売になりました。この感染症の中で、自身をアップデートすること、rebornすることをテーマにした珠玉の9曲が収められています。私も文章を寄せました。
村松君と続けているラジオ番組ミューグレ(静岡FM K-mix、毎週土曜日朝6時半から7時)は、来年度も継続します。そちらもお楽しみくださいませ。
あっという間にオリンピックイヤー2020年になってしまいました。東京決定の知らせを耳にしたのがつい最近のように思うのは私だけかしら。年を重ねるにつれ、時間がたつのが早いというを実感する毎日です。
SNSが多様化する中、ブログもそのうちの一つとなり、かつ写真をアップする面倒さから更新しなくなってしまいました。携帯で写真を撮影してすぐにアップできるフェイスブックやインスタグラム、ツイッターに比べると、やっぱりブログは少々面倒かもしれません。ただ、それぞれのあり方や使い方があることはわかっていますが、なかなか使い分けるそんな余裕がありません。
どんなに忙しくてもバリ芸能のさまざまな活動は、たくさんの仲間とともに続けていこうと思います。
昨日、飛行機の便の13時間繰り上げ事件に巻き込まれ、たいへんな思いをしてバリに戻りました。あいかわらず、ひたすら大正琴を追い続けています。今回もユニークな大正琴に出会いました。
この3月にマカッサルの文化局や国立大学の先生などと会い、そこでさまざまな情報をいただくことができて、今回、最初のフィールドワークに入りました。場所はワジョ県のセンカンという街。マカッサルからは車で5時間以上かかるところで途中は山越えもあって、結構、移動がたいへんでした。こんな処にも日本軍がたくさんいたそうで、驚くことばかりでした。
戦前からこの地にある写真の店にたくさんの大正琴が売られていたそうです。天板には富士山と海の絵が描かれていたようで、まさに日本からの輸出品ですね。この地域の大正琴は改良型もある一方で、日本の昔の大正琴を忠実にコピーしている地域もあります。私が調査したものは、日本から持ち込まれたものを、今でも修理しながら大事に使っているものでした。ただ、戦後の輸出品のような可能性もあり、撮影した写真をもとに帰国してから分析します。
今日は少し休んで、またバリで調査を続けます。
美空ひばりが亡くなったのは1989年6月末だから、もう30年前のことになる。1989年といえば、もうぼくは20代後半だったし、美空ひばりが亡くなったことはハッキリ覚えているが、正直なところ、そのときは美空ひばりがどんなにすごい歌手かなんてことはほとんど知らなかった。もちろん歌謡ショーにはよく出演していたけれど、演歌を歌うおばさん歌手くらいな認識しかなかったことは、今思えば本当に恥ずかしい。
美空ひばりの凄さを思い知ったのは、たぶん大学教員になってポピュラー音楽論の講義を始めてからだったと思う。戦後の日本のポピュラー音楽史を学ぶうちに、美空ひばりがあらゆるジャンルを歌いわけるオールマイティーなとんでもなく驚くべき歌手であることがわかったのである。アメリカから入ってきたポップスから新しいリズム、リンゴ追分のような民謡調の歌、さらには、コテコテのド演歌まで、どれも別人のように歌い上げるのだ。今では、「美空ひばりを知らなければ日本人ではありません」、なんて授業で言うようになってしまっている。
最近、20代の卒業生が、美空ひばりのダニー・ボーイがすごくいい、とyoutubeの音源を聞かせてくれた。これがまたすばらしい。ダニーボーイはイギリスの民謡であるが、多くの人に歌われ、演奏される名曲である。その切ない歌詞を、実にみごとに歌い上げているのである。おもわず私は研究室に戻ると、amazonで美空ひばり、ダニーボーイと検索語を入れて、思わず購入してしまったのがこの写真のCD。2枚組のジャズスタンダードである。なんとA列車で行こう、までが日本語で歌われている。しかも本格的なのである。
美空ひばりは、演歌を歌うおぼさんなんかじゃあない。この人は、ぼくの中では日本のポピュラー音楽界の中で最も恰好いい歌手であり、この人を超える歌手が今後、日本に誕生するかといえば、私の答えは今のところ「否」である。
7月7日に久しぶりの那覇公演があります。ワヤンの舞台をそろそろ送らないと船便で遅いと1週間かかってしまうので、本日27日に浜松の佐川急便の営業所に直接持ち込みました。昨晩から学生に手伝ってもらってパッキング。いろいろ荷物の詰まったワヤンの箱、木の枠、そしてバナナの幹の三つです。写真はそれらを乗せた車の荷物スペース。
実は送料を聞いてびっくり。片道4万円だって。そんなに高かったっけ。たしかに大きさは普通の宅配便じゃないけど、えー、って感じでした。往復8万だよ。これなら那覇2往復以上できるわ。そんなに大金を持っていなかったので、びっくりしてコンビニにお金を下ろしに行って無事支払い完了。
まあ、めったにやらない沖縄公演ですから、いいとしましょう。それだったらグンデルは二人だけでも二、三公演すればよかったなと思いました。せっかく子供向けの演目もできるようになったのに。まあ、「あとの祭り」ですね。いいんです。那覇公演は「祭り」みたいなものなんですから。
このところ、夕食は徹底的に野菜中心の生活である。色鮮やかな食事というのは食欲もわく。たとえば、インドネシアで包んでもらうナシ・チャンプルのような「茶色」で統一されたような食事だと、食を楽しむためではなく、空腹も満たすために食べるだけだ。もちろん動物性、植物性たんぱく質も食べるのだが、これまで以上に野菜を食べるようにしている。もちろん健康のためである。いろいろ故障個所はあるのだが、これ以上、故障個所を増やしたくないという思いもある。
できるだけ歩き、植物を食べる生活。もう数年続けている。このところは忙しさもあって自然に痩せてしまったが、野菜を味わうことができるようになった。やはりコンビ二の野菜と、近所で作られた野菜ではぜんぜん味が違う。ドレッシングも最低量になった。
健康になってるのか、といわれるとなんともいえないが、やはり継続は力である。今、この年齢でこうした生活を始めることが、この先、10年後、20年後の自分に返ってくると信じて、外食以外ではこうした食事を続けていこうと思っている。
「今年はフジの花がきれいに咲いたね。」というと、母はきまってこう言う。「そんなことはないのよ。野生のフジだからね」と。咲かない年も同様だ。
「野生のフジだから」という応答にはきっとこんな意味が隠されている。今年のように美しく花を咲かせているときは、「いえいえ、そんなことありません」という謙遜の意味である。そして咲かなかった年は「野生のきまぐれさ」を肯定しているのである。
母がいうのだから、実家のフジは「野生種」のフジであり、観賞用に空をあおぐ隙間なく、花がびっちりと垂れ下がるフジとは違うらしい。しかし、それがわが家のフジである。今年はきっと庭師がきれいに剪定してくたから、花をつけたのだろうと思う。だいたい2年前は私が適当に切ったくらいだから。
フジの花がたくさんつこうが、つくまいが、国分寺にはこの花を境に暖かな春が訪れる。ちょっと外を動けば汗ばむような春が。そんな季節到来のメルクマールとしてのフジ。私は子どものことから、このフジをそんな風に見つめてきたし、今なお変わらず眺めている。そう、私の嫌いな冬は去り、「私の季節」がやってきたのだ。
ちょうど一週間前の4月6日、7日と二日間、富山市で行われた全日本チンドンコンクールを見に行った。なんとこのコンクール、東日本大震災の年に一度だけお休みした以外は,昭和30年から毎年開催されていて、今年で65回を数えるコンクールなのだ。だいたい、このような全日本コンクールが富山市で毎年の桜の時期に行われていることを知る人はどのくらいいるんだろうか?
富山は太平洋戦争での米軍の空襲によってほぼ壊滅したという。そんな荒廃した富山において、街の人々に明るさを取り戻す手段として始まったのが、この全日本チンドンコンクールだそうだ。だから富山市は今もコンクールによる「街の賑わい」を最重視する。県民会館でコンクールが行われる一方で、パレードや市内各地でチンドン屋が演奏する。とにかく街は大賑わいである。
富山市は確かにこのコンクールの期間は賑わうらしい。しかし実際は1年365日のうち、そんな賑わいはたった2日にすぎない。しかし、彼らは年間を通してチンドンの響きを富山市を象徴するようなサウンドスケープにしようとは考えていない。今では、このコンクールを継続することにより「日本の近代に誕生したチンドンを守っているのは私たち富山市民だ」という自覚を持つようになっている気がする。
でも、確かにその通りだ。チンドン屋はかつてのように、開店する店の宣伝のためにパフォーマンスをすることはほとんどなくなった。しかし今やこのコンクールは、そんな「日本の芸能」を維持継承する装置にもなっているのである。65年も継続しているからこそ、それができている。店先の宣伝とは異なる文脈、すなわちコンクールという競い合う場があるからこそ、チンドンマンはその芸能を継承し、実践し続けているのだ。
今月はじめて訪れた国分寺の実家は、今まさに春爛漫。母が丹精込めて育てたチューリップが花壇で美しい花を咲かせています。とうとう、あの「いまわしい」冬が終わり、やっと暖かな季節がやってきたのです。Pは冬眠から覚めて、やっと自分の季節が戻ってきたような気分です。
それにしても季節の変化は速いもので、実家に来たのは1か月ほど前だったのに、あっという間に木々は芽吹き、鮮やかな花が咲くなんて、本当に自然の営みというのは不思議なものです。
今年は藤の木も美しい花を咲かせるようです。その時期が待ち遠しい…。来月からワヤンの練習も本格化。6月から毎月のように舞台があるので。
バリのホテルの部屋はたいがいオシャレを演出するせいかどこも暗くて、年齢的に小さい文字が見にくくなっている私にはきついのだが、最近、日本のわが家よりも部屋が明るく、安いホテルを見つけて、そこを定宿にするようになった。かつては、冷蔵庫、クーラー、お湯、がホテルの三種の神器だと思っていたが、今はなんといっても「明るさ」である。
ところがこのホテル、椅子が私の体に合わないのだ。昨日、三時間程度、机に向かってノートにいろいろ書き込んでいただけで、夕方にはひどい腰痛になってしまった。これは明らかに椅子と机のせいである。ということで、今朝から枕を二つ使って仮設ソファーにしてみたのだった。ところが、これが「いい」のである。とにかく楽なのだ。いつの間にか痛みがなくなっている。
昔の作家が旅館の一部屋を借り切って小説を書いた話はよく聞くが、たぶん、作家は部屋の明るさ、そして快適な椅子と机があったからこそ、名作が執筆できたのだと思う(当然、黙っていても三食出てくる食事もだろうが)。ちなみにこのホテルの部屋には冷蔵庫はないが、まったく困ったことはない。椅子さえ体に合ったものがあれば、もう完璧なのであるが、そうなると、自身で椅子を買って使うしかないのだが、そんなことをするまでもなく、どこかの快適なカフェで仕事をした方がいいに決まっているのだ。
ちなみに写真は昨日の朝食。このホテルは朝食もなし。しかし、えらい作家と違う私は、食事は自分で調達する。その方が人様に用意していただくよりずっと気が楽である。とにかく人に気を遣うのはなるべく少なくしたいものだ。
今回、インドネシアでとてもお世話になっているのが電子マネーのアプリOVOである。大手の銀行グループによるこの電子マネー、とにかく便利である。クレジットカードとは無関係で、携帯のSUICAと考えればいい。チャージは銀行口座がないので、コンビ二のAlfa Martで行うことができ、対面でチャージ。手数料は無料である。
かなりこれで買い物ができるが、なんといっても便利なのはバイクや車の配車サービスのGrabの利用だと思う。OVO払いを選択すれば、現金払いよりも、3割程度安くなる。ものすごくお得感がある。バリではバイクに乗っているので、空港へ往復以外は使用しないが、マカッサル市内ではGrabバイクにとてもお世話になったし、なんとバリでも、デンパサールから空港まOVO払いで55,000ルピアだった。
今回、一つ勉強したのは、空港への往復は同じ値段ではない、ということだ。バリの空港からデンパサールまでは13万ルピア、しかしその逆は5.5万ルピアなのだ。たぶんこれは空港タクシーの価格を意識した設定になっているのだと思う。空港タクシーがデンパサールまで17.5万なので、それよりは安くしている程度なのだ。今回、12.5万しかOVOにチャージがなく、泣く泣くOVO払いをあきらめた。インドネシアも日々、こうして変わっていく。