Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

統計局にて

2007年08月31日 | バリ
 インドネシアでは図書館、文書館、資料館など、とにかくドキュメントがある場所で、資料を調査する場合、雑音をいかにシャットアウトできるかが重要である。
 一昨日まで、州政府の統計局で調べたいデータがあり、二日ばかり資料室に世話になった。一応、図書室風になっており、閲覧用デスクも用意されていて、椅子もまあまあ座りやすい。腰痛もちの私にはなかなか研究しやすい椅子なのであるが、問題なのは、二日間にわたる雑音、そして対応の悪さである。
 一日目、ラジオがガンガンになっている。局員はむちゃくちゃ大きな声で、雑談に興じている。時々、ほかの部屋の局員が遊びに来ては、新聞を広げて時間をつぶす。二日目、閲覧担当の局員が突然、食事を始め、私が本の取り出しをお願いしても、手が汚いからあとで、と断られる。その後、中学生らしい団体が来て、しゃべりまくりながら資料を調べている。一人の生徒が、「資料を持ち出してコピーに行きたい」と局員にいうと、局員は「いいけど、残りの全員は帰っちゃだめよ。資料が戻らないと、あなたたちは部屋を出られないからね。」とほとんど脅迫する。つまりは、資料のための人質である。
 正直、「煩さ」を通り越して、楽しい。雑談のくだらなさもさることながら、局員はこんな一日を送りながらも、立派な統計が毎年出版されていることに驚きを感じる。この部屋だけが特殊なのか?

インドネシアの道路交通法に5秒ルールを

2007年08月29日 | バリ
 インドネシアではバイクに乗っている。調査にはこの乗り物が一番である。さて、信号待ちをしていると、いつも思うことがある。というのは、青信号になって1,2秒もすると、必ずクラクションを鳴らす「ならずもの運転手」が2,3人はいて、その音に私は無性に気が立つのである。郷に入れば郷に従え、とよくいわれるが、これだけはダメである。どうして我慢できないのだろうか?これはインドネシアだけでなく、毎年調査にいくタイの街中でも同様である。
 確かに止まっていれば暑いのはよくわかる。まだすべての車にエアコンなんて入っていないし、装備されていても壊れているか、オーバーヒートするという理由から使用しないのである。
 私は道路交通法にぜひ、5秒ルールを制定してもらいたいと思う。鳴らすな、といってもダメそうなので、5秒以内にならしたら、即刻警官がやってきて、5万ルピアを請求されるというのはどうだろう?そうすれば、絶対に我慢するはずである。ヘルメットの紐が止まっていないくらいで、5万ルピアも請求するくらいなら、こっちの方がずっと金になりそうである。インドネシア全体なんて無理なことはいわない。バリ州の州令でもいい。バリ州のPOLDA(州警察)の関係者の方々、もしこのブログを読むことがあれば、ご一考願いたい。

故マンダラ翁を称える公演にて

2007年08月28日 | バリ
 26日からプリアタン村で始まった故マンダラ翁をたたえる公演の初日に出かける。マンダラ氏は、プリアタン村の著名なガムラン奏者であり、1931年のヨーロッパ公演、1952年のアメリカ、ヨーロッパ公演などの中心人物として、またバリ芸能の偉大な継承者として有名である。1986年に亡くなったとき、留学中だった私は、火葬の何日も前からプリアタン村に滞在して、バリ各地からやってくるガムランの公演を見た。
 踊り手は皆、マンダラの教えを受けた人々で、その年齢もまちまちである。70歳近いレゴンの踊り手もいる。どうみても上手な踊りとはいえない。しかし、演奏者たちの表情は真剣である。どうみても、演奏者の脳裏には、週十年以上前の踊り手の華麗な姿がよみがえって見えたのだろう。
 私も同様に、20年前に見た踊り手たちのことを思う。そうしているうちに、舞台の踊り手たちが昔の容姿に見え、私自身も若かった頃にタイムトリップしてしまったようだ。演奏がよかったとか、踊りが美しかったとか、そんな感想は超越してしまって、公演終了後、私は不思議な感動で満ち溢れた。そんな気持ちは、バイクに乗って一人でデンパサールに戻る間もずっと続いていた。
 

並ばない人たち

2007年08月23日 | バリ
 バリについて最初にしなくてはならないことは免許を「買う」ことである。こちらで調査をするときには自分で移動する「足」が必要であり、私は常にバイクを使う。もちろん日本の中免はもっているが、インドネシアは国際免許の協定には加盟しておらず、こちらで発行する免許が必要である。数年前までは、バリでしか通用しない観光客用免許というものがあったが、最近は外国人も短期間の正規の免許をとることが義務ずけられている。といっても要は「買う」のである。値段がいくらなのかはどこにも明記されていない。
 免許がないと基本的には捕まると罰金をとられるので、クロボカンの警察署までバイクでいく。国際免許は持っているが、正確にいえば、すでにこの時点で無免許である。去年、この途中で一斉検問に引っかかったが、これから免許を取りに行く、といったら許された。
 さて警察署であるが、支払いや書類がそろうと、それらのデータをコンピュータに入力してもらう部屋に入る。ドアは一つ。そしてその前には数十人の群集。彼らは並んでいないのである。ドアが開いた瞬間に、怒涛のように部屋になだれこみ、もう入れない、というところで警官がドアを閉める。そして、われ先にと書類を警官に渡すのである。あまりにもすごい光景だ。まるで、10数年前、ジョグジャ駅で電車の切符を買ったときのようである。
 なぜ、並ばないのか?中国人は並ばない、というのを聞いたことがある。実際に、今回も中国系の人々が空港のイミグレーションの列をむちゃくちゃに乱しており、西洋人が激怒していた。それにしてもインドネシアも同様である。警察署はそれを楽しんでいるというか、黙認しているというか。これも文化なんだろうか?
ちなみに、戸の横にはこう書いてある。
 「Mohon Antre 並んでください」 なんとも悲しげな張り紙であることか。
 私もこのドアの前の群集の一人となって、数人のサンダルを踏みつけながらも、一回で入室に成功したのであった。ちなみに、私は靴をはいていた。サンダルの人はさぞ痛かったであろう。しかしこうしなければ、ここでは生き残れないのである。

那覇空港で見ました

2007年08月21日 | 那覇、沖縄
 今日からインドネシアに出発である。あと20分で国際線の搭乗時間。
 本日のもっとも大きな出来事といえば、那覇空港で、昨日全焼したチャイナエアーラインを見物したことである。昨日、息子から「お父さん、インドネシアのおこずかい」といって100円をもらった。月500円のおこずかいの息子にとっては大金であろう。その100円をあろうことに、チャイナエアーラインの燃えた飛行機見たさに、那覇空港の見学用デッキに入る入場料に使ってしまった・・・。しかし、息子のおかげで、ばっちり写真におさめることができたし、自分の目で見てきた。
 ずっと昔、バリにいるとき大学の先輩から、事故はよく見ておくほうがいい、といわれたことがある。バリでは頻繁に交通事故があるため、それから目をそらさないことによって、自分自身が気をつけるようになるということだと思う。そんな目には誰もなりたくない。しかし考えてみれば、航空機事故は自分ではどうにもならないから、見たところで事故の抑止力になるはずはなかった・・・。
 つい今しがた息子から電話があった。
 「お父さん、昨日の100円、燃えた飛行機見るために使ったんだって・・・」
 まったくおしゃべりなカミサンである。そういう彼女も私とデッキで見学しているのだ。なんだか息子の声は多少、淋しげであった・・・。
 
 ということで、ブログは毎日更新できなくなりますが、インターネットカフェなどに行くときにたまに更新します。写真は帰国後です。それでは皆さん、ごきげんよう!

機内預け手荷物の重量制限

2007年08月21日 | 家・わたくしごと
 国際線に預ける荷物の重要制限は、エコノミークラスの場合20キロと制限される。数キロならば制限重量を超えても文句はいわれないが、さすがに日本から出発する場合、5キロもオーバーするとカウンターのお姉さんに嫌な顔をされ、30キロ近くにもなると目を合わせてくれない。こちらも表示されている数字を見なかったフリをして、必要もないのに、カバンをごそごそとかきまわしたりする。親切なお姉さんは、すぐに重量計から荷物を降ろして後ろに移動させてくれるのだが、意地悪なお姉さんは手続きする間中、荷物を重量計の上におきっぱなしにする。「あんた、30キロは重すぎんのよ」と心の中で叫んでいるのである。そうなったら、こっちも意地になって、顔を合わせない。出国カウンターなどを指し示して説明してくれる指先だけをずっと見つめる。気のせいか、お姉さんの怒りのせいで、指先が震えているように見える。しかし、日本のカウンターでは重量超過で支払いをしたことはない。その点では、カウンターでちょっと我慢さえすれば、それでいいのである。
 しかし、外国ではそうはいかない。特にディスカウントの航空会社では、2キロオーバーでも重量超過の支払いが待っている。文句なんかいっても無駄である。「はい、2キロオーバーですね。クレジットカードでも支払いはできます。」とまるで、スーパーマーケットで2キロの果物を買うような雰囲気である。
 さて、バリに通う友人たちにとって、「どの航空会社がオーバーウェイトに甘いのか」は重要な情報である。チャイナ、ガルーダ、日本、シンガポール、コンチネンタルなどがバリと日本を就航する定番である。もちろん、マレーシアやタイ、台湾のエバーグリーンなんて選択肢もある。「どの航空会社ですか」とよく冗談半分に聞かれるのだが、さてどうだろうか?私の答えは「どれも同じ」である。もちろん、アメリカ系は少し甘いぞ、とかチャイナは厳しいという噂はあるのだが、そんなことよりも重要なのは、日本のカウンターと同様に、お姉さん、お兄さんの性格と気分次第である。とにかく重要なのは、できるだけ重い荷物は持って帰らないこと。そしてどうしても荷物が重いときは、「カウンターの自分の番になったら、微笑んで、まずお姉さん、お兄さんに挨拶をしましょう。」
 ということで、私も今日からフィールドワークに出発。まずは那覇空港でやさしいお姉さんに当たりますように。

2007年08月20日 | 家・わたくしごと
 「蝉は採っちゃいけない」と子どもの頃、父に言われた。蝉は7年も8年も土の中で暮らして、やっと明るい地上に出たと思ったとたん1週間もすると死んでしまうのだから、そんな蝉をとるのはかわいそうだ、と言うのがその理由だった。私は長いこと、その言葉をずっと信じ続けた。だからこれまでの人生で蝉を一匹も採ったことがない。
 自分の子どもが、沖縄でセミをとってムシかごに入れてきたことがある。その時に、私は以前、父が私に話してくれたことを同じように息子に伝えた。子どもは素直にその話を聞いて、セミを放した。セミがまっすぐ空に向かって飛んでいった。
 しかし、蝉はほんとうに約1週間を明るい大地のもとで太陽の光と外の空気を満喫しているのだろうか?やっと明るい場所に出てこられた、という表現は適当なのだろうか?蝉は真っ暗な地下の世界の中での長い年月こそが幸せな時間だったのであり、地上に出てきた7日間は、繁殖という大事業があるとはいえ、暑さの中、死を間近にひかえ、苦悶の叫び声をあげているだけではないだろうか?
 確かに人間の大部分は、何年間も地下に住み続けて太陽の光を浴びなければ、精神的にも肉体的にもすさんでくるかもしれない。少なくても私ならば苦痛である。しかし、それは人間の価値観であって、蝉に当てはめるのは間違っている。ある意味、人間的価値観の押し売りであり、絶対主義である。
 蝉の声が今日も朝から聞こえる。喜びの合唱なのか、苦悶の叫びなのか・・・私にはわからない。


おみやげのTシャツ

2007年08月19日 | 家・わたくしごと
 バリへフィールドワークに出かけるための準備にとりかかっている。調査のための書類やデータ、録画や録音の機械類やテープ類、自分の生活に必要なものはだいたい準備したが、大事なものを忘れている。お土産である。
 長いこと住み込んで調査経験のある村の人々のもとを訪れようとすると、やはり日本からの「お土産」が必要になってくる。もちろん義務ではないが、やはり「手ぶら」で、「お久しぶりです」なんて言って人の家に行くのはバツが悪い。だいたい彼らは、昨年、日本に公演で訪れたとき、皆私に「何か」のみやげ物を持参してきてくれていた。
 さて何を買えばいいだろうか?ここが悩みどころである。バリにはいくつもスーパーマーケットがあるし、最近は日本の「そごう」まで出店していて、お金さえあればほとんど何でも揃うのだ。もちろん知人たちは皆、「金持ち」というわけではないが、やはり日本から持っていくわけだし、「気持ち」だからといっても、そうそうバリで安く購入できるものを持っていくわけにはいかない。
 「日本的なもの」を考えてみる。しかし、日本的であればあるほど、彼らには利用価値がないものも多い。だいたいそういう品々は高価である。「日本風のテイストがあり、彼らが利用できて、バリでは買えない物」というのがベストである。そこで考えたのが、今回はTシャツだった。沖縄といえば名だたる観光地であり、Tシャツの種類は多く、どれにも「OKINAWA」の文字、あるいは「沖縄らしさ」が施されている。
 午前中にバイクで国際通りに出かけてみた。8月中旬の土曜日の国際通りはとにかく観光客だらけである。ちょっと安いTシャツが置いてある店などには、観光客が群がって、控えめな私は商品の棚に手が届かない。観光客は買い物に時間がかかるのである。そして、なぜか観光客向けの品物は高い!あきらめて地元民向けの衣料品スーパーに出かけてみる。 ここには当然、観光客などは全くいない。地元のオバア、家族連れの姿がちらほら見えるだけで実に静かだ。そしてなぜか地元民向けのスーパーにもかかわらず、ちゃんと「沖縄Tシャツ」が置かれている。質もよく値段も安い。完璧である。沖縄県民は沖縄Tシャツを着るのだろうか?それとも私のように「おみやげ」として持っていくものなのかもしれない。とにかく、地元のスーパーのおかげですっかりお土産が揃ってしまった。
 これまでTシャツだけ7000円分も買ったことはなかったが、家に帰ってネットのニュースを見たら、日本に帰国する桑田が、自分の背番号の入ったパイレーツのTシャツを240万円分発注したと書かれていた。帰国して世話になった人々に送るそうだ。さすが桑田!私とは、とんでもなく桁違いである。

桜の樹だけは・・・

2007年08月18日 | 東京
 「なんとか桜だけは残しましたけど、おかげでぜんぜん家の方の片付けが進んでませんよ。今日中に終わるのは無理ですよ。なんたって桜に時間がかかりすぎたんですから。」
 三軒茶屋の細い路地で、ヘルメットをかぶって汗を流しながら作業する男性が、大声を出して携帯で話している。きっと作業状況を上司にでも伝えているのだろう。見ると、確かに二階建ての家のリフォームでもするのか、壁などをはずしにかかっているが、その前に枝を取り払った大きな桜の木が残されている。工事現場の人たちにとっては、この木を根元あたりから、ばっさりと切ってしまった方がずっと作業しやすかったのだろうが、たぶんこの家の持ち主はこの桜の木だけは残したかったのだろう。
 梶井基次郎は、その小説の中で「桜の木の下には死体が埋まっている」と書いた。薄気味悪い話だけれど、あながち嘘とも思えないような一文である。春にあんなに美しい花を咲かせる桜の樹はきっと何か他の力を借りているに違いない。それを「死者の力」とするなんて素敵な表現だ。
 もちろん、この家の主人が桜の樹の下の死体を埋めたといっているわけではない。桜の樹の下には、この桜がこの世に生をうけてから現在にいたるまで、この土地が記憶するあらゆる歴史が埋まっている。桜はこの土地のさまざまな歴史を、春に一時だけ花で表現する。私たちはその歴史を読み取ることはできないけれど、桜の樹はそれを知っている。そんな花の中にはこの家の主人や家族の歴史も描かれる。私たちは、春にこの家の前を通りかかって、満開の桜の花を見上げたときに、そこに美しさを感じるだろう。しかし、この家の人々にとって桜は単に美しいだけではない。それはこれまでの自分自身なのであり、この土地に住んでいた間のあらゆる出来事、その記憶がいっときだけ桜の花になって蘇り、そしてあっと間に散っていく・・・。
 この家の主人が残したいといったのかどうかはわからない。すべては私の想像にすぎないのだ。しかし、誰かがこの桜の樹だけを残そうとしているのは確かだ。そしてこの土地と関わる「誰か」にとって桜の樹は、ただの美しい花を咲かす樹であるだけの存在ではない。なぜなら桜の樹の下には、その人自身の過去が埋まっているのだから。


北鎌倉

2007年08月16日 | 
 月曜日に休暇をとって鎌倉へ行った。先週の奈良、京都に続いて鎌倉と、まさに三古都巡りである。私の中では、鎌倉といえば、鳩サブレー、鶴岡八幡宮、小町通り、江ノ電と続くが、今回は35度近い猛暑の中、北鎌倉から鎌倉へ徒歩で向かおうという無謀な計画を実行した。涼しい時期であれば、どうということもないコースで、徒歩でもせいぜい40、50分程度で鎌倉駅に到着する。しかし、とんでもない暑さの中である。ある種、マゾ的な行為ともいえる。
 まずは北鎌倉駅から徒歩2分の円覚寺である。ブログの写真は円覚寺山門だ。ここが元寇との関わりで北条時宗によって建立されたこと知っている観光客はどれほどいるだろう?暑さのせいで文字を読む気力がないのか、そんな寺の歴史について書かれたボードの前に立ち止まるものはいない。円覚寺と彫られた石碑の前で写真を撮るだけで、境内を眺めるだけで入らない人たちもいる。なんだか境内に続く階段を上がりたくない気持ちは理解できるが、古都にきて寺院の境内に入らないなんて理解しがたい。
 さて北鎌倉の定番の一つといえば、東慶寺、通称「縁切寺」、「駆け込み寺」である。だいたい北鎌倉といえば、「源氏山から北鎌倉へ・・・」の歌詞で有名なグレープの《縁切寺》である。中学生の頃は、古都鎌倉を歌った美しい歌くらいにしか思っていなかったが、今聞くと、とんでもなく女々しい男の歌に聞こえてくる。だいたい別れた女と撮った写真をわざわざ、この寺に納めに来る必要なんかあるのか!と激高してしまう始末である。
 東慶寺の前にくれば、そんなことをきっと考えて不愉快になるんだろうと思っていたのだが、真昼の太陽の光の下で、緑の葉が青々と茂る花の終わったアジサイの木々を眺めるうちに《縁切寺》のことなんてどうでもよくなってしまった。
「お父さん、ここは男と女だけじゃなくて、男と男でも縁が切れるのかなあ?」と突然、子どもが言い出した。
「切れるわけないじゃん」と言い返すつもりが、なんだか自信がなくなってしまった。親子の縁なんてそんな簡単に切れるわけがないじゃないか。でも待てよ・・・。結局、私たち二人は、門の前から境内を眺めただけで、古都を訪れておきながら、中には入らなかったのである。すべてはあの《縁切寺》の歌が悪い!