Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

贅沢はあっという合間

2014年12月31日 | 家・わたくしごと
 一座のH氏が忘年会でポツリとつぶやいた言葉が「贅沢はあっという間」。
 「贅沢」の基準は人それぞれだ。500円以上のランチを食べれば贅沢だと思う人、のり弁当にオプションとしてタルタルソースをつけること贅沢だと思う人もいれば、ファーストクラスで海外旅行をする人まで。だいたファーストクラスで旅する人にとっては、それが当たり前すぎて贅沢なんて感じていないのかもしれない。
 どちらにしても贅沢は、たいていの人にとって非日常だ。非日常だから人は贅沢をする。旅先で、デートで、あるいはハレの日で。そんな時間は長くは続くものじゃない。それでは非日常になるはずがない。だから贅沢はアッという間なんだ。
 12月30日に挙行された一座の忘年会では、北京ダックをふた皿予約した。とてつもない贅沢である。忘年会は年に1度のハレの日みたいなもんだ。お腹一杯北京ダックの夕べ。そんな贅沢はあっという間…。

目の前に夢のような光景が

2014年12月30日 | バリ
 雨宿りを繰り返したバリの話、二話続いたが、悪いことばかりではなかった。午前中、大前に降られてそれまでは通り過ぎたことしかない村で雨宿り。前も見えないような土砂降りで道の向こう側がどうなっているのかすらよくわからなかった。
 15分も経つと急に雨が小降りになって、私の目の前に現れたのはなんと美しい蓮の花!こんな素敵な光景に出会えるなんて。
 なんだかこんな時期だからこその特別のプレゼントをもらったようでホッと一息つくことができる。雨で尖った心がアッというまに真ん丸に戻った気がした。

雨、雨、雨、雨…

2014年12月30日 | バリ
 昨日も雨のブログだったが、本日も雨の話題である。28日の夜、トゥンジュク村から30キロの道のりを帰る途中で数回土砂ぶりに会う。もう、いやだ!と叫びたいのを我慢して、おとなしく雨宿りである。家族連れ(一台で夫婦と子ども二人)も同じ場所で雨宿り。はじめは黙って雨がやむのを待っていたが、いっこうに雨足が変わらず。
 「もしかして、日本人?それとも韓国人?」
と突然、聞かれた。もうこの雨の中、外国人なんてふつういるわけないバリの道に雨具を来て、ヘルメットをかぶっている外国人でも時間つぶしにはなると思ったらしい、こっちも雨宿りにうんざりしていたわけだし、しばしお話、おかげで時間が経つのが早かった。
 エアアジアが行方不明。天候不良で高度変更を管制塔に依頼していたらしい。この時期はジャワ、スマトラでも洪水、がけ崩れのニュースが続いている。雨季は果物の種類も多いし(食べていないが)、雨あがりの緑は美しいけれど、やはり移動には厳しい季節。この休み期間にインドネシアに来る観光客は多いが、やっぱり雨にうんざりするのだろう。
 

雨、雨、雨

2014年12月29日 | バリ
 覚悟はしてきたが、やはりバイクの移動中に毎日、雨に遭遇するのは結構つらいものだ。降り出すと雨がなるべく当たらない木陰にバイクを止めて、インドネシア語で「マントル」よよばれる「ポンチョ」をかぶり雨の防御。確かにこれを被れば雨からしのげるわけだが、それでも運転は結構たいへんである。
 大学教授なんだからタクシーチャーターしていけばいい、という意見もあろうが、数人いるならまだしも、一人で調査したり、勉強しているときは、やはり誰のことも気にせず一人で動くことが基本にある。一人でできることは一人でやる。人に気をつかいたくない。これが私の基本なのだ。
 さて、突然の土砂降りで、シャッターが閉まっている店の軒下で雨宿り。今回、僕の衝撃のおしゃれは、この写真の中に隠されている。なんとバリで買ったビーサンの鼻緒が紫なのだ。実はこれ、バイクの同じ色なのである。ところがこの写真だとバイクが青に写ってしまっている!なんてことか。要は、バイクとビーサンが同じ色ってわけ。こんなスマートなオシャレ(っていうか、こんなこと書いている時点で自分でもどうかと思いはじめているが)、これまで考えたこともなかった。成長している証拠だな。90円で購入したこのサンダル、やっぱり帰りに捨てていくんだろうなあ。それとも夏だけ14階のベランダで使うか?
 雨の話じゃなかったのか?最後のまとめが肝心だ。要は、雨をこうしてバカバカしいほどのオシャレで、楽しんでいるってことさ。ちなみに、この数日で、数十人のバリ人とあったけど、誰一人としてこんな私のオシャレに気が付いてはくれない…。
(ちなみにこの写真撮影時、ぼくは左足を上げている。)

コミュニティースペース「ダランの家」

2014年12月28日 | バリ
 スカワティ村のダラン(ワヤンの人形遣い)、ナルタさんの家でいろいろな話を聞きに行く。とにかくナルタさん(写真左)は物知り、知識人である。そして私が彼を好きなのは、そのナルタさんでさえ知らないことは、ニコリと笑って「知らない」と言ってくれるからである。知ったふりもしなければ、無理やり話も作らない。だからなのだろう。いつ行ってもナルタさんの家には先客がいる。今日は、トゥガラランのダランとロチェンさんの息子さん、そこに加わり世間話。誰かが、ワヤンや演目の質問をすると、みんなが聞き耳を立ててその話をありがたく賜るのである。そんな話が一段落すると、お互いが自己紹介したり、世間話をしたリしてコミュニケーションをはかる。
 もうだいぶ前に亡くなった私の師匠もまた、今のナルタさんと同じだった。ぼくは来客のたびに、甘いコーヒーの用意をしたことをよく覚えている。すぐ横でワヤンを作りながら、ワヤンの話には聞き耳をたてた。といってもバリ語でちんぷんかんぷんだったが。儀礼の適切な日を聞きにくる人、悩み事を話に来る人、ワヤンのスト―リーを勉強に来る人、聖水をもらいに来る人など、それはそれはさまざまだった。カウンセラーになったり、師匠になったり、お坊さんになったり、その日にくるくると役割を変えた。誰もが、いつでも来れる場所、いわゆるコミュニティースペース。かつてのダランの家はそんな役割を果たしていた。
 今、職業ダランは数少ない。昼は公務員や会社員であることの方が多いそうだ(私も例外ではない)。つまり昼間に家に行ってもダランは不在なのである。そんなダランたちは「携帯があるじゃないか」という。でもそうじゃない。結局、ダランの家は「ダランの家」にすぎず、コミュニティースペースではなくなってしまったのだ。そうしていくうちにだんだん敷居が高くなっていくものだ。こういう現実を目の当たりにするといろいろ考えてしまう。私の研究室だって、なるべく人を寄せ付けないようにしているんじゃないかと。ナルタさんのように、自分の師匠のようになることが理想かもしれない。でも今の僕にはまだそれができそうもない…。
 

昼食

2014年12月28日 | バリ
 留学中や、これまでク二ンガンにバリにいるときは、よくマス村のオダランに出かけてワヤン・ウォンという芸能を見ましたが、今回は雨季で雨もひどいし、明日、重要な予定を組んでいて風邪でもひいたら意味がないので、近場の移動と昨日までの調査の整理をデスクワークでこなしました。 
 昼くらい外に食べにいこうと、サヌールの手前の好きなワルン(食堂)にバイクで出かけました。クニンガンはバリ人のお祭りなので、バリの人々が経営する店、特に食堂はほとんど閉まっていて、こういう日は、ジャワやそれ以外の島々の人々(主にイスラム)が経営する店で食事をするのです。宗教が違えば、クニンガンは全く関係ありませんから。
 この店、ジャワ人が経営です。ビールなどアルコール類は置いていません。もちろん豚肉のおかずは一切なく、肉は魚、鶏、牛、エビなど。バリ人のお店ではまず牛料理は出しません。牛肉が食べたいときはジャワのワルンに行くに限ります。今回のチョイスは、牛(本当はダランなのだから、バリで牛を食べるのはあまり良くないんですが)、鳥のレバー、野菜、テンペです。20種類くらいあるおかずから自分で選んで、ごはんの上に置いてもらいます。向こうの机に、クニンガンの儀礼をすませた儀礼着に身を包んだ家族連れが食事をしていました。ジャワ、バリと宗教は違いますが、バリ人は特に気にすることもなくジャワ料理を食べにきます。逆はないかな。やっぱりバリ料理は豚が多いから。
 (ちなみに、黄色い飲み物は、ホットオレンジです。インドネシアではふつうの飲み物です)

四つまとめて「おめでとうございます」

2014年12月27日 | バリ
 今年の年末は210日に一度巡ってくるバリのヒンドゥー教のお祭り、ガルンガンと本日のクニンガン、そしてクリスマスと新年がすべて一時期にやってくる。210日と365日の暦が同時進行で進んでいるので、こういうことが起きるのである。
 昨日バイクで走っていたら、ムングウィの市場の近くで面白い看板を見つけた。なんと、ガルンガン、クニンガン、クリスマスNATAL、新年の祝いTAHUN BARUが、一枚の看板の中にすべて書かれているのだ。いやあ、これは効率的である。感心、感心。ちなみにインドネシァのニュースを見ていたら、こんな風に言っていた。
 「ヒンドゥー教のみなさん、ガルンガン、クニンガンおめでとうございます。クリスチャンのみなさん、クリスマスおめでとうございます。そしてインドネシア国民みなさん、新年おめでとうございます。」
  
 

ハレのトゥンジュク村

2014年12月26日 | バリ
 先週の水、木、金の三日間、バリではガルンガンとよばれるお祭りがあり、祖先の霊がそれぞれの家の寺院に戻ってきている。いわゆる日本の「お盆」にあたる。この祖先の霊は、明日、27日のクニンガンというお祭りで再び祖霊の世界へと帰っていく。210日に一度めぐってくるお盆だが、今回は祖霊が戻っていている間にクリスマスが入っていて、なんだかバリ人は大忙しに見える。
 この時期、バリでは家々の前にガルンガン用の飾り、ペンジョルが建てられる。日本の正月飾りと同様に、今では購入する場合も多い(もちろん作っている人々もいるが)。村によっては義務づけているところもあり、そういう地域を通ると、本当に美しいバリを感じることができる。
 私が80年代に住んでいたトゥンジュク村に今、デンパサールから日々通っているのだが、この村も美しくペンジョルが飾られている。もうこの風景に慣れっこなった。しかし80年代、ペンジョルを立てている家などほとんどなかった。つまり、もともとはそんな習慣は村全体にはなかったのだ。それが二三十年の間に「創られて」いったものだ。
 もともとバリの宗教には教義は存在していなかった。いわゆる慣習的な方法によりそれぞれの地域が正しいと考えた方法で儀礼を執り行ってきた。その後教義が作られ、村ごとにコンテストが行われるなかで、村落ごとの儀礼が、いつしかバリの儀礼へと姿を変えていった。今なら、この時期、バリを車で走ればどこでもこんな風景を見ることができるものだ。そういう意味で、私から見ると個性がなくなり、面白さがなくなってしまった。しかし、見た目は変わっても、トゥンジュクの人々がこの時期、集会場で日々、闘鶏にあけくれるのは以前とまったく変わらない。闘鶏はバリ州の条例上は禁止なのだが、実はトゥンジュク村では、クニンガンの日に村のお寺の周年祭(オダラン)がある。彼らにとっては、この周年祭に向けての「行事」という「建前」がある。つまり儀礼のための闘鶏は許されているからだ。私と同世代かそれより上の「いいおじさんたち」が、戦う鶏を見て、我を忘れ大声で叫んでいる風景をみると、なぜかほっとするものだ。これが本当のバリだなんていわない。バリは変わって当たり前だ。しかし、これが私の中でずっと変わらない「僕の中のバリ」である。

クアラルンプール出張(6)

2014年12月25日 | 
 弱者、マイノリティー、そうした人々とアートとの関わりについて長いこと興味を持ってきた。高校から大学にかけて、最も深く考えた弱者は、権力の下である種の自由を奪われた人々、反体制、そうした人々と音楽について追求した。時代性、流行、そんなものとは無関係に生きる人々、そんな作曲家にも夢中になった。しかしその時の弱者は、あくまでも権力に抑圧された人々や社会、民族、コミュニティーだった。
 しかし今は、そんな人々に加えて、さもすればアートと密接に関われない、あるいはほとんど関わることのできない人々、あるいはアートと関わることによって生きる自信を持つようなそんな人々にも目を向けるようになった。たとえば日雇い労働者の街でアート活動をするNPO、取り壊される街の中でアート活動をすることでコミュニティーのアイデンティティを維持している人々、身障者。そこで展開されなければならないアートに強く共感するのだ。
 マレーシアの会議に行って学んだことは、「生きるためのアートマネジメント」が存在するということだった。誰かが、何らかの方法で、アートを届け、共有しなくてはならない。彼らは5,000円、6,000円のコンサートになんていけるわけはない。しかしアートが必要なのは、本当にお金を払える人だけなのか?逆なんじゃないか?アートが必要なのは、行きたくてもいけない弱者ないんじゃないか?
 演奏者は、このところあちこちで耳にする「アートマネジメント」なる言葉を毛嫌いする人が多い。「またあれか」、そんな言葉なのかもしれない。まるで流行語のようにあちこちに浮遊する言葉。実はそんなことを思う演奏家ほど、この言葉や役割の意味がわかっていない。「そんなこと、いつもやってるんだよ」と薄笑いを浮かべるパフォーマー達ほど、それが必要なのではないか?
 いや、自分だってわかっていなかったかもしれない。お金とは無関係に、生きるためにアートが必要な人々がいる。クアラルンプールのある地域の若者たちが自分たちで作り上げた小さなオルタナティブアートスペースは、大きなガラスから光がはいるわけでもなく、美しく飾られているわけではない。すべて手作りで、時にはその作業すらいまだに終わっていないまま放置されていたりする。修理したり、新しくするお金がないからだ。しかし「かれら」にとって、そんなアートスペースはかけがえのないコミュニティーのよりどころなのだ。子供たちの絵、パンクロックのコンサート、インスタレーション、コミュニティーの人々から借りた古い写真や生活道具の展示…。そんなイベントごとにさまざまな世代の人々がそこに集まり、コミュニケーションが生まれる。そこから世代を超えた「信頼と連帯」が育まれる。
 初心に戻ろうと思う。忘れていたものを取り戻そうと思う。研究者として、パフォーマーとして、教員として、いや、一人の人間として自分にできることは何か、今一度考える時なのだろう。



「ある風景の中で In a Landscape」 by 榎本玲奈

2014年12月24日 | CD・DVD・カセット・レコード
 久しぶりに素晴らしい選曲と演奏のCDに出会う。若手のピアニスト、榎本玲奈の現代音楽のCDーー現代音楽、という言葉はあまり好きではないが、ーー1948年のケージのCD表題の作品から今世紀にかけての作品を集めたアルバムである。このピアニストが学生の時の演奏を一度だけ聞いたことがある。そのときから何年たったか記憶は定かでないが、こんな演奏をするピアニストになったなんてあの時からすると想像できない。
 僕は批評家でもないし、西洋音楽の専門家でもないから、70分近く録音されている曲のうち、知っている曲はケージの《In a Landscape》だけで、他はまったく知らない(大学生の頃、ぼくはこの曲を演奏できた。結構、笑える話ではあるが)。たいてい1枚のCDを買っても受け付けない作品というのが収録されているものだが、このCDの収録曲、すべて「自分の壺」なのであり、恐ろしいくらいに音楽に身を任せることのできる演奏である。
 このピアニスト、高橋悠治を敬愛しているという。僕が現代音楽に興味を持ち、民族音楽学を始めたきっかけの一つが1970年代から80年代にかけて次々に出版された高橋悠治の著書や彼の思想、当時、高橋悠治 Part1から始まったコンサートとの出会いということを考えると、不思議な感じがする。何か同じような感覚や思想を共有できるのかもしれない。
 学者とバリ芸能のパフォーマーになる道を選んだ僕は、ピアノを演奏する道を放棄したが、今でも企画という立場でコンサートを作る道は残されている。私が20代のころ、高橋悠治や林光が行っていたちょっと不思議な、しかし他を寄せ付けないようなユニークな(時には「ふつうの」演奏者や批評家が酷評するような)企画のコンサートを幾度も体験した私としては、こういう演奏者の音に出会うと、沸々とコンサートの企画が頭を巡ってしまう。やりたい企画は山のようにあるのだから。