最近読んだ本の一冊に『バパ・バリ・三浦襄』がある。表紙のデザインについては個人的に「ちょっとどうかな?」の思ってしまうが、内容については三浦襄についてよくまとめて書かれている。
私が三浦襄について初めて文章を書いたのは、「三浦襄氏のこと」『SURAT BALI(バリ芸能研究会会報)』5号, 1991, p. 8、であり、今から20年も前である。三浦襄のことを知ったのは、台北帝大出身の私の祖父が、戦争中にバリにあった日本の会社に勤めていた祖父の親友(藤岡保夫)を紹介してくれたことがきっかけだった。すでに亡くなられて久しいが、『バパ・バリ・三浦襄』の中にも登場する藤岡保夫氏は、その後、私家版の本を作っては私に送ってくれるようになった。その本の中に三浦襄のことが書かれていたのである。
その後、三浦について書かれたいくつかの本や論文を読んだ後、三浦襄のことをもっと知りたくなって、私は関西に住んでいた藤岡保夫氏に会いにいった。そのとき、彼が涙を流しながら見せてくれたのが、三浦襄から遺品としてもらった腕時計だった。また私がかつて研究した音楽学者黒澤隆朝の日記にも、三浦のことがたくさん出てくる。私の編集した本の中では、三浦と黒澤の写っている写真も掲載している。
一年前、学生がバリに来たとき、私はかれらを移転した三浦襄の新しい墓に案内した。あえてこのブログで三浦襄のことは語らないが、戦争中のバリに興味があれば、一度、この本を読むことをお勧めしたい。この本を読んだ後、きっとデンパサールにある三浦の墓の前で手を合わせたいと思うようになるはずである。
それにしても今考えてみれば、バリと縁のない植物学者の私の祖父の親友が、バリとかかわっていたなんてある意味、バリ芸能の研究者となった私の人生にとって運命的な存在である。しかも、その人が三浦襄の最期の日を見届けていたなんて……。
私が三浦襄について初めて文章を書いたのは、「三浦襄氏のこと」『SURAT BALI(バリ芸能研究会会報)』5号, 1991, p. 8、であり、今から20年も前である。三浦襄のことを知ったのは、台北帝大出身の私の祖父が、戦争中にバリにあった日本の会社に勤めていた祖父の親友(藤岡保夫)を紹介してくれたことがきっかけだった。すでに亡くなられて久しいが、『バパ・バリ・三浦襄』の中にも登場する藤岡保夫氏は、その後、私家版の本を作っては私に送ってくれるようになった。その本の中に三浦襄のことが書かれていたのである。
その後、三浦について書かれたいくつかの本や論文を読んだ後、三浦襄のことをもっと知りたくなって、私は関西に住んでいた藤岡保夫氏に会いにいった。そのとき、彼が涙を流しながら見せてくれたのが、三浦襄から遺品としてもらった腕時計だった。また私がかつて研究した音楽学者黒澤隆朝の日記にも、三浦のことがたくさん出てくる。私の編集した本の中では、三浦と黒澤の写っている写真も掲載している。
一年前、学生がバリに来たとき、私はかれらを移転した三浦襄の新しい墓に案内した。あえてこのブログで三浦襄のことは語らないが、戦争中のバリに興味があれば、一度、この本を読むことをお勧めしたい。この本を読んだ後、きっとデンパサールにある三浦の墓の前で手を合わせたいと思うようになるはずである。
それにしても今考えてみれば、バリと縁のない植物学者の私の祖父の親友が、バリとかかわっていたなんてある意味、バリ芸能の研究者となった私の人生にとって運命的な存在である。しかも、その人が三浦襄の最期の日を見届けていたなんて……。