Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

山鉾巡業――祇園祭にて(3)

2007年07月21日 | 
 朝8時半、四条通りで山鉾巡業の見やすい場所を確保する。今回は八坂神社のお旅所の前で見ることにした。必ず神主さんによるお清めがあるために山や鉾はいったん静止するし、山によってはこの場所で奉納舞踊を行う。お稚児さんが、しめ縄を切る場所にはすでに大勢の見物人が陣取っていたが、まだお旅所のあたりは見物人もまばらだった。バリだと、1時間以上も前から芸能見物のための場所をとって、さあ始まるぞ、というときになって突然関係者があらわれ、「ここは舞台に使うからだめ」と観客を排除にやって来る。あるいは自分が一番前列だと思っていても、その前に子どもたちがどんどん座り、そのうちその女親、老人などが無秩序に座っていき、結局、前列ははるか前方と化すことなんて日常茶飯事である。しかし、そこは京都である。京都府警は一歩も道路なんかに見物人を入れない。たぶん50メートルおきくらいには警官が配置されている。ガードレールに上ろうなんてしたらすぐにおまわりが飛んでくるのである。ちなみに私の「隣のオッチャン」は、朝から少々アルコールが入っているせいか、持っていたこうもり傘を道路側に何度も落としただけでお小言を言われていた。日本の警察とバリのプチャラン(地域の警護団)とは大違いである。
 日本の祭りはスケジュール通りに始まる。傘で警察に怒られた「オッチャン」は、「テレビの放送があるさかいな」と勝手に解説してくれる。まるめた競馬新聞でしめ縄をさして、「あれが切れたらな。ワーっと拍手が聞こえるからな。よお聞いとき。」なんて言われてしまうと、耳を澄ましてしまう。「オッチャン」はなかなか話上手でもある。
 耳が研ぎ澄まされたせいか、遠くから祇園囃子がよく聞こえる。なんという心地よい空気の振動。山や鉾が動き出すと、もう喧騒なんてまったく気にならなくなった。ついでに「隣のオッチャン」も。今、京都市内に降臨している神々とともにこの不思議な音世界に立つ幸せ・・・。すべての山鉾が通過するまで約2時間半、耳をすまして、食い入るように光景を見つめた。ふときずくと「隣のオッチャン」はまだそこにいる。アルコールはとっくに醒めたからなんだろうか、オッチャンも黙って最後の鉾を見送っている・・・。


露天商――祇園祭にて(2)

2007年07月20日 | 
 祭りといえば露天商である。祭事の当日、どこからともなくやってきて、整然と露天商が並び、祭りに彩りを添える。そして祭りが終わるや否や跡形もなく消えていく。祇園祭も例外ではない。山鉾町や八坂神社の狭い道の両側には相当数の露天が並んで、道を歩くと鉄板の上で少し焦げたソースやら、解けたチョコレートの匂いが漂う。
 せっかく祇園祭に来たのだし、露天商で何かをつまもうと思い、京都らしいものはないかと探してみる。しかし数ある露天の大半は、ヤキソバ、たこ焼き、フランクフルト、広島風お好み焼き・・・探してみても東京や那覇で見る露天商の食べ物とどれもかわらない。かろうじて「もつ焼き」、「神戸牛の串焼き」というのが売られていたが、いろいろ考えて遠慮した。結局、露天では何も食べないまま、見つけたコンビニでカレーパンとビールを買って胃を満たした。
 祇園祭という京都のお祭り、いわば地方色豊かな祭礼と全国展開する露天商で販売される品々。この極端なほどの対比がユニークである。しかし考えてみれば、露天商の威勢のいいねじりはちまきのお兄さんが、「はい、そこの浴衣のお姉さん、京都生八橋、抹茶パフェがうまいよ。」なんて声をかけていると思うと少し笑える。やはり、露天商は「ジャパン・グローバル」な食べ物が似合っている。そしてそれらの店の間には、やはり全国定番の金魚すくい、ヨーヨー釣り、射的、くじ、アンズ飴、べっ甲飴、チョコバナナなんていう露天が並んでいるからこそ、日本人は安心して地方色豊かな祭礼を楽しむのである。


山鉾町で――祇園祭にて(1)

2007年07月19日 | 
 16日の宵山から祇園祭に出かけた。川端康成はその著書『古都』の中で、たいていの遠い地方からの見物客は1ヶ月行われている祇園祭りのうちの16日と17日を訪れるだけだと書いているが、まさに私もその言葉通りの京都滞在である。とはいえ、京都に住んでいるならまだしも、観光客には祇園祭が続く約一ヶ月を京都で過ごす時間などあるはずがない。
 16日に京都に到着するやいなや、山鉾が飾られている山鉾町を歩いてまわる。山や鉾を見て思うのは、当時の町屋の人々の繁栄ぶりである。日本の伝統的な祭礼である祇園祭の山や鉾の飾りものが、日本の伝統的な絵画や織物に加えて、ベルギーの16世紀のゴブラン織りだったり、古いペルシャ絨毯だったりすることに、若い頃は違和感を覚えたが、今はそれが「京都」らしく思えて面白い。山や鉾は神輿のように神々が降りる場所であり、きわめて神聖なものだ。だからこそ、その神の乗り物を輸入品である高級な渡来物で飾るという意味は理解できる、その一方、誰もが見たことのないような贅沢で、最高級の品々を山や鉾につけて、京都市中の人々に見せてまわる光景は、町屋の商人達が自身のその繁栄ぶりを誇示しているようにも見える。そう考えると、聖と俗の両極端な側面が祇園祭に混在しているようで興味深い。
 古都である京都の大きな儀礼が、近世、近代、現代という歴史を経て、「西洋」とも結びつきながらその姿を変えてきたことを実感する。伝統とはそういうものだ。古さと伝統の継承ばかりを強調するだけの祭事には、あまり心が躍らない。


『古都』を読む

2007年07月15日 | 
 明日から何人かの学生とともに祇園祭を見に京都へ行く。16日が宵山、そして17日が山鉾巡業である。京都行きのウォーミングアップのために、川端康成『古都』を読む。最初に読んだのは中三の京都・奈良への修学旅行に行く前で、それから4,5回は読んでいるので筋は完璧に知り尽くしているが、読むたびに新しい発見がある。この小説は古都「京都」をテーマにしながらも、戦後の現代化しつつある京都を描いているところが好きである。斜陽産業となりつつある伝統産業、消え行く市電、化繊の織物の流布・・・その中に古都「京都」の四季が移り行く。
 中学生の頃から、この小説で描かれる「幻」が好きだった。主人公、千重子の双子の妹苗子の「きれいな幻には、いやになるときが、おへんやろ。」というセリフが、心を打つ。幻は「幻」であるゆえに美しい。それを現実に体験してしまうとき、その究極は「幻滅」である。淡雪、しぐれ、みぞれの何が降っているか雨戸を開けて見てみようとする姉を苗子は「やめとおきやす。寒うどすし、幻滅どすわ。」と姉の動作を制止する。夢は現実のできごとではない。しかしこの小説で語られる「幻」は、現実であるがゆえの「幻」、しかしその現実に決して直面することはない。だから私たちはそれを自由に想像することができ、一生、心の中でその幻を見続けることのできるもの。
 ただ、もう一つの「幻」が存在する。あまりにも「現実離れ」にした体験をした時の美しい光景、それもまた「幻」のようだ。数年前の3月、時間の合間を縫って夕刻に出かけた京都北山の神護寺の境内で経験した。誰もいない広い境内に粉雪が舞い始めた。静寂の空間の中、その雪が降りしきる音、地面に触れて融解する音が聞こえた。その水墨画のような光景はあまりにも美しかった。体験したはずの現実、しかしあれは本当に「現実」の出来事だったのだろうか・・・。『古都』のおかげで私はもうすっかり京の世界に入り込んでしまっている。
 ちなみに、観光ガイドブック「るるぶ」の『楽楽 京都』も買ったことを付け加えておこう。学生に知られずに、どこで抹茶パフェを食べようかと頭を悩ましているもう一人の私がここにはいる。


みんなの声が戻ってきた

2007年07月14日 | 那覇、沖縄
 昨日は台風で外に一歩も出れない生活を送った。この数年、那覇に台風が接近するときはたいてい海外に調査にでかけていて、家族だけがこんな状況を体験していた。考えてみるとそんな不安な状況の中、夫はいつも家にいなかったわけで、昨日も「ひどい台風だぁ」と私が外を眺めながら話すと、カミサンは「私たちは毎年経験してますから」とピシャリと返されて、「イタタタ・・・」という感じである。何時間も停電して、薄暗い部屋で本を読むこともできず、ただただ瞑想にふけった一日だった。
 夜中になって暴風域から抜ける頃、風雨が少し静まった。すると窓の外から聞こえ始めた音がある。カエルと夏ムシの声。あの天気の中、どこかの影にひっそりと隠れていた「彼ら」は、いざ出陣!とばかり夜だけの自己主張を始めたのである。まだ聞こえる風の音、時折急激に降ってくる雨音に混じり、彼らの声は夜空に響く。
 渋谷駅で路上ライブをするグループは、演奏する時間と場所を相互に決めているのを知っているだろうか?グループ同士でさまざまな規則を作ることで、路上ライブの音楽環境を自身の手で設計している。だから互いに演奏時間や場所を守る。
 さて沖縄のライブは、昨日一日、予定になかった乱入者に舞台を占拠されてしまった。一日もの間、好き勝手に舞台で演奏し終わる頃、なんだか昨晩のカエルと夏ムシの声は、風や雨に向かって「オイオイ、お前たちもういいだろう?俺たちの時間が始まっているんだよ。」と相手をひどく傷つけないよう、控え目に自分たちの演奏時間を始めたように聞こえる。そこまで乱入者に気を遣わなくてもいいのに。私は布団に横になって、二つのグループのそんなやりとりを想像しながら、深い眠りにつく・・・。
 そして今朝起きると、いつの間にか、ライブはかなりシャウトしまくるセミの番にかわっていた。それにしても乱入者のライブは、そうとうに那覇をとっちらかしていったものだ。土曜日は、セミのあと、マンションの子どもたちの番だ。ウィークデーは奥様たちの井戸端会議の声かな。ともあれ、みんなの声が戻ってきた。だからこんな自然の音に囲まれて今を生きていることがとても嬉しい。


台風がやってくる ヤダァ!ヤダァ!ヤダァ!

2007年07月13日 | 那覇、沖縄
 今年最初の台風が今晩から沖縄本島にやってきます。本土に台風が上陸すると、わざわざ増水した川や、背丈の何倍もあるような高波を見学に行って、「行方不明」「溺死」なんて人がいるわけですが、沖縄ではあんまりそういうタイプの人はいない気がします。あのビートルズの映画「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」では、ファンがただひたすらビートルズを追いかけまわすわけですが、沖縄の場合は、台風の熱烈なファンは少なく、お菓子を片手に、前日に借りたレンタルDVDを見ながら、台風が通り過ぎるまでただひたすら部屋で静かに待つのみです。しっかり今晩TSUTAYAに行ってきましたが、まるで開店当日のような大混雑でした。いいですか、皆さん?台風の「追っかけ」はいけません。危険です。
 そろそろ外は暴風域で、風の又三郎が100人くらい同時に暴れているようなものすごい風音がして、ベランダから見える木々が左右に大きく揺れています。こんな状況を眺めていると、突然思い出す曲はピンク・フロイドの《吹けよ風、呼べよ嵐》です。あの《エコーズ》の入ったアルバム「おせっかい」のA面1曲目、風の音ではじまるあの曲です。
 もちろん、暴風雨を期待しているわけではありません。農作物をはじめ、多くの場所に被害がでるわけですから、台風なんて来ない方がいいし、せっかく沖縄にきてくれている観光客だってかわいそうだと思います。でも、心の中にもう一人の自分がいるのです。そんなもう一人の「ボク」は、台風がやってくると突如ひょっこり姿を現して、ピンク・フロイドの《吹けよ風、呼べよ嵐》を私の頭の中に大音響で流し始めるのです。そして「本当は見たいくせに・・・、実は見たいんだろ?嵐のような暴風雨を・・・」と、「ワタシ」を誘惑するように耳元で幾度も幾度もささやき始めるのです。「ワタシ」は「ボク」の誘いを必死に聞くまいと耳を塞ぐのですが、台風の風音が増すとともに、「ボク」の声は少しずつ大きくなって・・・。黙れ、やめてくれ、しゃべるな。台風なんて、ヤダァ!ヤダァ!ヤダァ! 


武満徹のビートルズ

2007年07月12日 | CD・DVD・カセット・レコード
 一昨日、友人たちと入ったレストランでは、BGMにビートルズのアルバム「リボルバー」が流れていた。個人的には、ビートルズの最高傑作だと思うアルバムである。月並みではあるが、このアルバムの中で最も好きな曲は、《Here There and Everywhere》。
 数年前、この曲の武満徹のギター編曲があることを知った。さっそくギタリスト、セルシェルのビートルズ名曲集を購入した。若き日の荘村清志のために編曲された《ギターのための12の歌》(1977)の一曲として編曲された《Here There and Everywhere》は、ギターのさまざまな音色とビートルズのやさしい旋律が織りなす最高傑作である。
 武満徹を知ったのはいつの頃だっただろう?高校に入ってからは「今日の音楽」シリーズには行き続けていたし、池袋文芸座が生活の一部だったために、その頃は現代音楽の大作曲家として、また映画音楽の大家として、学生服の私は、客席や舞台の上に立つ武満の横顔を行く度に拝んでいた。まさに武満徹は私にとって雲の上の存在だった。
 武満が現代音楽と映画音楽以外にポピュラー音楽を作っていたことを知ったのは、小室等「武満徹ソングブック」を武満亡き後に購入してからである。恥ずかしながら、「ベ平連」時代のフォークソング、高石友也《死んだ男の残したものは》の作詞が谷川俊太郎と知っていても、作曲が武満であることを知らなかった。
 ピアニスト高橋アキの弾く《Golden Slumbers》、セルシェルのギターが奏でる《Here There and Everywhere》、《Yesterday》、そして《Michelle》。どれをとっても武満にとってビートルズが特別な存在であったことを感じさせる。私は作曲家でもなければ、編曲家でもない。でも小手先だけの技術だけでは、こんな編曲ができるわけはないのだ。彼のビートルズを聴くたびに思う。今は亡き大作曲家武満徹と、ちっぽけな民族音楽学者の私に共通していることがもしあるとすれば、それはビートルズのやさしいメロディーを心から愛していたこと。もちろん比較するのもおこがましいことであるが・・・。


子どもは日なた、大人は日陰

2007年07月11日 | 
 オランダ人は太陽が大好きだった。ともかく夏に芝生のあるところに行けば、できるだけ肌を露出し、寝転がって太陽を浴びていた。紫外線の恐怖をさんざん聞かされてきた日本人のボクは、オランダ人の肌は、紫外線を跳ね返すんだと信じていたが、あるパーティーに出席したとき、オランダ人には皮膚癌が多いことを耳にした。オランダ人もボクらと同じだったことを知って安心した。
 沖縄の太陽は強烈だ。特に6月に梅雨が明けてからの太陽といったら半端ではない。できるだけ長袖を羽織るようにしてもやはりバイクに乗っていると顔が焼けてしまう。そのおかげでシミが増えて悲しい・・・。
 日曜日、恩納の海岸で撮影した一枚。30度は越す猛暑の中、子どもは長袖を着させられ、首が隠せる帽子をかぶり、海で遊ぶ。なんでこんなに暑いのに海で遊びたいのかよくわからない。「沖縄に住んでるんだし、海なんか珍しくないじゃん」と思うのだが、そこは子どもである。子どもは太陽に輝く、日なたの海が大好きなのだ。考えてみれば、ボクも子どもの頃は「青白きインテリ」なんかじゃなかった。それなりに黒くて、お風呂に入ると半ズボンとTシャツのあとだけが妙に白くて可笑しかった。
 さて一方、大人の方だが、カミサンは一ミリの肌の露出の隙間もないような完全防御服を装着、さらに日傘で太陽の光をダブルシャットアウト!撮影しているボクも、ハマユウの木陰にスッポリと収まってシャッターを押す。子どもは日なた、大人は日陰。ただそれだけのことなのに、そんな光景を前になんだかとても楽しい気分。たまには子どもにならなくっちゃ・・・。だからボクもこの夏は思い切って明るい日なたに飛び出すことにしょう。そうしたらきっと何かが変わる。

小さくて軽いことはいいことだ――小玉川でのこと(5)

2007年07月10日 | 
 「小さい」、「軽い」とくれば、中身の詰まっていない果物なんて想像する人もいるだろうが、私たちの業界でこの二つの言葉は、きわめてポジティブに受け取られる。ともかくガムランは重い。ゴング・クビャルとよばれる大型編成の大きな楽器は、一台50キロ程度はあるのではないだろうか?もう20年近くこの重いガムランを運び続けてきたせいか、私などはぎっくり腰を4回、さらには腰痛が持病になってしまった。もうだいぶ前になるが、楽器運搬でぎっくり腰になった状況で、激痛を押して舞台に立ったこともある。ともかく楽器運搬は鬼門である。だからこそ、「小さい」、「軽い」なんて言葉を耳にすると心が躍るのである。
 今回、小玉川に持って行ったガムランは、ガムラン・アンクルンとよばれる小型の楽器だ。昨日のブログの写真をみるとわかるように、子どもが演奏するにはちょうどいい大きさだ。鍵盤は4枚しかなく、いわゆる「4音音階」である。私たちが演奏する曲は、本来5音音階の曲であるため、たいていの曲は4音音階用に編曲されている。5音音階の曲を4音音階にするわけだから、正直いってかなり無理がある。覚えにくい上、リズムに特徴がないとなんだかどの曲も同じように聞こえるのである。
 そうはいっても私はこの編成が好きだ。大学生のとき、最初に始めたのが、この楽器だったこともあるが、やはり小さいゆえにかわいらしい。そんな楽器への愛情からか、東京と沖縄に1セットずつ、自分の楽器を持ってしまったほどである。
 40代も半ばを過ぎて思うことだが、演奏が難しいなんてことが実に些細な問題に思えるほど、楽器が「小さい」、「軽い」ということはすばらしくありがたいことなのである。楽器の運搬に大型トラックは必要ない上、音工場への搬出入も簡単である。
 「40を過ぎたらアンクルン」なんて、健康食品か薬の宣伝用キャッチコピーのようだが、まさに今のわたしにはピッタリの言葉である。



子どもたちのガムラン――小玉川でのこと(4)

2007年07月09日 | 
 小玉川では私たちの演奏の前、子どもたちにワークショップを行った。下は小学校1年生から上は大学1年生まで、子どもたちの年の差は12、3歳はある。実は、子どもたちとはいえ、ほとんどの子どもはガムランを演奏するのが初めてではない。なんとこの小学校は、バリのガムランのセットを一式所有しているのである。もちろん、大編成のガムランを一式所有している小学校など、日本で唯一この小玉川の小学校だけである。かつてこの集落のある小国町がインドネシアと長きにわたり交流をもっていたことから、所有することになったバリのガムランは、今ではさまざまな経緯からこの小学校に保管されている。
 1時間半にわたる休憩なしのワークショップの途中、飽きて他のことを始める子ども達は驚くことに誰一人いない。小学一年生ですら、集中して演奏する。恥ずかしそうにガムランをたたいていた高校生たちの目つきも徐々に真剣さを増してくる。そんな雰囲気の中、生まれてくる子ども達の音は小玉川の空気に溶け込んで、やわらかな響きを作り出す。ガムランの音は、まるで住んでいる世界を投影しているようだ。彼らのガムランの音は小玉川という小さな集落の音。私たちには出せないようなやさしい音。
 都市の中で何不自由なく暮している子どもたちと比べると、彼らの輝きや素直さは明らかに違う。もちろん、どこの子どもたちもやるようにテレビで楽しみ、DSで遊ぶ。テレビのチャンネル数が多少違い、「ゲーセン」が村にないとしても、今や子どもの娯楽に都市と村落の違いはない。
 違うこと、きっとそれは社会の成員としての高い意識と大人の成員たちとの親密なコミュニケーションだ。彼らは子どもでありながらも小玉川集落の成員としての高い意識を持っているのだと思う。そして大人たちも、彼らを自分たちと同様に成員の一人として扱う。そういう点ではバリの村落の子どもたちと同じように生きている。
 3月で小学校は閉校になるが、ガムランはこのまま学校に残るのだろうか。たとえ学校がなくなっても彼らが小玉川の成員としての高い意識を持ち続ける限り、ガムランの音は変わらない。絶対に変わらない。だからこそ、いつまでもそんな音を紡ぎだして欲しいと私は切に願う。濁ってしまった音は簡単にはもとには戻らない。壊れてしまった人間関係の修復が簡単にはいかないように・・・。