子どもの日が近づいてきた。わが家の玄関飾りは、桜バージョンから、端午の節句バージョンへと様変わりである。三つの人形はどれもモダンな「五月人形」で、高価なものではないにしても、やはり息子のいるわが家には欠かせない人形である。
今や五月人形を飾る意味などはとっくに忘れ去られてしまって、季節を表す飾り物へと変貌してしまったのかもしれない。「女の子」がいる家にはひな祭り人形、「男の子」がいる家には五月人形というのが常識なのだろうが、私には春めいて梅が咲き、桜の時期が近づく季節にはひな祭り、そして新緑であふれる季節が端午の節句。
沖縄で新緑に溢れた野山を眺めるのはちょっぴり難しいけれど、それでも子どもの日からイメージできる色は、枝から芽吹いたばかりの一面の若い緑。玄関の五月人形を眺めながら、昨日、思い切り堪能した比叡山の緑が脳裏に蘇った。
今や五月人形を飾る意味などはとっくに忘れ去られてしまって、季節を表す飾り物へと変貌してしまったのかもしれない。「女の子」がいる家にはひな祭り人形、「男の子」がいる家には五月人形というのが常識なのだろうが、私には春めいて梅が咲き、桜の時期が近づく季節にはひな祭り、そして新緑であふれる季節が端午の節句。
沖縄で新緑に溢れた野山を眺めるのはちょっぴり難しいけれど、それでも子どもの日からイメージできる色は、枝から芽吹いたばかりの一面の若い緑。玄関の五月人形を眺めながら、昨日、思い切り堪能した比叡山の緑が脳裏に蘇った。