沖縄に赴任してから数年間、沖縄は行くところだった。東京の友人たちも、「今度は東京にいく帰ってくるの?」と僕に尋ねた、ぼくもそのように言われることに満足たし、自分の居場所はあくまでも東京でいたかった。そう思いたかった時期があったことは事実だ。
あれから13年、友人たちは「今度はいつ東京に来る?沖縄にはいつ帰るの?」と尋ねるようになった。東京には「帰る」はずだった自分も、知らず知らずのうちに沖縄が「帰る」ところにかわってしまった。明日、私は沖縄を離れて静岡県に行く。そう、当然ながら新たな赴任地は「行く」場所である。そして4月末には沖縄にちょっとだけ帰ることになる。
行くところ、帰るところは物理的な出発点を基準に考えるだけではなく、心の中にある居場所、拠り所を基準にして使う言葉。今、僕の「拠り所」はもうすっかり沖縄だもの。しかし、いつの日か、かつてそうだったように僕の中で沖縄は、「行くところ」へと戻っていくんだろう。なんだかそう思うと寂しいけれど、ここが私の人生にとって「故郷」になったことは言うまでもない。生まれた場所だけが故郷ではない。人生の中に「故郷」は複数あったっておかしくないもの。「バリ」と「沖縄」は僕のそんな「故郷」になるんだろう。行くところとしての「故郷」。
あれから13年、友人たちは「今度はいつ東京に来る?沖縄にはいつ帰るの?」と尋ねるようになった。東京には「帰る」はずだった自分も、知らず知らずのうちに沖縄が「帰る」ところにかわってしまった。明日、私は沖縄を離れて静岡県に行く。そう、当然ながら新たな赴任地は「行く」場所である。そして4月末には沖縄にちょっとだけ帰ることになる。
行くところ、帰るところは物理的な出発点を基準に考えるだけではなく、心の中にある居場所、拠り所を基準にして使う言葉。今、僕の「拠り所」はもうすっかり沖縄だもの。しかし、いつの日か、かつてそうだったように僕の中で沖縄は、「行くところ」へと戻っていくんだろう。なんだかそう思うと寂しいけれど、ここが私の人生にとって「故郷」になったことは言うまでもない。生まれた場所だけが故郷ではない。人生の中に「故郷」は複数あったっておかしくないもの。「バリ」と「沖縄」は僕のそんな「故郷」になるんだろう。行くところとしての「故郷」。