気ままな日々を 思いつくままに

旅の様子や
今日の庭
思いついたことなどを
気ままに 気楽に綴ります

国立新美術館

2008-02-29 12:06:11 | 展覧会から
先日乃木坂にある、国立新美術館へ初めて行った。どんな経緯でこれが建設されたか知らないが、何故この施設が必要なのか理解できなかった。新美術館という大きな箱があるだけ。要するに巨大な貸席・画商の画廊であるに過ぎない。勿論40メートルの絵巻物を真直ぐに伸ばして展示できるところなぞ、そうは多くないだろう。しかしこの時代に新しく作る必要があったのか、ものすごく違和感がある。又展示室の前は広い廊下と吹き抜けが最上階まで続き、巨大な空間を構成している。自分は何も無い空間は最高の贅沢だと思っている。しかしここの空間には其の贅沢さが何も伝わってこない。考えてみると、展示室と廊下を繋ぐところが単調で、まるで刑務所の独房の入り口のような、あるいはせいぜい、公団住宅の廊下のように見える。何のためのガラスの外観なのか、何のための曲線の多用なのか、全く理解できない。これほどつまらない建築物に出会ったのは、新宿にある都庁を見て以来の事だ。あれもひどいですよね。ごてごてした外観は見ていると気持ちが悪くなってきました。それ以来あまりあそこには近寄りません。地下のミュージアムショップへ行って見ました。何を主張したいのか、自分には分かりませんでした。伝統工芸では勿論ありませんし、ポップカルチャーでもなく、わけの分からない雑貨を脈絡無く集めているような気がしてなりませんでした。2階・3階の展示室は東京の私立の美術学校の卒業制作が5大学共同ということで開催しておりました。学生たちがこれほどのところで作品を展で切るのは、この施設があればこそともいえますが、これが無い時だって、卒業制作は行われていたんでしょう、卒業発表は行われていたのでしょう??? 何としてもこの施設の有用性が自分には分かりません。もったいないの一言です。ここには敗戦まで、第一師団第三連隊の兵舎が有ったそうです。国を守るための施設があったんですよね。今の時代なら、これだけの敷地を生かして、救急患者受け入れのための、各大学が共同して総合医療施設でも設けた方が良いような気がしますね。勿論ヘリポート付きでね・・・・
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国破れて山河あり・・ 大観展 私感

2008-02-27 23:19:12 | 展覧会から
国立新美術館へ横山大観展を見に行く。開催も残り一週間と言うこともあり、大変混んでいる。入り口を入ってすぐに、「屈原」が飛び込んでくる。何かに立ち向かうかのような、あるいは挑むような描写に圧倒される。この挑むような姿勢は「游刃有余地」と題する二幅の刃物を持つ料理人のふてぶてしさにも現れている。今回自分がこの展覧会を見たいと思ったのは、長編の絵巻「生々流転」がすべて広げて展示されていると報じられていたからです。名前は聞いたことがあり、また万物の流転を表す絵巻だとは聞いていても、それを全て目にすることはほとんどありません。所蔵する近代美術館がこの作品をどんな状態で展示しているか寡聞にして知りません。通常の絵画であれば、展示されていれば見ることは出来ます。しかし絵巻物となると、展示されていても其の全てが広げられていることは、殆どありません。ましてこの「生々流転」は40メートルにも及ぶ大作です。これだけはぜひ見たいと念願していたのです。同じ事を考えている人は多く、其の前の「荒川絵巻」は基より、私の行ったときには、其の前の大観の旅行用のトランクの展示の前から、列が繋がっておりました。前に進んでみると、7掛けくらいに縮小した写真が反対側の壁に展示され、解説もつけられておりました。音声ガイドを聞きながらこの複製をじっくりと眺め、ふと後ろを振り返ると、行列の間から、現物が見えました。其の印象をなんと言ったらよいのでしょう。全く違うのです。伝わってくる印象が・・・ 今まで自分はあまり本物・本物と拘らず、あえて言えばたとえば襖絵などデジタル処理をした複製を評価する立場でしたが、今回は違いました。考えてみると、この「生々流転」などは墨一色ですからいっそうデジタル化しやすい素材だとは思いますが、自分にとって作家の手の価値を思い知らさせてくれたことに有難味を感じています。自分は大観の1940年代以降の作品はあまり好きでは有りません。紀元2600年といった頃から、何か民族主義の・あえて言えば軍国主義にかぶれたような感覚があり、押し付けがましいように感じるのです。しかし、今回始めて見ることの出来た「四時山水」は大観79歳の作品との事であるが、27メートルに及ぶ大観最後の絵巻物にして、最初から最後まで持続する、其の精神力の高さには頭が下がる。これが1947年、敗戦の2年後に描かれていることに驚かざるを得ない。「生々流転」が発表されたのは1923年9月1日 あの関東大震災の当日だったという。大観にとって何か特別の思いのこもった「四時山水」だったのであろうか。
国敗れて山河あり・・・・・
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鈴木宗男議員の有罪判決に思う

2008-02-26 23:51:31 | 合気道
その昔、自分も、秋霜烈日を信じていた時代は有った。しかし年月を経て振り返ると、30年以上前から、其の権力の行使は、時の権力と一体だったことを思い知らされる。裁判官が基本的に一人であるのに対し、検事は検察庁という大きな組織として機能している。勿論裁判官とても、最高裁判所の事務局の支配を受けているが、法律上の建前は一人一人の裁判官が法律のみに基づいて判決を下すことになっている。しかし最近四国各県の警察が絡んだ裁判で示されているように、一方的に検察の判断に基づいた判決が続いている。今日示された東京高裁の、鈴木宗雄議員に対する判決も、又納得出来ない判決である。被告の主張をすべて退け、検察による調書のみを正しいものとして判決を下している。国家の最大の目的は、法の元下にはすべての人間が平等であることが、其の根本にあり、裁判所はそれを保障するものでなくてはならない。わが国においては、検察が起訴をする事案の99.9パーセント以上が有罪となり、検察の判断が対象人の有罪か無罪の決め手としまう。今日、東京高裁で判決の下った鈴木宗雄議員の場合も正にそうであろう。外務省の政策に強い影響力を持っていた鈴木議員を排除すべく、ほとんど終っている事案を穿り返し、一年以上もの長期間拘留し、無理やり起訴をした。鈴木議員が全く法律に触れなかったかどうか自分が知るところではない。しかし世に言うように、自民党の道路族議員のごとく、自己の選挙区にトンネルや道路を工事させ、工事業者から政治献金を受けながら、何のチェックも受けていない多数の議員もいることを考えると、検察の正義がどこに向いているのか、疑問に思わざるを得ない。また検察の裏金をめぐって、TV証言の前日に告発者たる公安部長を逮捕、起訴したこともありましたよね。そして指摘された裏金は、いつの間にか額が1/10になりうやむやのうちに消えてゆきましたよね。今は裁判所の裏金が問題になり始めていますよね。いずれも第二次大戦の敗戦後、全く政権の交代が無かったことが、これほどのモラルハザードを生んだ要因であり、おごりを生んでいるのであろう。今でも記憶の片隅にあるが、佐藤内閣の時に、最高裁判所の裁判官を当時の自由党の意のままになる裁判官を任命し、その後の司法の方向を決定付けた事があった。もし政権の交代が行われていれば、次の任命は別の政権で行われることになるが、残念ながらわが国では、そうは成らず、数十年の永きにわたり同じ権力に因る任命が続いている。総選挙で政権が交代しても検察や、裁判所を変えることは難しい。しかし、何度も政権を交代させることにより、新しい血を導入させることは出来る。数十年は掛かるかもしれないが、まず政権交代を信じて訴え続けてゆく以外に無いのだろう。別に革命を起こそうというのではないのだから・・・
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北斎 富士を描く  三越美術館

2008-02-25 23:24:34 | 展覧会から
無鉄砲に、いろいろな展覧会を批評してきたが、北斎の「富士を描く」がこれほど難しいとは思いもしなかった。北斎の浮世絵富嶽三十六景と、富嶽百景の富士だけを集めた展覧会である。富士山の絵だけを150点も見ているのはかなり見るのに体力を消耗することも事実である。しかし、見終わった後で、一種のの充足感を味わえることも事実だろう。そう言えば北斎の展示会を見るのは3回目だと思う。最初は05年の6月に同じ三越美術館で開かれた北斎と広重展、次が同じ05年10月に、東京国立博物館で開かれた北斎展。勿論同じものを展示しているわけではないから、何を主題にしているかが、所謂企画力の問題であろうとは思う。国立博物館の北斎展が、北斎のすべてを一堂に展示せしむるような、強烈な使命感に有ったとすれば、三越美術館で開かれた展覧会については、タイトルにも示されるように、一つは原安三郎による、浮世絵コレクションの中の広重と、北斎の富嶽三十六景であり、広重の東海道五十三次を中心にした風景浮世絵で有った。すべてを網羅した北斎展の分類を借りれば、今回の北斎展は、最晩年の画狂老人卍期と呼ばれる最晩年の画業の集積に過ぎないのかもしれない。しかし、その最晩年に出版した富嶽百景初編の前書きに書き示すように、「己六才より物の形状を写すの癖ありて半百の比より数々画図を顕すといへども七十年前画く所は実に取るに足るものなし七十三才にして稍禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり故に八十才にしては益々進み九十歳にして猶其奥意を極め一百歳にして正に神妙ならん欤百有十歳にしては一点一格にして生けるがごとくならん願わくば長寿の君子予が言の妄ならざるを見たまうべし     画狂老人卍筆
何とこれが75歳にして富嶽百景初編を刊行した時の、著者の序文である。人生わずか50年といわれていた当時、75歳にしてこの序文を書き、新たな百景を刊行し始めるとは・・・ この展示会では、富嶽百景をすべて展示しているところに其の価値があると思う。はっきり言って、自分の感じるところ、富嶽三十六景はベストセラーで有った故に沢山な版があるらしい。今回の展示品がどのような経路で集められたか知るところではないが、原安三郎のコレクションに比較して、集められた品々に、ばらつきがあり、初刷りの多かった原コレクションに比較すると、やや物足りなさを感じた。しかし富嶽百景の冊子は墨の濃淡のみで印刷されているので、其の心配は無い。
しかし、しかし 自分も四捨五入すれば70才になる年代にして思うが、この男の画に対する執念は如何だろう。平均年齢ですら80を超える時代に、生きて何が出来るだろう。馬齢を重ねることに意義はあるのだろうか。全く難しい時代ではある。
こんなことを言っていると、画狂老人の高笑いが聞こえてくるような気がするね。
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春一番

2008-02-24 18:52:31 | 我が家の庭
一日中強風が吹いていましたね。それでも稽古に行く積りで京浜東北船で大宮に出ました。浦和駅に行くまでに真正面から冷たい風に曝され、大宮に着いたら着いたで、埼京線が止まっているの、宇都宮線や高崎線遅れているの、今動いているのは京浜東北だけだとアナウンスがあり、野田線の方に行くと、ちょうど着いた野田線からは、通勤ラッシュのときでも見たことの無い、大量の人が続々と乗り換え通路を歩いてきます。春日部までは電車は通じているとアナウンスしていましたから、自分は問題ないのですが、きっと一時間近くは不通だったんだろうと思うと、さすがに稽古へ行く気持ちがなえました。これで雨でも降っていれば家を出ることは即座に中止したのですが、風だけとなると少し甘く見てしまいました。大宮同好会に入会して初めてですね。月三回も欠席したのは・・・ 要するに出席したのは1回だけということです。3月はまじめに参加しよう。昨日からの大風は、凄く汚いですね。我が家の車には黄砂のような細かい泥が一杯ついてどこに放置してあったのかというくらいひどい状況になっておりました。春先には大風が吹くことは分かっていますが、2日間も引き続いての強風は、あまり記憶にありません。気象庁によると春一番だったとのことですが、春一番ってこんない冷たい風でしたっけ・・・
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イージス艦 「あたご」 の嘘

2008-02-23 13:23:51 | 我が家の庭
事故が起きてから5日も経つのに、事故に関する報道が止まない。それは当然だと思う。海上自衛隊は事故の本当のことを言っていないように思われる。だから何かを発表するたびに、反論され、事実と異なる点を指摘される。自身に否があるのなら、潔く否を認め、直接の責任者は基より、艦長・海上幕僚長・防衛大臣は辞任すべきだ。一昨日あたりには、艦橋の外にいた見張りの報告漏れで処理しようとする姿勢を見せた。すると30分前には海上をサーチライトで照らしていたという話が出てきた。不思議なのは8隻の船団が自艦の前方を横切ろうとしているにも係らず、レーダーから何の報告も揚っていないとされる点だ。レーダーとは人間が目視できないものでもその所在を知らしめるものだろう。勿論艦の真下に接近されたらレーダーは機能しない。しかし いかに小さな漁船とはいえ8隻もいるのだ。これに気が付いていないとは、全く理解できない。高速のゴムボートにはこの1400億円もするイージス艦は全く対処できないのか。まして見張りから通報が無かったので、レーダーに監視記号をつけず全く無警戒だと言うに至っては、乗組員は全員首にすべきだろう。レーダーは接近する数隻の船を全く無視したのか・・・ふざけるな!! と言いたい。
さらに許しがたいのは、緑の航海灯をつけた船がいてそれが急に右旋回してイージス艦に衝突したとされている点だ。清徳丸の僚船の船長は厳しく反論しているが、この部分に関していまだ訂正はなされていない。そして逆進を掛けたといっている。何で緑の航海灯をつけた船が、数百メートルに迫っている巨大な船に向かってって舵をきるのか、行方不明になっている清徳丸の船長は気が狂っていたとでも、海上自衛隊は言いたいのだろうか。今朝のTV報道によると衝突の7分前に、艦橋の全員が交代したと報じられていた。そんなことを総合すると、実際は起こったことは・・・ 30分くらい前には、漁船団の存在と、進路を横切りそうだとの判断はしていた。しかし、当然漁船が避けると予測し、自動操縦も切り替えず、そのまま進行した。突然船体に衝撃が走り、逆進を掛け、探査用の明かりをつけた。それからのことは事故の責任を誰に負わせるかという目で発表を見れば良く分かる。最初は見張り員だけの責任にしようとした。しかし見張り員がその処置に納得しなかったのだろう。発見を12分はやめた。それたらの説明は支離滅裂である。見張りから通報が無かったのでレーダーに警戒マークをつけなかったとか、見張り員が自艦の後ろを通ると思ったから報告が無かったとか、しかし考えても見ろ!! 艦橋にだって何人もの当直員がいるはずだし、戦闘指揮センターにも、当直員はいるはずだ。イージス艦は目で見て戦争をするわけではない。勿論ミサイル防衛が主たる任務ではあるが、接近して攻撃される危険に対しても対処できるはずである。沿岸に近づけば、攻撃される危険だって多いはずである。100歩譲って、レーダーでは近すぎるのなら、艦橋にいた人間は赤の航海灯が数個見えているのに気が付くはずであるし、気が付かないのなら、重大な職務怠慢であろう。素人として今思うのは、海上自衛隊として最新・最高性能な艦には、自衛隊として最高の能力を持つ乗組員が選抜されて乗艦しているのだろう。その乗組員にしてこの程度かと、唖然とするばかりだ
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浜離宮恩賜庭園

2008-02-21 23:41:40 | 我が家の庭
今日は「緑と水」の市民カレッジ講座 水上バスで行く江戸・東京の庭園めぐり に参加した。集合場所は浜離宮恩賜庭園 本格的に見学するのは初めてだ。新橋の駅で昔使っていた出口を出るともういけない。ビルの間をつないでいるオープンデッキがあるらしい。でたらめに歩くと、道路の横断も出来ず、歩道もなくなってしまうので戻る羽目になる。この地域はなんてせせこましいのだろう。ビルとビルの間は長屋のようにせせこましい。そして風格が無い。良く見るとそれぞれが個性を主張しているようだが、全体としての統一したコンセプトが無いためか、自分的な感覚ではごみごみしている。やっとのことで大手門橋から、枡形を通って浜離宮恩賜庭園に入場する。この季節、そこここにフェンスが建てられ、改修工事が行われている。入り口のすぐ近くに上がまん丸になった形の良い梅がほのかな香りとともに満開に咲いていた。平日の午前でもあり、参加者は年配者が多い。男女比率では、10:15くらいで女性がやや多いかなというくらいである。杖を付いている人も2・3人いるようだ。松の良く手入れされた芝生の場所を過ぎたとき、案内の人が立ち止まった。そしてここが門のあとですと、よく見ると塀があったような直線と門柱の礎石を示した。ここからがお庭なのです・・・と。少し行くと、シャガを植えた3メートルくらいの土手のような物の真ん中に扉のようなものがある変なところに案内された。扉(では無いが)覗けるようになっている、禅寺にありそうな板と、木鎚、それに太い竹の筒 が出ている。なにがなんだか分からない。覗いてみると、下に幅1mくらいの直線も溝が設けられており、池に繋がっているとのこと。要するにここは鴨場なのです。ここの案内板には次のように記載されています「鴨場には『溜』と称する池と平坦な小島、池の周囲を土手で囲み笹・常緑樹等を蜜植して鴨類が安全に休息できる場所を設けます。池岸には池全体を観察する小屋『大覗』と池から続く『引堀』があり、その両側に小土手と末端には『小覗』を設けます。」それを如何使うかについては次のように書かれています 「池では、日ごろからおとりに使うアヒルを飼育しています。鴨猟の際は風下の引堀を使用することが原則で小覗から板木の音と餌で、おとりのアヒルを引堀に呼び込みます。アヒルの後について鴨が引堀に入った所で入り口を締め、おどろいて飛び立つ鴨を引堀の両側に待機している撮り手が又手網で捕らえます」 とのことです。この鴨猟は大名庭園の特色で多くのお庭に造られていたそうです。浜離宮にも18箇所あるとのことです。鴨池の土手を降りたところに馬場があり森の中にいるような気分になります。鴨池は勿論、次の景色も小山に阻まれて見ることが出来ません。これこそが日本庭園の特色で、歩くごとに、景色の変化を楽しませることとなります。ほんの少し歩くと中ノ島茶屋のある大泉水に出ます。中ノ島へ渡る手前の岸には、八代将軍吉宗由来と伝えられる、トウカエデがあります。漢字で書くと、唐楓と書くそうです。トウカエデとカエデの違いは、トウカエデの葉が三つわれであるのに対し、カエデの葉は五つ割れなので見分けると説明しておりました。この大泉水は勿論、先ほどの新銭座鴨池や、今回は寄りませんでしたが庚申堂鴨池も汐入で、勿論海水であり、そこに生息する魚も、海の魚とのことでありました。中ノ島から対岸の富士見山のほうに渡ると、そこには里桜や、ソメイヨシノが植えられています。春にはさぞかしと思える光景がありました。酒盛りは出来ないでしょうが四角いベンチはところどころに設置されています。ゆったりとした池に松。緑の大木と桜・・・さらには潮風の香り、 今年はここにもお花見に来ましょう。
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「あたご」 誰の為の軍隊か

2008-02-20 13:19:30 | メディアから
「あたご」の衝突までの様子がだいぶ明らかになってきている。要するに「清徳丸」は一隻でその海域にいたのではなく、一緒に出航した漁船団(何隻いたか記事では明らかではない。図では3隻の航跡を示している)と共に三宅島方向へ向かっていたらしい。「あたご」は衝突の2分前に漁船を発見し、1分前に後進をかけたという。何隻も漁船がいることを分かった上で、相手が避けるものと思い上がり、そのまま突っ走っていたとしか思えない。おそらく航海責任者には、見張りから、漁船団の存在は伝えられていたであろう。艦橋にいた航海士か艦長か通常で言えば、こんな時間に最高責任者が艦橋にいるわけも無いから次席か三席が艦橋にいて、見張りからの報告を無視したとしか思えない。(TVなどでは、午前4時は当直引継ぎの時間であり、あるいは誰も見張りや、発令が出来ない状況にあったのではないかという意見もあるが、イージス間の一分はミサイルにすれば、どれほど重要な時間なのだろう) ここで今日の朝日新聞の報じ方に大きな疑問がわく。一面・二面それと社会面三十九面の落差だ。三十九面には同じ海域にいた同僚船の話として次のようなことが書かれている・・・・・・・・ 
 本当はこの記事の目的は、周囲には8隻の船が居り、「あたご」はそれらを無視して突っ走ってきたことに対する、朝日新聞の、危機感の無さを追求すべく、このBLOGを欠き始めたのですが、いろいろと調べていると、ことの本質は、海上自衛隊そのものの体質にあるのではないかと、思いはじめました。すなわち、直前に「あたご」の前を横切った漁船がいます。その漁船に対して「あたご」は全く警告を与えていません。そのあとも、「清徳丸」と衝突するまで、一切の警告は無かったそうです。その船が直前を横切ってから、すこしたち突然サーチライトが点灯され、その後探索用の強力なライトが点灯されたといいます。すなわち衝突するまでは何もしなかった・・・ さらに停船した後も、救助艇を下ろしたという証言が全く無いことです。なだしおの時も、乗組員が甲板に出て何もしなかったと強烈に非難されましたが、今回も同じことをやっていたようです。評論家と称する人達は、海上自衛隊を守るべくいろいろなことを言っている人がいます。その典型は、「あたご」も悪かったかもしれないが、漁船にも過失があったのではないかと論じている人がいます。名前は忘れましたが、なだしおの時にも潜水艦の艦長の弁護に立った人が読売新聞に書いていました。イージス艦も悪かったかもしれないが、漁船にも見落としがあったと 今朝の読売新聞が報じていました。海上衝突予防法には軍艦の優先航行なぞ規定されていないようです。少なくとも、平時においては、軍艦も、漁船といえども、同じ規則で航行しているはずです。繰り返しますが「清徳丸」は一隻でその海域にいたのではありません。ある情報によると8隻の漁船と船団を組み、航行していたようです。イージス艦といえども絶対に気が付かないなどというレベルではありえません。さらに「あたご」は妙な事を言っています。2分前に「清徳丸」の「緑」の航海灯を見つけ後進をかけたと言っているそうです。緑の航海灯であれば何をしなくても、そのままにすれば、何事も無く両船はすれ違えるはずです。何のために後進をかけたのでしょう。自衛隊の人はどこか浮世離れしていませんか、海上のことは自分たちしか知らないと思っているのでしょうか、自分たちが話すことだけを、世間は真実と認めると思っているのでしょうか。船を破壊して二人を殺した時、僚船が7隻、自分の言うことだけを支持してくれると思っているのでしょうか。それとも、アメリカ海軍が、海上自衛隊のために、虚偽の証言でもしてくれる当てがあるのでしょうか・・・・自衛隊という組織は、誰を見つめているのでしょうか、国民の支持がない軍隊なぞ存在する意義はありません。自衛隊は日本国民のみのためにあることを、真剣に証明してください。自分にとってアメリカを通じた世界平和なぞ全く信じません。自衛隊とやらが一刻も早く日本の自衛隊になることを願うばかりです。
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なだしお事件 覚えていますか???

2008-02-19 20:21:38 | メディアから
防衛省になったとはいえ海上自衛隊は何と呼ぶのだろうか。海軍なのだろうか??良く分からなかったので、防衛省の組織を調べてみると、驚いたことに、今でも海軍や陸軍は存在せず、航空自衛隊、海上自衛隊であるらしい。夕刊には衝突した海上自衛隊 最大・最新の艦である「あたご」の艦首部分(それも右側)に生々しい傷か付いている写真が掲載されているが、防衛省のHPには 「海上自衛隊護衛艦「あたご」と漁船「清徳丸」の衝突事案について(続報:1230現在)」として下記の文章がUPされている。以下引用・・・これは20時少し前の状況です
1.概要
(1)発生時刻:
19日午前4時7分
(2)場所:
千葉県房総半島野島崎沖合
(3)状況:
漁船「清徳丸」(せいとくまる:新勝浦市漁協所属。乗員2名(親子))は2つに割れ、浮いている。
2.対応
(1)護衛艦「あたご」内火艇3隻にて「清徳丸」乗員の捜索を開始するとともに、海上保安庁等に対して連絡。

(2)現在、自衛隊より、自衛艦6隻(その他小型舟艇6隻も活動中であり、更に2隻が現地へ向かっている)、固定翼機1機、ヘリコプター4機の他、海上保安庁の巡視船等が協力して捜索を継続中。

3.自衛隊の捜索態勢
護衛艦「あたご」、「いかづち」、「はるさめ」、「しらゆき」、試験艦「くりはま」、敷設艦「むろと」その他内火艇等小型舟艇6隻、(更に、護衛艦「あけぼの」、「はまぎり」が現地へ航行中)固定翼機(海上哨戒機)1機ヘリコプター4機

4.その他
10時10分より、江渡防衛副大臣が現地(千葉県勝浦市)に入って対応を実施中。

※午前6時18分に、防衛事務次官を長とする「連絡・対策室」を設置

これは、午前9時に官房長官が記者会見で発表したこと以外は、全く述べられていない。海上自衛隊、あるいは防衛省は積極的に国民に知らせる積りは全く無いのだろう。もう二十年以上前になるが、東京湾で潜水艦なだしおが釣り船と衝突沈没させ釣り客30人以上を殺した事件があった。あの時も注意義務は潜水艦側にあり、救助義務も潜水艦にあったにも係らず、乗組員が全く救助活動をしなかったと非難されていたことを思い出す。今回も事故の起きた時間帯は漁船や貨物船の多く集中する時間帯であるという。そして本来護衛艦は、ブリッジに正面の監視と両サイドの監視を3人で行い、勿論近くの海を監視するレーダーも備えられている。いくら小さな漁船だとはいえ、航海灯は付いているはずである。そして右側に舟を見つければ回避義務はその船、今回は「あたご」にあるという。なだしお事件の時も盛んに言われていたが、自衛艦は回避義務は民間にあると勘違いしているのではないか。少なくとも、自鑑が気が付いていれば警報を鳴らすことも出来ているはずである。そしてもしその場で救助艇をおろしていればあるいは漁船の乗組員を発見する事も出来たかもしれない。勿論衝突と同時に海に跳ね飛ばされ、そのまま沈んでしまった可能性は大きいだろう。しかし、午前8時頃のTVによる、中継場面を見ていると、「あたご」の内火艇が海面に下ろされ活動している様子は見えない。そして、このBLOGをUPする23時20分になっても、防衛省のHPには何の変化もない。きっと勤務時間が終えて係員は家庭に帰っているのだろう。国民は誰が守っているのだろう。国民の心配を、率先して解消するのも、防衛ではないのか・・ 昔 帝国陸・海軍は統帥権は天皇にありとして、暴走したといいます。防衛庁が防衛省になり、おたく大臣に統治されているそうです。今防衛省に勤める御役人は、接待ゴルフと退官後の天下り先確保のみが、自己の行動基準なのでしょうか、あるいは今回ハワイからの帰りに事故がおきたことが象徴しているように、忠誠を誓う相手は、日本国民ではなく、アメリカなのでしょうか?? あたかも、沖縄の海兵隊員のごとく・・・
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季節はまちまち????

2008-02-18 23:11:43 | 我が家の庭
玉蔵院へ行き、疲れて昼寝をしている間に、ママはリビングを片付け、お雛様を飾り始めていた。朝一で3階押入れから二組のお雛様を下ろしていたのです。我が家の雛人形は八段飾りでしたが今は段飾りをすることはありません。だから、三人官女も、五人ばやしも人形は出ていますが、お道具はほとんど出してもらえません。一方、市ヶ尾から数年前に引っ越してきたお雛様は最初からお内裏様だけですから、一方にゆったりと飾られています。やはりお雛様たちも、年に一度でも出してもらえてほっとしているようです。今日は昨日のBLOGに自らが刺激されて、いろいろ動き回りました。お雛様の箱を下ろし、庭の写真を撮影し、寒桜を確かめに行き、玉蔵院の紅白梅をもう一度見に行きました。我が家の庭は昨年、一昨年に比較して花は少なくなっています。06年には咲いていた花が見当たりません。咲いていたヤマホロシや、ピラカンの花は影も形もありません。水仙も咲いているのは一箇所だけになっています。これは良いことなのかどうか、ムベの実がほとんど食べられてしまっていることです。自分の縄張りにして我が物顔に目白を追い払っていたヒヨドリは姿を消し、今は目白がユズリハの木の上で盛んに囀っています。あの家の寒桜は2分か3分咲きです。しかし昨年は全体の写真がありませんから、比較して良く咲いているのかどうか良く分かりません。しかし、花が付いている部分が非常に少ないので、何か遅いような気がしています。一方、玉蔵院の梅は、前回見に来た時よりも、蕾も小さくなったような気がします。そんなことがあるとも思えませんが、正直勢いがなくなっている感じがします。昨年なぞは、冬の寒さが無かったので、桜の開花が遅れたといわれていました。今年はこれだけ寒さがあったので、気温が上がれば一気に桜の開花はあるかも知れません。21日には浜離宮や安田庭園の見学会に参加します。今のお庭の状況と同時に、今年の桜の予想も聴いて見たい気がしています
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写真の効用 おととしの2月には???

2008-02-17 23:26:00 | 我が家の庭
毎日の写真が残っているわけではありませんが、ここ数年の写真はパソコンの中に残っています。2月は年間でも一番写真が少ない月ですが、残っている写真を見ると、思い出も甦ってきます。今年は3日・10日・13日と3回写真が残されています。3日も10日も雪の写真です。13に日は百花園に花を探しに行きましたが、まだまだ冬。春はその兆しをほんの少し示していただけでした。ところが昨年15日の上野公園の写真には、寒桜が満開になり、花びらが散っています。そして庭の写真を見ても、バラの芽が数センチにまで伸びている様子が見られ、12日にはお雛様も飾られています。もっと驚いたことには、一昨年には、すでに5日にはお雛様が飾られています。年を取ると気が短くなるといいますが、むしろメンドクサガリノ傾向が強くなるのでしょうか。明日には朝からお雛様を出さねばなりますまい。そして我が家のすぐそばの家では、15日には寒桜が満開になっている写真がありました。最近見に行っていないが、目に留まっていないところを見ると、まだ咲いていないのではなかろうか。これも明日早速 確認をしなければ・・ 05年まで遡ると、不思議なことに、ムベはまだ熟していないらしく、食べられている様子は無い。今年 熟したムベがほとんど食べつくされているのとは対照的である。これはいけない。今年のムベの様子は写真に残してあったかな・・・ それにあの年には25日に大雪が降ったらしく、13時ごろ撮った暗く沈んだ雪景色が残されている。話は戻るが昨年の25日の写真は、玉蔵院の紅白梅と、我が家のすぐ近くにある河津桜がそれぞれ満開で遺されている。考えて見と玉蔵院へ行ったのは一ヶ月前なので、あるいはもう咲きそろっているかこれも、明日確認をしよう。
我が家のパソコン環境も、数年前までは、3台のパソコンのどれからでもファイルを見ることが出来、一つのプリンターで印刷をすることが出来ていたが、何度かメインのパソコンがクラッシュしているうちに、面倒くさくなり、それらが全く使えなくなってしまっている。せめてXPを使っている2台のパソコンはつないでおこう。MEのパソコンだって、文章を書いたり、インターネットにつなぐくらいは問題ないが、たとえば、そこの会社がソフトをバージョンアップなぞすると、MEでは接続できなくなるのが寂しい。いま、VISTAが全く売れていないという。自分の息子や婿さんも新しいOSを使っている人は誰もいない。仕事はすべてPCでこなし、一人はフリーアドレスだったが、職種が変わってどうなったのだろう。それでも皆XPで十分だという。先だってもわざわざ個人用のPCをXPと指定して購入していたようだ。しかし、パソコンが便利なツールであることには間違いない。デジカメの写真にしても、アルバムにしておいたのでは、去年の、06年の・05年のなどと簡単には探し出せない。年を取ればもっとメンドクサガリになるだろう。従ってここに書いたことをママもすぐ検証できるようにしておくことが必要だ。そうすればママから、おととしはお雛様は5日には出ていたわよ などとという指摘があるかも知れない。正直それも必要な年代になってきましたね・・・・
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王朝の恋 出光美術館

2008-02-16 20:15:34 | 展覧会から
むかしおのこありけり・・・で、出だしだけは知っていても もてすぎた男が、はるばるあずまの国へ逃げていった紀行文くらいにしか、関心が無かった伊勢物語では有るが、友人から行ってみたら素敵だったよと推薦を受け、ちょうど金曜日だったこともあり、出光美術館へ行ってきた。そこには無知な思い込みからは想像もつかない世界が広がっていた。美術館発行の図録に 上野英二氏は次のように論じている。(一部のみ抄録)「古来日本の美男子の代表と言えば、光源氏と在原業平であるが、光源氏は業平をモデルにしたとも言われる架空の物語であり、伊勢物語が無ければ、源氏物語もあるいは成立しないので、本当の美男子は業平のみと言っても良い。その容貌は国家の正史たる「日本三代実録」にも「体貌閑麗」と書かれているという。・・・然るにその恋に対するスタンスは、光源氏と業平では全く異なる。すべからくその作者が男性であるか女性であるかによるように思われる。伊勢物語には狩をする場面が初段を始め7箇所くらいあるが、多くの場合それが恋に発展しているとのことである。伊勢物語初段の男は仏都平城宮郊外で鷹狩をした。その途上で「女はらから」に巡り会い、「いちはやく」、これをおっていった。これは優美典雅という一般的な平安貴族の恋のイメージからすれば、些か過激というべきであろう・・・ さて展示に戻ろう。最初は在平業平図。なるほど美男とはこんな人を言うのか、続いて絵巻。ただ本物を見ただけでは分からない小さな脇役を、ピックアップしてくれているのはありがたい。巻物の色の美しさ驚く。不二の裾野を行く場面では、樹海のなかに居る鹿や猿の群れ、空飛ぶ鳥などが書き込まれているが、書かれているところを教えられ、良く目を凝らして初めて分かる大きさなのだが、その描写の的確なことに驚く。引き続いて俵屋宗達の作と伝えられる、色紙が展示されている。すべての段を展示しているわけではないがその雰囲気は十分に伝え見ごたえがある。自分には第八十八段 「月をもめでじ」と題された色紙が印象に残った。地が金なので満月を表現するにはこれ以外には無いのであろうが、真っ黒な満月を、数人の男が眺めている。八十八段の解説にはこうある。「中年になった男たちは、連れ立って月見に興じていた。その中の一人が、『何気なく習慣づいている月見も、もうすまい。月が積もれば、人の年も重なって老いてゆくものだから』と詠んだとある。次の部屋は 東下り  ある男の旅愁 と題し、酒井抱一の八ツ橋図屏風から始まっている。やはり不二の絵と八つ橋は絵になりやすいと見えて、その数も多いようだ。そのあとは、伊勢物語屏風。知らないで見ていれば何のことか分からないが、六曲の屏風に12段の物語、一双で24段が表現されている。ヨーロッパの宗教画でも、聖書の言葉を知らなければ絵の内容を理解できないというが、聖書は一つしかない。ところが日本の場合は物語りは無数にある。江戸時代の教養とはどのくらいなのだろう。果たして我々は前に進んでいるのだろうか。伊勢物語に限らず、和歌にしても、川柳ですらその本歌を知らなければ理解できない となると、我々、もとい、自分の知識なぞ、どこによりどころを持てばよいのだろう・・・・
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久し振り ワンゲル同期会

2008-02-15 13:20:22 | 仲間と
昨日、学生時代のクラブの仲間11人が集まり、久し振りの(前回は06年12月だった)同期会を開催した。連絡をした12名中の11人だから、皆もたまには顔を合わせたいと思っていたのだろう。ただただ何をするのでも、何かを決めるのでもなく、ひたすら酒を飲み、おしゃべりに時を過ごしておりました。奥様とのコミュニケーションの苦労はお互い様ですが、幸い今年も高齢者離婚を宣言された人はいないようです。大学を卒業した時仲間は17名いました。卒業以来すでに4名の仲間を失って、一人連絡が取れない。学生時代には比較的アクティブな人達が亡くなっている。上下の世代を見ても、4人亡くなっているのはかなり多い。その代わり残っている人は元気だ。トレッキングに、釣りに、ハイキングのボランティアに、ゴルフは勿論、菜園をもう何年も続けている人もいる。最近は2年間の介護講習を受講し始めた人もいるという。その中で、自宅で親を介護している人は大変だ。ちょっと出るのにも、妹を頼んでいるという。ましてご両親が健在の方は大変だ。元気に独立して生活しているとのことだが、たいしたものだ。昨年親を施設に入れることが出来た人は、肩の荷が半分下りたように、明るくなってきた。自宅で介護とは24時間365日だもの・・・ 
PCのスキルも皆さん凄くなっていましたね。FJ氏はPC2台とHDD5台を駆使して、すべての写真をPCに取り込み整理し、ドラマや映画までも取り込んでいるので、本当に便利だと言っておりました。またYN氏はトレッキングの時の写真を最初はCDに焼いていたが、PCを持たないという人のために、DVDを製作したとのこと。見てみましたが驚きました。見ているとヒマラヤへ行きたくなりますね。これを見た奥様が、あれも、これもと、次々に素材を持ってきて、その方も大繁盛のようです。昨年からPCに取り組んでいるYD氏も葉書などへの印刷はお手の物になり、写真は基より地図も取り入れた葉書を送ってくれます。
同期会は、絶対にメンバーは増えません。年に一度くらい、皆が集まれる機会が出来れば幸せですね・・・ 連絡の取れない人にも、何とか連絡をつけて・・・

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向島百花園

2008-02-13 23:59:00 | 生活の中で
寒かったですね・・・・ 本当に。今月に入り何度も行く積りで挫折していた向島百花園へやっと行ってきました。日暮里からバスに乗ることにしました。思いのほか長丁場となり、東京の下町探索の旅となりました。驚いたのは年寄、自分で言うのもなんですが、私なぞ、全くの若造に見えますから、乗ってくる殆んどの人は80歳を超えているのでしょう。日暮里から乗った人の半分以上、途中から乗る人のほぼ全員が、老齢者用のパスを持っているようです。新宿や渋谷は勿論、銀座では絶対見かけない老人のオンパレードです。驚きました。これでは浦和でバスに乗るよりも平均年齢は高いような気がします。この印象は日暮里駅を出て区役所を過ぎ
さらに三河島駅や白鬚橋東といった広い通りを行っても変りませんでした。広い道に出て、年寄が降りるとすぐ、同じくらい老人(この言葉は嫌いですが、自分が見ても老人なのです)が次々と乗ってきます。これは百花園前で下車するまで変わりませんでした。考えようによっては、都内・下町というのは、年寄にとって暮らしやすいところなのかも知れませんね。ただ・・・ いくらノンステップバスとはいえ、乗るのはともかく、降りるのは大変草でした。自分の持論である、年をとったら歩いて行けるところで全ての用が足せる所の方が良いですね、浦和の様な小さい町にも捨て難い何かがあると思ったことでした。所で、百花園です。さすがに今時咲いている花はほとんどありません。案内板に拠ると草本類でスイセンとせつぶんそう、木本類で、そしんろうばい、さざんか、かんつばき、つばき、うめ、に しなまんさくと草本類2種と、木本類6種類に過ぎません。しかも寒椿、椿、山茶花は時期が外れていますし、そしんろうばいや梅ですら、早咲きを除いては、蕾がふくらみはじめたかな・・と思うくらいのものでした。感心したのは、句碑が所狭しと建てられており、それなりの風情をかもし出していることでした。これだけの句碑は、自分が幼い頃過ごした松山の町以来のことでありました。ただ・・・自分にはあまり好きな句はありませんでしたが・・・ 最悪のの条件の時に拝見しているわけですから、言いづらいのですが、先に行った小石川後楽園や、六義園・新宿御苑に比較すると、絶対的な空間が足りないことによる、狭さを感じてしまいます。これが春になりいろいろな植物達が芽を出し、それがどんな風情をかもしてゆくか、これだけ評判のお庭であるだけに楽しみではあります。でも・・寒かった。4時を過ぎるとカメラを持っているのがつらくなる思いではありました。
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崇礼門(スンレムン)(南大門)消失

2008-02-12 23:14:41 | メディアから
ソウルへ行ったことが無いので、その威容とか有難味を実際には知らないのだが、あのかわらが崩れ落ちる音には衝撃を受けた。韓国のメディアに言わせると、秀吉の朝鮮出兵でも、日本統治時代、ソウルを守る外周が崩されても、あの朝鮮戦争の時ですら守られてきた、国宝第1号の崇礼門(スンレムン)(南大門)が5時間かけてほぼ焼け落ちたという。午後9時前に出火して焼け落ちたのは午前2時とか3時とか言うのだから、どんな消火活動をやったのだという声だ出るのも無理は無い。焼け落ちてからいろいろなことが言われている。どうも消防は、文化財を管轄する役所の許可が無ければ、いくら火が出ていても消火活動が出来ない仕組みになっていたらしい。しかし担当者がおらず(あるいは決断できず)初期消火を一時間近く放置したといわれている。何でもこの門に関して消防マニュアル的なものは全く存在せず、まして消防訓練なぞ一度も行われなかったという。今は消防と文化庁(?)がその責任を押し付けあっているという。こんな中、文化庁(?)の長官が奥様を帯同し、航空会社のあご足つきでヨーロッパ招待旅行に行っていたことが発覚し、長官は今日辞任したと伝えている。さらにはこの門に9500万ウオンの保険金がかけられていたことが発覚。日本円にすると一千万円ですよね。さすがにこの金額は何だと問題になっているらしい。もし復元するためのお金だとすれば、一般民家よりも安く出来ると文化庁では思っていたのでしょうか。この100倍あっても足りませんよね。むしろ、民族の誇りをかけた建物であるのなら、絶対に火が出ない対策を徹底するべきだと思うのですが、韓国のお役人は、もし火が出ても少しは助かるとおもって保険をかけていたのでしょうか。自分たちが勤務しているビルにはいったいいくら保険をかけていたのでしょうか。知りたいものです。さらに面白いというか健全だと思うのですがメディア、特にTVがその対応を批判されていることです。KBSや、その他の局が現場から中継を始めたのは午前零時を過ぎていたといいます。その時放送していた3つの局はお笑いとドラマ、それにトークショウだったといいます。テロップはそれぞれ3回くらいは流れたといいますが、中継映像はいずれも3時間以上経ってからだったといいます。自分は今まで韓国は北朝鮮と国境を接し、北朝鮮軍が国境を越えれば2時間以内にソウルに達すると北の金何がしに脅かされていたと記憶していました。だから、非常放送の体制なども日本とは比較にならないほどシステム化されているものだと思っていました。もっとも、ミサイルが発射されれば、地球上のどこに居たって、30分以内に原爆が爆発するのですからどうしようも無いか・・・ 勿論戦争と火災は違います。しかしNYの9.10のテロだって、ある意味火災ですよね。中国だって共産党幹部の腐敗が全く止まらず、地方の民衆の不満は大変高くなっているといいます。権力を持つものが腐敗すると国がおかしくなる。たった一つの放火からですら、天井を覗くことが出来ます。如何思われますか・・・・
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