気ままな日々を 思いつくままに

旅の様子や
今日の庭
思いついたことなどを
気ままに 気楽に綴ります

身代わりの虎 多聞院

2007-01-02 22:48:44 | 狛犬・街道
病院の義母に新年の挨拶をしに行った。今年6月には99歳になる義母は、血色もよく、肌もつやつやしている。残念なことに我々に語りかけることは無くなって久しい。もし話すことが出来れば、何を話すだろう。きっと自分の若いときの話でも話し始めるだろう。きっと自分がいくつに成っているなどと言うことは忘れているだろう。自分が若く張り切って夫の源吉さんと活躍していた町会のことでも話し始めるかもしれないし、仲間といった旅行の話かもしれないし、よく通っていた生まれ故郷の富山の話かも知れない。いずれにしても楽しい話が次々聞けたと思うと残念です。
今年も元気に過ごして欲しいと願っています。
ところで、病院に向かう途中に、多聞院があります。この多聞院には多くの話が絡み何から書いてよいかわからないほどです。登場人物は、柳澤吉保・武田信玄・青木昆陽この三題話は中々難しいですよ。このあたりの土地は元禄7年から9年(1694~1696)川越藩主柳沢吉保の命を受けた重臣曽根権太夫の指揮により開拓が実施された。三村ガ拓かれ上富・中富・下富三村1400町歩に及んでいる。一区画が20間×100間で一軒分として配分された。この事業は野火止用水の関連で実施されたのですが、考えて見てください1400町歩に及ぶ事業が、たった二年で完成し配分されていること、さらには一軒あたりの配分地が2000坪にも及んでいることです。今手元に資料が無いのですが、確か水田ではなく畑として開拓され、敷地の一部は薪をとるための雑木林とされていました。さらに其れから50年後にはこの土地で青木昆陽が江戸で栽培に成功したサツマイモが栽培されるようになり、しかもそれは当時江戸で流行り始めた焼き芋屋用の商品として作られるようになったとの事です。話が飛び飛びでまとまりがつかなくなりましたが、三村が開設されたとき、村民の祈願所として多聞院が設けられ、吉保の所持していた信玄の守り本尊・毘沙門天がまつられることと成った。だからこの三題話には、上杉謙信も割り込んでくるのです。信玄は自分の守り本尊として金の毘沙門天を持ち、兜の市側に付けて出陣していたと言います。謙信にも刀で切り付けられたろ言うエピソードもあるそうです。謙信は毘沙門天の生まれ変わりだと信じていたとの事ですが、毘沙門天と寅との関係で言えば毘沙門天が奇跡を起すのはどうも、寅年・寅の日・寅の刻にあらわされることが多いらしい。鞍馬寺で上人を助けたときも、信貴山で聖徳太子に必勝の秘法を授けたときも、寅・寅・寅であった。そうか・・・・ハワイ空襲の成功の暗号、トラ・トラ・トラはこれから来ていたのか・・・
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勝鬨橋と富岡八幡

2006-12-17 14:07:42 | 狛犬・街道
ウヲーキングで、街中を歩いていると、様々な案内が目に入ってくる。勿論商店や企業の看板もそうだが、石碑や、案内板でその思いを伝えていることも多い。汐留地区は巨大な高層ビルが立ち並び、昔のことなぞ知る由も無いが、その一画に鉄道が始めて開業した、新橋停車場が復元されている。少し先に進むと勝鬨橋のたもとに着く。そこに一本の石碑が建っている。2メートル以上はある黒い石柱にひらがなで白く「かちときのわたし」とある。脇に立つ中央区教育委員会の案内板に拠ると、明治38年に京橋区民の有志が、船着場を設置し、渡し舟を開設して、東京市に寄付した記念に立てたものだとある。関東大震災後架橋運動が起こり、船の通行を妨げない可動式の橋が建設されることになったとある。そして橋の完成と同時に渡し舟が廃止されたと・・・ 驚くのは廃止された日付は昭和15年6月。関東大震災って大正15年。つい最近まで渡し舟だけが交通の手段であり、それで間に合っていたことに、驚くばかりです。一方水天宮を越えて富岡八幡宮へ行くと、新しく、伊能忠敬の像も設置されていましたが、参道の階段脇にいる狛犬は享保12年(1728年頃)、幕府公認の勧進相撲が行われたのが、貞享元年(1684年),など江戸も初期からの年代か残されています。さらに今、八幡橋と呼ばれている旧弾正橋は、関東大震災の復興事業により、廃橋に成ったものの、その日本最古の鉄製橋の由来が惜しまれ、この地に移設されています。さらに近くにある深川公園は、明治6年の政府による最初に開設された公園とのことである。案内に拠るとこのとき制定された公園は深川のほか、芝・上野・浅草・飛鳥山だったそうである。ここから先、隅田川の近くには、昨日も書いたがセメント工場の前に、「本邦セメント工場発症の地」なる大きなセメントに埋め込まれた銅版や、平賀源内電気実験の石柱が立っている。このあたり江戸と明治を結ぶ何かがありそうな気がするが・・・

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秋 飛鳥山の桜

2006-10-18 22:58:40 | 狛犬・街道
今日、飛鳥山公園で、桜を見ました。ちょうど夕日がスポットライトのように、桜を照らし、白い花が、輝いて見えました。よく見ると、寒桜ではなく、普通の桜が、この季節の変化についてゆけず、狂い咲きしてしまったようでした。
なぜ 夕方に飛鳥山にいたのか・・・ 演武会を28日に控え、稽古は週二日、開かれています。それに自分は、同好会の昇級テストが20日に予定されています。とにかく今月は、合気道漬けなのです。しかし、しかしですよ、一つのことだけに集中すると、どこかにぼろが出るのが昔からの癖・・・ だから都心に出るときは、美術館めぐりや、博物館めぐりをする事にしたのです。今日はその二回目。予定では、渋沢史料館の青淵文庫・晩香廬の内部公開を見る予定で言ったのですが、何と、時間は15時45分まで。しかも土・日・祝に限ると・・・・ やむを得ず、飛鳥山博物館へ入館して、「遠くと近くの熊野 中世熊野と北区展』を見ようとしたら、何とこの展示は21日から・・・・何とも中途半端な気持ちで博物館を出てしまいました。出てから薄暗くなった空を避けながら、桜の写真をとり、まだまだ力が余っているようなので、岩槻街道(日光御成街道)を歩くことにしました。今の本郷通りです。暫く歩くと、平塚亭・・浅見光彦シリーズを読んだ事のある方なら、知っている平塚神社門前のお茶屋さん、さらに進むと、滝野川警察の前には、御成り街道の一里塚。日本橋から二つ目です。駒込を通り、本郷の追分・・(ここから中山道と岩槻街道が分かれました。一里塚もこのあたりにありました)を過ぎて、「かねやす」までは江戸のうちと称された「かねやす」の前を通り、湯島に抜けて行きます。さすがに二里近く歩くと、応えましたね・・・ 稽古が少し辛かったです。 歳かな???
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歴史と文化の散歩道

2006-06-15 22:16:56 | 狛犬・街道
アルバイトに行っている事務所の近くに、常磐橋公園がある。ここには日本橋川に架かる旧常磐橋と常磐橋門の石垣が残り、渋沢栄一の銅像が立てられている。
常磐橋のかたわらに立つ、千代田区教育委員会の設置した「常磐橋」なる立看板によると「この橋を常磐橋といい三代将軍家光のころまでま(原文のまま)、大橋とも浅草口橋とも呼ばれました。しかしその名はよくないので改名するよう、町年寄の奈良屋市右衛門に命ぜられました。市右衛門は自宅に寄宿していた浪人に頼んで、橋の名を考えてもらい、常磐という名を献じました。「金葉集」の太夫典侍の歌に、”色かえぬ松によそへて東路の常磐(常盤の間違い?)はしに掛かる藤波”とあり、その歌の心を松平の姓にかけためでたい名です。なお常盤と常磐の文字の違いがみられます。橋詰には北町奉行所があったこともあります。関東大震災後下流に常盤橋が架けられました。現在の石橋は枡形に使っていた石を用いて、明治10年(1877)に改架した都内随一の貴重な洋式石橋です。橋の銘板には常磐橋とあり城門の桝形の一部も現存しています。」 と有ります。
順序が逆になりましたが、常盤橋門については平成8年に東京都が発行した「歴史と文化の散歩道」なる東京都が設定した23コースの紹介本の中で 簡潔に次のように紹介している。
お江戸日本橋散歩 大手町ーー鎧橋 1.8km
常盤橋門跡・・・常盤橋門は、江戸城外郭の正門に当たる重要な門だった。現在は千代田区立常盤橋公園内に4mの巨大な石塁のみがのこり、城の威容をしのばせていると・・・・・・・・
写真は日本橋川の対岸から見た、常磐橋と常盤橋門の石垣です。川の中には首都高の橋脚が立ち、空には首都高の橋桁が広がっています。なんとも言えない光景です。以前はこちら側には汚い小屋が建てられていましたが今は撤去されています。首都高も早く撤去なり、地下化が望まれるところです。
 *幕府 は江戸に樽屋、奈良屋、喜多村の三町年寄を置いて、代々世襲とし、令  達、収税の他、町 の行政、取り締まり等の任に当たらせた
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十軒店今昔

2006-06-14 21:13:49 | 狛犬・街道
日本橋から3・4分北へ歩いた今川橋交差点の手前に、十軒店跡の案内板が建っている。場所は中央区日本橋室町三ーニー十五 その案内板に曰く
「十軒店は雛市の立つ場所として知られていました。「寛永江戸図」に「十間たな」と記された、石町二・三丁目と本町に・三丁目に挟まれた小さな町で、日本橋通りの両側に面していました。江戸時代の初め、桃の節句・端午の節句に人形を売る仮の店が十軒あったことから、この名があるとも言われています。
江戸時代中期以降、三月と五月の節句や十二月歳暮市には内裏雛・禿人形・飾道具
・甲人形・鯉のぼり・破魔弓・手毬・羽子板など、季節に応じた人形や玩具を売る店が軒を並べていました。『江戸名所図会』には「十軒店雛市」と題し、店先に小屋掛けまで設けて繁盛している挿絵が描かれています。・・・・・・・・」
今手元に「熈代勝覧(きだいしょうらん)の日本橋」と言う本があります。今年2月1日のBLOGにも書きましたが、三井記念美術館の開館記念特別展Ⅱのときに購入していたものです。この絵巻に載せられている場所がまさに今川橋に始まり十軒店から日本橋へ向かう大通りが描かれているのです。この絵図の十軒店の部分には、京糸物問屋(藤屋)、雛人形屋(万屋)・雛人形屋(大黒屋)・二八蕎麦饂飩屋(三河屋)・帳面問屋(槌屋)・薬種問屋(藤木)などが瓦葺の二階家の店として描かれ、その前に仮説の雛人形店が三軒描かれ、手前にも仮説店舗があるようです。そして沢山の人たちが行き来していますが、おおむね左側通行をしているように見えます。絵図では十軒店の両側、本石町とか、本町に比較して、十軒店の部分は人並みが倍くらい沢山書かれています。
今はビルの中に所どころ商店がある状況ですが、中央通りとしての華やかさは失われてはいないようです。
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天海僧正の知恵

2006-06-12 20:48:17 | 狛犬・街道
ここに、こんなお地蔵様が祭られているなんて、幾人の人が知っているのでしょう。日本橋西河岸地蔵寺の日限地蔵のことです。日本橋の南詰からほんの1・2分のところにそれはあります。その地蔵尊の安置されている寺の沿革を示した看板には、次のように記載されています。
    日本橋西河岸地蔵寺の沿革
当地に安置してある地蔵菩薩は、人皇四十四代元正天皇(715~724)の御宇
諸国巡歴中の名僧行基菩薩が衆生結縁のために暫く遠州四方城(静岡県引佐郡)に草庵を構えた折に、地蔵菩薩の霊告を受け、自ら御丈二尺八寸の御尊像を彫刻したものと伝えられています。
この地蔵菩薩は天海僧正の御持仏で、至心に祈願すれば日ならずして御利益を授かるところから、「日限地蔵尊」と呼ばれ、ことに延命祈願に霊験あらたかな事は古来より広く世に知られています。
享保三年(1718年)九月、勝縁の地として、ここ西河岸に遷座し、今日まで二百数十年を数えます。建立の当時は「正徳院」と呼ばれ、天皇直々に拝謁し奏上のできる格式高い寺でありました。その後明治維新の廃仏毅釈と大正十二年九月の関東大震災や戦災などによる多くの変遷を経て、今日に至っています。
なお、現在の堂宇は昭和五十二年四月新たに立て替えられたものです。
   昭和五十九年九月十四日
                     信徒一同
と有りました。天海僧正と言えば豊臣家に対して激しい敵意を抱き、豊臣家の滅亡のための作戦を立案し、幕府成立後は、黒衣の宰相として、幕府を裏から支え続け104歳まで生きた傑物と言われています。
しかしいまや誰も知らないビルの谷間の小さなお寺になってしまっています。さすがの天海僧正もこれだけの大変動にはついてゆけなかったと考えるべきなのか、それとも、この寺は地蔵寺教会と称しているように、独立した宗教法人のようですから、今に至るも、生き続ける生命力を維持しているのだ と考えるべきなのか。 ちなみにある説によると、天海僧正は現世における名前を 明智 光秀 と、名乗っていたと・・・・・・・





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迷子が出たら・・・・

2006-06-11 19:24:47 | 狛犬・街道
BLOGの準備をしていたら、また調べ物に嵌ってしまいました。今日は一石橋とそこにある「迷子しらせ石標」について書こうとして、今年2月に撮影した写真を調べているときに見つけました。その案内図は、東京駅の日本橋口を出て、皇居の方に向かい、ガードをくぐり交差点を渡った、新しいビルの前にありました。その案内図には交通公社ビルとか丸の内ホテル・JRビルと言った古いビルの名前が記載されていたので、思わず写真に撮っていたのです。新しいモダンな案内板がその脇に設置されていましたから、なぜ古い案内図が残されているのかは、わかりません。問題はそれからです。一石橋が案内図に無いのです。かなりデフォルメされている地図ですから、いろいろと並べ替えて見たのですが、一石橋のあるところには十石橋があるのです。PCの画面でなく印刷してみると、右隅に小さく平成4年3月調査と有ります。10数年この案内図はここに建ち、誰も橋の名前なぞ注意を払わなかったのでしょうか。もっともいまどき都心の真ん中で橋を目印に場所を探す人はいませんよね・・・・・ でも一瞬十石橋が実在するのかと思い、検索を掛けてみました。ありませんせしたね・・・・ やはり
やっと本題です。一石橋の西詰には安政4年に建てられた迷子しらせ石標が今も残り、都の有形文化財(歴史資料)として保存されています。ここに建つ都教育委員会の建てた案内板にはこうあります。「江戸時代も後半に入る頃、この辺りから日本橋に掛けては盛り場で迷子も多かったらしい。迷子が出た場合、町内が責任をもって保護することになっていたので、付近の有力者が世話人となり安政四年(1857)にこれを建立したものである。
柱の正面には「満よい子の志るべ」、右側には「志らする方」、左側には「たづぬる方」と彫り上部に窪みがある。利用方法は左側の窪みに迷い子や尋ね人の特徴を書いた紙をはり、それを見る通行人の中で知っている場合は、その人の特徴を書いた紙を窪みに貼って迷子や尋ね人を知らせたという。いわば庶民の告知板として珍しい。このほか浅草寺境内と、湯島天神境内にもあったが、浅草寺のものは戦災で破壊された」  この看板を読んでいると面白いことが見えてきます。まず 今は何かビルの谷間のようになり、歩く人なぞほとんどいませんが、江戸時代後期には浅草や神田明神と並ぶような人出の多い所だったらしいこと。そして迷子を保護する責任は、町会が持っていたことです。警察がある訳でも、民生委員がいるわけでもありません。しかし迷子を見つければ、町内の誰かが風呂にいれ、食事をさせて寝るところを与えていたのです。一方 迷子が出た町会では、皆が鉦や太鼓を打ち迷子を皆で探し回ったと言います。同じ長屋に住む人たちはそこにすむ子供たちを地域で育てていたそうです。もちろんいたずらをすれば叱り飛ばしますし、親の帰りが遅いときには食事もさせたと言います。だからこそ迷子が迷い込んできても、誰かが世話をしたのでしょうし、出来たのでしょう。近頃子供が犠牲になる痛ましい事件が、立て続けにおきています。見知らぬ人だけではなく、近所の人はおろか、自分の父親は基より、母親ですら信じられないことが現実になっています。もちろんこのようなことは、ごくごく少数であり、特殊なことだと理解しています。現実に子育てをしている方々が大変な重荷を抱え、全力で取り組んでいることは事実です。残念ながら今の社会は砂粒の集まりです。決して岩にはなりません。集めようとしても次々に零れ落ちてゆきます。
う~~~~~~~~~~~~~~~~~ん すっかり横道にそれてしまいました。
だからどうする。 だからこうするの解の無い駄文を連ねても始まりません。
私に出来ることは、昔の人たちがこんなことをやっていたよと伝えることだけです。子育て中のかたがた、ご自身の体を大切に・・・・・・
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山王様は不勉強??????

2006-06-10 19:30:29 | 狛犬・街道
なんとも釈然としない気持ちでこれを書いている。自分の中には、神社には氏子の町があり、そこの住人が神輿や山車を出すのだと思っていた。だから神社などの、HPなどには、この町が神輿を出すとか山車が何処から出るなどと言う情報がきちんと載っているものだと思っていた。神社のHPなぞ見る機会ほとんどありませんが、前回のBLOGにも書きましたが、銀座の中央通りには御旅所は基より、祭礼の提灯を、飾った店もほとんど有りません。銀座は氏子の町かどうか調べようと思いましたがこれが難問でした。何処にも乗っていないのです。まず神社のHPには全く記載がありません。仕方が無いのでせめて神輿出している町会を調べようとしましたが、どんなに検索を掛けてみてもヒットしません。思いついて神田明神を見てみました。こちらでも氏子の町を探すことは出来ませんでしたが、「神田祭御輿宮入一覧表」なるものがありました。確か境内には町名の一覧できる石碑があったと思います。写真も撮っていたはずですが、PCのクラッシュのドサクサにまぎれてなくなっています。ついでに三社祭りで有名な浅草神社のHPを覗いても、神輿を担ぐ氏子の町は出てきません。たしか今は地元には神輿の担ぎ手が少なくなって外部から人は入っているはずですが、これでは何処が地元だかだってわかりません
今月の初めに 伴 武澄 なる方の主催する 萬晩報 というHPに
「一日神領民として参加した遷宮のお木曳き」
http://www.yorozubp.com/0606/060603.htm
なる記事が載っていました。再来年の式年遷宮のためのお木曳きが今年五月から始まり、このお木曳きは神領民たる特権で伊勢市民しか参加できなかったが、前々回から一日神領民として参加できるようになったと書いてあった。そこで伊勢神宮関係のHPを見ていると、
伊勢神宮式年遷宮広報本部なる組織がこんなニュースを乗せていた
   お木曳き行事募集始まる!
   http://www.sengu.info/ycBBS/Board.cgi/005/db/ycDB_sengunews-pc-view.html?mode:view=1&view:oid=11
要するに伊勢市の各町会がお木曳きを行うのだが、この広報本部に応募してきた人たちを、町会に割り当てているらしい。今はお祭りに参加したい人は、沢山居るはずです。もちろん積極的な人は神社の社務所なり、町会に問い合わせ、参加しているのでしょうが、やはりあらかじめきちんと参加の道筋を立てていくことは非常に重要なことではないでしょうか。ましてや伊勢神宮が40年も前から行っていることを、なぜ山王様も・神田明神も・浅草神社も出来ないのでしょうか。それとも自分の検索技術が未熟なのでしょうか・・・・・・・・

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中央通りの神輿

2006-06-08 21:53:48 | 狛犬・街道
中央通りを歩いていると、日枝山王神社の、神輿が目に付く。日本橋一丁目の日本一見越しに始まり、日本橋二通・通参と続く。さらに京壱・京二東と続くが、京橋三丁目の御旅所は作られては居るが閉じられてしまい人影は無い。さらに、銀座に入ると祭りの提灯も出しているところは無い。もっとも日本橋を渡った北側でも、元論提灯は出ていない。室町や、神田はかんだ明神の氏子だからだ。お祭りになるといまだに昔の氏子の町が顔を出してくる。ただ郵便番号制が引かれたとき、古い町の名前は大幅に整理され、今では昔の名前を道けることは難しい。
銀座には中央道理には御旅所が作られていないので、てっきり氏子町ではないのかと思っているとそうではないらしい。
調べてみても良くわからない。一度神社へ行ってみよう。考えてみたら一度も山王様には参拝したことが無い・・・・・・
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街中の立看板

2006-06-07 19:41:04 | 狛犬・街道
あれこれ考えているとき、ふとこの一月の間、アルバイトに都心に出ているのだから、この周辺のたて看板を探訪してみようかなと言う思いにとらわれた。街を歩いているといろいろなところに看板類が見える。もちろんそのほとんどは、会社や店の名前を書いたものであるが、その商店の看板でも、何かを伝えるべく、いろいろなことを記載したものがある。ましてや、昔のことを解説した看板は、何かをそこを通る人に伝えたいと言う意識を持って書かれたものだ。一つ一つ丁重に見てゆくと、やはり面白い。これは自分が街道歩きをしいて、後で役立っている資料の第一が、神社の由来記や、街の片隅にひっそりと設置されている立看板だったからです。ちょっと考えただけでもこの辺りには、日本橋の由来に始まり、道路元表標、その下流にある一石橋には、両脇に金座の後藤家と幕府誂え物の後藤家があり、五斗と五斗で一石だとしてこんな名前になったなどと言う、看板も立てられています。さらには藤沢周平ゆかりの者までいろいろと・・・
明日から、始めましょう。その前に九日からは山王日枝神社の大祭らしいですね
日本橋・今日橋には小屋掛けみこしが置かれています。そのこともすこし・・・・
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京王線は玉川上水の上を走る???

2006-02-23 12:57:26 | 狛犬・街道
三宅坂をあがり、国立劇場の前を通り、半蔵門に出る。いよいよ道はここから西へ向かう。今は片側3車線もある大きな道だがこの辺り昔はどのくらいの広さがあったのだろう? たまたま手元にあった安政6年の分間江戸大絵図(もちろん雑誌の付録の複製)を見てみると半蔵門から四谷御門を経て今の新宿御苑へ向け 広い
道が書き込まれていますが、明治11年製作の実測東京全図によると。それほど広い道とは記載されていません。四谷御門のところまで一気に歩きます。JRの駅前に四谷見付の解説文があり枡形のご門をイメージしたという小さな公園がありましたがどうにもよく理解できませんでした。
現在は大きな較差店になっている大木戸を過ぎると、水道局の建物があります。
ここは安政6年の絵図にも玉川上水御役所として乗っているところで、江戸時代から水道の実務を引き続き担当している所となります。
内藤新宿に入っている筈ですが全くそんな風情のかけらも在りません。決して不満を言っているのではありもせんよ。上水御役所が今も水道局として機能している
こんな素晴しいところはめったにあるものではありません。私もサラリーマンとして、江戸時代から今も同じ日本橋にある 企業に勤めていましたが、単に古いことが良いのではなく、現代に継続していることこそが 一番重要な事なのかなと思っています。
ここからは一瀉千里です。とにかく高井戸まで行ってしまいましょう。 上には高速道路が通り、反対側には何かあってもとてもいけません。
初台駅を少し過ぎたところで、玉川上水が緑道公園になっているのに気がつきました。甲州街道に平行しているようなのでそこを歩いて行きました。 突然マンションのような建物が正面に立ちふさがりそこヲ2階分くらい中空にして通路を確保してあり、そこを抜けると幡ヶ谷駅でした。その先は真直ぐな道になっていて、脇から電車があがってきました。 そうか!!! 書いていて気がつきました。以前は
ここは京王電車が地上を走っていたんだ。きっと!!だからマンションの空間もそこに電車が走っていたとすれば理解できます。 京王電車の線路の一部は玉川上水を使っていたんだ!! きっと!!! 誰か詳しい人 教えてくれませんかね~~~~~ 
笹塚駅の手前に牛窪地蔵尊が祭られ、そこに道供養碑が建てられている。案内板に拠ると 道そのものを供養して報恩感謝の念を捧げることにより交通安全を祈ろうとする 全国でも珍しい碑だとのことです。 もともとは甲州道中に交差する
鎌倉道に建てられていたものだそうです。 昭和45年に甲州街道の拡幅に伴い牛窪地蔵尊が現在地に移転した時同じく移転したのでしょう。
下高井戸には5時頃到着しました。 思いもかけず賑やかな商店街が広がっていました。今度歩くとき宿場の中を見てみましょう
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甲州道中の第一歩

2006-02-22 22:40:56 | 狛犬・街道
甲州道中の第一歩となる筈であったが、出だしは何かと都心観光のようになってしまった。地図などの準備が出来ていなかったので、まず持ってゆく地図作りから始めた。取り合えづ八王子までを第一期分として、13枚をコピーした。 今まで何度も書いているように私の街道歩きの手本は、今井 金吾氏が昭和53年に日本交通公社出版事業局から発刊した 今昔三道中独案内です。記述にあわせて地図が、半ページ見開きに載っています。其れを一ページづつ、200㌫に拡大してA4の
地図として持ってゆくのです。原図は縮尺25000ですから、持つ地図は12500の縮尺になり 横にまっすぐ計ると3300m 道の長さだと凡そ一里です。
ですから宿場の有る所では2時間 何もない所では一時間半の目安で計画を立てます。
今回は日本橋からですが、中山道や日光道中と違って、歩き始めてすぐに見るべきものがあり、なかなか先に進めませんでした。まず 日本橋の次の次の橋 一石橋といいますが、そこに安政4年に建てられた迷子石が健在なのです。江戸時代には迷子が出ると、その町内の責任で保護していたとの事で、右側にしらする方 左にたつぬる方と彫られ、そこに迷子の特徴を書いて知らせたらしい。またこの橋の北側、今の日銀の所には金座の後藤庄三郎 南側には幕府呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤を5斗、5斗と5斗だから足して一石と洒落たとの事である。
自分の持っている本には続いて次のような記述がある。 甲州道中は呉服橋を渡って左折、東京管理局の所を南に抜け、東京駅八重洲北口の北、国際観光会館の裏から西に折れて東京駅を横断、丸の内側にぬけたのである。東京駅を横断すると、右手の国鉄本社は・・・・ 先に一石橋の袂に迷子石があると書いたがそれ以外で昔のものはどうだろう?? 呉服橋はとっくに埋め立てられ交差点の名前になっていることはもちろん、ここに記されている、東京管理局(国鉄の)八重洲口の東京国際会館、もちろん国鉄本社も跡形も無い。この本が出版されて、僅か30年であるにもかかわらず・・・ 日比谷公園の中にある見付石垣 この本の地図に拠ると日比谷公園の隣は最高裁判所になっているが、最高裁が三宅坂に移ったのは何時の事だろう。さらに地図に記載されている「桜の井」を探しに議事堂前の憲政記念館に入る。 そこにあった
この地の由来なる石碑に曰く 「室町時代の末期、大田道灌がよんだ 我が庵は 松原つづき海ちかく ふじの高根を軒端にぞ見る という歌の松原の一角に連なっていたこの地は 江戸時代の初め加藤清正が居住し、寛永年間に井伊家の居所となり 明治の初頭に及んだ 開国の難衝に当たった 大老井伊直弼もここに住んでいた。 とあった この地には日本水準原点も置かれている。 さて「桜の井」であるが、場所は現在も立派に残っているが 其れに関しては全く説明が示されていない。さらにその先にあった筈の「柳の井」にいたっては高速道路になっているようだ。
写真は一石橋の迷子石です。まよひ子のしるべと有ります。安政4年と言えば幕末も近く、安政の大獄の起こる1年前。世情は騒然としていたと思いますが、案内板によると有力者が世話人となってこれを建立したとあります。 懐の深さを感じますね
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甲州道中はどうする????

2006-02-13 23:46:58 | 狛犬・街道
甲州道中は日本橋から下諏訪まで44次 五十三里二十四町(208キロ)ほどある。ここを歩こうと思うが何か気が乗らない所がある。其れが何か考えて見ると、
どうも今まで歩いた中山道や日光道中と違って 街道にリズムと言うか、知っている所がないというか、どう歩いたらよいのか見当が付かない所があるのです。
中仙道などは特に感じますが、宿場と宿場の間がきっちりしており、およそ2里か3里の間隔を持って設置されています。そして今はなくなっていますが1里おきには、茶屋が設けられています。これは日本橋から京都まで一箇所の例外を除いて変わりませんでした。例外としては佐久平から信濃に入る和田宿と下諏訪宿の間が 5里有ったくらいです。 其れに反して甲州道中の場合には、甲府までの宿場の間隔とと甲府から先の宿場の間隔が全くといってよいほど違っています。そしてその宿場にしても八王子から先には大きな町は甲府までないといっても良いくらいです。
道中案内を読んでいても、日光道中記などに良く出てきていた川を利用した交通のことなども殆んど出てきません。 交差する鎌倉古道などむしろ南北に繋がる道の方が古い感じがします。 やはりこの道は徳川幕府の政治的な道だったのでしょうか。あるいは五街道の中でも一番何も無い道かも知れません。 それならそれで
何を見る事が出来るのか、新しい楽しみではあります。 また八王子までの多摩地区には、神社や寺が多くあり、何か一癖あるそうな気がするので、あるいは
歩き出す前に多摩の神社巡りをしておいても良いのかも知れません。
考え始めたら気持ちがあちこちに飛んでなかなか纏まりません。 これも楽しみの一つでしょうかね。
 
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旅の前の楽しみ

2005-11-06 22:00:05 | 狛犬・街道
甲州街道に乗り出すべく 私の街道歩きのバイブル 「今昔三道中独案内」を読み始めている 気が付かなかったが 甲州道中は甲府までの36里弱と 甲府から下諏訪までの18里ではどうも性格が違うようなのです 宿の間の距離を見てみると甲府までの区間に於いては 日本橋から新宿までの2里は長い方で此処を含め2里を越える区間は4つしかありませんし 逆に10町以下のところも沢山あります ところが甲府を越えると宿の間が急に長くなり甲府から韮崎が3里半 韮崎から大が原が4里 途中1里台の宿が3つ続き その後上諏訪まで3里台が3つ続いています
今回は日光道中のように日帰りで繋ぐのでは やや効率が悪いので途中を3行程か4行程に分けて 10日間か11日間で歩く予定を組んだ方が良さそうです
出来れば今年中に甲府まで行ければとは思いますが 今までとは違い今月中は週2回の稽古が入っているので 果たしてどうなりますか・・・・ そしてどうせ下諏訪まで行くのなら もう一度奈良井から木曽街道を歩いても見たいし 和田峠を越えて佐久平の中山道を逆に歩いてみても面白いかな などいろいろな思いが出て着て纏まりそうもありません 暫らく本と地図を見ながらあれこれ考えて見ましょう そうそう八王子までの街道沿いや 青梅街道には狛犬か沢山居るんですよね どうせなら甲州道中の中に少し街道から外れても訊ねたいし・・・・ 
写真は01年12月に歩いたとき撮影した塩尻 阿禮神社の狛犬です もう一度
あいたいな~~~~
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奥州街道 芦野・白坂・白河

2005-09-29 23:40:02 | 狛犬・街道
白河の町を抜け 阿武隈川を渡り会津越後道と仙台松前道との分かれ道にある戌辰戦役碑まで進む これから先は幕府の道中奉行の配下を離れたという 
5街道を歩くという目標は此れで3つ達成したことになる しかし中山道を歩いたときや 日光道中を歩いていたときの充実感が浮かんでこない 
特に宇都宮から先の印象が非常に薄い 決して貧しい地域だとは思わない むしろ農家の夫々にとっては 大きいとさえいえるような気がする 江戸中期 文化9年から15年にかけて全国をを周遊した 九州佐土原の大先達 泉光院もこのあたりを巡っているが 非常にゆったりと農家の人と句会を開いたり 大話をしたりと 楽しく過ごした様が書かれている 今でもこのあたりは豊かなのだろう しかし宿を出て 歩き始めるとほとんど人に出会わない 勿論車は脇を走り抜けてゆくが 歩いていると関係ない 小さな集落を通っても ほとんど人影は無い 
今日 宿を出て初めて人と話したのは 栃木と福島の境に 境の明神が両側に並んでいる その栃木側の境の明神の石垣を解体整備していてその職人と話をした 中々親切な方で写真を撮りましょうと 今回の道中で唯一の写真を撮ってもらった
芦野を出たところにある西行や遊行上人の伝説や芭蕉や蕪村の句に残る遊行柳から2里半 時間にして3時間の行程である此処から白坂までは半道 何も無い所でそのまま進む 山間に入りそこを抜けると吉次八幡なる社があった 何でも義経の後援者 金売り吉次はこのあたりで300人からの盗賊団に襲われ弟2人と共に殺されたという 先に平泉に言っていた義経は兄弟の墓を立て 八幡神社にその霊を祭ったという 休憩をして出発したのが12時30分 戌辰戦役で激戦があったと言う白河松並に着いたのが14時32分 白河の街中をひたすら通り抜け最初に書いた所に到着したのが15時58分 戻って小峰城跡に入ったのが16時30分 白石からの電車が1時間間以上も無く 白石駅を出たのが18時5分・・・・・ 
此れで私の奥州街道歩きは終了しました
今回 白河の関には寄れませんでした 寄り道すると10キロくらい余分に歩くことになりそうだったからです 東北の入り口としての白河の関は一度は見る必要が有るかなと 今にして思います 今度は来るまで訪ねて見ましょう 

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