白河の町を抜け 阿武隈川を渡り会津越後道と仙台松前道との分かれ道にある戌辰戦役碑まで進む これから先は幕府の道中奉行の配下を離れたという
5街道を歩くという目標は此れで3つ達成したことになる しかし中山道を歩いたときや 日光道中を歩いていたときの充実感が浮かんでこない
特に宇都宮から先の印象が非常に薄い 決して貧しい地域だとは思わない むしろ農家の夫々にとっては 大きいとさえいえるような気がする 江戸中期 文化9年から15年にかけて全国をを周遊した 九州佐土原の大先達 泉光院もこのあたりを巡っているが 非常にゆったりと農家の人と句会を開いたり 大話をしたりと 楽しく過ごした様が書かれている 今でもこのあたりは豊かなのだろう しかし宿を出て 歩き始めるとほとんど人に出会わない 勿論車は脇を走り抜けてゆくが 歩いていると関係ない 小さな集落を通っても ほとんど人影は無い
今日 宿を出て初めて人と話したのは 栃木と福島の境に 境の明神が両側に並んでいる その栃木側の境の明神の石垣を解体整備していてその職人と話をした 中々親切な方で写真を撮りましょうと 今回の道中で唯一の写真を撮ってもらった
芦野を出たところにある西行や遊行上人の伝説や芭蕉や蕪村の句に残る遊行柳から2里半 時間にして3時間の行程である此処から白坂までは半道 何も無い所でそのまま進む 山間に入りそこを抜けると吉次八幡なる社があった 何でも義経の後援者 金売り吉次はこのあたりで300人からの盗賊団に襲われ弟2人と共に殺されたという 先に平泉に言っていた義経は兄弟の墓を立て 八幡神社にその霊を祭ったという 休憩をして出発したのが12時30分 戌辰戦役で激戦があったと言う白河松並に着いたのが14時32分 白河の街中をひたすら通り抜け最初に書いた所に到着したのが15時58分 戻って小峰城跡に入ったのが16時30分 白石からの電車が1時間間以上も無く 白石駅を出たのが18時5分・・・・・
此れで私の奥州街道歩きは終了しました
今回 白河の関には寄れませんでした 寄り道すると10キロくらい余分に歩くことになりそうだったからです 東北の入り口としての白河の関は一度は見る必要が有るかなと 今にして思います 今度は来るまで訪ねて見ましょう
5街道を歩くという目標は此れで3つ達成したことになる しかし中山道を歩いたときや 日光道中を歩いていたときの充実感が浮かんでこない
特に宇都宮から先の印象が非常に薄い 決して貧しい地域だとは思わない むしろ農家の夫々にとっては 大きいとさえいえるような気がする 江戸中期 文化9年から15年にかけて全国をを周遊した 九州佐土原の大先達 泉光院もこのあたりを巡っているが 非常にゆったりと農家の人と句会を開いたり 大話をしたりと 楽しく過ごした様が書かれている 今でもこのあたりは豊かなのだろう しかし宿を出て 歩き始めるとほとんど人に出会わない 勿論車は脇を走り抜けてゆくが 歩いていると関係ない 小さな集落を通っても ほとんど人影は無い
今日 宿を出て初めて人と話したのは 栃木と福島の境に 境の明神が両側に並んでいる その栃木側の境の明神の石垣を解体整備していてその職人と話をした 中々親切な方で写真を撮りましょうと 今回の道中で唯一の写真を撮ってもらった
芦野を出たところにある西行や遊行上人の伝説や芭蕉や蕪村の句に残る遊行柳から2里半 時間にして3時間の行程である此処から白坂までは半道 何も無い所でそのまま進む 山間に入りそこを抜けると吉次八幡なる社があった 何でも義経の後援者 金売り吉次はこのあたりで300人からの盗賊団に襲われ弟2人と共に殺されたという 先に平泉に言っていた義経は兄弟の墓を立て 八幡神社にその霊を祭ったという 休憩をして出発したのが12時30分 戌辰戦役で激戦があったと言う白河松並に着いたのが14時32分 白河の街中をひたすら通り抜け最初に書いた所に到着したのが15時58分 戻って小峰城跡に入ったのが16時30分 白石からの電車が1時間間以上も無く 白石駅を出たのが18時5分・・・・・
此れで私の奥州街道歩きは終了しました
今回 白河の関には寄れませんでした 寄り道すると10キロくらい余分に歩くことになりそうだったからです 東北の入り口としての白河の関は一度は見る必要が有るかなと 今にして思います 今度は来るまで訪ねて見ましょう