3日おきに、10センチくらいのガラス鉢に入りきれないほど、ブルーベリーの実が収穫できる。今日で4回目? 5回目? 不思議な事に咲いた花の数は決まっている筈なのに、どんどん実が増えているような気になってしまう。今日などは、ガラス鉢に入りきらず、1/4くらいは取り残している。我が家のブルーベリーは植えられて20年近く経つ。かなり大きな木が一万円で売られているのを奥方が見つけ、苦労して運んできて、藤のアーチの脇に植えられました。しばらくは鳴かず飛ばずで、殆ど実も成りませんでした。ここでブルーベリーにとっては大きな幸運が舞い込みました。ここ数年 藤が素晴しく生長し、見事な花を咲かせるようになったのです。我が家の庭では、注目が集まらないと中々世話をしてもらえません。注目されれば御礼肥や消毒など至れりつくせりになります。ブルーベリーも、藤が肥料を貰う時に、ここ数年お裾わけに預かっていたのです。藤は今つるが伸びたいだけ伸び、今朝なぞはパラボラアンテナにいたずらをして、我が家のスカパーの400チャンネル以降が見えなくなってしまいました。一方、ブルーベリーは、次から次へと、なすこん色の小さな実が熟しています。しかし気になることも一つ有ります。ヒヨドリが殆ど来ないのです。数年前でしたら、こんなに熟した美味しい実が成っている所を見逃すはずなぞ、無かったでしょう。ところが今年は朝晩に一羽か、二羽が実を啄んでそそくさと行ってしまいます。あまりに熱いのでどこかに避難しているのでしょうか。ところで、先日切り倒した棕櫚と並んで奥方から駄目出しの出ていたピラカンもついにその役目を終えました。今年、白いアイスバーグがバラのアーチ一杯に咲くとピラカンで見えない事が大きなきっかけの一つです。更に今の季節からすると、藤のアーチには藤は勿論、紫陽花や、萩、更には雪柳まで元気一杯に育っているので、ピラカンが煩くなり過ぎた・・ ピラカンが無くなって見ると、イルミネーションが、今までとは違った展開が出来そうです。我が家のプロデューサーに今から新しい展開を考えてもらいましょう
5月から月一回のペースで開かれていた、日本庭園鑑賞学講座の座学が終った。後は9月末の実地の見学を残すだけになった。庭園鑑賞学と言うから、一般人向けの講座と思い受講したが、どちらかと言うと、大規模な庭を造る人、あるいは大名庭園を管理する人のための講座であった。しかし普段は聞けない管理する立場から、庭がどのように構成されているかを聞くのも、新鮮であった。全体的な話は http://blog.goo.ne.jp/namiki_f/d/20080528を読んでいただくとして、今日の講座は、飛石から始まった。庭園に飛石が採り入れられるように成ったのは、茶庭の成立と関連していると言う。すなわち茶会の時、茶室に至る道筋を明示し、しかも降雨時に歩きやすく、更にその連なる姿が美しいからであると言う。その前者を「用」、後者を「景」と言う。安土桃山時代の千利休は「用を六分、景を四分」、弟子の織部は「用を四分、景を六分」と言っていたと言う。いづれにせよ、実用と修景の両者が重んじられていた。据付に当たっては、緩曲線状や折線状に配置して、歩く方向の視線を変え、広く景色を鑑賞させるようにする。 据付に当たっては歩幅に合わせる。普通は60センチくらいだが、飛石上は狭く歩き難いので、50センチ内外となり、和服の場合はもっと狭くなる。また左右の足の感覚は15センチくらいあるので、飛石は横向きに据える。更に飛石横幅の広い方を進行方向に据えるのを本継ぎ、斜めに据えるのを脇継ぎという。更に講座の中では、目地を入れるときにはぬれ雑巾を持ち、石に垂れたらすぐふき取って置くようにとか、完成した時は絶対に散水してはならないとか、施工上必要なことが丁寧に教えられていた。最後の項目は「延段」やはりこの「段」は「壇」と書くべきであろう。道順を示しながら快適に歩けるように、地面を保護し、美しく意匠された庭園工作物である。設置する場所の格式に応じて真<しん>・行<ぎょう>・草<そう>がある。玄関前などは切石を用いた真の延壇、茶室など野手を強調した場所は、自然石の丸石やゴロタ石を用いた草の延壇、中間に当たる部分には切石と丸石とを混ぜた行の延べ壇を用いる。
こんな事を聞いていたからといって何の役に立つわけでもない。しかし由緒ある庭園でただ「綺麗」だけでもつまらない。幸い都立の有料公園の年間パスポートも持っている。そんな庭園を訪ねたときや、寺院などでお庭を拝見する機会でもあれば、飛石一つ、延壇一つに注意を払ってみよう。河原講師の撮影した飛石や延壇の写真を見てもその多彩さに驚くと同時に、全てが完璧であるとは限らないといっていた。完璧なお庭のあら捜しをするのも愉しいかも・・・・ とんでもない生徒ですね。 反省!!
こんな事を聞いていたからといって何の役に立つわけでもない。しかし由緒ある庭園でただ「綺麗」だけでもつまらない。幸い都立の有料公園の年間パスポートも持っている。そんな庭園を訪ねたときや、寺院などでお庭を拝見する機会でもあれば、飛石一つ、延壇一つに注意を払ってみよう。河原講師の撮影した飛石や延壇の写真を見てもその多彩さに驚くと同時に、全てが完璧であるとは限らないといっていた。完璧なお庭のあら捜しをするのも愉しいかも・・・・ とんでもない生徒ですね。 反省!!
東京国立博物館で開かれている「対決 巨匠たちの日本美術」展へ何時もの仲間と行って来た。名だたる出品作品が多いせいか、少し混雑している。この展覧会が美術雑誌「国華」創刊120年・朝日新聞創刊130年を記念しての会であるので、主催者の気合も違っている。巨匠の対決は12組に及ぶ。図録から紹介する。
①運慶と快慶 :仏像が対比されている。坐像と立像だが、同じ地蔵尊を彫ったも のだけに対比しやすいだろうと紹介されている
②雪舟と雪村 :雪村は雪舟から直接学んではいない。雪舟の絵の直截な意志力 に比べ、雪村の画風は土着的な「奇」の魅力に富んでいる
③永徳と等伯 :桃山画壇の英雄に敢然と立ち向かったのが等伯だった。御所の襖 絵製作をめぐって、永徳が等伯の仕事を阻んだ事も、記録にあると言う
④長次郎と光悦:利休好みの茶碗と光悦の茶碗が対決の形で並ぶのは初めてだとい う。長次郎は利休好みを完成させ、光悦はその遺産に更なる装飾 美を完成させている。この対決の大きな成果と言えると評価している
⑤送達と光琳 :「黄金の対決」である。作品は代表作揃いで、装飾芸術の魅力を
堪能させてくれる
⑥仁清と乾山 :飾りの世界はこの二人の組み合わせにより、さらに多彩なものに なっている
⑦円空と木喰 :放浪の修験僧である両人にとって、仏像を刻む事は、あくまでも 宗教行為の一環であった。
⑧大雅と蕪村 :文人画を代表する二人。合作した「十便十宜帖」は、二つの異な る才能が火花を散らした場でもあった
⑨若冲と簫白 :「奇の巨匠」と呼ぶにふさわしい。現代の我々の想像力を刺激し て止まない不可思議世界を二人は創出した
⑩応挙と芦雪 :師弟対決。応挙は写生を基本に明画の様式も取り入れた。芦雪は 師の手法をマスターしたうえ、そのパロディを大胆に展開した
⑪歌麿と写楽 :方や美人画、方や役者絵。 歌麿が女性の肌の触覚から匂いまで も捕らえようとしたのに対し、写楽は歌舞伎舞台の妖しい超現実美をリアルに再現しようとした
⑫鉄斎と大観 :二人の富士山図は対照的だ。鉄斎の奇怪な富士山と、大観の雲海 に頭を出した鮮やかな富士は明治の画家の楽天的な自然観の象徴である
何時もなら、知ったかぶりの一つも言いたいところだが、疲れ果てて声も出ない。凄いものを見せてもらった。
①運慶と快慶 :仏像が対比されている。坐像と立像だが、同じ地蔵尊を彫ったも のだけに対比しやすいだろうと紹介されている
②雪舟と雪村 :雪村は雪舟から直接学んではいない。雪舟の絵の直截な意志力 に比べ、雪村の画風は土着的な「奇」の魅力に富んでいる
③永徳と等伯 :桃山画壇の英雄に敢然と立ち向かったのが等伯だった。御所の襖 絵製作をめぐって、永徳が等伯の仕事を阻んだ事も、記録にあると言う
④長次郎と光悦:利休好みの茶碗と光悦の茶碗が対決の形で並ぶのは初めてだとい う。長次郎は利休好みを完成させ、光悦はその遺産に更なる装飾 美を完成させている。この対決の大きな成果と言えると評価している
⑤送達と光琳 :「黄金の対決」である。作品は代表作揃いで、装飾芸術の魅力を
堪能させてくれる
⑥仁清と乾山 :飾りの世界はこの二人の組み合わせにより、さらに多彩なものに なっている
⑦円空と木喰 :放浪の修験僧である両人にとって、仏像を刻む事は、あくまでも 宗教行為の一環であった。
⑧大雅と蕪村 :文人画を代表する二人。合作した「十便十宜帖」は、二つの異な る才能が火花を散らした場でもあった
⑨若冲と簫白 :「奇の巨匠」と呼ぶにふさわしい。現代の我々の想像力を刺激し て止まない不可思議世界を二人は創出した
⑩応挙と芦雪 :師弟対決。応挙は写生を基本に明画の様式も取り入れた。芦雪は 師の手法をマスターしたうえ、そのパロディを大胆に展開した
⑪歌麿と写楽 :方や美人画、方や役者絵。 歌麿が女性の肌の触覚から匂いまで も捕らえようとしたのに対し、写楽は歌舞伎舞台の妖しい超現実美をリアルに再現しようとした
⑫鉄斎と大観 :二人の富士山図は対照的だ。鉄斎の奇怪な富士山と、大観の雲海 に頭を出した鮮やかな富士は明治の画家の楽天的な自然観の象徴である
何時もなら、知ったかぶりの一つも言いたいところだが、疲れ果てて声も出ない。凄いものを見せてもらった。
北京オリンピック開会式出席後福田退陣説が急浮上していると言う。素人目で見ていても、福田総理の状況がおかしい。サミット後にはは6日間の夏期休暇を早々と取り、休み明けから公明党との、党首会談を行い、先週中には内閣改造を行う予定だと、言われていた。サミットで内閣支持率を上げ、さらに改造をしてさらに内閣支持率をアップして、あわよくば、来年9月の衆議院議員の任期一杯解散を引き伸ばせると読んでいたらしいのだが、その目論見は簡単に崩れてしまったらしい。まず、公明党が先週行うはずであった党首会談に応じていない。総理大臣が会談を求めても応じないなどと、いみじくも現在の政治は層化の会長に握られている事が、誰の目にも明らかになった瞬間で有ろう。一宗教団体が、一国の政治を左右するなど、日本の政治状況は千数百年前に遡ってしまっている。公明党は何が何でも7月の都議会選挙が大切らしい。そのためには、何としても一月までには衆議院を解散しておきたいらしい。自分としては層化の都合がドウあれ、一刻も早く衆議院を解散し、民意を問うべきだと思う。それが層化の都合であれなんであれ、選挙は早ければ早いほど好ましい。自分は公明党は絶対に支持しないが、年内に選挙が行われるのであれば、悪魔にだって魂を売りたい心境である。少なくともアメリカの大統領が変わるときには、日本に措いても政権交代を実現していたいものだ。今の自民公明の与党では、オバマと全く話が出来ないのは自明であるから・・・ 民主にそれが出来るかって?? そんな事は問題にならない。むしろ今までの経過に白紙であるほうが、全く新しい関係をつけるのに、好都合であろう。中国では昨年一年間に八万数千件の暴動が起こっていると言う。共産党の一党支配による権力の腐敗がその根底にあるという。しかし中国は革命による建国以来、まだ50年である。それに反し日本に措いては自民党による一党支配が60年も続いている。50年にしか過ぎない中国の権力腐敗と、60年にも及ぶわが国の政治、官僚の腐敗とどちらが重いか、考えようによってはわが国の,官僚・警察と言った統治機構の腐敗は、社会保険庁を見るまでも無くわが国の方が腐敗の度合いは深い可能性がある。しかしわが国には、中国と異なり100年に及ぶ選挙の歴史がある。もし明日総選挙があり、民主党が多数を取れば政権は変わる。層化がどんな思惑を持つのか我々が知るすべも無いが、その目的が年内・あるいは1月の総選挙で有るのなら、その行動は大賛成である。層化の会長さん頑張ってください
以前から奥方が気にしていたことがやっと実現した。それは「棕櫚の木」です。アプローチの両側に植えられていましたが、右側の棕櫚は十数年前に切り倒しました。そのときおそらく根から毒が出たのでしょうか、その辺りに植えられていたさつきや雪柳が一斉に枯れてしまいました。そんな事もあり左側の棕櫚は、アンタッチャブルになっていたのだが、ここ一二年で急に背が高くなり、最近では高バサミでは葉を切ることも難しくなってきていた。注意してみていると少しの風でも、かなり揺れていっる。先日の雷の時も、激しく揺れる。若い人から、実家にも棕櫚があったんですよ。台風の時に倒れて実家の屋根を壊しましたなどと言う話が耳に入ってくる。倒れても家屋に被害が及ぶ事は無いが、車は2台止まっている。倒れればどちらかの車は必ずが被害を受ける。昨夜は婿さんがオレンジイエロウの新しいS2000で我が家に乗り付けていたが、突風にもおびえるようでは、おちおち置いても置けない。今朝は朝から切り倒す準備に入った。最初電動のジグソウののこぎりが役に立たないかと試みてみたが、むだ・・・ 奥方が昔から我が家にある両刃のこぎりを持ってくる。やっと仕事が前に進み始めるも、カタツムリの進むが如し。一時は、今日中に倒れないかも・・・・ 切り口にのみを楔として突っ込み少しのゆとりをつくり少しづつ、少しづつ、切り込んでゆく。もう一度のみを打ち直していると、バリッというような音が聞こえた。棕櫚に結んである紐に全体重をかけて引っ張る。バリツと言う音と共にドシンと地響きがして、バックさせていた車の前に倒れこんだ。自分が予想していたところより1メートル以上近かった。奥方の言う通り、葉を落としておいてよかった。危うく車の鼻先を撫ぜられるところだった。計って見ると 切り倒した棕櫚の本体は4メートル。切り株が50センチだった。切ってみると道路からの見た目が非常にすっきりする。こんな事ならもっと前にやっておくのだった。しかし倒された棕櫚はどんな悪さをするだろうか この一角には、花の咲かない藤と紫陽花が5本、ピラカンに松が植わっているが、どんな影響が出るか心配だ 今突風が吹いて雷が鳴っているが、もう心配ない。本当に気が落ち着く・・・ そして奥方の発案により、数年前日光東照宮で求めた「御神酒」を棕櫚の切り株に注ぎ、いたずらの無いように祈ったものであった。
月末には各種のカードや、保険料・税金など家計を預かる人には、大変な時期となる。今朝、我が家の家計担当から、見知らぬカードの請求書があると指摘を受けた事から問題が始まった。そもそもの発端はインペリアルカードをゴールドカードから普通のカードに切り替えた事だった。ゴールドカードなど一枚あれば十分なので、会費の高いインペリアルカードを切り替える事にしたのです。それは5月9日の事でした。5月20日には新しいカードも送られてきて、何の問題も無く処理は終了したはずでした。勿論廃棄されたカードがインペリアルのゴールドカードの番号名はずでした。請求書の問題が起こり何気なく。廃棄されるカードの番号を見てみると、自分が数十年前から使用しているカードの番号でした。インペリアルカードを切りかえり時に、このカード番号をホテルに伝えた記憶はありません。何故 廃棄する口座としてこの番号ががここに記載されているのか全くわかりません。
具体的に言うと、4542で始まるゴールドカードを4542で始まる一般カード
に切り替えを依頼して、ゴールドは取り消され、新しい4542の一般カードが送られているのです。ところが、送られてきていた書類を改めて調べると、5250のカードが取り消されていると言うのです。しかも従来5250で請求されていた5本の請求の内2本だけが4542へ移され、3本はUCが破棄をした5250へ請求されているのです。
繰り返しますが、今回の問題で、自分が5250で始まるクレジット口座を言った事は全くありません。全て「UCカード 審査センター」なるところで一方的に行った行為です。しかし依頼も無いのに「UCカード 審査センター」なる所は関係ない口座を廃棄できるのでしょうか。しかも新しいカードは5月20日に発行され、廃棄の手続きは6月24日になされているのです。私の抗議に、調査したイシダ(課長と称しているが、声の様子からすると、定年過ぎた嘱託者??)なる人物の話によると、間違いなく切り替えとの事で、書類は回っている。しかし4542のゴールドカードはすぐに取り消し処分がなされ、たまたま生きていた5250ナンバーの口座を取り消したと言う話であった。こんな事が本当にあるのか。もし不審な請求書、わずか420円だったに気が付かなければ、どうなっていたのだろう。6月24日知らないうちに口座を取り消された私の口座からは、7月7日に通常どうり引き落とされている。知らなければ8月5日にも引き落とすのだろう。このことを逆に考えれば、廃止された口座へ架空の請求を送り引き落とす事も可能なのではないか。絶対にありえないなどとは言えない気がしてきた。ネットは顔が見えないから怖いと言うが、カードに措いても同じなのではないか・・・・・・
具体的に言うと、4542で始まるゴールドカードを4542で始まる一般カード
に切り替えを依頼して、ゴールドは取り消され、新しい4542の一般カードが送られているのです。ところが、送られてきていた書類を改めて調べると、5250のカードが取り消されていると言うのです。しかも従来5250で請求されていた5本の請求の内2本だけが4542へ移され、3本はUCが破棄をした5250へ請求されているのです。
繰り返しますが、今回の問題で、自分が5250で始まるクレジット口座を言った事は全くありません。全て「UCカード 審査センター」なるところで一方的に行った行為です。しかし依頼も無いのに「UCカード 審査センター」なる所は関係ない口座を廃棄できるのでしょうか。しかも新しいカードは5月20日に発行され、廃棄の手続きは6月24日になされているのです。私の抗議に、調査したイシダ(課長と称しているが、声の様子からすると、定年過ぎた嘱託者??)なる人物の話によると、間違いなく切り替えとの事で、書類は回っている。しかし4542のゴールドカードはすぐに取り消し処分がなされ、たまたま生きていた5250ナンバーの口座を取り消したと言う話であった。こんな事が本当にあるのか。もし不審な請求書、わずか420円だったに気が付かなければ、どうなっていたのだろう。6月24日知らないうちに口座を取り消された私の口座からは、7月7日に通常どうり引き落とされている。知らなければ8月5日にも引き落とすのだろう。このことを逆に考えれば、廃止された口座へ架空の請求を送り引き落とす事も可能なのではないか。絶対にありえないなどとは言えない気がしてきた。ネットは顔が見えないから怖いと言うが、カードに措いても同じなのではないか・・・・・・
突然近くにいる無関係な人を殺し、傷つける無差別殺人が今年に入って7件も発生していると言う。今回は33歳の男が、悩みを親に聞いてもらえなかったから、無差別殺人を計画したのだと言う。以前入学式どころか、入社式に親が付いて来たと話題になったがそれもバブルまでの話。いまや企業は社員をどうしたら効率よく使うかと言う事にのみ関心を示し、出来上がった部品としての労働力を欲しているようだ。若い出来上がった若者を安く使う。そこには培っていた伝統を次世代に移してゆくという考えは無い。経団連の御手洗などは、人件費が高いのなら本社を外国に移すまでだ! とまで言っている。企業は株主のものであり、金儲けのための手段にしか過ぎないと言うのが、現在の主流の考え方で有るのだろう。強いものはどこまでも伸びよ。敗者は弱いのだから負けて当然。しかし、100人の中のたった一人に無限の希望が与えられる世界より、70人も80人もの一般の人が明日の希望が持てる社会の方が幸せな国なのではないか。乏しさを憂うるよりも、等しからざるを憂う事が、必要な時代であるのかなと思う。一瞬の映像で人を批判してはいけないが、今我々はけじめを見失っているのではないか。あの殺人犯の父親が謝罪会見をしている場面を見たが、顔を写さないのでメタボナ腹を写さざるを得ないのは理解するが、服装は普段着のままである。謝罪をするのであれば羽織袴とまでは言わないがせめてそれ相応の礼を尽くすのが本当で、謝罪するのであれば、自分の顔を曝し、目をカメラに向けて謝罪すのが礼儀ではなかろうか。あの会見で関係者の方は納得できたと、TVニュースを流したディレクターは判断したのだろうか。
クールビズとやらが振りまいている、けじめの無さの一例であろう
クールビズとやらが振りまいている、けじめの無さの一例であろう
勝谷誠彦氏が自身のメルマがで、20日と22日の2回にわたり、川口市で起きた中3少女による、父親殺傷事件について触れている。以下引用 「不可解な事件だが、最近続発する『世界で一つだけの花症候群』とごっちゃにされると、見誤れると思うからだ。 中略・・・ 私が咄嗟に思ったのは、夜驚症もしくは夢遊病である。<19日午前3時頃、別の寝室にいた母親が、長女の『ギャー』と言う叫び声と父親のうめき声が聞こえたため、父親らの寝室に駆けつけて部屋の電気をつけると、長女はベットのうえで呆然とし、包丁がベットに置かれていたと言う父親は吐血し、母親に『警察と救急車を呼んでくれ』と話し、警察官が駆けつけた時は床でうずくまっていた>
<長女の『ギャー』と言う叫び声>が注目される。本人も自分がしたことを『われに返って』驚いたのではないか。確信犯的な犯行であれば、この場合のパターンは4つだ。逃亡しようとするか、逆上しているか、説明を試みるか、自殺するかである。そのいずれでもなく、叫び声を上げて呆然としているというのは、それまでの自分の行動に驚いていると思われる。 中略 夜驚症や夢遊病ならばさした瞬間のことは覚えていない可能性が高い。しかし、後から事実を突きつけられてそう思い込む事もある。調書は慎重にとった方がいい。矢驚症も夢遊病も子供によく見られる症状である。多くは思春期を迎えると共に収まるが、この少女の場合はちょうど端境期の時期だったかもしれない。就寝してから1時間から3時間の間のノンレム睡眠の間によく起きる。 中略 ちなみに夜驚症は英語では『ナイト・テロル』だ。もし私の仮説があたりだとすれば、気の毒な一家は文字通りのナイト・テロルに襲われたと言うほかは無い。この少女にこそきちんとした精神科医の分析が必要だろう。素人の私がそう思うのに、今朝(20日朝)現在、そうした事に言及している大マスコミがいないのはどうしてだろうと思うのである。 引用終わり
さらに今朝になり自身が出演しているTV番組の中で、<長女は19日午前3時頃突然起き、父親を刺殺したとされる。逮捕直後、『父親が母と弟を殺す夢を見たので殺そうと思った』などとはなしていたという。となると、やはり夢の中と現実とがつながっていたように思われてならない。番組の中で私はこの点を指摘し、『合理的な理由付けを焦るあまり、動機を無理やり作り出した調書にサインさせるようなことをしてはいけない』といった。相手はまだ子供である。大人に『こうだったんだろう』と言われるとあとづけで理由を考えてしまう可能性がある。あれだけ少年法について口うるさいメディアが、こんなデリケートなケースで、そういうことに慎重さを求めないのが不思議だ 22日分引用終わり
今日のTVニュースを見ても、漫画が十数冊部屋から押収されたなど如何でもよい事を、さもおどろおどろしげに報道している。勝谷氏の懸念が的中しない事を祈るのみである。しかし・・・ 桶川で女子大生を見殺しにしたり、交番に逃げ込んだ人を暴力団に引き渡したり、知事ですら採用試験の結果を前もって議員に知らせるのは何の問題も無い!!と言う埼玉県の警察が扱っているので心配だ・・・・
<長女の『ギャー』と言う叫び声>が注目される。本人も自分がしたことを『われに返って』驚いたのではないか。確信犯的な犯行であれば、この場合のパターンは4つだ。逃亡しようとするか、逆上しているか、説明を試みるか、自殺するかである。そのいずれでもなく、叫び声を上げて呆然としているというのは、それまでの自分の行動に驚いていると思われる。 中略 夜驚症や夢遊病ならばさした瞬間のことは覚えていない可能性が高い。しかし、後から事実を突きつけられてそう思い込む事もある。調書は慎重にとった方がいい。矢驚症も夢遊病も子供によく見られる症状である。多くは思春期を迎えると共に収まるが、この少女の場合はちょうど端境期の時期だったかもしれない。就寝してから1時間から3時間の間のノンレム睡眠の間によく起きる。 中略 ちなみに夜驚症は英語では『ナイト・テロル』だ。もし私の仮説があたりだとすれば、気の毒な一家は文字通りのナイト・テロルに襲われたと言うほかは無い。この少女にこそきちんとした精神科医の分析が必要だろう。素人の私がそう思うのに、今朝(20日朝)現在、そうした事に言及している大マスコミがいないのはどうしてだろうと思うのである。 引用終わり
さらに今朝になり自身が出演しているTV番組の中で、<長女は19日午前3時頃突然起き、父親を刺殺したとされる。逮捕直後、『父親が母と弟を殺す夢を見たので殺そうと思った』などとはなしていたという。となると、やはり夢の中と現実とがつながっていたように思われてならない。番組の中で私はこの点を指摘し、『合理的な理由付けを焦るあまり、動機を無理やり作り出した調書にサインさせるようなことをしてはいけない』といった。相手はまだ子供である。大人に『こうだったんだろう』と言われるとあとづけで理由を考えてしまう可能性がある。あれだけ少年法について口うるさいメディアが、こんなデリケートなケースで、そういうことに慎重さを求めないのが不思議だ 22日分引用終わり
今日のTVニュースを見ても、漫画が十数冊部屋から押収されたなど如何でもよい事を、さもおどろおどろしげに報道している。勝谷氏の懸念が的中しない事を祈るのみである。しかし・・・ 桶川で女子大生を見殺しにしたり、交番に逃げ込んだ人を暴力団に引き渡したり、知事ですら採用試験の結果を前もって議員に知らせるのは何の問題も無い!!と言う埼玉県の警察が扱っているので心配だ・・・・
04年3月から1755回にわたりつづられてきたBLOGが閉店したと言う。車とカメラを語らせると、いつまでも聞いていたい気分にさせる男のBLOGであった。1500,000ヒットを機会に閉店し、充電期に入ると言う。若いと言うのは本当に羨ましいことだ。一瞬枯れたように思える水脈も復活する事も有ろう、さらには無限の水脈が掘り当てられるのを待っているだろう。むしろ全く異なる分野での活躍が数年も経たずに伝えられてくるような気がする。期して待つべし
このBLOGも04年3月 彼のBLOGから5日遅れて始まった。回数は1309回目となっている。ヒット数は公式の集計は無く、ところどころ抜けているが、累計117千ヒット。桁が違うとはこのことだ。始めた当時GOOのブログ数は6万件くらいで、すぐに8万件になったとアナウンスが有ったような気がする。百万台の声を聞いたのはいつのことだったのだろう。最初の頃はヒット数の集計もしておらず、集計を取り始めたのは4ヶ月もたった7月の20日 最初から記録があれば自慢の種が一つ出来たのに・・・ 気楽に始めたBLOGですからこんなに長く続けられたと思います。年数が重なってゆくと、正に日記の代わりに成ります。勿論 何処で、誰が読むか解らない文章ですから、表現にはそれなりの注意は払いますが・・・ もう一つ、02年から始めたデジカメも我が家の記録として貴重なものになっています。日付がはっきりしていますから、一種の定点観測として機能しています。メモ代わりの写真ではどうしても数が主になってしまいます。やはり人様に語れるような自身の美意識を高める必要があります。写真は最初から自己流でした。再修行します。BLOGはもっとテーマ付けを整理しましょう。今日のテーマは本来若いブロガーへの賛辞だったはずですが・・・
このBLOGも04年3月 彼のBLOGから5日遅れて始まった。回数は1309回目となっている。ヒット数は公式の集計は無く、ところどころ抜けているが、累計117千ヒット。桁が違うとはこのことだ。始めた当時GOOのブログ数は6万件くらいで、すぐに8万件になったとアナウンスが有ったような気がする。百万台の声を聞いたのはいつのことだったのだろう。最初の頃はヒット数の集計もしておらず、集計を取り始めたのは4ヶ月もたった7月の20日 最初から記録があれば自慢の種が一つ出来たのに・・・ 気楽に始めたBLOGですからこんなに長く続けられたと思います。年数が重なってゆくと、正に日記の代わりに成ります。勿論 何処で、誰が読むか解らない文章ですから、表現にはそれなりの注意は払いますが・・・ もう一つ、02年から始めたデジカメも我が家の記録として貴重なものになっています。日付がはっきりしていますから、一種の定点観測として機能しています。メモ代わりの写真ではどうしても数が主になってしまいます。やはり人様に語れるような自身の美意識を高める必要があります。写真は最初から自己流でした。再修行します。BLOGはもっとテーマ付けを整理しましょう。今日のテーマは本来若いブロガーへの賛辞だったはずですが・・・
バイトが終って4日。毎日3時間の草取りや枝つめを続け、明日で終る目途がついた。こんな狭い庭なのになんでそんなに時間がかかるの?? と不思議がられるがいまや自分の目標は時間消費 これが楽しみなんですと言うことにしている。
今回の日程は初日:バラの周りに生えた雑草取り。今年は一番花が終った5月に肥料を軽く撒いたためか、雑草の伸びが一段とよい。しかし暑さのせいか「黒斑病」に罹っている木が目立つ 2日:藤棚の下とブルーベリーの周り。今年のブルーベリーは今までに無い程 実が着いている。2月に施した肥料が今利いている様だ。ヒヨドリが人を見ながら一生懸命実をついばんでいる。数年前に植えて唯一生き残っているハーブがそこら中に繁茂している。かわいそうだがどんどん取り除く。そしてアメリカジャスミンも枝を半分くらいに詰める。3日:物置の前が大変なことになっている。毎年生えてくる洋種ヤマゴボウが何本も芽を出し、大きなものは背丈をはるかに越えている。枝の先端ははさみで切るが、根元は数センチの太さなので、鋸を使う。よく見るとカラスウリの弦が伸びはじめている。花を持つかどうか解らないが、昨年よりは元気そうだ。4日:今日で終らせる積りであったが、見逃した所が有り、4時間もの作業となった。その原因は猫 譲り葉の木の下にもぐりこむと姿が見えなくなってしまったのです。ここは網が張られ猫の出入りは不可能なはず・・・ 譲り葉の木には小枝が沢山生え周りが見えません。予定変更です。よく見ると家に入る電力線や光ファイバーにも接触しそうです。手の届くところからエスカレートして、物置の屋根に上がり、太い枝をきる。きってみると枝には、やいと花のつるが幾重にも絡まりつき、引っ張っても外れない。下を見ると、隣家との境、いま使われていない水路の上が全て弦で覆われている。人が出入りしても困るところだが、放って置く訳にもいかない。全て排除する。それからピラカンと、和室前の名もしらぬ木の枝詰めを行い本日の作業を終了。明日芝の草取りを一時間もすれば終了とのの目途をつける
梅雨明け宣言が出された今日だが、幸い風があった。部屋にこもっているのも何か気が向かなかったので、藤棚の下に椅子を持ち込み、読書三昧。雑草がないためか、意外なことに蚊がいない。ここは良いところを見つけた。どんどん利用しよう。出来れば無線ランを利用できるようにして、庭でもPCを扱えるように出来ないかな・・・・・ 何時もと違う発想が出来るかも・・・・
そうそう、自分には宿題が二つあるんだよね。棕櫚がやたら背が高くなり、風が吹くと揺れている。どうにもバランスが悪い。車の上に倒れたら大変だ。もう一つはアプローチ入り口のピラカン。どうも大きくなりすぎたようだ。これをなくすとかなり家のイメージが変わると・・・・ 台風や突風が吹かないうちにやるか・・・
今回の日程は初日:バラの周りに生えた雑草取り。今年は一番花が終った5月に肥料を軽く撒いたためか、雑草の伸びが一段とよい。しかし暑さのせいか「黒斑病」に罹っている木が目立つ 2日:藤棚の下とブルーベリーの周り。今年のブルーベリーは今までに無い程 実が着いている。2月に施した肥料が今利いている様だ。ヒヨドリが人を見ながら一生懸命実をついばんでいる。数年前に植えて唯一生き残っているハーブがそこら中に繁茂している。かわいそうだがどんどん取り除く。そしてアメリカジャスミンも枝を半分くらいに詰める。3日:物置の前が大変なことになっている。毎年生えてくる洋種ヤマゴボウが何本も芽を出し、大きなものは背丈をはるかに越えている。枝の先端ははさみで切るが、根元は数センチの太さなので、鋸を使う。よく見るとカラスウリの弦が伸びはじめている。花を持つかどうか解らないが、昨年よりは元気そうだ。4日:今日で終らせる積りであったが、見逃した所が有り、4時間もの作業となった。その原因は猫 譲り葉の木の下にもぐりこむと姿が見えなくなってしまったのです。ここは網が張られ猫の出入りは不可能なはず・・・ 譲り葉の木には小枝が沢山生え周りが見えません。予定変更です。よく見ると家に入る電力線や光ファイバーにも接触しそうです。手の届くところからエスカレートして、物置の屋根に上がり、太い枝をきる。きってみると枝には、やいと花のつるが幾重にも絡まりつき、引っ張っても外れない。下を見ると、隣家との境、いま使われていない水路の上が全て弦で覆われている。人が出入りしても困るところだが、放って置く訳にもいかない。全て排除する。それからピラカンと、和室前の名もしらぬ木の枝詰めを行い本日の作業を終了。明日芝の草取りを一時間もすれば終了とのの目途をつける
梅雨明け宣言が出された今日だが、幸い風があった。部屋にこもっているのも何か気が向かなかったので、藤棚の下に椅子を持ち込み、読書三昧。雑草がないためか、意外なことに蚊がいない。ここは良いところを見つけた。どんどん利用しよう。出来れば無線ランを利用できるようにして、庭でもPCを扱えるように出来ないかな・・・・・ 何時もと違う発想が出来るかも・・・・
そうそう、自分には宿題が二つあるんだよね。棕櫚がやたら背が高くなり、風が吹くと揺れている。どうにもバランスが悪い。車の上に倒れたら大変だ。もう一つはアプローチ入り口のピラカン。どうも大きくなりすぎたようだ。これをなくすとかなり家のイメージが変わると・・・・ 台風や突風が吹かないうちにやるか・・・
昨年の11月にオープンした中央図書館は、駅前にあり座席数も多く良く考えられた配置が為されている。自分がよく利用しているのは新聞のコーナーと週刊誌。経済関係の週刊誌は別のコーナーに有るので、自分が読むのは一般的なアエラや週刊朝日。サンデー毎日・新潮や文春といったところになる。しかし最近最新版の週刊誌を殆ど読むことが出来なくなった。きっと常連で読む人が増えているのだろう。出版社の立場から言えば週刊誌くらい買って読めよということであろうが、図書館がそのことに配慮しているとは思えない。いわゆるベストセラーに関しては、極端に言えば同じ本を何十冊も品揃えして、その全てが貸し出されていることが多い。勿論、朝・毎・読・日経・産経・東京を全て読み飛ばして見ても事の本質はわからないのと同様に週刊誌各誌を読んでみたとて、事新しい事実が載せられているわけでもないだろう。しかし見方を変えれば最新の週刊誌を読む人は必ず図書館に足を運んでいる人であり、その動向は図書館そのものの魅力にも繋がるのではないか。特に市立の中央図書館のように特に目立つ専門性の無い図書館に関しては、一般人の動向に注意を払う必要も有るのではないかと思う。雑誌コーナーは最新刊は全て貸し出し禁止で有るので、どの週刊誌や雑誌が人気があるかなどは、その雑誌が棚にあるか無いかを見る以外に確かめる方法は無い。まあ~~~~~ 週刊誌の品揃えが毎週2冊になることがそれほど必要かどうか疑問では有るが・・・・ ここには幼児向けの本も充実しているらしい。年少さんくらいの子供が母親に連れられ、自分カードで沢山の本を借りてゆく姿が見られる。絵本のうちから本に親しんでくれれば、大きくなっても本好きになってくれるだろう。願わくば母親が、読み聞かせをしてあげていればいいなと思う。
大分県の教員採用をめぐる事件が、底なしの様相を呈していると言う。特にこの事件の経緯を追っていた訳ではないが、一向にその広がりが治まる気配が無い。小学校教員の不正採用だったはずが、中学や高校教員にまで広がり、いまや校長や、教育委員会そのものの人事まで汚染されていると言う。3・4日前には真偽の程は解らないが組合の採用枠まであると言う記事まで現れ、県の組合幹部が否定の談話を載せている始末である。ただ、自分たちの常識として、先生になるにはコネが無ければ駄目だ と昔から言われており、数年間教員の採用試験に挑戦し続けていた人が、教育委員の子息と結婚した途端に教員に採用されたとか、新設3流大学にもぐりこんでいた子供の友人が先生になっていた例もある。ちなみにその家庭は両親・親戚も先生を務めていた教員一家だったそうである。自分が小学校に入学したのは昭和22年。所謂6・3制が始まった年に小学校に入学した6・3制の申し子であるが、今でも一年生の時の先生のいかつい風貌は目に浮かぶような気がする。転勤族の常で、その学校には3年生までしかおらず、連絡は途切れてしまったが、大分の記事を読みながら、「先生もお金を払ったの??」 ときく子供たちのことを思い、ふとそんなことを思い出した。知人の孫が通っている市立の小学校には学級崩壊を起こしているクラスは無いらしい。そして体が大きいことから上級生に目をつけられいじめに会いそうに成った時も、学級内でいじめにあった時も、親たちの協力を得て、その芽のうちに対処し、いじめを未然に防いでくれていたとの事である 大分のような事だけが、全てを現しているとは思いたくは無い。しかし先生を飯を食うための職業としか認識しない先生も多いのではないかと恐れる。子供たちも、成長の過程ではいじめや学級崩壊で大変な時期があった。幸い子供達に異変が起きた時にはすぐ聞いてやれる体制にあった。さらに納得しない子供達と何時間でも議論して納得させる気力と迫力があった。父親たる自分が全く子育てに参加していなかっただけに、それぞれ幸せな家庭を持ってくれている事に、改めて感謝するしだいである。子供たちの育った環境を見ていても、無責任なたった一人の教師と、無責任なたった一人の親がいれば、学校そのものが崩壊してしまう。逆に逆に支えるに足る一人の教師が居れば親が支えればどんな事だって対処しうる。その教師の殆どが薄汚い裏口から入っているとなると、本当にどうなってしまうのだろう。このことは大分のことだけなのか・・・・一般的な どの地域でも行われているのではないか・・・・・
朝日新聞の読書欄には読みたくなる本が紹介されていることが多い。しかし、時々は本屋に注文に行くが、そのまま忘れてしまう本が殆どだ。今週の読書欄で気に成ったのは、サブカルチャー的に扱われていた、「人類が消えた世界」と「古代文明と機構大変動」なる本が紹介されていた。前者は売れている本として紹介され、7刷65000部出ているとの事であるが、紹介文にはこうある 以下引用「明日人類がいなくなったら、地球はどうなるのか。 まず排水機能が失われ地価から水があふれ、町に新しい水路が出来る・・・・ どうも立ち読みすればよさそうな本であるかのような紹介文である。もう一方の河出文庫の極短い紹介ではこうなっている 以下引用 「1万8千年前からの人類史を、気候学の観点から最新の研究成果を元にたどる。予測不能な気候に人類はいかに適合したか。世界各地の文明の興亡を検証。現在の温暖化問題にも触れ、極端な気候変動を起こしうる現代文明に警鐘を鳴らす」・・・とある 自分の今の問題意識からすると、こちらの本の方がよさそうだ。明日にでも本屋で現物を見てみよう。しかし手ごたえがありそうな気がするな・・・・
日光白根山のヒバが広範囲に枯れたと話題になったのは20年位前で有ったろうか
確かそのときも中国から流れてきた酸性雨がその原因であったと言われていた。今年の黄砂は凄かった。一夜にして、車が灰色の粉に覆われてしまう。さらにはその粉の中に有害物質も含まれていると言う。中国では砂漠が北京のすぐ近くにまで迫り、砂漠の拡大のみならず、黄河の断流が広範囲に起こっていると言う。これには降雨量の減少だけでなく、農場用水の増大や、人口増加に伴う水道需要の増大がその原因に挙げられていると言う。中国では南の揚子江の水を北京を始とする華北に送るために、長大な運河を構築していると言う。それも一本だけでなく二本も三本も・・・ そのスケールの大きさには驚くばかりだが、その長江の水ですら、人間により汚染されている恐れが指摘されている。原因の多くが未処理汚水の垂れ流しと、ごみの放置。地球の温暖化による異常気象や、海水面の上昇については、ある意味地球自体の動きとして受け止めなければ成らない問題なのかも知れない。しかし、自然環境の破壊については、かって日本が公害列島と称された環境を克服しえたように、克服しうる問題だと思うし、中国大陸の環境が改善されなければ、日本列島の環境も改善しないことは間違いない話だと思う。今朝の朝日新聞の文化面に載っていた、歴史に探る 気候変動<下>も何を言いたいのか全くわからないが、今の動きを何か変だと感じているように思うさまは伝わってくる。サミットにおける馬鹿騒ぎを別の角度から見る視点を提供している点に措いて評価しようとおもう。
確かそのときも中国から流れてきた酸性雨がその原因であったと言われていた。今年の黄砂は凄かった。一夜にして、車が灰色の粉に覆われてしまう。さらにはその粉の中に有害物質も含まれていると言う。中国では砂漠が北京のすぐ近くにまで迫り、砂漠の拡大のみならず、黄河の断流が広範囲に起こっていると言う。これには降雨量の減少だけでなく、農場用水の増大や、人口増加に伴う水道需要の増大がその原因に挙げられていると言う。中国では南の揚子江の水を北京を始とする華北に送るために、長大な運河を構築していると言う。それも一本だけでなく二本も三本も・・・ そのスケールの大きさには驚くばかりだが、その長江の水ですら、人間により汚染されている恐れが指摘されている。原因の多くが未処理汚水の垂れ流しと、ごみの放置。地球の温暖化による異常気象や、海水面の上昇については、ある意味地球自体の動きとして受け止めなければ成らない問題なのかも知れない。しかし、自然環境の破壊については、かって日本が公害列島と称された環境を克服しえたように、克服しうる問題だと思うし、中国大陸の環境が改善されなければ、日本列島の環境も改善しないことは間違いない話だと思う。今朝の朝日新聞の文化面に載っていた、歴史に探る 気候変動<下>も何を言いたいのか全くわからないが、今の動きを何か変だと感じているように思うさまは伝わってくる。サミットにおける馬鹿騒ぎを別の角度から見る視点を提供している点に措いて評価しようとおもう。
江戸時代に使われていた行灯の照度は、五ルックス程度だと言う。今エネルギーの無駄使いと非難を浴びている白熱電灯の数百分の一にしか過ぎないと言う。しかもそれに菜種油を使うのならともかく安い魚油などを使用してすすを発生させながら使うのだから、一般の人にとって、夜生活することは、本当にむだっだたといえるだろう。暦について太陽の出ている時間が長い夏場には昼の時間は長く、短い冬場には夜の時間が長くなっていた。庶民に限らず武士などの生活も、日の出 日の入りを基準に生活していたと言う。福田が思いついたようにサマータイムの導入を言い出していたようだが、この人はゲンダイの生活がどれだけ時計に支配されているか考えたことがあるのだろうか。現代生活においては太陽の位置がどこにあるかなど気にしている人は誰もいない。然るにTVの録画一つ取ってみても解るが、番組みが始まると同時に録画回路を起動して録画を始めるためには、グリニッジ標準時から何時間かマイナスされた日本標準時であり、サマータイムになったからと言って、時間が一時間自動的に変更されるわけではないだろう。今、家庭内の機器にどれだけタイマーが内蔵されているか考えもせずに言い出しているとすれば、福田の頭を分解して見たい岐がするのは気がする自分だけであろう。パソコンだって例外ではないだろう。もし・・・自分たちに一切係り無く、全ての電子機器の時計が操作されるとすればそれはそれで怖い。いつの間にかパソコンに侵入され勝手にデーターが改竄されていることなのだから。もし太陽エネルギーを主体にした生活を送るのであれば、グレゴリー暦を廃止して、太陽太陰暦を再び暦として採用すべきだろう。しかし、一刻を争う一刻が一日の1/100で十分だった時代と違い現代の我々は一日の1/1440の遅れですらその長短に目くじらを立てている。そんな我々にサマータイムなぞ許容できる話ではないでしょう