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気ままな日々を 思いつくままに

旅の様子や
今日の庭
思いついたことなどを
気ままに 気楽に綴ります

伊勢神宮と神々の美術

2009-07-24 01:12:18 | 展覧会から
東京国立博物館へ第62回式年遷宮記念特別展 のサブタイトルをつけた、「伊勢神宮と神々の美術」を見に行って来た
大変申し訳ない言い方ながら、これほどつまらない特別展を久し振りに見た。今、わざわざこの展示会を開いたのか全く伝わってこない。心を打つものが何もない。
パンフレットの「ごあいさつ」にこんな文章があります
「伊勢神宮はおよそ二千年前に鎮座されたと伝えられ、皇室の祖神として政治的地位の高かった古代から、中世には朝廷の影響力が弱まるのに伴い日本国全土の御祖神として武士の崇敬を集めました。その後、戦国期の混乱をしのぎ、江戸時代にはお蔭参りが流行し多くの民衆が訪れるようになりました。今も皇室はもとより、多くの人々の崇敬をうけています。以下略」
この文章一つ取ってみても、突っ込み所は満載だが、戦前と戦後の環境の激変に全く触れない現状認識一つとっても、この展覧会の意義を疑わせると思う
例えば100年前の1913年と比較して何が変わり何が変わっていないのか、式年遷宮の経費は100年前は誰が出し、今回はどのように見込まれているのか、とか 展示会の第三章 今に伝える神宝として昭和4年に調整された美しい神宝が展示されているが、2013年の63回式年遷宮においては全く同じものを調製できるのだろうか。もし調製できるとすればその技術継承のために、神社あるいは関係するところがどんな努力をしてきたか、あるいは現在続けているかを知らしめることが必要なのではなかろうか。
伊勢神宮が時の権力者により維持されてきたことは確かだろう。しかしそこに民衆の支持がなければ2000年も継続出来得る筈はないし、激動する現代にメッセージを発信できないところは滅びざるを得ないのでは無かろうか
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妙心寺展

2009-01-28 23:50:58 | 展覧会から
一月二十日から東京国立博物館で開催されている 特別展 妙心寺 へ行ってきた
正直な所、墨跡なぞ読むことは出来ないし、高僧の掛け軸を見てもその有難味は、わからない。ただ650年という月日の長さと、平坦ではなかったその歩みをそこはかとなく感じさせてくれる。第一章は臨済禅 応燈関の法脈と題され禅は師から弟子へと法、つまり教えを受け継ぎ、伝えてゆくことを重視したことが示され。第二章では妙心寺の開創 花園法皇の帰依  として花園の地に立てた離宮を禅寺にという希望に基づく行動が示され、第三章では、足利義満による、寺産の収公 応仁の乱による焼亡など 重大な危機に直面。歴代住持の努力と外からの援護を示し、第四章では、寺院を荘厳する、仏具としての「唐絵」や狩野派の作画が紹介される。図録では第五章が設けられているが、会場では作品はテーマごとに分散されている。第六章は、妙心寺と大檀越 繁栄の礎 と題され戦国武将たちが、室町幕府の保護下に会った五山の禅より、林下なかんずく妙心寺の禅に心を寄せ、信玄や秀吉など諸将との間に強固な師檀関係が築かれ多くの塔頭が創建され、繁栄の基礎となったことが示されている。第七章は近世の禅風 白隠の登場と題されている。形骸化した禅宗を立て直すべく、悟道のために修禅をするものたちが現れ、何回であった、祖師たちの教えは、墨蹟や絵画として平易に表され、妙心寺の禅風は全国に展開したことが示される。第八章では禅の空間Ⅱ 近世障壁画のかがやき と題して、整備された法堂や大方丈などに、狩野派や、等伯・友松などの手により室内を彩る障壁が多く製作されたことを示す。等伯の枯木猿猴図の猿はいつ見ても愛らしい
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ボストン美術館 浮世絵名品店展

2008-11-06 22:33:25 | 展覧会から
パンフレットの案内をそのまま引用します。以下引用 「アメリカのボストン美術館には5万点といわれる浮世絵版画と、多くの版木・肉筆画が収蔵されています。その質の高さと数量は世界一の規模と表されてきましたが、近年までその大半は公開されることはありませんでした。本展では、その膨大な収蔵品の中から第一級の作品のみを厳選し、大多数が日本発公開という豪華なラインアップで、初期から幕末までの華麗なる浮世絵の歴史を概観します。
鈴木晴信、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重など代表的な絵師の作品はもちろん、二代鳥居清倍の漆絵やボストン美術館内でも展示された事のない藤田湖龍斎の揃物など、色目鮮やかな初期浮世絵版画も充実。更に、幻にスポルディング・コレクションからは貴重な版木も出品されます。 引用終わり
ここに全て尽くされているように思うが、とにかく状態が良い事は驚くべきものがある。展示されている浮世絵は、まるで昨日刷り上ったばかりと表していた展覧会の紹介記事を読んだが、それは大げさではない。一番最初の墨摺絵から始まり、元禄後期に誕生した墨摺絵に赤絵の具(丹)を中心に手書きで彩色したもの丹絵になり、紅絵・漆絵・浮絵と引き継がれ、明和2年(1765)絵暦交換会の流行を背景に、絵師の思うままの色彩表現が可能な多色摺浮世絵版画が誕生。錦織のように美しい事から錦絵と呼ばれる浮世絵の誕生となった。逸れは色の違う版をぴったり摺り合わせることが可能となり、浮世絵の色彩表現が完成したと言えるものであった。ボストン美術館の浮世絵コレクションは、これら時代の変遷と共に変ってきた浮世絵を全てもれなく収集しており、その収集品は、今まで殆ど公開されなかったこともあり、摺りあがった状態をそのまま保っている。幕末に日本からの輸出品された陶器や磁器・漆器などのパッキン用に使われていた浮世絵が印象派に大きな影響を与えたといわれるように、何処にでもあった浮世絵を、同時期にこれだけ系統だって集めていた人が居た事に、恐れの念を抱くと同時に、公開禁止の条件をつけて美術館に寄付したという兄弟に、日本人として、感謝しなければいけないであろう。例えそれが国外にあろうとも・・・・・
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 大琳派展 その三 鈴木 其一  雨中桜花楓葉図

2008-10-21 20:57:39 | 展覧会から
琳派展で気になった一人は鈴木 其一でした。何が気になったのか、説明は出来ません。ただ抱一と並ぶ琳派最晩年の人ではありますが、何か吹っ切れた感じがしたのです。展覧会の図録の中で松嶋雅人は「其一の止まる時間」と題して次のように論じている。「大地に川は流れ花は咲き誇りやがて枯れ落ち、四季は巡っていく。刻々とその姿を変えてゆく目前の情景を絵に表したのが鈴木 其一であったとの書き出して考察を加えている
「「雪中竹梅雀図」では、雪化粧する竹と梅に雀が戯れている。一方、右幅では雪の重さに耐えかねた竹の幹がしなり、積もった雪が竹の葉から、線を引くように落下してゆく。早春のいまだ冷たい朝の情景に見える。 「暁桜・夜桜図」では早暁の朝日を浴びる桜と、夜露に沈む桜を鏡に映ったように捕らえ、対比させている。ここで主題の「雨中桜花楓葉図」に戻る。図録の解説をそのまま引用する。
「雨に濡れる桜と紅葉する楓の春秋のある一時を淡い色彩で清清しく描いている。其一は単に花木を描くだけでなく、風雨や朝夕といった時候や時のうつろいを添えて、時間の感覚を鋭く意識して、視覚的に対比させた作品をしばしば書いている。春と秋の対比として桜の枝は柔らかく雨にしなだれ、楓葉枝を張る。枝振りの描写や雨の降る角度を違えることで、それぞれの雨水の暖かさと冷たさの区別まで繊細に表している。薄く掃かれた墨で表される雨足や、桜、楓の形は線描を用いないで面的に表して、たおやかな画面となっている。  引用終わり
何か気になる人になった気がします。こんな機会があればもっと見てみたいと思うようになって来ました
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大琳派展 その二 酒井 抱一 夏秋草図屏風

2008-10-19 22:53:47 | 展覧会から
この屏風に関しての図録の解説をそのまま載せる 以下引用
この屏風はもともと、光琳の風神雷神図屏風の裏に描かれたものであった。抱一の光琳への敬慕が込められた作品であり、都市文化の花開く江戸の地で光琳画を変奏したものである。銀地を背景にして「雷神図」の裏に突然の驟雨に打たれた夏草を描き、「風神図」の裏に野分立つ秋草を鋭い形態感覚で描き出す。夏草図では突然の雨で地面に水がたまり庭只海となり、秋草図では蔦の葉が空に舞う。このように時節の植物を描くだけでなく、風立つ一瞬の情景を切り取った表現によって、夏秋の季節感の対比をより際立たせているのである。近年近衛の下絵が発見されたが、一ツ橋家の注文で抱一が文政四年(1821)頃に描き、十一代将軍の父に送られた事が知られるようになった。  引用終わり
どうもよく解らない。光琳の屏風絵は一ツ橋家が持っていたのであろうか。この時代一ツ橋家はそんなに将軍家に気を使わねばならない状況でもあったのだろうか。きっと誰かが小説にでもまとめていると思うが、誰か教えてくれませんか
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大琳派展

2008-10-18 23:29:42 | 展覧会から
数日前何時ものメンバーに一人欠けたが、国立東京博物館で開かれている大琳派展へ行ってきた。博物館で琳派の総合展が開催されるのは1972年の博物館創設100周年以来との事で有るが、見応えのある大琳派会で有った。基本的に琳派とは何たるかを知らない自分のような人間が、流派とか弟子と云った流れから離れたつながりから、一つの流れを作り出しているその成果を目の前に見せてくれている
それを具体化して見せているのが風神雷神図だこれは離れた現物を見るよりも、図録で一覧できるほうが、自分のような素人にはわかりやすい。宗達・光琳・抱一・の屏風絵と基一の襖絵が並べられている。いずれ雷神は白い体に太鼓を持ち長い布をたなびかせているし、雷神は風を噴出す袋を持ち緑色の体をしている。一番大きな違いは風神雷神の乗っている雲で、宗達と抱一は雲が一緒に流れている感じで、
光琳のそれは風神雷神が雲に包まれるように進んでいる感じである。基一は襖絵と言うこともあり、画面が大きい。どちらかというと乗る雲も、突き上げるようなダイナミックな感じがする。どれが堂とはいえないが、凄みは宗達にあり、光琳には大きさを、抱一には何と無いやさしさを、基一にはモダンを感じていたのは自分だけでしょうか。
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対決 巨匠たちの日本美術

2008-07-29 23:52:08 | 展覧会から
東京国立博物館で開かれている「対決 巨匠たちの日本美術」展へ何時もの仲間と行って来た。名だたる出品作品が多いせいか、少し混雑している。この展覧会が美術雑誌「国華」創刊120年・朝日新聞創刊130年を記念しての会であるので、主催者の気合も違っている。巨匠の対決は12組に及ぶ。図録から紹介する。
①運慶と快慶 :仏像が対比されている。坐像と立像だが、同じ地蔵尊を彫ったも        のだけに対比しやすいだろうと紹介されている
②雪舟と雪村 :雪村は雪舟から直接学んではいない。雪舟の絵の直截な意志力         に比べ、雪村の画風は土着的な「奇」の魅力に富んでいる
③永徳と等伯 :桃山画壇の英雄に敢然と立ち向かったのが等伯だった。御所の襖        絵製作をめぐって、永徳が等伯の仕事を阻んだ事も、記録にあると言う
④長次郎と光悦:利休好みの茶碗と光悦の茶碗が対決の形で並ぶのは初めてだとい        う。長次郎は利休好みを完成させ、光悦はその遺産に更なる装飾        美を完成させている。この対決の大きな成果と言えると評価している
⑤送達と光琳 :「黄金の対決」である。作品は代表作揃いで、装飾芸術の魅力を
        堪能させてくれる
⑥仁清と乾山 :飾りの世界はこの二人の組み合わせにより、さらに多彩なものに        なっている
⑦円空と木喰 :放浪の修験僧である両人にとって、仏像を刻む事は、あくまでも        宗教行為の一環であった。
⑧大雅と蕪村 :文人画を代表する二人。合作した「十便十宜帖」は、二つの異な        る才能が火花を散らした場でもあった
⑨若冲と簫白 :「奇の巨匠」と呼ぶにふさわしい。現代の我々の想像力を刺激し         て止まない不可思議世界を二人は創出した
⑩応挙と芦雪 :師弟対決。応挙は写生を基本に明画の様式も取り入れた。芦雪は        師の手法をマスターしたうえ、そのパロディを大胆に展開した
⑪歌麿と写楽 :方や美人画、方や役者絵。 歌麿が女性の肌の触覚から匂いまで        も捕らえようとしたのに対し、写楽は歌舞伎舞台の妖しい超現実美をリアルに再現しようとした
⑫鉄斎と大観 :二人の富士山図は対照的だ。鉄斎の奇怪な富士山と、大観の雲海        に頭を出した鮮やかな富士は明治の画家の楽天的な自然観の象徴である
何時もなら、知ったかぶりの一つも言いたいところだが、疲れ果てて声も出ない。凄いものを見せてもらった。
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「国宝 薬師寺展」 見せ方が素晴しい

2008-04-17 23:48:42 | 展覧会から
東京国立博物館で開かれている「国宝 薬師寺展」へ行ってきた。薬師寺には年3回、延べ十数回は行っているので、やや軽く考えて何時もの仲間と出かけた。結論は・・参りました、自分の知識の無さを思い知らされる結果になりました。まず第一に、休ガ岡八幡宮が何故薬師寺の境内にあるか、など考えたこともありませんでした。神像にせよ、狛犬にせよ板絵の神像にせよ今まで一度も見たことも聞いた事も有りませんでした。当たり前のような気がしていたのですね・・・反省させられました。続いて東塔の伏鉢や水煙。 次に目立つのは東院堂の聖観音菩薩像、仏のこんなに若々しいお顔を拝見したことが無かったような・・・ お堂の中では解らなかったのか・・・ 図録の解説に拠ると「直立する姿勢や、体の正面を平行にU字型にわたる天衣が左右対称に整えられ、正面観が強調される。」こういった所で、会場内の解説では、日光・月光量菩薩より、少し古い作かとも言われていた。会場はその脇から傾斜になり、両菩薩の正面へと進む。我々の視線がほんの少し上向きになるくらいの高さだ。お寺では絶対に実現しないアングル。ややうつむいた、お顔が素晴しい。それが床面に下り菩薩のお傍に立つと、見上げるように大きい。これほど大きかったのか改めて感じ入る。普段は光背に隠れている背中や、量感のある腰周りも初めて見る感覚だ。この展示方法は凄い。一見の価値はある。自分の目では確認できなかったが月光菩薩の首の周りには沢山の亀裂が入り、火災の時に衝撃を受けたらしいとあとで話を聞いたお坊様が話されていた。ここでも観客は自由に脇にも後ろにも勿論前からも両菩薩を拝観することが出来る。上からほぼ平行に見るときと下から見上げる姿。確かこの博物館には展示ディレクターが活躍しているとTVで紹介していたが、必要な人ですね。見せ方によりこれほど変わってくるとは思いもしませんでした。
最後は「吉祥天女像」 お正月に行った時には必ず薬師如来の前に安置されていますが、これほど近くで拝見できるとは思いもしませんでした。「吉祥悔過会」お寺で一度くらい聴いた事があるかなこのお名前・・・ また行きたいな・・・・ 
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上村淳之展

2008-03-16 23:46:32 | 展覧会から
先週三越美術館で上村淳之展を見た。自分は上村淳之について殆んど知識を持っていない。上村松園や松篁の名前は一度ならず聞いたことはあっても、淳之の名前は記憶に無かった。あまり自慢になる話ではないが、物を知らないことを改めて確認するには良い機会であった。年表に拠れば昭和8年生まれ、本年75歳との事である。昭和二十年十二歳の時 奈良の唳禽荘に疎開。昭和二十八年は二十歳の時、京都市立美術大学日本画科に入学。この年、祖母松園没後空き家になっていた奈良県平城の唳禽荘に移りすむ。この地で様々な鳥の飼育を始める。と記載されている
今回の上村淳之展は、昨年10月から12月にかけてパリの三越エトワールで開催されたものの帰国展である。この展覧会にあたって淳之はメッセージを寄せている。そこには敗戦から復興に向かう過程で若き敦之が直面したさまが述べられている。「幼い頃から父がモデルにと飼っていた小鳥や鶏と遊ぶのが好きであった。そう大きくはないが追込舎の中に水路を造り水草を植えて自然に近い状況を造って楽しんでいた。
美大を卒業する頃は戦後の復興半ば、”花鳥風月を楽しむ時代か”などといわれ、花鳥画を描く作家は少なく、・・・中略・・・自然に囲まれた一人暮らしのアトリエでは好きな鳥を飼いはじめ松園没後住む人無きあと荒れていた畑を耕し花を植えたり、野菜を作っていた。
元々好きな花鳥画を描きながら、どうしても表現の上で行きづまるところがあった。それは余白の表現である。・・中略・・・ そして形骸化、形式化、様式化した日本画の空間は正に其の空虚な空間に陥ってしまい全くリアリティ無きものとなっていたから、尚更その感を深めたのであろう。・・中略・・ 深春の早朝、朝霧のかかる畠地に苗代をつくるため水の張られた一枚の田が美しく光り3羽の水鳥が佇んでいた。その部分だけが光り、他は霞んで見えない。何と美しい空間だと感動し、アトリエに引き返すと一気に書き上げた。佇む鳥は鳧、私の禽舎にも居て、写生は重ねていた。100号の作品は多分2日とはかからなかったと思う。目にした光景を一気に描きあげたように思うが、仕上がってから、余白の表現があるいはこれでよいのではと思った。・・後略・・
自分には画家がこれだけ拘っている余白について、それほどの感慨はない。ただ 雪舟や北斎、光琳や写楽に比較して。目の表現に力強さを感じます。特に今回気に入ったのは早苗田 と題された93年の作品で、母鳥の雛を見る視線と、それを見守るオスの視線の微妙なそしてそれぞれに愛情のこもった視線は、何度見ても見飽きないものでありました
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国立新美術館

2008-02-29 12:06:11 | 展覧会から
先日乃木坂にある、国立新美術館へ初めて行った。どんな経緯でこれが建設されたか知らないが、何故この施設が必要なのか理解できなかった。新美術館という大きな箱があるだけ。要するに巨大な貸席・画商の画廊であるに過ぎない。勿論40メートルの絵巻物を真直ぐに伸ばして展示できるところなぞ、そうは多くないだろう。しかしこの時代に新しく作る必要があったのか、ものすごく違和感がある。又展示室の前は広い廊下と吹き抜けが最上階まで続き、巨大な空間を構成している。自分は何も無い空間は最高の贅沢だと思っている。しかしここの空間には其の贅沢さが何も伝わってこない。考えてみると、展示室と廊下を繋ぐところが単調で、まるで刑務所の独房の入り口のような、あるいはせいぜい、公団住宅の廊下のように見える。何のためのガラスの外観なのか、何のための曲線の多用なのか、全く理解できない。これほどつまらない建築物に出会ったのは、新宿にある都庁を見て以来の事だ。あれもひどいですよね。ごてごてした外観は見ていると気持ちが悪くなってきました。それ以来あまりあそこには近寄りません。地下のミュージアムショップへ行って見ました。何を主張したいのか、自分には分かりませんでした。伝統工芸では勿論ありませんし、ポップカルチャーでもなく、わけの分からない雑貨を脈絡無く集めているような気がしてなりませんでした。2階・3階の展示室は東京の私立の美術学校の卒業制作が5大学共同ということで開催しておりました。学生たちがこれほどのところで作品を展で切るのは、この施設があればこそともいえますが、これが無い時だって、卒業制作は行われていたんでしょう、卒業発表は行われていたのでしょう??? 何としてもこの施設の有用性が自分には分かりません。もったいないの一言です。ここには敗戦まで、第一師団第三連隊の兵舎が有ったそうです。国を守るための施設があったんですよね。今の時代なら、これだけの敷地を生かして、救急患者受け入れのための、各大学が共同して総合医療施設でも設けた方が良いような気がしますね。勿論ヘリポート付きでね・・・・
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国破れて山河あり・・ 大観展 私感

2008-02-27 23:19:12 | 展覧会から
国立新美術館へ横山大観展を見に行く。開催も残り一週間と言うこともあり、大変混んでいる。入り口を入ってすぐに、「屈原」が飛び込んでくる。何かに立ち向かうかのような、あるいは挑むような描写に圧倒される。この挑むような姿勢は「游刃有余地」と題する二幅の刃物を持つ料理人のふてぶてしさにも現れている。今回自分がこの展覧会を見たいと思ったのは、長編の絵巻「生々流転」がすべて広げて展示されていると報じられていたからです。名前は聞いたことがあり、また万物の流転を表す絵巻だとは聞いていても、それを全て目にすることはほとんどありません。所蔵する近代美術館がこの作品をどんな状態で展示しているか寡聞にして知りません。通常の絵画であれば、展示されていれば見ることは出来ます。しかし絵巻物となると、展示されていても其の全てが広げられていることは、殆どありません。ましてこの「生々流転」は40メートルにも及ぶ大作です。これだけはぜひ見たいと念願していたのです。同じ事を考えている人は多く、其の前の「荒川絵巻」は基より、私の行ったときには、其の前の大観の旅行用のトランクの展示の前から、列が繋がっておりました。前に進んでみると、7掛けくらいに縮小した写真が反対側の壁に展示され、解説もつけられておりました。音声ガイドを聞きながらこの複製をじっくりと眺め、ふと後ろを振り返ると、行列の間から、現物が見えました。其の印象をなんと言ったらよいのでしょう。全く違うのです。伝わってくる印象が・・・ 今まで自分はあまり本物・本物と拘らず、あえて言えばたとえば襖絵などデジタル処理をした複製を評価する立場でしたが、今回は違いました。考えてみると、この「生々流転」などは墨一色ですからいっそうデジタル化しやすい素材だとは思いますが、自分にとって作家の手の価値を思い知らさせてくれたことに有難味を感じています。自分は大観の1940年代以降の作品はあまり好きでは有りません。紀元2600年といった頃から、何か民族主義の・あえて言えば軍国主義にかぶれたような感覚があり、押し付けがましいように感じるのです。しかし、今回始めて見ることの出来た「四時山水」は大観79歳の作品との事であるが、27メートルに及ぶ大観最後の絵巻物にして、最初から最後まで持続する、其の精神力の高さには頭が下がる。これが1947年、敗戦の2年後に描かれていることに驚かざるを得ない。「生々流転」が発表されたのは1923年9月1日 あの関東大震災の当日だったという。大観にとって何か特別の思いのこもった「四時山水」だったのであろうか。
国敗れて山河あり・・・・・
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北斎 富士を描く  三越美術館

2008-02-25 23:24:34 | 展覧会から
無鉄砲に、いろいろな展覧会を批評してきたが、北斎の「富士を描く」がこれほど難しいとは思いもしなかった。北斎の浮世絵富嶽三十六景と、富嶽百景の富士だけを集めた展覧会である。富士山の絵だけを150点も見ているのはかなり見るのに体力を消耗することも事実である。しかし、見終わった後で、一種のの充足感を味わえることも事実だろう。そう言えば北斎の展示会を見るのは3回目だと思う。最初は05年の6月に同じ三越美術館で開かれた北斎と広重展、次が同じ05年10月に、東京国立博物館で開かれた北斎展。勿論同じものを展示しているわけではないから、何を主題にしているかが、所謂企画力の問題であろうとは思う。国立博物館の北斎展が、北斎のすべてを一堂に展示せしむるような、強烈な使命感に有ったとすれば、三越美術館で開かれた展覧会については、タイトルにも示されるように、一つは原安三郎による、浮世絵コレクションの中の広重と、北斎の富嶽三十六景であり、広重の東海道五十三次を中心にした風景浮世絵で有った。すべてを網羅した北斎展の分類を借りれば、今回の北斎展は、最晩年の画狂老人卍期と呼ばれる最晩年の画業の集積に過ぎないのかもしれない。しかし、その最晩年に出版した富嶽百景初編の前書きに書き示すように、「己六才より物の形状を写すの癖ありて半百の比より数々画図を顕すといへども七十年前画く所は実に取るに足るものなし七十三才にして稍禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり故に八十才にしては益々進み九十歳にして猶其奥意を極め一百歳にして正に神妙ならん欤百有十歳にしては一点一格にして生けるがごとくならん願わくば長寿の君子予が言の妄ならざるを見たまうべし     画狂老人卍筆
何とこれが75歳にして富嶽百景初編を刊行した時の、著者の序文である。人生わずか50年といわれていた当時、75歳にしてこの序文を書き、新たな百景を刊行し始めるとは・・・ この展示会では、富嶽百景をすべて展示しているところに其の価値があると思う。はっきり言って、自分の感じるところ、富嶽三十六景はベストセラーで有った故に沢山な版があるらしい。今回の展示品がどのような経路で集められたか知るところではないが、原安三郎のコレクションに比較して、集められた品々に、ばらつきがあり、初刷りの多かった原コレクションに比較すると、やや物足りなさを感じた。しかし富嶽百景の冊子は墨の濃淡のみで印刷されているので、其の心配は無い。
しかし、しかし 自分も四捨五入すれば70才になる年代にして思うが、この男の画に対する執念は如何だろう。平均年齢ですら80を超える時代に、生きて何が出来るだろう。馬齢を重ねることに意義はあるのだろうか。全く難しい時代ではある。
こんなことを言っていると、画狂老人の高笑いが聞こえてくるような気がするね。
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王朝の恋 出光美術館

2008-02-16 20:15:34 | 展覧会から
むかしおのこありけり・・・で、出だしだけは知っていても もてすぎた男が、はるばるあずまの国へ逃げていった紀行文くらいにしか、関心が無かった伊勢物語では有るが、友人から行ってみたら素敵だったよと推薦を受け、ちょうど金曜日だったこともあり、出光美術館へ行ってきた。そこには無知な思い込みからは想像もつかない世界が広がっていた。美術館発行の図録に 上野英二氏は次のように論じている。(一部のみ抄録)「古来日本の美男子の代表と言えば、光源氏と在原業平であるが、光源氏は業平をモデルにしたとも言われる架空の物語であり、伊勢物語が無ければ、源氏物語もあるいは成立しないので、本当の美男子は業平のみと言っても良い。その容貌は国家の正史たる「日本三代実録」にも「体貌閑麗」と書かれているという。・・・然るにその恋に対するスタンスは、光源氏と業平では全く異なる。すべからくその作者が男性であるか女性であるかによるように思われる。伊勢物語には狩をする場面が初段を始め7箇所くらいあるが、多くの場合それが恋に発展しているとのことである。伊勢物語初段の男は仏都平城宮郊外で鷹狩をした。その途上で「女はらから」に巡り会い、「いちはやく」、これをおっていった。これは優美典雅という一般的な平安貴族の恋のイメージからすれば、些か過激というべきであろう・・・ さて展示に戻ろう。最初は在平業平図。なるほど美男とはこんな人を言うのか、続いて絵巻。ただ本物を見ただけでは分からない小さな脇役を、ピックアップしてくれているのはありがたい。巻物の色の美しさ驚く。不二の裾野を行く場面では、樹海のなかに居る鹿や猿の群れ、空飛ぶ鳥などが書き込まれているが、書かれているところを教えられ、良く目を凝らして初めて分かる大きさなのだが、その描写の的確なことに驚く。引き続いて俵屋宗達の作と伝えられる、色紙が展示されている。すべての段を展示しているわけではないがその雰囲気は十分に伝え見ごたえがある。自分には第八十八段 「月をもめでじ」と題された色紙が印象に残った。地が金なので満月を表現するにはこれ以外には無いのであろうが、真っ黒な満月を、数人の男が眺めている。八十八段の解説にはこうある。「中年になった男たちは、連れ立って月見に興じていた。その中の一人が、『何気なく習慣づいている月見も、もうすまい。月が積もれば、人の年も重なって老いてゆくものだから』と詠んだとある。次の部屋は 東下り  ある男の旅愁 と題し、酒井抱一の八ツ橋図屏風から始まっている。やはり不二の絵と八つ橋は絵になりやすいと見えて、その数も多いようだ。そのあとは、伊勢物語屏風。知らないで見ていれば何のことか分からないが、六曲の屏風に12段の物語、一双で24段が表現されている。ヨーロッパの宗教画でも、聖書の言葉を知らなければ絵の内容を理解できないというが、聖書は一つしかない。ところが日本の場合は物語りは無数にある。江戸時代の教養とはどのくらいなのだろう。果たして我々は前に進んでいるのだろうか。伊勢物語に限らず、和歌にしても、川柳ですらその本歌を知らなければ理解できない となると、我々、もとい、自分の知識なぞ、どこによりどころを持てばよいのだろう・・・・
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宮廷のみやび展

2008-01-18 17:29:25 | 展覧会から
主催者の「ごあいさつ」にはこうある。・・・今もみやびな京文化の源は、平安時代の宮廷にあります。近衛家は藤原家の宗家の家柄です。代々摂政・関白の重職に就く五摂家の筆頭として、常に朝廷の政治の世界に関与しました。・・・書や和歌に秀でた人物が多く、宮廷文化の中心的な存在でした。このため近衛家には、歴史的に重要な文書や美術品が数多く遺されています。陽明文庫は、昭和十三年、近衛家29代近衛文麿により設立、・・・・・近衛家に伝来した国宝八件、重要文化財五十九件を含む二十万点の文化財を保管しています。以下略」
いみじくも、この挨拶の中でも述べられているが、今回の展示物を見ていて、何かいつもと違う違和感がしていた。それは美術的にも、歴史的にも重要な品では有るのですが、それが当事者が係っているものとして、言葉が分かりませんが、当事者の生の声として今に伝えられていることです。誰をどんな地位につけるとか、僧侶を昇進させるとか、あるいは、天皇から帰ってきた勘返状(カンベンジョウ こんなものが有るとは知りませんでした。解説では頻繁にやり取りし、現在のメールのようなものと解説していましたが、たとえば甲から乙に書を送ると、その書の行間に甲は乙への返事を書き、乙に戻す。これが頻繁に行われていたらしい。特定のごく親しい人達の間でのみ許されていた様式?天皇と関白だから許された??)
実際は分からないが、自分には「書」が展示の中心になっていたように思われた。しかもその内容が「詩」や「芸術」にかかわることでなく、実務であったように思われる。それが1000年を超えて同じ家に伝わっている凄さに圧倒された。家熈の世界においては、江戸時代中期、近衛家21代当主にして、関白・摂政を歴任、太政大臣となった家熈の書や絵画、収集品を紹介している。文字の品格なぞまったくわからないが、宇治拾遺物語絵巻や春日権現霊験記絵巻を複製させ、その詞書を家熈自身が書いているが、その長い詞書をまったく乱れなく書きこなして居る事に感嘆する。さらに、花木真写における、その表現の確かさに驚く。これが書家なり画家がこれを書いたのなら、あるいは当たり前だと思うかも知れない。しかし近衛家の当主がそれをなしたところに、その凄みを見る。いずれにしても得がたいものを見せてもらいました。
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日本画『今」院展

2008-01-12 00:20:44 | 展覧会から
稽古始に行がてらギャラリーへ行く。来週も開催しているので、来週でも良かったのだが、何かせかされるものが有り、時間も限られた中、入って見る。今回の展覧会は昨年パリ三越において開催された院展の今を代表する作品の、帰国展との事で、入り口を入って、あいさつ文を見た最初の作品が、片岡珠子の「面構」 これは四艘の屏風であるが、展示も屏風のように展示されているところに、平面では表現し得ない陰影が現れているようで好ましい感じがあった。その少し先に行ったところに展示してあるのが、八艘の大作、福王子宝林の「白光のヒマラヤ」その重量感には圧倒される。しかしなんとなく、これだけのスケールを出すには、もう一つ、屏風サイズでは何か物足りない気もしていた。その脇にあるのが、平山郁夫の「月華厳島」とにかくブルーを基調とした雰囲気の中、軒先につるされたガントウを映す瀬戸内の漣の輝き、と言うか、そのぬめりある光に感じ入った。自分は平山郁夫氏には、何か一歩引く姿勢であったが、何度もなら薬師寺を訪ねているうちに、好きになってきていた。さらにこの展覧会に出品されていた、「月華厳島」のなんともいえないブルーには還元に「参った!」と言う感じであった。その斜め前にあるのが、後藤純男の「大和・雪のしじま」確か近衛は、以前にもこのギャラリーで見たような気がする。その雪が降り止んだ時に一瞬見せる明るさと、完璧な情景が好きです。昨年でしたか京都旅行のその日に帰らねばならない朝に、雪が降り金閣寺へ急遽いったことがありました。振っている時、降り止んだ時の静寂、そして雪をその見に乗せたまま、日に照らされた時の鮮やかさ。やはり芸術家の目は違います。一瞬を切り取る眼!!
もう一度でも二度でも見たい絵であることには変わりありません。
今の自分には、会場内でどんな絵が展示されていたかを記憶しておくことはほとんど出来ません。今日書いた3人にせよ、「面構」や「大和・雪のしじま」・白光のヒマラヤ」などは今までに見たことがあります。あるいは「月華厳島」も見ているかも知れません。本来なら自分はほとんど図録を買うことが多くあります。記憶のあいまいなところを補正することが大きな目的です。しかし今回は図録を一度は手に取りましたが、買いませんでした。なんとも、発色が悪く、今見てきた絵を冒涜するように思えてしまったからです。
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