国立新美術館へ横山大観展を見に行く。開催も残り一週間と言うこともあり、大変混んでいる。入り口を入ってすぐに、「屈原」が飛び込んでくる。何かに立ち向かうかのような、あるいは挑むような描写に圧倒される。この挑むような姿勢は「游刃有余地」と題する二幅の刃物を持つ料理人のふてぶてしさにも現れている。今回自分がこの展覧会を見たいと思ったのは、長編の絵巻「生々流転」がすべて広げて展示されていると報じられていたからです。名前は聞いたことがあり、また万物の流転を表す絵巻だとは聞いていても、それを全て目にすることはほとんどありません。所蔵する近代美術館がこの作品をどんな状態で展示しているか寡聞にして知りません。通常の絵画であれば、展示されていれば見ることは出来ます。しかし絵巻物となると、展示されていても其の全てが広げられていることは、殆どありません。ましてこの「生々流転」は40メートルにも及ぶ大作です。これだけはぜひ見たいと念願していたのです。同じ事を考えている人は多く、其の前の「荒川絵巻」は基より、私の行ったときには、其の前の大観の旅行用のトランクの展示の前から、列が繋がっておりました。前に進んでみると、7掛けくらいに縮小した写真が反対側の壁に展示され、解説もつけられておりました。音声ガイドを聞きながらこの複製をじっくりと眺め、ふと後ろを振り返ると、行列の間から、現物が見えました。其の印象をなんと言ったらよいのでしょう。全く違うのです。伝わってくる印象が・・・ 今まで自分はあまり本物・本物と拘らず、あえて言えばたとえば襖絵などデジタル処理をした複製を評価する立場でしたが、今回は違いました。考えてみると、この「生々流転」などは墨一色ですからいっそうデジタル化しやすい素材だとは思いますが、自分にとって作家の手の価値を思い知らさせてくれたことに有難味を感じています。自分は大観の1940年代以降の作品はあまり好きでは有りません。紀元2600年といった頃から、何か民族主義の・あえて言えば軍国主義にかぶれたような感覚があり、押し付けがましいように感じるのです。しかし、今回始めて見ることの出来た「四時山水」は大観79歳の作品との事であるが、27メートルに及ぶ大観最後の絵巻物にして、最初から最後まで持続する、其の精神力の高さには頭が下がる。これが1947年、敗戦の2年後に描かれていることに驚かざるを得ない。「生々流転」が発表されたのは1923年9月1日 あの関東大震災の当日だったという。大観にとって何か特別の思いのこもった「四時山水」だったのであろうか。
国敗れて山河あり・・・・・
国敗れて山河あり・・・・・