うたかたの夢暮らし 睡夢山荘にて(Dream life of Siesta hut)

夢から覚めた泡沫のごときだよ、人生は・・
せめて、ごまめの歯ぎしりを聞いとくれ

正月 4日

2013-01-04 11:07:17 | ブログ

除染や内部被爆や再稼動やパブリックコメントや金曜首相官邸抗議集会やらは、何時のことだったのかと思うばかりの年明けである。

年末の衆議院選挙は、これらを無かったものにする効果を多大に果たしたものの様である。

 日本人は、もう冷めてしまったのだろうか・?

そして、次世代、次々世代、いや万世への禍根を増やしていくのだろうか?

歯軋りするほどの禍根を思った3.11からの原発事故や原発再稼動に、私たちはなすすべも無く、また手をこまねくのであろうか。

平川克美氏の世情分析に以下があった。

一部紹介するが、正月家族全員で読み合わせして、認識を一致させた文章である。 

“「移行期的混乱」を生きるということ” の一部分で

三・一一以後の項目である  少々長いが転載する。

震災も津波も、これまで日本は数多く経験してきた。歴史時間を長くとれば、それはほとんど定期的に訪れてきたといってもよいほどである。そして、その都度人々は家や財産や田畑を失い、途方に暮れながらもなんとか生き延びてきたのである。だから現在があるといってもよいだろう。自然災害と日本人はほとんどひとつの機縁で結ばれており、日本人の人生観のなかには、諸行無常が深く織り込まれている。
 この度のような百年に一度、あるいは千年に一度の大震災であったとしても、日本人はそれを宿命のように受けとめて、必ず再起するだろうことは想像に難くない。しかし、今回はそこにまったく新たなものが加えられてしまった。
 原発事故である。
 このことの意味をまだ誰も明確には把握できていない。いや、これから先もこの事故が何を意味するものかについては、明確な答を得ることはできないのかもしれない。
 たとえば、福島原発三号機で使用されていたMOX燃料には、プルトニウムが含まれているが、このプルトニウム二三九の半減期は、二万四千年であるという。いま生きている人間にとっては、二万四千年という数字はただの記号であって、それが何を意味するのかほとんど不明であり、実感することも想像することもできない。
 この想像の外にあるものを使って、現在の生活を担保するためのエネルギーを生み出すということをしているわけである。想像の外にあるものが、私たちの生活圏の地続きに存在している。(もともとは、自然界にもほとんど存在していなかったものだという。)
 私は、以前書いた『経済成長という病』(講談社、二〇〇九年)という本のなかで、地震についてこう書き記した。

地震は、当然のことながらそれ以前にも一定の周期で、日本各地に大きな被害をもたらしていた。だから将来のどこかで、必ずおおきな地震災害に見舞われるだろうという可能性については、誰もが考えていたはずである。問題はそれがいつ起こるかであって、起こるか起こらないかということではなかったはずである。 

 関東大震災に関する記述であるが、今回の原発事故にいたるまでの、政府、電力会社、メディアが行ってきた原発推進キャンペーンを見ていると、まさに地震がいつ起こるかということではなく、起こるか起こらないかわからないことのためにコストをかけるのは経済合理性に反しており、結果として巨大地震などは起こらないし、起こったとしても原発だけは大きな被害を蒙(こうむ)ることはないという信憑にいきついたと考えるほかはない。思考停止である。ましてや、プルトニウムの二万四千年に関しては、ほとんど思考すらできないおとぎ話と考える他はなかったといえるだろう。
 私たちの想像力のなかに、二万四千年は存在していないのである。にもかかわらず、現実には生活のなかに二万四千年の間猛毒を発生させる物質を囲い込んでいる。この矛盾を解決するために、私たちは、しばしば手に負えないもの、想像力のおよばないものを、無いものとして思考の圏外に追いやってやり過ごそうとしてしまう。
 同じようなことは、二〇〇八年に起きたリーマン・ショックのときに、モラルハザードを起こしている金融機関でも大きすぎて潰せないといわれていたことを想起すればよい。手に負えないものは、なかったことにするということである。
 想像力の圏内、つまり自分たちの経験してきたことから大きく逸脱するような事態は、起こりえないと考えてもよいという考えかたが瀰漫したのは、経済合理性というものが極めて限定的な時間のなかでしか有効でないにもかかわらず、経済合理主義こそが世界の道理であると信じ込まされてしまったからだ。それでうまくいった経験を共有しているからだ。
 この経験が、私たちの思考にバイアスを与える。生きてきた時間のなかで起こらなかったことは、これから先も起こることはないと考えてしまう。私たちの生活を一変させてしまうような事件や、事故や、天災に関しては、起こらないであろうと。しかし、それは単なる希望であって、正しい認識ではない。
 「移行期的混乱」の時代を生きるとは、これまで思考停止してきた、起こりえないことが次々と起こる可能性のただなかを生きているということにほかならない。日本における有史以来の人口減少が示唆しているのは、私たちの作り上げてきたシステムの賞味期限が尽きてきたということであり、この経済成長至上主義を点検して、新たな生き方を模索せよということでもある。だが、まだ誰もこのことを切実な問題として考えてはいない。

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